感情の街

バチへび

1.黒曜ガラスの嘯くことには

 〈クチナシ〉とよばれる者たちが住む感情の街。ここの住人たちはきっと、生きている実感、あるいは死の恐怖を紛らわせるモノを躍起になって喰い続けているのだろう。少なくともこの街を訪れた者は皆そのようなことを心の何処かに浮かべ、去って行った。



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1.黒曜ガラスの嘯くことには


 ゴウゴウという、鉄の円塔を揺るがす駆動音。吹き抜けの塔内部の最下では巨大な蒸気タービンが激しく回転し続けている。円塔の内壁にぐるりと取り付けられた螺旋階段からそれを見下ろしながら〈クチナシ〉のフィルは本日の仕事の成果について思案していた。柵にもたれかかった彼の身体——をまとい、白くずんぐりむっくりした体躯と、それに不釣り合いな首元とも肩ともつかないところから地面近くまで伸びる細長い腕、反対に図体に見合うように野暮ったくどっしりと地についた足。顔面には豆粒をふたつ貼り付けたような目……しかし、そのあいだに大抵の生物が有するはずの口らしき器官はない。彼らが〈クチナシ〉とよばれる由縁だ。

 フィルは蛇のように細長い腕を伸ばし身体を起こすと、螺旋階段のてっぺんに向かって登り始めた。腐食してあちこち空いた壁の穴から幾条も差し込む金色の夕日が今日も終業時間を告げており、内壁を垂れ流れるサビたちはギラギラと赤みを反射し、まるで円塔全体に脈打つ血管の様だ。あるいは、このタービンに喰い殺された〈ナマズ〉たちの怨嗟のしるし。


「恨むんじゃないよ」


 フィルは軽く右手を振った。

 固い靴底が薄い鉄板の階段をカンカンと打ち鳴らすのが頭に響くたび、すこしばかりの懸念に襲われる。もしもこれを踏み抜いてしまったら、はるか真下のタービンまで真っ逆さまだ。途中で下の螺旋階段に引っかかって止まることができるだろうか?重力に任せて落ちるのだから、きっとどんどんと階段を破る力は大きくなって、やはりタービン行きだ。いやいや、でも途中で腕を伸ばしてうまく柵に掴まることができたら……。不吉な想像を巡らせ、無限に続くように錯覚する階段を登る苦痛を薄めるのは、フィルが毎日無意識のうちにしていることだ。


 てっぺんに登り着くとフィルは備え付けられた小窓を押し上げ(ぎこちない欠伸のように立て付けが悪くパラパラと汚らしいサビを降らせてくる)、己の識別ナンバーを奥の人物に告げる。すると、暗闇から現れた骨張った手が本日の給金を置いた。そこには小さな赤銅あかがね色の粒が3個転がっており、フィルはわずかに顔をしかめるとそれらを引ったくるように手に収めた。

 そのままとなりの交換所へ向かい、タマゴ型の販売機の前に立つと慣れた手つきでボタンを押す。それには「怒り」と書いてある。電光板に表示された金額を見ることなく、投入口に先ほどの赤銅の粒を全て入れると、機械はフィルの一日の成果をあっという間に飲み込みゴンゴンと音を立てて一個の半透明なカプセルをコロリ、と吐き出した。その中身は暗渠のように不明瞭で、黒々としたモヤに満ちている。フィルはカプセルをカバンに突っ込むと、交換所の扉を開けて街に出た。


 空を見上げると、はるか上空に浮く上層街の建つ薄いトーラス状の巨大な基盤が、傾いた陽を受けてフィルたちの下層街に深い影を落とすところだった。基盤の中央に空いた広大な穴から、僅かながら上層の建物のを伺うことができる。下層街も同様の構造をしており、街の中央に空いた穴から、さらに下の最下層の街を覗くことができる。フィルは自宅に帰るためにこの穴の外周をぐるりと歩いて行く必要があった。

 ポツポツと不規則に灯る街灯、赤々と暮れ行く街、家々から聞こえてくるすすり泣きと怒号。本来、この帰路はフィルにとって耐え難いものであるはずだ。しかし、今は何も心は動かずボンヤリと機械的に足を運ぶだけ。〈感情〉が足りなくなっているのだ。


パチッ……。


 スイッチを合図にランプが瞬くとタービンに食われた〈ナマズ〉たちの血をもとにつくり出された命の灯が、フィルの狭小な家を紅く照らした。薄赤色のランプは元々フィルが仕事で使っていた集魚灯であり、まるで部屋に血が通うようにほんのりと暖かく色づくのを期待して、持ち帰って我が家の灯りに改造した由来がある。


「遅くなってしまったね。ほら」


 飼い主の気配を感じとって眠りから覚めた吊りカゴの中のヌタネズミは、放られた餌に飛びつくとガリガリと食べ始めた。


 汲み水で己の身骨に染みついた汚泥を洗い流したフィルは、さきほどのカプセルを取り出す。何匹かの〈ナマズ〉たちを追い立て、この街を満たすエネルギーに変えた——本日の成果だ。その粒は銅のコップに満たされた水と一緒に一気に飲み下される。このカプセルは、フィルたちクチナシに〈感情〉をもたらすものだ。彼らは固有の感情というものに非常に乏しく、これを用いて補う必要がある。

 感情の街を訪れる異種の流れ者たちはこう言う。君たちは私たちのような食事をしないけれど、〈感情〉を喰って生きているということかな、と。事実、クチナシたちは定期的に〈感情〉を脳で味わわなければ、ある過程を経たうえで死ぬ。彼らがいつから世界に存在するのか、カプセルの補助なしに生きていた時代はあったのか、書物も確かなことを伝えないがおおよそ100年以上前から今のような暮らしを続けているようだった。クチナシたちは〈感情〉に飢えると皆まずバケモノに成り果ててしまう。そうなった彼らは、最下層の沼地(燃料にされた〈ナマズ〉たちの残りカスやタービンの冷却水が淀んでいる)に落とされ、死ぬまで徘徊して廻るだけの存在になる。

 フィルは一度だけ逃げ出した〈ナマズ〉を追いかけてこの街の最下層に降ったことがあるが、そこで見たものはまさに悪夢だった。上層で処理しきれなかった〈ナマズ〉たちの残りカスが血の雨となって、しとしとと降り注ぎ、薄赤い霧があたりにたちこめ酷い悪臭に満ちていた。血の雨が集まり淀んだ沼地では、黒い影たちが熱病に浮かされたようにフラフラと徘徊する。〈感情〉に餓えたクチナシたちの成れの果てだ。フィルは恐ろしくなり〈ナマズ〉の追跡を諦めた。今でも奴らは街とも呼べぬ沼地の集落を彷徨っているのだろうかと寝付く前にふと想像してみることがあるが、大抵それはその晩の夢見を酷いものにする。


 月明かりに照らされた庭に出ると、黒曜ガラスのエンが枯れ木に留まっていた。


「フィル、なんだか浮かない顔だね」


 カアカアと喋るエンが黒曜石色の羽を羽ばたかせると、まるで小さな星々のような煌めきを見せた。絶妙に夜空との保護色になっており、フィルは今まで一度たりとも彼の容貌をしっかりと掴めたことがない。


「エンか。どうにもこうにも、ね」


 フィルはあまり興味なさそうに答える。

庭中央に立つ枯れ木に持たれて見上げると、途中から夜空を遮る無粋な基盤が目に止まった。

 しばらく眺めているうちに、フィルの心は怒りで満ちてきた。さきほど飲み込んだカプセルが溶け出してきたのかもしれない。フィルは毎日、こうして日々「怒り」を摂取しては限られた星空を見上げ昏い衝動に突き動かされるが、いつか自分は上層へ行くのだと心に決めていた。上層のクチナシたちは〈喜び〉の感情を常食できるに違いなかった。それは、フィルの給金を一年溜めてようやく買えるような、とても贅沢な〈感情〉である。


「上層が羨ましいかい、フィル」

「わかりきったことを訊くなよ。そりゃ羨ましいさ。あの世界にはなにがあるんだろう、どんな人たちが住んでいるんだろう。いったいどれほど贅沢な〈感情〉を毎日毎日買えるんだろうってね。鬱々と考えながら帰路につかない日はないんだよ」

「……なあ、フィル。わたしはね、上層の生まれなんだ。それに今もこうして自由に行き来ができるのさ。この黒曜の羽さえあれば、どんなところへだって飛んで行けるのだから。わたしが知っていること、君に教えてあげることだってできる」

「でも、対価を求めるんだろう?前にも言ったけど、ぼくには支払えない。〈美食家グルメ〉から枝肉を持って帰ってこい、なんてね。命がいくつあっても足りないよ」

「ふむ」


 黒曜ガラスはすこし黙ると、また口を開いた。


「それについてなんだが、必ずしも危険が伴うわけではないんだ。いいや、きっとうまくいくとも。わたしの言う通りにすればね」

「怪しいよ。お前の言うことを間に受けてひどい目にあったやつを大勢知っている。細雪ささめゆき通りの靴屋ラーミヤ、その夫トト、星見屋敷の食客のナーナ、あと……」

「わかった、わかった。この話は止めだ。……しかし、君がそのつもりなら、わたしはいつだって待っているよ」


 バサバサという羽音をたて、エンは去っていった。上流きどりめ、とフィルは一人呟く。


 〈美食家グルメ〉は大変な肉好きで、ありとあらゆる生き物の肉を喰ったと豪語している。おぞましいことに、同胞のクチナシでさえそのリストに入っているのだから冷酷無残極まりない。

 エンはその異常者の屋敷に忍び込んで、内臓を取り除かれ木々に吊るされた枝肉の果樹園からそのひとつを盗んでこいと所望してきているのだ。黒曜ガラスはいつから悪食の徒になったのやら、付き合いもそれほど深いわけでもなし、フィルはその悪趣味を理解するつもりはなかった。ただ、提示された報酬は確かに魅力的だ。下層にいては決して知り得ない情報を教えてくれるのだという──ごうつくばりだとは思うが。


 ああ言ってエンを追い払ったものの、悪食カラスの誘惑は確かにフィルの頭の隅にうるさく居座り続けるのであった。

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