新しい世界
藤光
序章 梅雨空
第1話 雨の封鎖
いつからわたしの息子は異星人だったのだろう。
幼稚園へ通わなくてもよくなった晴人は、午前七時二十分、いつものように食べかけの朝ごはんを放り出して、ベランダへ駆けだしていく。そして、手すりに駆け寄ると空をふり仰ぎながら、その小さい手を振って話しかける。
「いってらっしゃい!」
まただ。
わたしはぞっとして、息子を抱えてベランダから引き離した。梅雨空は今日も幾重にも重なる厚い雲から雨をしのつかせていた。
「ハルくん。そんなこと言っちゃだめ」
「どして? 飛行機が行っちゃうよ」
団地のアスファルトを打つ雨音が、開け放たれた窓越しに部屋のなかまで伝わってくる。晴人のいう飛行機の気配など、わたしには微塵も感じられない。
「雨が降ってて飛行機なんて見えないでしょ」
「見えるよ。ほら、青と白の色をした飛行機がピカピカ光りながら行くよ」
晴人が指差す先は鈍い灰色の雲が重なっていて、もちろんぴかぴか光る飛行機など見えはしない。
「見えないわよ」
「見えるって、ほら」
息子がわたしの知らないところへいってしまうという不安。どこへもやりたくなくて、抱きしめようと伸ばす両手をすり抜けるようにかわすと、晴人はベランダへ駆け戻った。
「あーあ、行っちゃったじゃないか」
庇の向こうを見透かせないかとベランダにつま先立ちになりながら、残念そうに薄暗い空を見上げている。わたしの気持ちとはうらはらに晴人の視界に母親は入らない。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。ことあるごとに「お母さんお母さん」とまとわりついて、わたしを困らせると同時に、例えようもなく甘美な気持ちにさせてくれていたあの子はどこかへ行ってしまいいなくなってしまった。
少し離れた位置から見る息子の小さな背中にわたしはなにかを探している。いや、なにかではない。それはこれまでのわたしにとって大切だったものだ。夫との時間。友人たちとのおしゃべり。やりがいを感じていた仕事。支えてくれた家族たち。それら当たり前だったものが愛おしく感じる感覚。今朝もベランダは雨音に閉じ込められていた。だれもいないリビングではテレビが朝のニュースを流している。
……次のニュースです。――政府は◯日、全国四ヶ所の立入禁止区域となっている区域をそれぞれ一五パーセント縮小するとともに、各立入禁止区域の警戒レベルを段階的に引き下げる措置を発表しました。
これは区域内における感染状況が安定化してきたとの判断に基づくもので、これによってこれまで一律に立入禁止としてきた区域は、限定的に立ち入りが認められる第二種立入禁止区域とこれまでどおり立ち入りが規制される第一種立入禁止区域に分けられることとなります。第二種立入禁止区域への立ち入りは、厚生労働省の感染症対策センターの許可を得た人に限って、午前一〇時から午後三時までの間、可能となりました。
これにあわせて今回の感染症調査委員会の委員長を務める首相は「この措置は、わが国の感染症対策が新型感染症に対して勝利を収めつつあることの証拠であります。しかし、ウイルスはいまだわれわれの内部に巣食っており、これを完全に制圧するためには、更なる感染症対策の徹底とウイルスの封圧が重要なポイントであることに変わりはありません。対象区域に隣接する地域にお住まいのみなさんには多少のご不便をおかけすることもあろうかと思いますが、感染症封圧のため、いましばらくご協力をいただきたいと思います。今後も国民のみなさんの命と健康を守るため政府と委員会は全力を尽くしてまいります」とのコメントを発表しました。
次のニュースです――
晴人が外で遊びたいといいだした。外出は禁止されていないが気が進まなかった。第一ずっと雨が降り続いているのだ。外へ散歩に出かければきっと雨に濡れたり、泥が跳ねたりするに違いない。梅雨どきに洗濯ものが増えるのはおっくうだし、身体を冷やした晴人が風邪をひきでもしたら大事だ。
「雨が降ってるからおうちにいようよ」
「やだ」
息子は頑強だった。すぐに雨はやむから外で遊びたいと言い張るのである。空に垂れ込める灰色の雲はまだたっぷりと雨を含んでいそうだったが。
ここ一週間あまり雨は降りどおしで、晴人とわたしは狭い2DKの集合住宅に押し込められてきた。そろそろ限界である。正直なところ、わたしも少々雨に濡れたとしても気分転換のため、散歩に出かけたほうがいいと思うようになりはじめていた。ストレスで頭もおなかも弾けそうだった。
傘、長靴、子供用のレインコートを玄関に用意すると晴人はベランダから飛んできた。公園へ行くのだと晴々とした顔でいう。この団地にも小さな公園はあるのだが、私がそういってみても息子は承知しない。半時間ほど歩いた先にある公園まで行かないと自分が遊びたい遊具がないというのだ。
「花壇にテントウムシもいるし」
やる気満々の晴人とは逆に、昆虫ぎらいの私はうんざりである。彼が息子でさえなければ、雨の日に公園でテントウムシを探すなど一生涯なかったはずだ。
なかなかじっとしていられない五歳児にレインコートを着せ、長靴をはかせる。傘を持って廊下に出るとフロアを見渡した。廊下はがらんとして寒々しい。
築五十年の鉄筋コンクリート五階建ての集合住宅である。コンクリートの壁面はすすぼけ、苔むし、ひび割れている。廊下の手すりや階段の格子はペンキが剥げて赤錆が浮き、ほこりが溜まっている。
この団地はどこの棟も似たり寄ったり。古びていて、手入れがされておらず、薄汚い。私たちにあてがわれた部屋は、こうした集合住宅の四階だ。ずらりと並ぶ各部屋の扉には大きな木製のパネルが打ち付けてある。
――立入禁止。この建物及び各居室は封鎖されています。
――内閣官房感染症調査委員会 国土交通省
この広い団地に私たち、ふたりきり。
古めかしい鍵を鍵穴に挿し入れて、ことさら音も高く施錠する。確かに私たちがここにいて、生活していることを自分自身に確認するため。私は息子の手を引いて階段を下りていった。
雨はいっそう強く降りつのり、水煙にかき消されてしまいそうになる朝だった。
晴人が空を振り仰いていった。
「また、飛行機が行くよ」
私は、悪寒をこらえると彼の手をにぎって微笑むことにした。そうする以外なにができるだろう。
「そうね」
耳をすましても私の鼓膜は雨音に満たされるだけだった。
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