その3 松橋さん、吹っ切れる
高校を卒業してから二十歳になるまであっという間だった。
専門学校も無事に卒業した俺は、相変わらず喫茶店で修行を積んでいる。
結乃と二人の生活が始まり、料理を家族に任せることがなくなったので、作れるメニューはどんどん増えている。
六月下旬。
結乃と同棲を始めて一年が経った頃。
「風雅、松橋さんが今度会えないかって」
「久しぶりに聞いた名前だな」
高校を出て以来、俺は松橋に会っていない。信濃大学に進んだことしか知らないし、どの学科にいるのかもわからない。
資格を取って事務職に就くと言っていたから、その勉強に集中しているのだろうか。
「俺たち二人に会いたいって言ってるのか?」
「うん」
「じゃあ、懐かしの長野駅でコーヒー飲みながら話そう」
結乃がうなずき、メッセージを送る。
「オッケーだって。今度の月曜日の夕方でどう?」
「いいぜ」
どんな話を持ってくるのやら。
†
「前に一度だけ、ここで四人でコーヒーを飲んだね」
約束の日の夕方。
俺と結乃が長野駅のコーヒーショップで待っていると、六時過ぎに松橋が入ってきた。真っ白なブラウスに黒のロングスカート。
俺と結乃が並び、正面に松橋が座る形になった。
二年ぶりに会った松橋は大人っぽくなっていた。
三つ編みの髪型は変わらないが、顔立ちがキリッとした感じだ。まつげが長く整えられている影響か、知的美人という雰囲気が強い。
「その後、仲良くやってる?」
「ええ。二人で暮らしてるのは話した通りよ」
「仲睦まじいのはいいことだね」
「松橋は大学に通ってるんだよな?」
「そうだね。ちょくちょくサボってるけど」
「お前が? 高校では授業サボったことないだろ」
「色々と吹っ切れたんだよね。弟のこと知ってる?」
「ああ、もちろん」
松橋の弟はプロ野球選手になったのである。
ドラフト六位と下位指名だったものの、デビューイヤーである今年は、一位の選手に次いで二番目に早く一軍出場を果たした。
長野県からそうした選手はなかなか出てこなかったので、俺の勤め先に来る野球ファンは、マスターとその話でよく盛り上がっている。
「弟が前に甲子園出たのは知ってるよね」
「ああ」
「あれですっかり注目されちゃって、いよいよ家族の中でもわたしの存在意義ってなんなのっていう雰囲気が出てきたんだ」
「そんな……松橋さんはいい人じゃない」
「記録に残らないものには冷たい家なんだよねえ」
「……それで、どうしたの?」
「うん、もう安定路線で行くのはやめようと決めたんだ。自分の人生でバクチを打ったって今さら誰も困らないと思ってね」
「バクチ? まさかお前、違法賭博に手を出して……」
「道原君は妄想がたくましいね。ふふ、その結果がこれなんだよ」
松橋は持ってきたバッグから雑誌を取り出して、テーブルの上を滑らせてきた。
『文芸界』という雑誌。初めて見る。
「ここ、見て」
松橋が指さした場所を、俺たちは確かめた。
〈文芸界新人賞 発表 松原夕陽〉
……と、書いてあった。
「え、まさか」
結乃の言葉に、松橋はニコッと笑った。
「小説家になりました」
「マジか」
「すごいじゃない! いきなり結果出すなんて!」
「いや、去年は二本書いたけど予選ではじかれちゃったんだ。でも今年のが受賞してくれた」
「なんでまた、小説家に……」
俺がつぶやくと、松橋は苦笑いした。
「やっぱり覚えてないか」
「……あっ」
「思い出した?」
俺は首を縦に振った。
そうだ。
二年生の時、松橋に言ったことがある。
――本を読むのが好きなら、小説家になるんだ。
「俺の言葉、聞き流したわけじゃなかったのか」
「もちろんだよ。何に対して真剣になれるかって考えた時、道原君の言葉を思い出した。わたしにできることはこれしかなかったから、プロの作品を徹底的に研究して、さらっと書いたよ」
「徹底的に研究してさらっと書いたのか」
「真似したらわたしの個性がなくなるからね」
「なるほど。このペンネームは?」
「本名を少しいじっただけ」
松橋夕日。
松原夕陽。
確かに少しだけだ。
「道原君の言葉があったからこその受賞なんだ。報告しておきたくて」
「ありがとな、松橋」
「松橋さん、おめでとう。
「家族も見返したし、いい気分だよ。まあ、大変なのはこれからかな。ネタのストックがないからね」
「そういえばジャンルはなに?」
「純文学だよ」
「純文学かぁ。あたしはミステリーとか読むけど、純文は硬派なイメージでなかなか手が伸びないのよね」
「硬派というか、お堅いだけかもしれないよ?」
松橋は笑うと、コーヒーを飲み干して立ち上がった。
「そろそろ帰らないと。今夜の試合は弟が投げるかもしれないから」
「そっか」
弟のことは好きなんだな。
「これは雑誌だけじゃなくて本にもなるのか?」
「もう一作短編を書いて、一冊作れる厚さになったら出るんじゃないかな」
「出たら絶対に買うよ」
「頼むよ。純文学は売れないからね」
出版業界が苦しいことくらいは俺でも知っている。やはり今から世に出る作家は大変なのだろう。
「じゃあまたね。いつか思い出した時にでも、一緒にコーヒーを飲もう」
「ああ、体に気をつけてやってくれよ」
「松橋さん、頑張ってね」
「ありがとう」
松橋が店を出ていった。
「前より明るい顔になってたわね」
「まさか俺の発言が引き金になったとはな。しかし、名前はわかるけど名字を松原にしたのはなんでだろうな。変える必要あるか?」
「あるでしょ、当然」
結乃が雑誌に目を落とし、ふっと笑った。
「でも、風雅はわからなくていいんじゃないかな」
「なんだそれ」
「さ、あたしたちも帰りましょ! 今夜もお料理頑張らなきゃ!」
話を打ち切って結乃も立ち上がる。俺はよくわからないまま、彼女のあとを追いかけるのだった。
†
その日の夜。
俺が風呂から上がると、結乃がリビングで困った顔をしていた。
「風雅、松橋さんの小説を読んだんだけど」
「どんな内容だった?」
「のぞき見趣味の女の子が、とあるカップルをこっそり追いかけ回す話……」
「まさかの実体験!?」
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