その5 風が結ぶ

 即座に自分の店が手に入るなんて話はなかなかない。


 空き家の所有者を突き止め、交渉して売ってもらい、それから建物の改築。


 マスターが自分の店を持つことを認めてくれたのが去年の十月だから、ほぼ一年かかった。


 今年も、もうすぐ結乃の誕生日がやってくる。


 二十三歳。

 大卒で起業する人と同じくらいと考えれば、早すぎるということもない……はずである。


 もう工事は終わっていて、あとは食器や調理器具を準備し、内装を整えるだけになっていた。


 オープン日は決まっている。


 もちろん、十月二日。結乃の誕生日。


     †


「いよいよだぞ」

「そ、そうね」


 当日の朝。

 俺は外に出て、自分の店を見つめた。

 隣にはオレンジのエプロンをした結乃が立っている。


 雲のない秋晴れの日だった。


 二人で歩いた、高校から結乃の家までの道。

 その真ん中、道路に面した場所にこの店は立っている。

 いつも合流していた十字路もここから少しだけ見える。


「高校出て五年だぞ。五年で自分の店が手に入っていいのか?」

「早すぎると思ってるの? あたしは五年もかかったんだなって思うけど」

「もしかしてうずうずしてたか?」

「まあね」


 結乃は笑った。


 店の外観は黒を基調として、ところどころに白を入れてもらった。屋根はもともと傾斜のついた家なので、もし豪雪が来ても、日が当たれば勝手に落ちてくれそうだ。


 二階は狭いので物置として使う。


 店名の入ったプレートは入り口の右側に置いた。


〈喫茶 風の道〉


 それが俺の店の名前。


 名前は結乃が考えてくれた。俺が道原風雅だからというのは当然あるが、風のように気楽に入ってきてほしいという意味もあるそうだ。


 俺は二人の名前を合わせて〈風乃かぜの〉などを考えていたのだが、結乃はそれを断って、


「風雅が絶対的な主役なのよ」


 と意見を曲げなかった。


 風の道。

 内装を決める際に何度も口に出したから、今ではとてもしっくりきている。


「さて、そろそろオープンだな」

「誰も来ないわね」

「最初だから気にせずいこう。少しずつ常連さんをつけられればオッケーだ」


 俺たちは店名のプレートを見てから、中に入った。


 店は左側に逆L字の形をしたカウンター席が八つ。

 右側に四人がけテーブル席が二つ。二人がけテーブル席が一つ。


 マスターより広い店を持ったことになる。いつかはこの店が満席になるといいな。


「十一時ね。オープンにしてくるわ」


 結乃がキッチンを出て、ドアにかかっているプレートを回転させた。


 彼女は二ヶ月前に、勤めていた工場を退職している。

 この喫茶店の経理と接客を担当するためだ。

 この時のために勉強してくれたのだから、思いは無駄にしたくない。


 マスターはキッチンに立ち続けるのが難しくなり、今年いっぱいで店を閉めるという。


 俺は周りの人たちの思いを背負ってやっていくのだ。


「来たよ~、道原君!」

「おお星崎」

「もう、莉緒ってばいきなり現れるんだから」

「えへへ」


 第一号は星崎だった。グレーのロングカーディガンを羽織って、ネイビーのスキニーをはいている。足が長いから細身のズボンがよく似合う。


 星崎は東京の大学を卒業して帰郷し、今は星崎グループという父親が会長を務める会社の本部で事務仕事をこなしているらしい。


「わ、お祝いの花束贈られてきてるじゃん! 私も出そうと思ったけどいい感じの肩書きないからやめちゃった。ごめんね」

「なに言ってるんだ。気持ちだけで充分だよ」

「道原君は相変わらず優しいね。――あ、これ松橋さんだっけ? 小説家になったんだよね」

「そうだ」


 松橋からは、ペンネームの松原夕陽名義で花束をもらっていた。

 マスターからの花束もある。

 あとは工事してくれた会社のものと、三つ飾ってある。


「じゃあ、風の道オリジナルブレンドを下さいな」

「はいよ」

「風雅、友達感覚はダメよ」

「そうだった。えーっと、少々お待ちください」

「あはは、道原君に敬語使われるのって変な感じ」

「莉緒もあんまりからかっちゃダメだからね?」

「はーい」


 俺はマスター直伝のドリップコーヒーを淹れる。


 そのうち、本当に初めてのお客さんが入ってきた。中年の夫婦らしき二人組。結乃が接客モードに移った。


「いらっしゃいませ!」

「あら、思ってたより若い方がやってるのね」


 ご婦人が驚いた顔で言う。


「これからここでやっていきますのでよろしくお願いします」


 結乃がしっかりと頭を下げると、二人はうんうんとうなずいた。


 注文を聞くと、結乃がするっとカウンターの内側に入ってくる。


「ブレンドとハニーミルク。手伝うわね」

「頼む」


 俺は星崎にコーヒーを出して、二つ目のコーヒーを作り始める。


 ハニーミルクは温めた牛乳にハチミツを溶かすものだ。これは結乃が牛乳に火を入れて下準備だけしてくれるので、そこからは俺が並行で進める。


 結乃に顔を近づける。


「いい調子だ。いつものように手が動く」

「よかった。頑張ってね」

「おう」


 早くも充実感が胸に満ちてきた。


 本当に、自分が思い描いた仕事ができる。


 一年待つくらいなんてことはなかった。心からそう思う。


「おいしい~適度な苦みがいいな~」


 カウンター越しに星崎のつぶやく声がして、俺はニヤニヤ笑いをこらえきれなかった。


     †


 その後もポツポツとお客さんが入った。

 駐車場がなくても、来てくれる人はちゃんといるのだ。まあマスターの店だって駐車場はなかったからな。


 夕方になると学生が現れた。

 見た瞬間にわかる若里高校の制服。きっとここが通学路なのだろう。


 こうした学生たちにも寄ってもらえる店にしたいものだ。


 俺と結乃は、お客さんがいないタイミングを見て休憩を挟み、夜七時に店を閉めた。


     †


「風雅、お疲れさま!」

「お疲れ。やっぱり一人じゃ無理だったよ。結乃がいてくれて本当によかった」

「どう? あたしのレジ打ち、なかなか速いでしょ」


 胸を張って結乃が言う。


「バシバシいってたな。どこで覚えたんだ?」

「学生の頃はホームセンターでアルバイトしてたからね」

「そういえばそうだったっけ。それより記憶力の方に驚いたよ。会計に来た瞬間、そのお客さんが何を注文したかメモも見ないで言えてただろ。俺はマスターの店でギリギリだったぞ」

「ふふん、接客業をやるんだからこのくらいは当然よ」


 ひたすらドヤ顔の結乃が最高に愛らしい。そして、この上なく頼もしい。


「疲れなかったか?」

「平気! すっごく楽しかったわ」

「俺も思い通りに作れてかなり満足してる」


 二人で奥のスペースに行き、エプロンを外して帰り支度をする。


 この店は結乃の実家に近く、アパートからもほどよい距離なのでしばらくは徒歩で通勤だ。


「自分の店、始めてよかったな」

「うん。毎日こんな風にできたらいいわね」

「お客さんはもうちょっと来てくれてもいいけどな?」

「ふふっ、そうね」


 戸締まりと火の確認をすると、俺たちは裏口から店を出た。


     †


「すごく明るいわね」


 外は月が出ていて、夜なのに建物の影が濃くなっていた。結乃の表情も、厚手のワンピースという格好もよくわかる。


 これはもう、天が俺に味方しているとしか思えない。


 ――やろう。


「なあ、高校時代のようにあの歩道橋で少し立ち話しないか?」

「いいわよ。若里高校の子も来たもんね。懐かしかったなぁ」

「あれも五年前だぜ」

「あっという間ね」


 俺たちは大通りに出て北へ向かった。


 すぐに、懐かしの歩道橋が見えてくる。


 つきあってすぐの頃、結乃とよくここで話した。からかったり、からかわれたり。とても大切な思い出の場所だ。


 階段を上がる。下は帰宅ラッシュの車でにぎやかだ。


「また、こうやって景色を眺める時間が作れそうね」

「ああ」

「結局、あたしたちってこの土地が大好きなのよね。離れる気が起きないっていうか」

「そうだな」

「……風雅、なんか返事が冷たい」

「あ、いや……」


 それは痛いほどわかっていた。結乃の言葉に生返事をしてしまうほど、急激に緊張が高まってきたのだ。


「どうしたの?」


 俺は深呼吸した。

 心を落ち着かせて、大切な言葉を伝えるのだ。


「結乃、実はずっと前から決めてたことがあるんだ」

「うん、なに?」

「無事に店がオープンできたら結乃に言いたいことがあって、今ギリギリまで言葉を考えてた。――でもダメだな。こねくり回すもんじゃなかった」


 結乃が小首をかしげる。


「言いたいこと?」

「そうだ」


 俺はバッグを足下に置いて、その中から小箱を取り出した。


「結乃」

「は、はい」


 さあ、伝えよう。俺のまっすぐな気持ちを。


 小箱のふたを開けて、結乃に差し出した。



「俺と、結婚してください」



 頭を下げる。


 結乃の返事が来るまで、顔を見ないつもりだった。見るのが怖かった。


 俺たちは両親公認の仲で、ここまでケンカもなくやってきた。


 それでも、この想いを伝えるのはやっぱり怖い。もしも、もしも何かが起きて結乃がうなずいてくれなかったら……。


「…………」


 結乃は何も言わない。

 俺は顔を上げることができないままだ。


 だが、小さな音が聞こえた。

 ぐすっと、涙をこらえるような。


 思わず、顔を上げてしまった。


 結乃が涙を流していた。あふれる涙を、両手で必死にぬぐっている。


「ゆ、結乃?」

「待ってた……ずっと、風雅が言ってくれるのを待ってたの……」


 ワンピースの袖が涙で濡れる。


「もしかしたら今日は何かあるのかもって思って、心の準備はしたつもりだった。でも、やっぱりあなたの口からその言葉を聞いたら、涙が勝手にあふれてきちゃって……」


「じゃあ、返事は……」


「はい」


 結乃は涙をふいて、泣き笑いのまぶしい表情を作った。


「風雅の、お嫁さんにさせてください」


 その瞬間、目頭が一気に熱を持った。


 ずるい、その言い方は。俺まで泣いてしまうじゃないか。


「ねえ」


 こらえようとしていると、結乃が言った。


「指輪、あたしの指に合わせてくれたの?」

「そうだ。寝てるところをこっそり測らせてもらったんだ」

「じゃあ、今つけてほしいな」


 結乃が左手を出した。


「……今でいいのか?」

「うん。この場所で、風雅にしてほしい」

「わかった」


 俺は銀色の指輪を取り出し、結乃の左手、薬指にはめた。その最中、ぬぐえなかった涙がどんどんあふれ出してきた。けれど、もう気にしない。今日はお互いに泣く日なのだ。


 何も恥ずかしがることはない。

 これは幸せの涙なのだから。


「……ありがと。あたしも、風雅につけたいな」

「頼む」


 俺の出した左手に、結乃はいつくしむように指輪をはめてくれた。


 それぞれの手に指輪がはまり、互いの顔には涙のあとが残った。


「結乃」

「はい」

「二人で、もっと幸せになろうな」

「……うん!」


 俺たちは笑顔になって、街を見下ろした。


 月はいつまでも明るく、祝福してくれているかのようだった。


 結乃がいれば、どこまでも頑張れる。


 俺は、大切な人の笑顔を見て、これからの幸せな日々に思いを馳せた。

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