夏の夜空と僕ら。

雨宮悠理

夏の夜空と僕ら。

 じめじめとした湿気が支配する暑い日のことだった。

 クーラーのよく効いた部屋で、ベッドに寝転がってケータイをいじっていた翔吾しょうごは、画面に踊った差出人の名前に素直に驚いた。

 ――津森つもり夏菜なつな

 モデルみたいに整ったルックス、学業優秀、そして強豪テニス部のキャプテンとして活躍している最強超人の女子生徒。彼女こそがメールの差出人だった。

 彼女は翔吾より学年がひとつ上の先輩で、昔、まだ小学校低学年くらいの頃に通っていたテニスクラブで翔吾と先輩は同じクラスに所属していた。特別、仲が良かったとかそういったことはなく、学校やクラブが休みのときなど、たまに他の友達交えて遊んだりする程度の間柄だった。

 クラブは中学まで続けていたけれど、先輩は小学校卒業と同時にクラブからも離れていった。

 あの頃、いま思えば先輩のことを特別に意識するようになっていた。

 それが幼いながらも恋心なのだと解ったのは、それから何年もしてからだった。


『お疲れさま。翔吾、今ちょっと話せたりしない?』


 メールの内容は誘いだった。時計をちらりとみると時刻は七時を指している。

 部活終わりにしてはまだ早い時間。来週、総体予選が控えているというのに、こんな早上がりをすることは、特にうちのテニス部ではあり得なかった。

 翔吾は先輩からのメールの意味について特段考えるまでも無かった。

 先週退部届を顧問に提出して、紆余曲折あったが、昨日やっと一年以上所属していたテニス部を正式に退部したこと。それを殆ど誰にも相談せずに事をすすめ、半ば強引に手続きを終わらせたこと。

 それこそが先輩が翔吾に連絡を寄越してきた理由だろう。

 返信を打とうと何度か指が動いたけれど、それはすぐに止まってしまう。

 先輩と二人で会うことなんて、ここ最近では滅多に無かった。

 テニス部に入部した最初の頃は、部活が始まる前に二人でコートに入ってよくラリーをしていた。強豪女子テニス部のキャプテンを務めているだけあって、とても有意義な練習になっていたし、すぐに部活の雰囲気に馴染むこともできた。

 ただそれも他の先輩たちの目には随分と不愉快に映ったようで、気付けば次第にコートには翔吾の居場所は無くなっていた。

 それからだった。翔吾がテニスを避けるようになっていったのは。


 特に男子テニス部キャプテンの存在は翔吾にとって大きかった。津森夏菜には近づくな。オレの彼女の周りをチョロチョロするな、と何度言われたことか。

 正直もう何もかもうんざりだった。

 たたでさえ先輩は人気者で、数々の告白を蹴ってきたと聞いている。

 そんな学園のアイドルとべったりしている男がいたならば、それはヘイトを集めても仕方ないなと今となれば多少理解もできた。


『お疲れ様です。どこに行けばいいですか』


 だが、気がつけば頭の中の理屈とは裏腹に指はメールの送信ボタンを押していた。

 そして一息つく間もなく、ブルルとケータイが揺れる。

 少し躊躇いながら、受信ボックスのメールを覗くと、


『川添公園。もう私来てるから、もし来れたら声かけて。いきなりごめんね。待ってます』


 とあった。先輩はすでにそこで待っているらしかった。

 翔吾は一言『わかりました』とだけ、返しておく。

 よく分からない疲労感に襲われて、持っていたケータイをぽんと放り投げた。

 枕に頭を預けて、ぼうっとしていると、机の脇に置かれた棚に飾られた盾やトロフィーが目に入る。

 総体や、全中、そして高校一年生ながら県選抜で獲得したトロフィーなどの数々。

 テニスを辞めたいまとなっては過去の栄光となったそれらは、よく磨いてあるはずなのにどこかくすんで見えた。

 先輩とまともに話をするのはいつぶりだろうか。

 そもそも何を話せばいいのか。テニスを辞めた。これからは学業に励んで、いい大学に入れるように今から備えておきます、か。もしくは、一生に一度の高校生活、楽しまなきゃ損なので、全力で遊び倒します!か。どれもこれもしっくりとはこない。

 部屋の隅に無造作に置かれたラケットの数々。フレームにはペンキで罵詈雑言が書かれていた。『天狗になんなよバーカ』とか、『シネ、雑魚』だったり言葉のバリエーションもそうだが、ペンキのカラーリングも非常に豊富だった。

 何度も捨てようと思ったラケットだが、結局捨てられずにいる。

 見れば見るほど、怒りにも似た復讐の気持ちと、諦めにも似た惨めな気持ちが、ないまぜになって翔吾にのしかかってきた。

 毎回そうなってから、やっぱり早く捨てよう、と思う。

 体を起こしてスウェットを脱ぎ、近くにかけてあったTシャツと黒いチノパンに着替える。家の鍵と、もしもの時のために財布を持って家を出た。


 軒先では、どこかのカレーの匂いが夕焼けに混じって辺りに広がっている。

 翔吾は一呼吸だけ入れて、ふっと息を吐くと、徒歩五分圏内の公園に向かって歩き出す。僕は先輩に一体何を伝えるべきなのか。それを思いつくには時間があまりにも足りなさすぎると、そう思う。


 ◇◆◇◆◇


「どうして、辞めちゃったの」


 合流した先輩は開口一番、単刀直入に聞いてきた。これは正直、予想通りだった。


「……テニス、楽しくなくなったんですよ。別に辞めてもいいかなって」


 聞かれることを予め覚悟していた翔吾は、淡々と答える。


「嘘」


 シンプルに先輩はそう言った。


「翔吾はまだテニス好きでしょ。どうでもいいなんて微塵も思ってない。それくらい今の私にだってわかるよ」


 そう言って先輩はブランコを漕ぐ。風で舞ったスカートは不思議な魔法にでも掛かっているかのように、少しもめくれることは無かった。


「どうしてそう思うんですか」

「敬語」

「……?」

「やめようよ、敬語。そんな関係じゃないじゃん。私たちさ」


 先輩は、ほいっ、と掛け声をつけるとブランコから飛び降りる。背中に担いだレケットバッグがカシャカシャと音を立てた。


「でも、……先輩は先輩だし」

「はい、そういうのマジいいから」


 グイッと翔吾の顔に自分の顔を近づける。綺麗な二重瞼のぱっちりとした瞳に自分の姿が映っているのが見えた。


「ほんとにさ、何で急に辞めちゃったの。いよいよ新世代に移り変わってきてこれからって時じゃん。特に全国でも通用する翔吾は、うちの部にとっても、テニス界全体にとっても貴重な存在なのに」

「……全国区だから?」


 先輩の言葉は、いまの翔吾を少しだけイラつかせた。


「全国大会に行くから? よく勝つから? だから辞めないほうがいい、ってこと」

「違う! そんな、意味で言った訳じゃ……」

「結局、大切なのは実績だけなんだよな。それが自分である意味なんてどこにもない。秋坂翔吾は部のために点数稼ぐから置いとこうって、ただ、それだけのこと」


 乗っていたブランコから腰を上げる。目の前にいた先輩が目線の下にいた。


「同級生だってみんな同じ。生島いくしまから俺を庇ってくれたやつなんて一人も……」


 そのとき翔吾は心底、しまった、と思った。生島の名前を出すつもりは毛頭なかったのに。特に先輩に対しては絶対に言いたくなかったワード。


「生島? ――――まさか。董哉とうやが何かしたの」

「…………別に」

「翔吾、お願い。わたし、本当のことが知りたいの」


 先輩は後ろに立つと、翔吾のTシャツの端をギュッとにぎっていた。


「本当のことって、なに。……嘘は言ってないんだけど」

「ううん。だって翔吾は先輩のことを呼び捨てになんて絶対にしないよ。それくらい知ってる」

「……先輩はさ、生島、……さんと付き合ってるんでしょ」

「……え?」


 翔吾は背後を振り返り、立っていた先輩と視線を合わせた。

 これまで必死に抑えてきた言葉の数々が、栓を切ったように口から出てくる。


「そうやって知らん顔して人のこと呼び出してさ。実は知ってたんだろ。生島が僕に嫌がらせしてたってことも。……知らない訳ないよな、女子テニス部の中にだってグルだった奴もいるってんだから。……なに、生島にでも頼まれたの? まさか本気で辞めるなんて思わなかった、とか? そんな感じ?」

「…………」

「でも仕方ないよな。だって、アイツあんなんでも顔がいいし。強豪の男子テニス部のキャプテンで、周りもチヤホヤして、それで……、後輩のくせして下手に目立つ僕みたいな奴は生島にとっても、先輩にとっても目障りなんだよ」

「違うっ!」


 彼女は叫んだ。少し離れに座っていた他校の高校生カップルは二人揃ってこちらを振り向くのが見えた。そして後悔が遅れてやってくる。先輩は悪くない、でも当たらずにはいられなかった。誰にもぶつけることのできなかった薄暗く重い気持ちを当事者でもない先輩にぶつけてしまった。改めてこんな自分に辟易へきえきする。


「…………ごめん」


 次の瞬間、僕の体はふわりといい匂いのする何かに包まれていた。それが先輩の身体だってことに気付き理解するまでには少し時間が掛かった。


「……先輩?」

「ごめんね、翔吾。……全然、気づいてあげられなくて」


 先輩の声も肩も、どちらも小刻みに震えているのが分かった。

 ひどいことを言っていた。先輩はなにも悪くなかったのに。


「……言い過ぎた、本当にごめん」

「ううん。わたし、近くにいたのに、何もできなくて。それなのに無神経に聞き出したりして、ごめんね」

「…………先輩」


 先輩の肩を持って少しだけ身体を離す。

 綺麗な顔は涙で歪み、目は赤く潤んでいた。女の子をそんな顔にしておいて、最低だと思うが、彼女の泣き顔は僕にとって、とても美しく見えた。

 そんな彼女を見て、翔吾は自分の気持ちを抑えることができなかった。


「…………っ!」


 翔吾自身、気が付いた時には、お互いの唇を重ね合わせていた。

 ちらりと見えた彼女はただ受け入れるかのように静かに目を瞑っていた。

 とても長いようで短い数秒間のあと、唇を離した翔吾は俯いて小さく「ごめん」とだけ呟いた。

 いきなり、それも人の彼女に手を出すなんて、……どこまでも最低だ。


「翔吾」


 名前を呼ばれて躊躇いがちに顔をあげる。ビンタも覚悟した。

 心配してくれた先輩の恩を仇で返してしまったと思ったから。

 でも先輩のとった行動は翔吾の予想とはまるでかけ離れたものだった。

 またしても、それも今度は彼女の方からキスをしていた。


「先輩。……何で」

「わたし、付き合ってなんかないから」

「………………は?」

「だから、わたし生島君とは付き合ってない。そもそも恋愛対象でも何でもないの。何度か彼が告白してきたり、……帰りに偶然なのか途中で合流してきたりするから、一緒にいるように見えただけ。だから私ホントは……」


 頭を整理する、え? 先輩は生島と付き合っていない……?

 じゃあ、アイツが言ってたことって。


「……俺、決めたよ」


 これまでうじうじ考えていた自分を殴りたい。結局アイツの言葉は全て妄言だった。


「え。翔吾、いきなりどうしたの」


 目の前の先輩の手を握る。暗くなってきて良く見えないが、先輩は少しだけ俯いているように見えた。


「俺、やっぱりテニス部は辞めるかも知れない。でもケリはつけるから。けじめとして後悔はしないようにするから」


 真っ直ぐに先輩を見つめる。先輩はとても綺麗な笑みでそれを返してくれた。


「ちゃんとケジメつけることができたら、俺、またテニスやるよ。実は前行ってたクラブから声掛けてもらってることもあるし。それに……、なっちゃんとまたテニス一緒にやりたいからさ」


「分かった。少なくとも私だけは必ず翔吾の味方だからね」


 そして翔吾と夏菜はまた一度キスをした。

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夏の夜空と僕ら。 雨宮悠理 @YuriAmemiya

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