第9話 秘密
「わたしたちは騙されているのよ」
このホテルの十五階には、このスイートルームフロア専用のラウンジがある。見たこともないくらい大きな無垢材を用いたカウンターと、二つきりしかないボックスシート。わたしたちが腰を下ろした椅子には柔らかいけものの毛皮が敷いてあって、四人がけのテーブルは、大きな大理石から削り出されていた。
ちょうどお昼になったところだし、軽く食事でもどうかしらと牧島夫人がわたしと岡嶋を誘ってくれてのだ。どうせ、ここの払いはJAXAが持つのだからと。
そうだったのか。なら遠慮なくラウンジでいただこう。こんな機会はもう二度と巡ってこないかもしれないのだから。
軽めの食事を済ませて、食後のコーヒーを一口飲んだところで牧島夫人が切り出した。
「JAXAはわたしたちを欺いている」
とっさになにを言い出すのだろうと思った。彼女の息子やわたしの夫は、JAXAチームの支えがあってエウロパまでの長い航海を終えることができたのだし、わたしたちもこうしてJAXAに招待されてここにいるのだ。感謝しこそすれ、嘘つき呼ばわりする理由はどこにもない。なにを根拠にそんなことをいっているのだろう。
共にテーブルを囲んで座っている彼女の夫と岡嶋を伺っても、夫人の発言に驚いてはいない。話しかけられているのはわたしだと、そしらぬ体である。
「そう……ですか?」
「そう。北原さんもこの六年間、『KANATA』に搭乗した旦那さんがなにをしていたか、詳しいことは知らされなかったでしょう」
この六年間? そういわれてみればそうかもしれない。JAXAからの連絡は月に一、二回程度。鉄太自身からのメッセージはもっと少なかったが、なんとなく宇宙飛行士とはそういうものだと思っていた。航海中、四年間もハイバネーションされていたと知ったのは、ついさっきのことだ。
「ハイバネーション? JAXAから説明は受けたみたいね。そう、便利なしくみだわ。でも、本当にそうなのかしら」
「どういうことですか」
「秀人や北原さんが、都合四年間もハイバネーションされていたって本当なのかしら。どこにそんな必要があったの。蒼星四号の事故は知っているわね? 地球からの管制が途絶えたとき、蒼星四号の乗組員はハイバネーションされていたのよ。彼らは天王星に墜落した。本当にJAXAは『KANATA』をエウロパまで飛ばしたの? じつはそうじゃないじゃないの」
「そんな。『KANATA』からの映像は逐一、JAXAのホームページで見ることができるし、エウロパに到着したときはテレビでも中継されたじゃないですか」
「もちろん、わたしも見たけれど、あれはJAXAが配信している作られた事実よ。あれが真実そのとおりだと信じる理由はわたしにない」
途方に暮れて、わたしはテーブルを挟んで彼女の隣に座る牧島氏と次いでわたしの隣に座る岡嶋に助けを求めた。牧島氏はわたしと目を合わさずそしらぬふりを続けたが、岡嶋はわたしの視線を受けてこういった。
「客観的にみると、牧島さんのいうとおり。JAXAの発表を真実と信じる理由はない」
「あなたもそうなの?」
「客観的事実をどう受容するのか。それは受け入れる人次第ですよ」
岡嶋の答えを受けたのは牧島夫人だった。
「つまり岡嶋くんは、わたしの考えには与しないということよね」
岡嶋は小さく肩をすくめてみせると、冷めかけたコーヒーに口をつけた。
「どういうこと」
「客観的に情報をみると、テレビにしろネットにしろ情報はすべてJAXAが発信している。そこに情報操作が入っていても、わたしたちには分からない。そんな情報を信じていいのか、信じるべきでないのか。そういうこと」
「牧島さんは、信じられないといっていて、岡嶋さんは信じているってこと?」
いったいどうして。
「JAXAはぼくたちに嘘をつく理由がない」
「理由はある――。でも、それがわたしたちに明らかにされていないだけ。現にわたしたちは当事者の家族なのに、なにを知らされているというの? そうは考えないのかしら」
牧島夫人は、かわるがわるわたしと岡嶋を品定めするように睨めつけた。蛇や毒虫を見ているような目つきだった。憎悪し、怯えた視線だった。
「陰謀論は――嫌いなんです」
切り捨てるように言って、岡嶋は立ち上がった。わたしは視線で彼を追い、彼女は追って立ち上がった。
「善人なのね」
「それ、皮肉でしょ」
口元に笑みを浮かべながら、軽く頭を下げて岡嶋はラウンジを立ち去った。慌ただしく夫人がそれを追う。テーブルには、からっぼになった岡嶋のカップとまだ手のつけられていない牧島夫人のカップが向かい合わせに残されていた。
なんだったのだろう。
わたしは頭の中を整理できないまま、のろのろとふたりを追ってラウンジを出た。
「あの人のいうことは――気にしないでください」
小さな声がして、そばに牧島氏がいたことに気づいた。そして、この人もコーヒーのカップに一度も口をつけていなかったことを思い出した。
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