28話 名前で呼ばせて
『駅前でコーヒー飲みたい』
『いいよー』
「っしゃ!」
週末。
鏑木をコーヒーショップに誘ったところ、あっさりオッケーをもらった。
つきあって最初の土曜日。
向こうも予定があるだろうなとは思ったが、消極的になるのはよくない。思い切って攻めてよかった。
†
「お待たせ」
「おう。鏑木、今日はありがとうな」
「うん」
「……調子悪いか?」
「え? う、ううん、全然そんなことないわよ」
「だったらいいんだが」
声が低かったので、無理して出てきたのかと思った。
長野駅構内のコーヒーショップに入り、注文を済ませると向き合って席に着いた。俺はアイスコーヒーをブラックで、鏑木はアイスカフェオレをそれぞれ頼んだ。
今日の鏑木は、ネイビーのクロップドパンツに白のロングシャツという格好だった。シャツにパーカーがついているのがおしゃれだ。
前髪はピンクのピンを二本使って留めている。
「鏑木って私服おしゃれだよな」
「そ、そう?」
「何回か会ってるけど、見た瞬間ぐっとくるし」
「あたしだって、一応見た目には気をつかってるからね。莉緒って清楚系でまとめてるでしょ?」
「そうだな」
「一緒に出かけることが多いから、適当な服で行くと隣にいるのが申し訳なくなってくるの」
「気にしすぎじゃないか?」
「あの恥ずかしさは莉緒と並んでみなきゃわからないわ。死にたくなるから」
「そこまでかよ。確かに星崎はなに着ても似合うだろうけどさ」
「あたしも、もう少し背が高かったら選択肢増えたんだけどな」
「俺は鏑木の私服好きだぜ。雑誌に載っててもおかしくないよ」
「そ、それは言い過ぎじゃない?」
「いや、本気」
「あ、ありがとう……」
鏑木がほっぺを押さえる。また赤くなっているのだろうか。
「道原はいつもラフよね」
「歩きやすさ重視だ。ズボンも伸縮性が高いやつしか買わない」
俺はジーパンに薄いシャツを羽織っただけの簡単な格好だ。夏なので、上着を白にして見た目が重くなりすぎないよう意識はしている。
「まあ、ひどい格好で来たら鏑木に悪いからな」
「あなただって気にしてるじゃない」
「言われてみれば」
俺たちは同時に笑った。
「ところで鏑木、訊いてもいいか」
「なに?」
「さっき、妙にテンションが低かったが……」
「ああ、うん」
鏑木がストローに口をつけ、間を取る。迷っている様子だ。
「実はその、お願いがあるというか」
「お願い? できる範囲でならなんでもやるぜ」
「あのね、下の名前で呼んでもいいかな……?」
俺は返事ができなかった。
……確かに。
その時まで、完全に意識の外だった。
俺たちはつきあっているのだ。彼氏彼女の関係なのだ。なのに、名字で呼び合い続ける。そういうカップルも当然いるだろうが、鏑木は気にしていたようだ。
「考えてなかったよ。道原って呼ばれるのが当たり前になってたから」
「名前、風雅っていうのよね」
「ああ。道と原っぱに風の雅」
「おしゃれな名前で、すごくいいなって思う。素敵」
「……ありがとうございます」
「ふふっ、また敬語になってる」
「どうも褒められ慣れない……」
「せっかくこういう関係になれたんだし、名前で呼んでもいいかなって考えてたの。でも急に変えたらびっくりさせるかもしれないし、どのタイミングで相談しようかなって」
真剣に悩んでくれたのだ。
「いいよ。鏑木がそうしたいなら、いくらでも名前で呼んでくれ」
「じゃあ、風雅でいい?」
「いい」
「よろしくね、風雅」
「……よろしくお願いします」
鏑木がくすっと笑った。
「今は褒めてないわよ」
「ムズムズしてダメだった……」
好きな人に下の名前で呼ばれる。初めてのことで、なんだかぞくぞくしてしまう。
そもそも俺を風雅と呼んでくるのは、両親と石山だけだ。学校の女子からそう呼ばれたことがない。だから、余計に気分が落ち着かなくなるのだ。
「じゃあさ、俺も、鏑木のこと名前で呼んでもいいかな」
「いいわ。言ってみてくれる?」
「……ゆ、結乃」
鏑木の顔が一瞬で赤くなった。即座に両手で顔を覆う。
「思ったより恥ずかしい……」
「や、やめた方がいいか」
「そ、そんなことない。すぐ自然にできるようになるわ。どんどん言って、二人で慣れていきましょ」
よし、俺は勇気を出して攻めるぞ!
「好きだよ、結乃」
「はうっ」
「結乃のこと、大切にする」
「うぅ……」
鏑木……、結乃がテーブルに突っ伏して顔を完全に隠してしまった。さすがにやりすぎたか。
そう思った直後、結乃が起き上がった。
「あたしも、風雅のこと大切にするわ」
「は、はい」
「いつだって風雅のこと、一番に考えるから」
「ど、どうも」
「…………」
「…………」
俺たちはまた同時に笑った。
「言い合いじゃないんだから、意地張らなくてもよかったわね」
「まったくだ」
「風雅、顔赤いわよ?」
「ゆ、結乃だって同じじゃないか」
「このお店が暑いだけだもん」
「俺は上着が一枚余計だったせいだからな」
「……ふふっ」
「くくく……これ、ループして終わらないやつだな?」
「そうね。ここでやめときましょ」
ちょうどコーヒーも飲み終えたところだ。
「ねえ風雅」
「なんだ」
「あたしも、歩く習慣つけようかなって思ってるの」
「お、いいね。一緒に遠出しようぜ」
「うん。風雅についていけるように頑張る」
「だったら、明日近場まで歩いてみないか?」
「明日、予定ないの?」
「ないない。結乃さえよければ」
「じゃあ、ついてく」
「決まりだな」
というわけで、明日も結乃に会えることが確定した。
今日から、お互いに下の名前で呼び合う。
少しだけ関係が前に進んだ。誘ってみて大正解だった。
しばらくは落ち着かないかもしれないが、いつかきっと、これが当たり前になっていくのだろう。そうであってほしい、と俺は祈った。
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