その4 決意

「なあ風雅君」


 マスターがつぶやいた。


 俺は、いま帰ったばかりのお客さんのテーブルを片づけているところだった。


「なんですか」


 もうすぐ夜八時。閉店になる。店内は静かだ。


「しばらく、風雅君にこの店を任せてもいいかな」

「……どうしたんですか、突然」

「最近体調が思わしくなくてねえ……。立っているのが日に日にきつくなっていてね」

「やっぱり、調子悪かったんですね」


 マスターはもうすぐ七十になる大ベテランだ。

 白髪は染めずにそのままで、八の字の眉がいつも少し困っているように見える。その印象通りの物静かな人で、俺は怒られたことが一度もない。お客さんと話す時も、基本的には聞きに徹している。


「帳簿は変わらず僕がつけるから、店の切り盛りを風雅君に任せたいんだ。君もなんだかんだで四年もここに勤めてくれた。もう何をやればいいかわかっているだろう?」

「わかってはいますけど、マスターの店ですよ?」

「僕に頑張って立っていろというのかい?」


 その言い方はずるすぎないか?


「俺が回して店の評判が下がっても知りませんよ」

「大丈夫だよ。常連さんは君の作るメニューに満足しているし、初めてのお客さんは何も知らないわけだから」

「……じゃあ、やります」

「ありがとう。もちろん、僕もちゃんと店には出るからね」

「お願いしますよ」

「任せてくれ。僕と話しに来る人だっているからね。風雅君はいつものようにやってくれればいいさ」

「……はい」


 こうして、勤めている〈喫茶 青峰せいほう〉のキッチンは俺が預かることになった。


     †


「いいことじゃない」


 アパートに帰って結乃に報告すると、彼女は嬉しそうな顔をした。


「自分のお店を持った時の予行演習になるもの。やって損はないわ」

「それもそうか」


 結乃が用意してくれた野菜炒めとコンソメスープを食べながら、俺はうなずいた。


 部屋はエアコンがガンガンかかっている。

 八月下旬で、外は熱帯夜だ。

 そのままで過ごすのは自殺行為に等しい。


「あのさ、ちょっと先の話なんだけど、あたしの……」

「誕生日のことか?」

「ええっ!? 風雅って超能力者!?」

「マジで誕生日の話だったのかよ……」


 呼吸合いすぎだろう。


 それはともかく、俺たちはもうすぐそろって二十二歳になるのだ。


「十月二日だろ」

「うん。その日、〈青峰〉で風雅にコーヒーを淹れてもらいたいの」


 結乃が少し恥ずかしそうに言う。


「それを誕生日プレゼントにさせてほしいかなって……ワガママ言っちゃうけど」

「それだけでいいのか?」

「うん。あたしが一番風雅にやってほしいことだから」


 結乃は女子短大を卒業したのち、小さな製造工場で事務の仕事を担当している。残業することもあり、なかなか喫茶店でゆっくりする時間が作れないでいる。


「だったら、渾身の一杯をお届けしよう」

「やった。その日は必ず定時で上がらせてもらえるように交渉しておくから」

「おう、俺はのんびり待ってるよ。ところでこのコンソメスープめちゃくちゃうまいな。濃さが俺好みすぎる」

「そう? 味見したら濃すぎたから少し薄めたのよ。それでちょうどよかったみたいね」

「配分、覚えといてくれよ」

「安心して。ちゃんとメモしたから」

「さすが結乃」

「褒めても何も出ないわよ?」

「出ないのか?」

「ん……じゃあ、キスしてあげる」

「ありがとう」


 俺たちはためらいなく唇を重ねる。

 昔のような恥じらいは薄れたが、触れる瞬間を大切にしたいという気持ちは、今でも変わらずに持ち続けている。


     †


 十月になって、秋風が徐々に冷たくなってきた頃、結乃の誕生日はやってきた。


 俺はいつも通りに店を開き、そんなに多くないお客さんの相手をして日中を過ごした。


「彼女さん、まだなのかい」

「いま向かってるところらしいです。バスなんで」

「車の免許はないんだったね」

「お互い、そのうち免許取りに行こうって話してます」

「あはは、前も同じことを聞いたよ。その時も「そのうち」と言っていた」

「……なかなかタイミングが掴めないんですよ」


 俺とマスターは、カウンターの内側で椅子に座って向き合っている。マスターはお気に入りらしい青いエプロンをつけている。


「風雅君、自分の店を持つのが目標って言っていたね」

「そうですね」

「そろそろいいんじゃないかな?」

「……本当ですか?」

「僕はやっていけると思っている。接客態度もオンとオフの切り替えがしっかりできるタイプだし、コーヒーの腕もどんどん上がっている。あとは繰り返しているうちに、自然にもっとおいしくなっていくさ」

「実は、いつかのために給料はできる限り貯めてるんです」

「開業資金になりそうかい?」

「まっさらな土地から買うとなると全然足りないですね……。空き家を改装するとか、なるべく出費を抑えないと」

「ここでやりたい、みたいな場所はあるのかな?」


 俺はうなずいた。


「高校の時、いつも彼女と合流していた交差点があるんです。あそこの近くに誰も住んでなさそうな空き家があって」

「目をつけている?」

「はい」

「でも空き家なら市内にいっぱいあるよ?」

「その十字路が思い出の場所なので、できれば近くに店を構えたいんですよね」

「なるほどね。ご両親は君の目標について何か言っているの?」

「やりたいようにやれと。父親は開業資金を出してくれるって言ってて、このまえ通帳見せられて白目剥きました」

「はっはっは。お父さん、そんなにお金を貯めていたのか」

「まさか家族があんな大金を抱えているとは思わなくて……」

「だったら思い切ってそこを買ってしまいなさい。開業の手順は僕が教えてあげよう」

「でも、親のお金だけに頼りたくはないんです。自分の力じゃないので」


 マスターがやれやれという顔をした。


「風雅君は適当そうに見えて、そういうところは気をつかうよね。でも、家族がチャンスを作ってくれたんだ。それを掴まないのはかえってご両親をがっかりさせるんじゃないかな?」

「それはそうですけど」

「最初だけ出してもらえばいいんだ。売り上げで徐々に返していく。僕だってここの家賃を払えるか、オープンした頃はビクビクしながらやっていたよ。君なら大丈夫さ」

「この歳でも?」

「大学を卒業して即起業する人もいる世の中だよ。風雅君も二十二歳。なんの問題もないね。君くらい若ければメディアが積極的に取り上げてくれるだろう。信州新聞もローカル番組も、地元の若者に対する嗅覚はやけに鋭いからね」

「……やっても、いいですか?」

「いいさ。僕が保証する」

「ありがとうございます」

「目標を達成する瞬間を、彼女だって待ちわびていると思うよ」

「そうですね……」


 俺は、まだやってこない結乃のことを考えた。


 もしもいつか、無事に店が開けたら。


 その時、俺は結乃に伝えようと思っている言葉がある。

 そのための準備も、ひそかに進めている。


 最大の壁である店舗の確保と、俺の腕前の保証。


 どちらも突破できるというのなら、俺は結乃に――。


「こんばんは!」


 ドアが開いて結乃が入ってきた。

 ロングカーディガンにブラウス、ロングスカートという格好で、一度アパートに寄ってきたのは簡単に想像がついた。


「待ってたぞ」

「やあ彼女さん。お久しぶり」

「お久しぶりですマスターさん! 風雅、コーヒー下さい!」

「承りましたー」

「あっ、ふざけてる。これでも一応お客さんなのよ?」

「お客様、今日も美しくて素敵ですね」

「え……あ、ありがとう……」


 あっはっは、とマスターがうしろで大笑いしている。


 俺はコーヒーをカップに注ぐと、結乃の前に出した。


「結乃、誕生日おめでとう。約束通り、渾身の一杯だ」


 結乃が満面の笑みを作った。


「いただきます」


 そっとカップに口をつける結乃。その幸せそうな表情に、俺は誓う。


 ――結乃、絶対に夢を叶えてみせるぞ。もう少しだ。待っていてくれ。

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