瞼 ‐MABUTA-

@maniwaryosuke

第1話 HANA

  冷えた夜にもかかわらず、男の体温は高くなっていた。辺り一面は闇。呼吸は荒く、その闇を掻き分けるように男は走る。少しだけ体が沈む柔らかい土と、音を立てて割れる枯れ葉を足の裏に感じては、土と木々の匂いが男の鼻の奥を刺激している。どれだけ走ったか分からない。吸い込む冷たい空気で喉の奥が痛くなるのを感じながらも男は走ることをやめない。風になびく少し長めの髪はウェーブがかかり、その大きな瞳には涙を溜め込んでいる。膝が折れそうなほどの痛みと疲れを感じていた時、遠くでぼんやりと光る灯りを見つけた。這うようにしてそこへ走り立ち止まると、急に現れた男に驚く。灯りの下で出くわしてしまった男、それが私だった。真っ暗闇の公園でいきなり自分に向かって走ってくる男に驚かない人はおらず、私も例外なく驚いては、体が強張り動けなくなってしまっていた。立ち止まった男から視線を外すことも出来ず、しばらく見つめ合う。その男は、声もなく泣いていた。いや、何かが壊れたかのように涙だけが絶えず目から溢れては、頬をつたって流れていた。見ているだけで自身も泣いてしまいそうになった。声を出そうとした訳ではない、声をかけようと思った訳でもない、ただ、自然と男に話しかけていた。

「どうしたんですか…?」

「あ…いえ」

男は驚いたというよりも、ただ一点に僕の顔を見つめた。額の汗を拭きしばらく息を整えると黙って私の横を通り、去っていった。すれ違う時、彼の身体から湿った土の臭いがした。よほど疲れているのかその足取りは重く、ゆっくりと歩き去っていく姿を私はその背中が見えなくなる瞬間まで見つめた。

                 

 時刻は深夜二時。冬を目前にした夜だった。私は寝る前の日課となっているジョギングをしており、折り返しポイントとなるこの公園で休憩をとっているところであった。入社から二年。希望通り商社に就職が決まり、世界を股にかける商社マンとして頑張ろうと思って迎えた入社式。眼鏡をかけた小柄な人事部長から告げられた一言が、一瞬にして僕の夢を打ち砕き目の前が真っ暗になった感覚を、今でも鮮明に覚えている。

「河村俊介、配属、広報部制作課」

入社するおよそ半年前から入社が決まった学生向けに内定者研修が実施され、各部署の業務内容は粗方把握していた。配属されたのは、社内向けの広報誌を作る部署であり、この部署に配属されたことは海外赴任など程遠いデスクワークの日々となることを意味していた。決して明るくない将来が待ち受けていることは、座っていた席から配属通達書を手に持つ人事部長の元に行く、僅か十数メートル程の短い距離の中ですでに理解できていた。入社式が終わり、同期の数人と昼食を食べに外の定食屋に行った。私以外は営業部に配属され希望に満ちた発言をしている中で、一人浮かない表情をしては、「自身の何がいけなかったのか」と、そればかり考えていた。商社以外にテレビ局や新聞社の採用試験を受けたことを面接で話したからだろうか。それとも、商社マンとしての能力が他の同期と比べて劣っていると評価されたのだろうか。配属後は、どこを目標に仕事をしていいのか、日々何にやりがいを感じればいいのか、そんなことを考えては苛立ち、心が鉛のように重くなっていた。そんな気持ちを抱いては眠りにつけず、その鬱憤を晴らすために始めたのが、深夜のジョギングであった。

 あの男と出会っときに抱いた得体の知れない感情を思い返しては、公園の休憩ポイントである唯一の灯りの下に着く度、周囲を見渡すようになっていた。それから一か月程したある日、その時は訪れた。

「河村くん、学生からOB訪問の依頼が来ているから、代わりにその子とご飯を食べてきてくれないかな。わたしは忙しくて行けないから、丁寧に話してきてね」

いつもにようにデスクワークをしていた午前十時。隣に座る先輩から言われた。この時期は就活生のOB訪問が盛んになっており、私自身も学生時代はよくしたものだった。

「分かりました。井川さんの大学の後輩ですか?」

「そういう訳でもないんだけど、人事からの依頼で会わなきゃいけないみたいなのよ。面倒くさいけど、仕事だと思って話してきて」

「はい。では十三時には戻ってこられるように簡単に話してきます。その子の名前は何ですか?」


 昼食時、数枚の名刺を入れた手帳と財布を手にオフィスを出て、会社のロビーに向かった。セキュリティゲートを通り、辺りを見渡した。そこは真っ黒なリクルートスーツを着た多くの学生が社員を待っていた。会社の受付から少し離れた大きな窓の方に目を向けたとき、どこかで見たことある男が目に入った。私は何の疑問を抱くこともなく、真っ直ぐその男に歩み寄り、声をかけていた。

「…時田くんかな?」

「どうも、初めまして。時田英輔です。…井川さんですか?」

「井川さんが仕事で来られなくなったから、代わりに来ました。男になってごめんね。とりあえず、どこか喫茶店にでも行こうか」

「いえ、大丈夫です。今日はお忙しいところお時間を頂戴してありがとうございます。宜しくお願いします」

彼はほんの少しだけ頭を下げた。高い身長に加え大きな瞳と鼻筋が通った端正な顔つきは、多くの学生の中でひと際目を引く存在であった。彼が時田君かどうかは知る術はなかった。ただ、名前が時田であろうとなかろうと、そんなことはどうでも良かった。名前よりも彼に聞きたい事があったからだ。彼こそが、あの夜公園で突如目の前に現れ泣いた男なのだ。私はあの夜のことを聞き出してみたいという好奇心に襲われていた。

 私達は他の社員と学生のペアに紛れながらロビーをあとにして繁華街に向かって歩き始めた。しかし、企業が密集したこの地域では昼食場所を探すのは容易ではなく、いくつか店を覗いてみたがどこも満席であった。店を探す間の会話はなく、少し気まずい思いをしていた。混み合った通りから随分離れた細い道にある、雑居ビルの一階に「ボサノバ」という喫茶店を見つけ、古びた小窓から店内を覗くといくつか空席があった。

「ここでもいいかな」

「あ…はい。僕はどこでも」

ここで嫌だと言える学生に出会ったことはない。もしいるとしたら、自身の学歴か何かしらのバックグラウンドに余程の自信がある奴だけだろう。どうやら、この学生も自身の意見を強く発するタイプではなさそうだ。少し塗装が剥がれた木製のドアを押した。ドアベルの高い金属音が静かな店内に響き渡った。その瞬間、カウンターの中に立っているマスターと呼ばれるには十分な雰囲気を身にまとった白髪の男性がこちらを見た。

「お好きな席にどうぞ」

決して愛想がいい訳ではなく不機嫌にすら思える程の出迎えだったが、そんな店主もいるかくらいに思い、特に嫌な気分にはならなかった。店内は煙草の臭いで充満していた。昭和の雰囲気と言ったら聞こえはいいものの、完全に時代から取り残され、あとはこのマスターが隠居するまで忙しい日々を過ごすこともなく、ただ店じまいの日を待っているような閑散とした雰囲気だった。メニューに目を通すと、そこにはA、B、Cのランチセットが記載されており、彼に聞いた。

「私はAのカレーセットにするけど、時田くんはどうする?」

「じゃあ、ぼくも同じものを」

「飲み物は?」

「えと…じゃあ、コーヒーで」

これらの質問も意味のないものであると知っていた。社員が頼んだものと別のものを頼む学生も、そうそういないからだ。

「すみません、Aセット二つと、食後にホットコーヒーを二つ」

カウンターの中の店主に向けて声を飛ばした。店主は無言だったが、目はこちらを向いていたので多分伝わったのだろうと、目の前で下を向いている男に視線を戻した。

「それで、聞きたい事があれば何でも話すけど、何か質問はある?」

「はい。今日はお忙しいところ、ありがとうございます。…まず、今の部署の仕事内容を聞きたいです」

下を向きながら口をあまり開かずにぼそぼそと話す様子から、人付き合いは苦手そうだという印象を受けた。彼の一つ目の質問は、商社に勤めながらも広報部であることに未だ納得がいっていない私にとってはあまり聞かれたくないものであり、いつもその質問をされた時には適当に答えていた。しかし、肩をすぼませ小さな声で質問する彼に対しては不思議と嫌な気はしなかった。

「うちの会社は国内と海外に支店があって、それぞれが別の目標や意識をもってプロジェクトを進めていくと組織としての力が分散されるから、経営陣の意見や、それに沿った働きをしている部署の話を社内報にまとめて、紙媒体や社内イントラを使って全社向けに情報を発信しているよ」

話しの途中でノートを開いては、私が説明する内容を小さな文字で書き留め始めた。それからも業務内容を細かく話してみたが、長めの前髪に加えて真下を向く彼の表情はあまり見えなく、理解しているのかどうかは分からなかった。このままでは一方的に話して終わってしまうと感じたため彼に聞いてみた。

「時田くんは、どうして商社に入りたいの?」

「えっと…」

質問されたことは理解しているようだが、まだその前の業務内容の話をまとめきれていない様子で、ペンで動かしながら答えた。返答を少し待つと、丁寧にペンを置き私の首下辺りを見ながらこう答えた。

「まだ商社に入りたいかどうかは分からないけど、何か大きいことをしたくて…」

その後に続く言葉がありそうだと少し待ってみたが、特にないようだったので質問を続けた。

「じゃあ、別に商社でなくても他の業種もあるんじゃない?」

採用試験の圧迫面接をしているように思えてきた。私自身、就職活動の際にどこか上から話す社員に対して良い気分にはならなかったので、少し口調を柔らかくして再度聞いてみた。

「商社以外はどこを受けようと思っているの?」

「他は特に考えていないです。海外に行きたいので、海外にいける会社を探しています」

漠然とした答えではあったが、少し早まった口調に初めて彼の気持ちを聞けたような気がした。

「そうなんだ。部署にもよるけど、海外に行くチャンスは他の業種に比べて多いからね」

わたしは自分に言い聞かすように、そう答えた。

「Aセット」

店主が平たい皿に綺麗に型どられたライスが印象的なカレーをテーブルの上に静かに置いた。店内の煙草の臭いを掻き消すようにスパイスの匂いが鼻を刺激した。

「じゃあ、時間もないし食べながら話そうか」

「はい。いただきます」

程よく熱いカレーを頬張りながら、私の学生時代の話や就職活動の話をした。彼は黙ってわたしの話を聞きながら、時折「はい」と答えた。話している間もあの夜のことは頭を過っては離れずにいた。何があったのか、聞こうと思っては言葉を飲み込み、それを幾度となく繰り返していた。商社とは何か、海外勤務とは何か、口からペラペラと出ていく言葉は社内報用に集めた情報だが、それでも二年も働くと詰まることなく話せるようになっており自身が商社マンぽくなってきたことに少しばかりの悦びを感じていた。食べ終わるとマスターが二人の前に無言でコーヒーを置き、カレーが入っていた皿を取って去っていった。

「煙草、吸ってもいいかな」

「はい…。あの、僕も一本だけ吸っていいですか?」

意外な一言だった。こうした時に煙草を吸う学生は珍しい。少し緊張がほぐれたように見えたのが嬉しく、少し笑いながら答えた。

「もちろん。あまり気を遣わないでいいから」

そう答えテーブルの端に置いてあったガラスの灰皿を真ん中に置き、持っていた煙草の箱とライターを彼に渡した。私が一服したのを見ると、彼も煙草に火をつけて煙を吐いた。二人が吐いた煙は行き場もなく、テーブルの上の方で塊になっていた。店内は再度煙草の臭いに包まれた。そして火傷しそうなほど熱いコーヒーに少し口をつけ、彼に聞いた。

「大学は楽しい?」

彼は煙草を指に挟んだまま灰皿に置き、それを見つめながら答えた。

「前までは楽しかったんですけど、今はよく分かりません…」

「どうして?」

「少し、嫌なことがあって」

「そうなんだ。就職活動が嫌になってきた、とか?」

「…いえ、また別のことで…」

これ以上聞いてしまうと、また彼が心を閉ざしてしまいそうだったので、それ以上は聞かなかった。

「そっか。いい方向に事が進むといいね」

差し障りのない、なんの意味も持たないことしか返す言葉が見つからなかった。ふと目に入った店内の振り子時計の針が昼休憩の終わりの時間を指していた。

「ごめん、そろそろ戻らないと。もし他に聞きたいことがあれば、いつでも連絡していいからね。あ、これ名刺」

「ありがとうございます」

少しだけ頭を下げながら名刺を受け取り、数秒間それを見つめた後に鞄の中にしまった。伝票を持ちカウンターの端にあるレジで会計を済ませ、二人で店を出た。

「ありがとうございました」

店主の声はドアベルの音に消されていた。本来は喫茶店を出た時点で別れればいいものを、OB訪問の暗黙のルールに<学生は会社のロビーまで社員を送る>というものがあり、私達もそれに従うように再び会社まで向かった。会社に向かう道中は特に会話もなかったが、不思議と居心地は悪くはなかった。人で溢れた大道りに戻っては目を離すとどこかにいなくなってしまいそうな彼を気にしながら歩いた。

「ここで大丈夫だよ。じゃあ、また。頑張ってね」

「はい。今日はお忙しいところ、ありがとうございました」

彼はロビーで出会った時のように小さく暗い声でそう言うと、少し深めにお辞儀をした。セキュリティに社員証を当て、ゲートを通り後ろを振り向いた時には、彼はもういなかった。


「どうだった?OB訪問。いい子だった?」

デスクに戻り椅子に座るや否や、井川さんは自身のパソコン画面から視線を外すことなく聞いてきた。

「うーん、どうでしょう。悪い子ではなかったのですが、商社に向いているかどうかは分からないですね」

「へぇ。これ明日入稿のゲラだから、誤字がないか最終チェックしておいてね」

「あ、はい。分かりました」

紙の束を受け取り、同時にデスクのペン立てから赤ペンを取り、海外で働く社員の写真が添えられた文章が掲載されているページに目を通し始めた。発行してから間違いがあっては、「こんなことも出来ないのか」と他の部署から非難されるに違いなく、念入りにチェックすることを心がけていた。気が付けば外は真っ暗になっており、この部署には私しか残っていなかった。荷物をまとめ、オフィスを出てロビーに着いた時、ふと彼のことを思い出した。なぜこんなにも彼のことが気になってしまうのだろうか。違和感と同時に抱く親近感にも似たこの感情はなんなのだろうか。

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