第8話 家族たち

 到着したホテルも、乗ってきたリムジンに負けず劣らず豪華なホテルだった。大理石の列柱が並ぶエントランス、広大なロビーには毛足の長い絨毯が敷き詰められ、所作も笑顔も完璧なベルマンが風のようにやってきてわたしのスーツケースを運び去った。

 いわゆる高級リゾートホテルだ。

 三階にあるロビーからは白い砂浜が広がるプライベートビーチと水平線まで続く珊瑚礁の海が一望できた。

「チェックインは済ませてあります」

 部屋のカードキーを渡しながら匂坂はいった。

「お持ちの携帯端末とリンクさせておけば、キーレスでお部屋を使えますよ」

 ルームナンバーは1505。ホテルの最上階だ。それではまた、夕刻にお迎えにあがりますと丁寧にお辞儀をすると、颯爽とした仕草で匂坂は立ち去っていった。なんだか仕事は完璧にこなすって感じのすごい人だ。きびきびと歩く後ろ姿を見送りながらそう思った。

 高い天井に輝くシャンデリアをぽかんと見上げている晴人を促して、エレベーターを探そうと歩き出したそのとき、ひとりの白髪まじりの女性とすれ違った。おやとお互いに軽く目を見張ったのは、この赤道直下の国では珍しい日本人同士だったからだ。もしかして――。

「サキサカさん!」

 わたしの思考を遮るような大きな声だった。女性がホテルを出てゆく匂坂を呼び止めたのだ。振り返った匂坂が何事か口にしてお辞儀している。逆に女性の方は頭も下げず居丈高な様子で、なにを言ってるかはわからないものの早口でまくし立てるように話している。

 女性とは目が合ってしまったし、盗み聞きするような形になってもいけないと思ったので、晴人の手を引いてエレベーターホールへ向かったが、ホールでエレベーターを待つ間も、わたしは女性と匂坂とのやりとりが気になって仕方がなかった。女性は、わたしたちと同じ、宇宙飛行士の家族に違いない。

 女性と匂坂のやりとりは、一方的だった。距離があるので言葉の内容は聞き取れず、時折女性の声が高くなって、木星から……事故が……エウロパ……といった言葉が切れ切れに耳に入ってくるだけだった。わたしにはなにがなんだか分からないが、宇宙飛行士たちの身になにか不穏なことが起こっているのだろうか。

 エレベーターが到着し、わたしと晴人が乗り込む寸前、再び女性の大きな声が静かなロビーに響いた。

「あなたたちは、を隠してるんでしょう!」

 エレベーターの自動扉が閉じ、女性と匂坂が視界から消えた。

 女性の様子がただ事ではなかっただけに、不安にならなかったといえば嘘になる。なんだろう? なんだったのだろう、あれは。あの女性はわたしが考えたように、『KANATA』乗組員クルーの家族なのだろうか。事故? わたしはなにも聞かされていない。現にさっきも匂坂はリムジンのなかで、乗組員は全員無事だと話していた。まさか、そんなことは――。

 ホテルの十五階1505室はスイートルームだった。四人くらい横になれそうなベッドが二つ据えられた寝室に、広大なリビングルームと応接間、リビングには海に向かって開けたテラスも付いている。

「贅沢!」

「ぜいたく!」

 親子そろって歓声をあげたわたしたちは、ひとしきり部屋から部屋へを駆けまわってこのJAXAからのプレゼントを満喫した。しばらくふたりではしゃいでいたが、長旅の疲れが出たのだろう。わたしと晴人はベッドに並んで横になると、いつのまにか眠ってしまった。夢のなかのわたしは、晴人と宇宙船と熱帯魚たちとで、エウロパの海を泳いでいた――。

 ぐっすりと眠ったあとに目覚めてみると、太陽は空のてっぺんまで上っていて、わたしは自分がとてもお腹を空かせていることに気づいた。考えてみれば、今朝この国へやってきてから朝ごはんを食べていない。ベッドの上ではまだ晴人が眠っている。起こしてしまってはかわいそうだと思って、そっとベッドを抜け出すと部屋を出た。

 ホテルの最上階からの眺めは素晴らしかった。ラウンジ前のロビーには幅十メートルはあるだろうガラスの壁が続いていて、そこから軌道エレベーターサイクロプスとその向こうに広がる国際空港、林立する研究機関のビル群が見渡せる。いましも一機の飛行機が滑走路から飛び立つところだった。無骨な握りこぶしのようなサイクロプスを巡るように旋回すると、雲の向こうに消えてゆく。青い空と白い航跡、緑の木々と現代的な都市。赤道直下の太陽が照らしだす世界は、彩度が高く鮮やかで、なにもかもがにぎやかだった。鉄太のいない生活やその景色が、いちいちくすんで見えていた日本からやってきた旅人には、ここにあるすべてがまぶしい。

 お腹が減ったな。思い出して外の景色から視線を外した拍子に、そばのソファに人が腰を下ろしていることに気がついた。いままで外の景色に夢中で、そばにいた人に気づかないでいたのだ。恥ずかしい。知らずに独り言でヘンなことをいったりしなかっただろうか。

 座っているのは東洋系のまだ若い男性だった。文庫本を手に片肘をついたまま、不思議そうな表情でわたしを見ている。

「こんにちは」

「ども……」

 日本の人だった。ということは彼も?

「北原といいます。……失礼ですが『KANATA』乗組員クルーのご家族の方ですか?」

 思い切って尋ねてみた。すると若い男は、ああと少し疑問が解けたという眉の形を作って答えてくれた。

「ええ……。岡嶋です」

 岡嶋恵理宇宙飛行士は、『KANATA』のクルー中、唯一の女性宇宙飛行士だ。目の前の彼は、岡嶋宇宙飛行士の弟さんだろうか。まさか息子さんではないだろう。

「恵理は妻です」

 えっと思わず声が出てしまった。わ、若い。たしか岡嶋宇宙飛行士は、三十六歳のわたしより年上のはず。この旦那さんという男性はどう見ても二十代前半にしか見えない。

「し、失礼しました」

「平気です。よくありますから」

 わたしはあせってしまったが、岡嶋は淡々としたものだ。実際、そういって何度も驚かれてきたのだろう。

「立ってると疲れません? 掛けたらどうですか」

「あ、すみません」

 あわててわたしも、岡嶋の指し示したソファに腰を下ろした。ふわりと身体を包み支えてくれる、いままで使ったことのない上等のソファだった。岡嶋を見ると、もうこちらを見ておらず、手にした本に視線を落としている。静かで落ち着き払っていて、話しかけていいものかためらわれた。

「あの……」

「はい」

「わたし、今朝ここに着いたばかりで分からないことばかりなんです。クルーのご家族は岡嶋さんのほかにも?」

 ついと目をあげてわたしを見た岡嶋が、ほんの少し微笑んだようにみえた。

「ええ。そこにも――」

 文庫本を持った手を挙げてみせた視線の先を追うと、ひと組の男女がロビーをこちらに歩いてくるところだった。

「あら、仲がよさそうね。よかったらお仲間に入れてくれるかしら?」

 気さくに話しかけてきたのは、今朝、ホテルのロビー階でJAXAの広報・匂坂をつかまえて、何事かまくし立てていたあの女性だった。傍に彼女の夫だろうか。背の高い白髪の男性を従えている。

「牧島夫妻――。木星探査船『KANATA』の船長コマンダー牧島秀人宇宙飛行士のご両親です」

「北原さんね。牧島よ。これでみんなそろったようね」

 握手した牧島夫人の手は思いのほか温かかった。役者はそろった――か。

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