第2話 サキサカ
黄色いレインコートに黄色の長ぐつ、息子の足取りは軽くまるで雨など降っていないかのようだ。急に駆け出したり、そうかと思えば立ち止まって空を振り仰いだり。五歳児の行動はわたしの理解を超える。確実に分かるのは、彼の服がきっと下着までびしょびしょになるだろうということくらいだ。
「気持ちいいねえ、お母さん」
「そうみたいね」
「カタツムリだったらうれしくて飛び上がりそうな天気じゃない?」
「カタツムリがそんなことするかしら」
そして、中庭で青や紫の花をつけているアジサイの木に駆け寄っていく。この子は自分の思いついたことに気を取られると、途端にまわりが見えなくなる。きっとカタツムリを探しているのだろうけれど、みつけてもこちらへは持ってこないでね。お母さんそういうのだめだから。
鮮やかな黄緑色をしたアジサイの木の前で、しゃがんだり背伸びをしてみたりしている晴人を少し離れたところから見ていると、同じ団地のねずみ色に濡れた4棟と5棟の間から白いワンピースの人影があらわれた。若い女の姿――サキサカだ。
「おはようございます」
透明のビニール傘とグレーのレインシューズ。サキサカはその整った顔に完璧な微笑を浮かべて話しかけてきた。
「こんな雨の日におでかけですか?」
「……別に」
いったいなんだろう。雨の日でも外出に許可が必要というわけではなかったはずだ。
「ちょっと――」
とっさにサキサカと晴人の間に身体を割り込ませた。
「晴人に近寄らないで」
「どうして……」
「話したって、あなたにはきっとわからない。話ならわたしが聞く、わたしに話して。それともこれからどこへ行くか、報告義務があるの? 公園まで行くの。こんな天気でも晴人が行きたがっているから。わたしたちってそうなの、あなたたちと違って、ずっとじっとしていられやしないの。ずっと監視されていて平気ではいられないの」
まくし立てるようにしゃべってやると、サキサカは困ったような顔を作って首を振った。
「いったい、なんのことをおっしゃっているのか……」
「さあ、話して」
「――いえ、結構です。家族でお出かけのところを失礼しました」
軽く会釈をするとサキサカは、優雅ともいえる仕草で身を翻すと、団地の中庭をもと来た方角へ歩み去っていった。
なんの目的で、どんな企みがあってわたしたちを監視しているのかわからないけれど、
「お母さん?」
晴人の声に気づくと、わたしはずっとサキサカの消えた棟を方を眺めてぼんやりしてしまっていた。雨の中庭、すべり台とブランコだけがふたつ並んで立っている。
「どうしたの、お母さん。だれか来た?」
「ううん。いこう、ハルくん」
歩き出して振り返ると、晴人はまださっきのアジサイの前でサキサカの去った方角を見ていた。黄色いレインコートがアジサイの緑に映えて鮮やかだった。
団地を出ると住宅地を縫うように走る道を南へ歩きはじめる。朝の9時であるのに、高台から海へと通じる道路はがらんとしてクルマも自転車も通行していない。わたしと息子は車道に沿って伸びる歩道を公園へ向かった。晴人の気持ちはもうずっと先へ飛んでいっているらしく、公園にはカタツムリがいるはずだとか、テントウムシを捕まえたらどうしようだとか話しながら歩いている。黄色の長ぐつがアスファルトを流れる雨水をはねてぴちゃぱちゃと音をたてる。歩道にはわたしたちの前にも後ろにも人影はひとつもない。封鎖された街は、街全体がまだ眠っているかのように静かだった。
「サキサカは、なんていったの?」
不意を突かれて言葉に詰まった。
「え」
「さっきのアジサイの前にきたの。サキサカだろ」
レインコートのフード越しにみえる顔は、わかってるんだといった表情だ。お母さん隠さなくてもわかってるんだ。
「……さあ。だれも来なかったよ」
「ふうん」
納得したのかしないのか、それはわからないが晴人は歩きつづける。どうして中庭にやってきたのが、
この子も五歳だ。数ヶ月もすれば六歳になる。まだまだ小さな子だと思っていたけれど。わたしは母親で、この子のことはなんでもわかっていると自惚れてきたけれど、もう赤ん坊ではないのだ。彼にしかわからない心の動きが芽生えはじめたのかもしれない。頭では理解しているが、わたしにはそのことが少しだけ――不安だ。
「公園にサキサカいるかなあ」
ふたり並んで歩く道。雨は小降りになってきた。傘を打つ雨音が小さくなりはじめている。
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