フラジールトライアングル

このままだと、幸せな夢に呑まれてしまう。

このままだと、自分に対する彼女の態度に、純粋な好意に、心を奪われてしまう。


その笑顔を向けないでと思っている自分もいるけど、その笑顔を見ると温もりを感じてしまう自分もいる。


彼女はやっぱり、とても脆く儚い存在だ。



――――――――――



まだ彼女は眠っている。

わずかな寝息を立てて。

一応ギリギリまでは粘ってみたものの、やはり起きる気配はない。

仕方なく俺はメモ帳を取り出し、1枚破ってそれにペンを走らせる。


「……これでいいか」


昨日、俺がいる間に起きれなかったら朝食は冷蔵庫のものを勝手に使って食べてと言ったものの、冷静に考えると琉生さんは一応客人である。なので簡単な朝食だけはテーブルに用意し、そこにメモも乗せた。


「………ちゃんと、出ていってくださいね」


それを言った俺の声はとてつもなく低く、凍ったように冷たかった。

出ていってくれなければ困る、そう言い表すように。


そう、困るのだ。

これ以上この人に心を開き続けたら取り返しのつかないことになる。

時間が経って気づいたのだが、これは不倫に近い行為である。もしも琉生さんの旦那さんに少しでも勘づかれたら、お先真っ暗な状態になってしまう可能性もある。

それに、琉生さんが俺を裏切る可能性だって捨てられない。

一刻も早く返して、俺もこの気持ちを終わらせるしかないのだ。


取り返しのつかないことになる前に。

いや、もう片足を突っ込んでしまったから、これ以上足を突っ込まないように。


「……………………っ」


規則正しい彼女の寝息が一瞬だけ乱れる音がした。

だが俺はそれに気付かぬまま、静かにドアを閉めた。



――――――――――



「……………………はあ」



――――――――――



「はよ」


入口で喋っている奴らに声をかける。


「あ、海斗!はよはよ!聞いてよ、こいつのさあ〜」

「ちょ、言うなって!」

「いいじゃんかよ、海斗なんだから。んでこいつのさあ?…………」


そしてその1人がニヤニヤしながら、俺の耳に顔を近づける。


「好きな子、川名らしいよ」


川名。琉生さんに似た人物。

まるで、琉生さんをそのまま高校生にしたようなくらい。

そして俺が今1番話をしたかった人物。

色々なことを、確認するために。


「え、と………健太、それまじ?」

「しーっ!誰にも言うなよ?というか、創もそうやって皆に言うんじゃねーぞ?」

「もちろーん」


健太は焦りながら創に注意をする。

相変わらず創はしながらもニヤニヤしっぱなしだ。


「川名が………好きなのか」


2人が急に俺の方を見る。


「な、なんだよ……」

「もしかして、海斗も好きなのか?」

「は?」


ニヤリとしながら言う創とは違い、言いにくそうな表情をしながら健太は口を開く。


「海斗も好き、なのか?」

「いやだから何が」

「………………川名」


…………いやいやいやいや。


「好きじゃない」

「なら良かった…………。ダチとライバルになんのがいちばんダルいからな」

「なんだ、面白くねーの」


健太は心底ほっとしたように肩を落とすが、創は軽く舌打ちをして不機嫌そうな表情をする。


「というか、創はニヤニヤしすぎな」


俺がぼそっと呟くと、創は俺を横目にした後に大きなため息をこぼす。


「分かってねーなー。人の恋バナだぜ?ニヤニヤせずには居られないだろ」

「別に興味無いし」

「あーそうですね。海斗は無関心だもんな。けどな?ダチの好きな人くらい把握しとくと、めんどくさいことから避けられるんだぜ?」


謎のドヤ顔をキメてくる創をチラッと見て、それから俺は疑問する。


「どんなことから避けられんだよ」

「お?興味あんのか?」

「いや……やっぱ大丈夫」


創がまたニヤニヤし始めたので呆れながらその疑問を取り消す。

そんな俺たちの様子を見ていた健太が言う。


「でも仲の良さで言ったら、この中ではいちばん海斗が仲良いんだよなあ」

「別に、仲良くないよ」

「はあ?何言ってんだよ!」


その瞬間、健太はガシッと俺の両肩を掴んで大きく揺さぶる。


「いっつも………喋ってんじゃねーか!」

「そしたら創だって喋ってるだろ」

「そうじゃねーんだよ。創は無理矢理絡みに行ってる感じで、………その、かわ、な……は嫌そうにしてるからいいんだよ」

「なんだよそれ」


創がジト目で健太を睨む。


「俺だって変わらねえだろ」

「いや変わる」


ため息混じりに言うが、健太が間を開けず即座に否定してくる。

そんな変わらないじゃねえか。

俺が「どこが?」という視線を向けながら話を促すと、健太は重々しく口を開く。


「川名は………この中で唯一、海斗だけには自分から話に行くだろ?」

「……………そうなの?」

「は?」

「いや、初めて知った」


「まじかよ」と言うように、創までもが2人して俺をジト目で見る。


「なーに話してるの?」


突然後ろから声をかけられ、思わず肩がビクッと震える。


「おう、川名」


平然と創が声をかける。

後ろを振り向くと、創が言った通りの人物がそこに立っていた。


川名琉生。

改めて見るとやっぱり琉生さんとどこか似ている。どこかというよりも全体的にかもしれない。

けれど、纏う雰囲気だけが全く違う。

琉生が楽しそうな表情と何か辛い表情、要は明と暗を持っているのに対して、川名は終始笑顔を浮かべる女の子だ。

まるで、辛いことをひとつも知らないような太陽のように明るい笑顔。

そんなことありえないのだけれど、そう思ってしまうくらいの清々しい笑顔なのだ。


「瀬戸井(せとい)?どしたの〜?」


俺の名字を呼びながら川名は俺のことを覗き込むようにして顔を近づけてくる。

それを俺はいつも通り瞬時にかわす。


「………相変わらず近いな」

「あ、かわしたし」

「かわすに決まってんだろ」

「なんでよ〜」


怒ったような表情をしながら川名は俺の肩をバシッと叩く。

女子の力だからそこまで痛くない……と言いたいが、川名に関してはもはや女子ではない。

それくらい痛いということだ。


「叩くなよ。お前に関してはまじで痛いんだから」


止めるように言うけれど川名は俺の声をわざと聞いていないのか、にこにこした笑顔で繰り返し繰り返し肩を叩いて止めようとしない。

清々しい笑顔だが、その笑顔が清々しければ清々しいほどサイコパスに見えてくるのでちょっと怖い。


「だから、止めろって」

「っあ…」


少しだけガチのトーンで言い無理やりに川名の手を掴んで強制的に止めさせる。

川名の方を見ると、川名は面食らったというような表情を浮かべていた。


「いやそんな驚く?」

「あ、いや………な、なんでもないよ〜。………ごめん、もう行くね。他のおふたりさんも、邪魔してごめんね」


俺からあからさまに目を逸らして言うと、川名はそのままどこかへ行ってしまった。


「…………なんなんだ、あいつ」

「あのさあ、さすがに俺でもこれはちょっとって思うぜ?」


俺がつぶやくと、言いながら創は俺の方をポンッと叩く。健太は俺から顔を逸らして黙っていた。


「え?何が?」

「いや、川名は健太の………さ。話したばっかりなのに………」

「………………………あ」


もう1度健太の方を見る。

だがそこから健太はもういなくなっていて、そこから教室を見回すと自分の席に座って俯く健太が見えた。


「………謝った方がいいと思うぜ?」

「謝る………って言ったって………。さすがに相手から話しかけてこられて、無視は出来ないだろ」


すると創は「確かに」と呟き、だがその後すぐに「でもなあ…」と言う。


そんな様子の創を横目に俺は琉生さんのことを考えていた。

もう帰ってしまっただろうか。あるいは朝ご飯を食べているのか。それともまだ寝ているのだろうか。

気になって仕方がなかった。

鍵の場所はきちんと教えた。朝ご飯も用意した。

何も気にする事は無いはず。

普通だったら早く出ていって欲しいと思うはずなのだ。異性の既婚者を家にあげるなんて、とてもリスクが高いから。

けど俺はそんなことを1ミリも感じない。

むしろ、別れることを望んでいない……。


別れることを望んでいない?


それはどうしてだろう。

どうして俺は琉生さんと別れることを望んでいないのだろう。

琉生さんと一緒にいれなくなることを嫌に思っているのだろう。


どうして俺は、琉生さんのことが好きみたいな――――。


「海斗?」


気がつくと、創が俺の事を覗き込んでいた。


「HR始まるからもう行こうぜ?」

「――――あ、ああ」


俺は慌てて返事をし、先に行った創を追いかけるように教室の中に入った。





――――――――――






あっという間に1日が過ぎて、いつの間にか帰途についていた。

あれから健太と喋ることは無かった。

頑張って創が橋渡しをしてくれていたが、健太は俺の事を見ようとはせず、俺もなんとなく気まずくて。

本当は謝った方がいいのかもしれないけれど、謝ったら謝ったでウザがられるんじゃないか。捉え方によっては自慢にも聞こえてしまうんじゃないか。

そんなことを1日中考えて、謝ろうとして謝れなくてを繰り返していた。

きちんと考えればよかったのだ。

直前に聞いてはいたのだから、せめてもう少し態度を変えれば……。なんて今更後悔しても意味は無いのだけれど。


創と健太とは高校からの付き合いだ。

だからまだ仲良くなってからは日が浅い。

2人は同中で、元々中学でも仲が良かったらしい。

だから俺との付き合いよりも、2人はずっとずっと仲がいい。

何が言いたいかというと、もし2人のどちらかと俺が何かしらでトラブルになった場合、トラブルになっていない片方は、俺ではないトラブルになった片方を味方する可能性が高いということだ。


要は、このまま行くと友達を失くすかもしれない。


「……………はあ」


思わず大きなため息をつく。

近くを通り過ぎた主婦の方が一瞬俺の方を見たような気がしたけれど、そのまま気にせずに歩き続ける。



「なーに、そんなため息ついてるの?」


ぎょっとした。

声のした方を即座に向くと、ある人物が立っていた。


「そんなびっくりしないでよ」


笑いながらその人物は俺にゆっくりと近づいてくる。


「なんで……いるんですか?……琉生さん」

「いちゃダメなの?」


冗談を交えた口調で琉生さんは尋ねてくる。


「そういうわけじゃ……。帰って、なかったんですか?」

「帰ってないよ。帰る理由、無いしね」


帰る理由が"無い"。

"無くなった"なら分からなくもない。

それは、帰る理由など元々無かったような言い方で、「帰るつもりは一切無い」と言っているような気がした。そして、宣言されたようにも聞こえた。


「無いって……どういうことですか?」


琉生さんの表情が一瞬にして曇る。

触れないでと言っているようだった。

琉生さんから口を開くことも無かったので、俺もそれ以上聞くことは無かった。


「………じゃあ、帰ります?」


ため息混じりに言うと、琉生さんの表情が一気に戻り笑顔を輝かせる。


「………いいの?」

「待ってたってことは、そういうことじゃないんですか?」

「あはっ。確かにそうだ〜」


ケラケラと笑い出す。それにつられて俺も笑みをこぼす。


「じゃあ、行きますよ」

「あ、買い出し行こうよ。冷蔵庫見たらろくなもの無かったよ?」

「それ、琉生さんが使ったんじゃないですか?」

「あ、バレた?」


くすくすと笑う。


「別にいいですけどね。というか俺、自炊ってあんましないんで、冷蔵庫に何も無くても困らないんですよ」

「じゃあこれからは私が作るから、ちゃんと買い出ししてよ」

「これからって………」


もしかして琉生さんは居座るつもりなのだろうか。タダで。


「なら、食費払ってくださいね?」

「ええ〜〜?私、お金持ってないし」

「働いてください。バイトでもいいですから」


俺が言うと、琉生さんはムスッというような表情を作る。本人は本気で怒っているように見せたいのだろうが、全然そんな風には見えない。


「高校生の俺には、親からの仕送りしかお金が入ってこないんですよ」

「だったらそれこそ海斗がバイトすればいいじゃん」

「琉生さん、大人なんだからしっかりしてくださいよ…………」


さすがに俺の言葉が胸に突き刺さったのか、琉生さんは顔をしかめる。


「どうにかしてくれるなら、生活くらいは提供しますよ」

「わ、分かった。………何とかする」



そんな感じの会話をしながら、俺と琉生さんは家に戻り、そしてすぐに買い出しに向かった。






――――――――――





こんなずるい私でごめんね。


自分の中で満たされて満足したら。


きっといつかは――――から。


だから今は、



私を見捨てないでね。

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