第3話 海の見える交差点

 静まりかえった街はどこまでも続いている。我が家と同じような団地の続く高台を過ぎ、中学校のグラウンドに差し掛かっても、誰一人として私たちとすれ違うことはない。左右に住宅地の続く細い道をゆくのはわたしと晴人だけ。まるで世界を独り占めしているかのようだ。三日間雨を降らし続けた空は、ようやく明るさを取り戻しはじめていた。


 中学校を過ぎると、道はゆっくりと下り坂へと変わってゆく。息子の足が弾むように先へさきへと進みはじめる。


「さきにいっちゃうよ、お母さん」

「まって」


 母親がまってといって待つような幼稚園児はいまい。晴人はレインコートの裾をひるがえして走りはじめた。危ないからいってるのに! ええい、濡れたところで構うものか。わたしは傘をたたんで追いかける。だんだんと視界が広がって、家家の軒先の向こうに海が見えはじめた。目的地である公園は近い。走るはしる、駆け出したら止まらない晴人とわたし。


 道は急カーブを描いたかと思うと、都心と郊外を繋ぐ広い国道へと出た。そこにいままでなかったものが設けられていて、わたしの足ははたと止まった。金網のフェンスである。高さは四メートルはあるだろうか。それが緑の中央分離帯を挟んで二列、国道沿いにずっと続いている。フェンスには、よく目立つ白いプレートが掲げられていた。


『第二種立入禁止区域』


 フェンスの上には有刺鉄線の鉄条網が設けられている。いよいよここは本格的に封鎖されるのだ。左手を見ると、ほんの少し向こうに見える信号交差点までフェンスを作られており、ちょうど交差点の真ん中あたりで感染防護服を着た人たちが鉄柵に金網を張り付けているところだった。


 交差点には何台ものトラックに混じってひときわ目を引く迷彩塗装。二列に並んだキャタピラーと長大な砲身を備えた回転式砲塔。戦車が止められていた。


「戦車……って」


 生まれてはじめて見た本物の戦車を前に、驚いてみつめていると、国道に出てきたわたしたちに気づいた白い感染防護服の一団が騒ぎ始めた。彼らは一様に慌てた様子でトラックの車内に姿を隠したり、こちらを指差して言葉を交わしたりしている。


「お母さん、なにあれ」

「ハルくん、よしなさい!」


 勢いよく駆け出そうとする息子になんとか追いついて押しとどめる。嫌な予感がした。ろくでもないことが起こりそうだった。


 ――動くな!


 拡声器の声だった。緑や茶色、薄茶色に塗られた戦車からヒステリックな男の声がする。


 ――立ち止まったら、そのままゆっくりと後退しろ。後退するんだ!


 戦車の砲塔が回転した。砲身が向きを変え、ぴたりとわたしたちの方向を向いて止まった。何人かの感染防護服姿の兵士たちが自動小銃の銃口をこちらに向けてなにか叫んでいる。


 恐ろしさを感じた人は動けなくなるものなのか、わたしは晴人の肩をつかんだままその場に凍りついたように動けなくなった。


 ――ゆっくりと下がれ。さもないと発砲する!


 手の中で晴人の小さな肩がみじろぎする。そしてはっきりと言った。


「撃たないよ。わかってるんだ」


 なにを言ってるの? わたしはこちらに銃口を向けている兵士たちより、むしろ、わたしの小さな息子の方が薄気味悪い存在に思え、そうした自分に驚いた。直後、手の中の感触がなくなって、晴人が駆け出したことが分かり、わたしはパニックに陥った。


 視界のなかで一歩二歩と走り出す晴人はわたしから遠ざかる。両手が空気を掻いたわたしはなすすべもなく悲鳴をあげる。すべてはスローモーションのように展開した。わたしたちの後ろからだれかが息子にかけ寄って抱きとめるまで。


「動かないで」


 男だった。背の高い男が晴人を抱きすくめてその場にしゃがみ込んだ。


「だって、撃たないよ」

「わかってる、わかったからこのままでいよう」


 わたしと晴人、そして男の三人はそのまま彫像のように動きを止めた。静かだった。雨がやみ、世界を包んでいた雨音は雲の上へと引き揚げられていったのか、動くものの何もないこの街を静寂が支配しはじめていた。


 やがて、交差点の兵士たちに変化があらわれた。何台も止まっていたトラックが後退し、向きを変えて走り去ってゆく。一台、二台……。そしてすべてのトラックが走り去った後に、戦車もゆっくりと後退しはじめた。凶暴に回転するキャタピラーがアスファルトを次々と剥がしながら。


「いっちゃった」


 五分後の交差点には、設置されなくなった緑のフェンスだけが残された。


「いっちゃったね」


 晴人を解放した男が立ち上がった。背の高い、まだ若い男だった。声が六月の日差しのように明るい。わたしは見ず知らずのこの男を、もう好ましいと思いはじめていた。


「ありがとうございました」

「後退しろ――なんていっておいて、彼らの方でいっちゃいましたね」


 男は、さもおかしいといったふうに歯を見せて笑った。その笑顔が、いたずらに成功したと喜ぶ晴人の表情に重なった。


「ええ――」

「北原さんですよね。北原麻由子さんと晴人くん」

「え?」


 知らない顔だ。いや、わたしが覚えていないだけだろうか。


研究所Laboでは、鉄太さん――ご主人にはお世話になってました。ぼく、鉄太さんの後輩で赤城といいます」


 探査船……鉄太……研究所……ウイルス……封鎖……。赤城のさわやかな笑顔が鍵だった。慎重に閉じておいた脳内の扉が開きはじめ、考えないようにしていたいくつもの言葉が飛び出してきてわたしの全身を駆け巡った。


 ――エウロパ。


 受け入れがたいすべては現実だ。戦車の砲口からは逃れられても、残酷な現実からは逃れられない。わたしは意を決してその扉に手をかけた。

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