東の空は西の陽に染まりけり

しおぽてと

東の空は西の陽に染まりけり

 中学二年生になった五月上旬ごろ、そいつ・・・は東京からやって来た。両親の仕事の都合で大阪に引っ越してきたらしい。クラスメイトの前で緊張しながらも一生懸命に自己紹介をする。関西では違和感のあるイントネーションで、足立拓馬あだちたくまと名乗った。

 女の子顔負けのさらさらとした黒髪のショートヘア。身長は160cm程と中学二年生の男子生徒としては平均だが、白い肌に大きな瞳、さくらんぼのように愛らしい唇がとても印象的で、本当は女の子ではないかと一瞬見間違うほどだった。

 担任の阪神勝はんしんまさるが癖のある字で黒板に拓馬のフルネームを書く。白黒のそれに記された名前と、前に立っている本人とを見比べながら、難波京子なんばきょうこは欠伸をかみ殺していた。遅くまで漫画読むんじゃなかったと思いつつ、もじもじとしている拓馬に何故か苛立ちを覚える。右足を揺すり、頬杖を突きながらじっと観察した。女子達が拓馬を囲むのはそう遠くないだろう。


「おい、難波」


 突然、阪神が京子の方に顔を向け名前を呼んだ。しかし、京子は反応せず拓馬の方をじっと見続けていた。


「難波ッ!」


 二度目は語気を強めて、阪神は再び名前を呼んだ。おまけと言わんばかりに白いチョークを投げ、京子の額に見事命中させる。


「いっ、たいな、ハゲェッ!」

「誰がハゲやッ! 島木譲二みたいにパチパチパンチできるほどハゲてへんわ!」

「誰もそこまで言うてへんやろ!」


 阪神と京子の言い合いに、静かだったクラス内にどっと笑いが溢れる。


「ええか、難波! 一回しか言わんからな。足立の面倒見たれよ」

「はあっ? なんでウチがそんな事せなアカンの!?」


 机を叩くと同時に席から立ち上がると、フフンッと阪神は鼻を鳴らし微笑んだ。


「お前が学級委員長やからや」


 二、三秒間を置き、京子は片手で頭を抑えた。せやったー……、と一言。再びクラス内から笑いがこぼれた。最悪や、と呟いている間にも、阪神はぽつんと立っていた拓馬に京子の隣の空席を指差し座るように優しく促す。がんばれよー、や、さすが学級委員長ファイト~、という声を浴びながら、力なく京子は席に座り息を吐いた。同時に、真新しい学生服に身を包み両手でしっかりと鞄を持った拓馬が傍へとやって来た。


「あの、えっと……ヨロシク、難波さん」


 オドオドとした拓馬を見るなり京子はひくりと頬を引きつらせる。しかし、できるだけ笑みを作ろうと勤めた。


「こちらこそ、よろしく」


 ウチ絶対コイツとは気ィ合わん、と心の中で呟いた。


 初日は適当に会話した。学校のことや設備のことを教え、授業時はまだ自分の教科書持っていないと言った為、机をピタリとくっつけ見せてあげた。簡単に大阪の紹介をし、放課後は少しだけ学校の中を案内する。そうして一日は終わった。愛想の無い顔と声で話しているというのに、拓馬はいちいち微笑し「ありがとう」と礼を言う。聞きなれないイントネーションで言われると、どうもしっくりとこなかった。後日だが、友人曰く、拓馬に礼を言われるたびに顔が引きつっていたらしい。本人はまったく自覚は無かったけれども。

 二日目も、とりあえず適当に会話をして教科書を見せてあげた。ただ、昨日と違ったのは拓馬の周りがやけに女子たちで賑わっていたということか。予感的中やん、と密かに笑ってしまった。

 三日目も、二日目とあまり変化はなかった。四日目も、次の日も。その次の日も。しかし、六日目の拓馬の様子を京子は知らない。その日は土曜日で連休に入っていたからだ。日曜日、京子は友人の家に遊びに行き新しいビデオゲームで遊んだ。パズルゲームだったのだが、頭を使うのが大の苦手な京子にとって軽くトラウマともなりうるものだった。

 月曜日――連休を終えて学校へ行く。朝から雨だった。髪の毛が天然パーマな京子にとって、雨は天敵である。雨なんてなくなれ湿気なんか日本にはいらん、と内心、雨模様に対する文句を吐きながら登校する。校門を抜け校舎に入ると、すぐに傘を畳んで下駄箱に行くと、偶然にも拓馬とバッタリ出会った。


「あ。おはよう、難波さん」

「おはよー、足立くん」


 不機嫌オーラを全開にして京子も挨拶を返す。すると、拓馬はおどおどとし始めた。京子は見て見ぬふりをして下駄箱の前に立ち上履きを取り出してはき替え、土でところどころ汚れた白色のシューズを仕舞う。下駄箱の扉を閉めるなり、ジメジメしてホンマ気持ち悪いなあ、と心の中で呟く。


「あの、」


 声をかけられ、拓馬に目も向けずに、なに? とそっけなく尋ねた。


「あ、うぅ……」


 拓馬は言葉につまり中々切り出さない。溜息をつき、何よ、と少し言葉を荒げて再び問う。拓馬の方を見ると、転校してきた日と同様にもじもじとしていた。


「僕、君に何かしたかな……?」


 逆に、拓馬にそう聞かれ目を瞬かせた。別にアンタ何もしてへんけど、と答えようとした時、拓馬が遮った。


「あの……ごめん」


 どうして謝られたのか、分からなかった。咄嗟の出来事に頭が混乱し始める。片手でぴょこんと外にハネている髪の毛を撫でながら、いや、と口を開いた。


「足立くん、ウチに何もしてへんやん?」

「た、たぶん……っ」


 目を泳がせながら拓馬は答える。たぶんって、と思いながら、更に質問した。


「何もしてへんのやったら、何で謝るン?」

「えっ」


 いやそんな声出されても困るねんけど、と苦笑した。ふいと拓馬は俯き、声を小さくして言った。


「だってさっき、僕が挨拶したとき、すごく……不機嫌そうな顔、していた……から」


 それから拓馬は一言も話さなかった。どうやら京子の湿気に対しての不快感を、自分が挨拶したせいだと思い込んでいるらしかった。なんとなくそれを悟り、京子は思わずぷっと噴き出した。


「ちゃうちゃう! もう、アホちゃうん!?」


 腹を抱えながら、いつも何気なく使っているツッコミを入れる。担任の阪神や友人達なら、アホちゃうバカや! と逆に突っ込み返しがくるためそれを期待して待っていたのだが、拓馬は違った。生まれも育ちも東京であり、大阪に引っ越してきてまだまだ日も浅い。


「……ごめん」


 ぽつりと一言。なんか悪役になったみたいや、と京子は思った。


 その日の夕食、京子は食卓を囲みながら家族にここ最近での学校の事を話した。そしていつの間にか、拓馬の話題が中心となった。


「東京か、ええなあ」


 一番上の兄が一口サイズに切られたトンカツを頬張りながら呟く。その隣に座っている次兄が、食うか喋るかどっちかにせーや、とぼそりと小言をこぼした。末っ子の京子は、話続けるで、と味噌汁をすすってから話を再開させる。

 拓馬のノリの悪さ、話しにくさ、弱きな性格、未だに聞きなれずにいる発音――。すべてを話すと、じっと黙っていた父がおもむろに口を開いた。


「お前はどうしたいねん」

「え?」


 父の言葉に京子は二、三度瞬きする。どうしたい、と聞かれても、別にこうしたい、ああしたい、という願いはなかった。ただ拓馬の話を聞いて欲しかった、それだけだ。


「お前はそいつと友達になりたいんか? なりたくないんか? ただ愚痴りたいだけか?」


 友人になりたいとかそんなまさか、と答えようとしたが、言葉が喉の奥でつまった。何故、さらっと答えられないのか、京子自身わからなかった。


「まあ、お前の学校のことやし、オレは関係ないけど」


 父は焼酎の水割りが入った透明のグラスを左手に持ち、ぐいっとあおる。満杯まで入っていた酒が一気に半分にまで減った。グラスをテーブルの上に戻すなり父は続ける。


「道だけは外すなよ」


 父はイジメという行為が大嫌いな人間だ。テレビ番組の特番でイジメについて取り上げられているものを観ればすぐにチャンネルを変える。ニュースでそれによる自殺があったという報道を聞くだけでも嫌悪し、舌打ちしたあと必ずこう言う。


「イジメるやつはダンプカーに轢かれればええねん。ほんならイジメとる奴の痛みとか気持ちが少しでもわかるやろ」


 ダンプカーって怖いわ、と父の言葉を聞き家族はいつも笑うのだが、もし今同じことを言われたとすれば、京子は笑える自信がなかった。

 騒がしい食卓がシンッと静かになる。沈黙が流れ、なんとも重苦しい空気が包み込む。が、それを破ったのは母だった。


「今日のトンカツなっ、お母ちゃんがさっきブタを殺して作ってん! めっちゃ新鮮やで!」

「んなアホなっ!」

「オカンすごいなー」


 次男がすかさずツッコミを入れ、長男は小さな拍手を送り、母を称える。父はブフッと噴出し、笑いを必死に堪えた。母の咄嗟の起点で食卓に明るさが戻った。京子も思わず微笑んだが、心の中は晴れなかった。


 拓馬が転校してきて二週間経った頃、京子は友人からある噂を聞いた。


「それ、ホンマなん?」


 声を潜めて確認すると、友人は大きく頷く。


「前な、たまたま見てもてん。足立くんが数人の男子にいじめられとるの」


昼休みの教室は一日のうちで一番静かな時間だ。クラスメイトのほとんどは違うクラスに行き昼食を摂っている。京子の席は廊下側とは正反対の場所にある。グラウンド側の一番後ろの列だ。隣の席に拓馬の姿はない。昼休みは必ず席を外しており、どこかで昼食を摂っているらしい。前の席に友人が座り、お互いの弁当をつき合わせておかずを突付き合う。


「足立くん、ちょっと女々しいとこあるからなぁ。だから目ェつけられたんやろ」

「ノリも悪いしな」

「ああ、下駄箱の」


下駄箱での出来事はその日のうちに話していた。


「後、女子から人気もあるし。妬みが八割、ウザさ二割ってところかな」

「まあ、ウチらには関係の無いことやな」


 友人の弁当箱から最後のタマゴ焼きをさっ箸でつまんで食べる。拓馬の席をちらりと盗み見た。鞄が机の横にかけられてある。傷一つないそれが少し羨ましかった。


「あ、ウインナーもろた」

「ちょっ、それ最後にとっとったのに!」

「食ったモン勝ちや」


 ピースをする友人の弁当箱からデザートのアメリカンチェリーを一つ奪って口の中に放り込む。甘さと酸味の絶妙なハーモニーにふふんっと笑みがこぼれた。


 友人から聞いた半信半疑の噂は本当だった。たまたま現場に遭遇してしまったのだ。

 京子は本を読むのが好きだ。毎週水曜日の放課後は必ず図書室に行く。角の痛んだハードカバーの本を片手に、四階にある図書室に向う。『赤毛のアン』を返却すると、次に借りる本を物色した。入学した当初にはじめた、一週間に一冊、テスト期間中以外は本を読むという自己課題。最初は面倒臭くて最後まで読まずに返却していたが、今では楽しくて仕方のない課題となっていた。

 二年に入ってからは世界名作集の読破を目標としている。今日借りる本は既に決まっていた。感動のアニメ作品として日本でも有名な『フランダースの犬』だ。手続きを手早く済ませると、本を学生鞄の中に入れ図書室を出た。冷気に当たっていたため、廊下に出るとあまりの暑さとジメジメさにげんなりする。現実って辛いわー、と心の中で呟きながらとぼとぼと歩みを進めた。

 男子トイレのプレートの提げられている扉の前を通った時、数人の男子生徒の声が聞こえた。人があまり利用している姿を見た覚えのない図書室近くの男子トイレ。穏やかではない下品な笑い声と罵詈雑言。それは、まさに他所から来た拓馬に対して浴びせている言葉だった。

 京子は歩みを止め、息を潜めて耳を澄ませる。拓馬の声は聞こえない。恐らく、また悪くもないのにごめんと謝っているに違いない。

 助けるべきだろうが、非力な自分に何ができるだろうかと考える。例えば、アニメやゲーム等に登場するド正義の味方のように男子トイレに颯爽と突入し、イジメはやめたまえ! と声を張り、ビシッとポーズを決めることだろうか。


(いや、ただのアホやんそれ)


 頭を軽く左右に振り却下する。ふと、何故、拓馬を助けようとしているのか不思議に思った。関係ないやん、と内心呟く。拓馬が何を言われ、どんな目に遭おうとも、全くもって関係無いのだ。それよりも、拓馬の仲間にされたくない。学級委員長という地位と信頼、そして今の平穏な生活を失いたくはなかった。ただ、拓馬の面倒を見るようにと言われただけだ。それ以上もそれ以下もない。何より拓馬が苦手だ。

 ふいに拓馬の声が脳裏に蘇る。転校当初に校内を案内してあげたときに言われた、ありがとう、という言葉。頭の中をぐるぐるとループする。やめてと言っても止まない。


(アンタに礼を言われることなんて、何もしてへんのに)


 両手で左右の耳を塞ぐ。


「ごめん」


 音の進入を拒んでいる耳に、はっきりと聞こえた拓馬の声。下唇を噛むと、その場から逃げるようにして下駄箱まで駆けた。


 図書室のある四階から一階まで駆け下りると、さすがに息は上がっていた。下駄箱の前まで行き、白い運動靴に履き替える。早足に校門をくぐり外に出るなり、大きく深呼吸した。歩みをいつものゆったりとしたペースにする。

 俯き、自分の足を見ながら帰路につく。夕日に照らされ影は長く伸びていた。


『ごめん』


 あの時、聞こえた拓馬の声が頭の中にまだ残っている。何でまた謝ったンよ、と問いかけても返事はない。車の走る音が左手側に広がる車道から忙しなく耳に届いた。


 ――道だけは外すなよ


 一昨日、父に言われた言葉が拓馬の声を遮るようにして鮮明に蘇る。道って何やねン、と溜息混じりに呟いた。


「難波……さん?」


 背後からぎこちなく名前を呼ばれた。聞き覚えのあるその声に小さく肩が震えた。神様って残酷やわァ、と思いつつ振り返ると、転校当初よりも暗い雰囲気を纏った拓馬が居た。逃げ出そうかとも考えたが足は言うことをきかない。京子にできるのは苦笑を浮かべ挨拶をするくらいだった。


「はろー、足立くんも家こっちなん?」

「う、うん。そう」


 夕陽に照らされ拓馬は微笑む。その笑みは、どこか寂しそうに見えて胸がきゅっと締め付けられた。


「あの……一緒に帰っても、エエかな?」


 つたない関西弁で拓馬は尋ねる。仲の良い者達にならば軽く突っ込みを入れるが、拓馬とはそこまで親しいわけではないし、何よりそんな気分ではない。ただ無言で頷くことしかできず、けれども拓馬は「ありがとう」と礼を言った。京子は、複雑な気持ちだった。

 二人はしばらく会話も交わさず、並んで歩いた。学校を案内してあげた時、拓馬と少しだけ会話を交わした。住んでいる場所はとても近かったのも、もちろん知っている。学校から二十分程歩いたところに築四十年の集合団地があり、京子の住んでいる部屋がA棟の302号室、拓馬はA棟の401号室と二階違いだ。それを聞き京子は驚いたが、クラスメイト達に変な誤解をされたくなくて一緒に帰宅したことはなかった。互いに声も掛け合わなかった。しかし、今日は違う。初めて二人で帰宅する。


「あのさ、難波さんって将来の夢とかある……あンの?」


 唐突に切り出し、沈黙を破るかのように隣を歩く拓馬が問う。何でそんなこと聞くン、と無愛想に言い返すと、拓馬は言葉をつまらせた。


「……ごめん」


 一呼吸置いて言われた言葉に足を止める。同時に拓馬も歩みを止めた。


「何で、すぐ謝ンの」

「えっ」


 驚いた声を出した拓馬を余所に京子は一度俯き左右に軽く頭を振り、すぐに顔を上げて続けた。


「あの時も、足立くん悪《わる》ゥないのに、ウチに謝って……さっきもそうや! 何で言い返したらんかったんッ!」


 言い終わって直ぐに、しまった、と京子は思った。関わらないつもりで居たのに、つい口が滑ってしまった。案の定、拓馬は目を大きく開けて驚いたが、数秒と経たずに笑みを浮かべた。


「恥ずかしいな、難波さんに聞かれてたなんて」


 片手で頭を掻き拓馬はちょっと困ったように言う。今度は京子がきょとんとした表情を浮かべ目を瞬かせた。


「なあ、悔しないン?」

「……うん、まあ、悔しいといえば悔しいかな」


関西弁ではない言葉で繋げる。


「でも僕、弱いから、言い返せないんだ」


 自嘲的に笑った拓馬に、何故、苛々としていたのか理由がわかった気がした。それは、拓馬が自分自身に自信を持てていないことを心のどこかで見抜いていたのだ。好きになれない気持ちが、京子にはようやく分かった。

 それなら、と京子は真っ直ぐに拓馬を見据える。

 大阪人はお節介焼きだ。何でもすぐに首を突っ込むし、情は人一倍強い。巻き込まれるとか、関わりたくないだとか、もうどうでも良かった。することはただ一つ。


「足立くん!」

「えっ。は、はいっ?」


 力強く名前を呼ぶと、拓馬は肩を震わせて上ずった声で返事をする。京子はジッと見つめると声を大にして宣言した。


「今日からアンタの根性叩きなおしたる! ウチが一から十まで関西での生活の仕方教えたるから、覚悟しーやっ!」


 いきなり何を言い出すんだこいつ、とでも言いたげな表情を拓馬は浮かべた。京子は無視して話を進める。


「今日からよろしゅーなっ、友よ!」


 夕日に負けないくらいの満面の笑みを浮かべる。拓馬の傍にズカズカと歩み寄り、握手を求めるようにして手を差し出した。


 ――それが、五年前のことである。


「ホンマ、あの時はビックリしたで。いきなり『よろしゅーなっ、友よ!』とか言い出すねんもん。しかも人の話ぜんぜん聞かんし、勝手に話進めとるし……あン時、俺、思ったわ。こんな奴と絶対に長い付き合いはしとーないって」


 平日の昼下がり、梅田駅の近くにある喫茶店で昔話に花を咲かせていた。今日は大学の講義が急遽、休みとなった為、二人で海遊館へ行く予定を組んだ。


「そんなん言うとるけど、誰のおかげで今のアンタがある思ってンねん。ええ? 答えてみィ?」


 腕を組み、長方形のテーブルを挟んだ向かいに座っている拓馬に京子は微笑む。うっ、と喉の奥に言葉を詰まらせ、数秒と経たずにぺこりと頭を下げた。


「……難波京子サマのおかげです」

「ヨロシイ」


 拓馬の言葉に鼻を高くして頷いた。

 五年前、半ば強制的に友達となった拓馬に最初に教えたのは「やられたらやり返せ」だった。京子の兄弟は二人して柔道を習っており、黒帯を持っている。大会に出ては百戦錬磨という言葉がぴったりと合い、体格も大きく気も強い。その二人を助っ人として事情を話し味方につけ、友達となった翌日、京子は拓馬と一緒にいじめっ子達を校舎裏に呼び出してコテンパンにした。主に働いたのは兄弟で、京子と拓馬は後ろで見ていただけだが。口留めもしっかりと行い泣きながら逃げて行ったいじめっ子達の背中を見て拓馬は京子の後ろで「ねえ、難波さん……これって、卑怯だよね?」と小刻みに震えていたが、京子は笑いながら「細かいこと気にしたらアカン! 気にしたらこの喧嘩は負けや!」と返した。

 その次に拓馬に教えたのは本物の関西弁。教えた最初の一、二ヶ月はまだまだなまりが残っていたが、成長というのは恐ろしく、今では自分よりも上手く喋れるようになっている気がすると京子は思う。

 身長も随分と大きくなった。友達になってすぐに追い抜かれたのを覚えている。男子の成長というのは恐ろしいもので、日に日に慎重を抜かれた度に拓馬の肩を叩きまくったものだ。色の白さは昔と変わらないが、女子顔負けのさらさらとした黒髪と大きな瞳とさくらんぼのような愛らしい唇を残したまま、綺麗な顔立ちに変わった。それがまた悔しくて、けれども肩に腕を伸ばすのも面倒臭くて、時折、脇腹を小突いている。


「さーてと、そろそろ魚を見に行きますかー」

「そーやな。ほんで、どっかで飯しばきますか!」


 拓馬は、はいはい、とまるで小さい子供を見守る母親のように優しく微笑む。


「姫さんの仰るとおりに」

「アーホー。姫とか言うな、ダーホー」

「そのアホに惚れた奴は誰や」

「……ウチや」


 最初の頃は絶対に気が合わないと思っていたのに、いつしか一人の男性として意識し、色々とあったが付き合い始めて既に三年経つ。中学頃から未だに仲の良い友人からは拓馬と付き合うことになったと報告をした際、嘘やろお前まじかお前……、と驚かれたのは言うまでもない。

 人は、弱いところがたくさんある。

 情けないところもたくさんある。

 それでも、誰かが傍に居て支えてくれるから、補ったりうめ合ったりできるのだ。京子と拓馬のように。


「拓馬」


 珈琲代を払っている最中に名前を呼ぶ。なに、と京子を見るなり首をかしげた。


「これからも……大好きやで」


 人前で少し恥ずかしそうにしながらもはっきりと言葉で伝える。一瞬、拓馬は動きを止めたが、すぐに答えた。


「うん、俺も好きやで」


 自分ホンマ関西弁上手うまなったな、と京子は感心して微笑んだ。


 東から来た青空は、今ではもうすっかりと西の太陽に馴染んでいる――。

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