第三話:困惑の招待

「………」

 コレトーは天井を見上げ、パチパチと数度瞬きをし、指で眉間をつまみ上げるように揉んで、もう一度カードへ視線を戻す。当然ながら、書いてある事に変化はなかった。

「…どうなさるおつもりですか?」

 今にも震えだしそうな顔色で、コレトーはアンネリザを見つめる。

 二人の只ならぬ様子に、カーシャも部屋を出て行くタイミングを逃し、オロオロと視線を行き来させる。

「どうも、こうも、国王陛下から招待状を頂いて、断るなどという選択ができる訳もないじゃない」

 アンネリザが深々と溜息を吐き、ぼそりと呟く。

「最悪だわ、私、奉納舞か祭音頭くらいしかできないのに…」

「ですから…再三、教養の習得は真剣になさってください、と申し上げておりましたものを………」

 天を仰ぐ主人に、顔を覆う上司、はっきりとは会話の内容が聞こえない上に、見たこともない反応をする二人にカーシャはついて行けない。貴族令嬢という者は、おしなべてダンスを習得しているものだ、という王都辺りの常識も状況を理解し辛くしていただろう。

 そう、二人の反応には理由がある。

 残念ながらアンネリザは、およそダンスというものを踊れない。基本の姿勢をとること位はできるが、それ以外はできないに等しい。教えていた家庭教師が彼女のあまりの上達の無さに匙を投げた程の、なんとも表現しがたいガクガクとした動作ができるだけなのである。

 だが、そんなことを大っぴらに発表しているはずもないし、ほんの数日間しか付き合いのないカーシャが知るはずもない。まして、彼女にとって、貴族令嬢は王都の平民女性達憧れの的という認識なのだ。踊れない、などという事情が有るなどとは毛ほども考えられなかった。

「あぁ、御免なさいカーシャ。明日舞踏会に出ることになったから、出発は中止、明後日以降に延期よ。さっき言った通りに、お願いね」

 困惑を顔に浮かべて佇むカーシャに気付き、アンネリザは平素通りの態度で声をかけ、退室を促した。

「はい。ご前下がります」

 舞踏会と聞いて、カーシャは誇らしさを顔に浮かべながら下がっていった。彼女からすれば、平民としては大出世とも言える、念願の貴族屋敷の女中職に就いた家の主人の妹が、王家主催の舞踏会に招待されたという慶事にいきあった喜ばしい瞬間である。

 笑顔の少女が出て行った後、室内には沈黙が満ち、主従はそろって俯いた。

 今日、この時まで、別にアンネリザがダンスを踊れないからといって、困る事など起こり得ないはずだった。なぜなら彼女は、伯爵令嬢とは言え、田舎と言わざるを得ない地方で領主をしている伯爵の六人いる姉妹の末娘であったから。

 彼女が産まれた時。

 アケチ家の長女タータミーナは既に二十七歳。十八の時に婿養子を迎え、長男オキノ、長女オノーラ、次女ミノレッタという三児に恵まれ、アケチ家の家督を継ぐことが確定していた。

 次女アリエーナは二十五歳。社交界の華と持て囃された曾祖母の容色と教養を受け継ぎ、十七の時に辺境領の貧乏伯爵としては大いに破格の相手に嫁入りを決めていた。

 三女コルテンタは二十一歳。容姿こそ父に似て地味だったが、次女と同様に深い教養を備えており、十八の時に、位こそ子爵だが王国全土に店舗を展開する商会の家へと嫁ついだ。

 四女カゼリーナは十八歳。上の姉達に薫陶を受けた社交術で、自ら婚約者を見つけ、二ヶ月後には経済力のある同格の家へ嫁ぐことが決まっていた。

 このように、年の離れた上四人の姉達の存在だけで、アケチ家は安泰と言って良かった。後継の不安もなく、領地経営も安定し、何かあった時には頼りになる家との繋がりもできていた。

 そのため、当時七歳のシレーナと産まれたばかりのアンネリザには比較的のびのびとした教育が施された。当然教養の為の家庭教師は付けられたが、本人達が嫌がれば、無理にさせなくても良いという事になったのだ。もっとも、シレーナは姉達と同様に令嬢としての教養を立派に修めていく事になるのだが。

 そうしたのびのびとした教育方針と、最悪一人くらい嫁がなくても良いや、という父親の甘さから、アンネリザは舞踏会というものには参加することなく、また参加する気もなく、過ごしてきた。

「急病での欠席と出席、どちらがマシだと思う?」

「欠席よりは出席の上、壁の花となっていただく方が、旦那様のためにもよろしいかと」

「まぁ、そうよね、それしかないわよね…」

「そもそも奉納舞はあれほど上手でいらっしゃるのに何故ダンスは踊れないのですか」

「解ってないわねコレトー。舞とダンスは別物よ。それに、私の舞が上手に見えると言うならそれはアケチの楽士達の腕がいいからよ。あぁ、山羊に乗って崖を登れと言われたなら、どんな令嬢方よりも上手にやってのける自信があるというのに」

「崖の王とかいうお嬢様の二つ名、絶対に他所様でバレないようになさってくださいね。普通居ませんよ。山羊に乗って崖登りする令嬢など」

 妙な主張をするアンネリザに、溜息混じりにコレトーが忠告する。

 サッカイ州の山岳地帯では珍しいことではないが、小柄な女性や子供は、山羊に乗って山、とりわけ崖のような斜面を持つ山を登ることがある。もちろん、平民の、という冠が付く。どれほど山羊乗りが盛んな地域であっても、貴族の、それも女性が、山羊に乗る話は聞かない。

 ところがアンネリザは子供の頃、人の手を借りなければ跨ることもできない馬よりも、自分でも飛び乗れる山羊に心惹かれた。そのため、馬に乗れるようになる前に山羊に乗れるようになり、その山羊で崖を登ることさえやってのけ、領民の子供を中心に『崖の王』という呼び名で讃えられたのである。

「それくらい、いくら私だって弁えてるわよ。それに、最近は背も伸びちゃって、前みたいにはいかないから、崖の王は返上しないといけないかもって考えてるのよね」

「…然様でございますか」

 コレトーはもはや溜息さえ出なかった。まぁでも大型の山羊ならまだいけるわよね、と本気で考え込み始めた主人からそっと視線を逸らし、空を飛ぶ小鳥に向かってそっと微笑んだ。

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