非・異世界転生

凍日

異世界、それとも

 都内の高校に通う竹尾遼平たけおりょうへいは2020年夏のある日、何も考えずに歩いていた。

 人通りの少ない道路だった。

 学校からの帰り道のどこかの時点で、コンビニに寄ろうと思いついた。

 ふと顔を上げると、車道を挟んだ向かい側にコンビニがあった。

 向かい側の歩道に渡るため、遼平はふらりと車道に踏み出した。

 途端、けたたましいクラクションの音が鳴らされる。

 

 振り向くと一台の大型トラックが、猛スピードで向かってきていた。



 



 

 強い衝撃が右側からやってきた。固く閉じた目を開けられない。

 サイレンの音が鳴り響いている。救急車が駆けつけたにしては早い。

 違和感がある。

 聞き慣れない音だ。救急車でもなく、パトカーでもない。

 痛みもさほどではない。トラックにはねられたら、もっと強烈な、全身がバラバラになるような衝撃があるはずだ。

 恐る恐る、目を開けてみる。

 床が見えた。

 状況がわからない。

 体をじっとさせたまま、回らない頭を回転させる。サイレンが鳴っている。


「……あ」


 そこでようやく遼平は覚醒した。


 夢だったのだ。

 寝返りを打ってベッドから転げ落ちただけで、トラックにはねられてなどいない。ずっと鳴っているサイレンは緊急事態を知らせる警告音ではなくて、起床を促す目覚ましのアラームだ。


 「りょうくーん!」

 

 聞き慣れた声が聞こえる。でもなぜ今、彼女の声が?

 足音が聞こえて、目の前の扉がガチャリと開いた。


「りょうくん、朝だよ……って、きゃっ! 大丈夫?」


 彼女は慌てて、地面に這いつくばっている遼平のもとに駆け寄ってきた。エプロン姿だ。


「もう、寝相悪いんだから……」


 眉毛を八の字にしてこちらをのぞき込む顔は間違いなく、幼なじみの吉崎香織よしざきかおり、その人だった。


「あ、ああ……。だい、じょうぶ」


 とまどいながら遼平は立ち上がる。


 「ほら、アラーム鳴ってるよ」


 枕元のスマホを香織が目で示す。


 「お、おう」

 

 手を伸ばすと、操作をする前にアラームは切れた。7:30。


「朝ご飯できてるよ。今日は大事なプレゼンがあるんでしょ?」

 

 朝ご飯? プレゼン?

 なんのことだかさっぱりわからない。

 

「ほら、早く」

 

 そう言うと香織は扉の向こうへ消えていった。

 混乱する頭で、部屋の中を見回した。見覚えのない部屋だ。

 姿見に自分の体を写したとき、思わず変な声が出た。


「な、なんだこれ!?」


 鏡の中の遼平は、歳を取っていた。20代の半ばくらいだろうか。明らかに高校生ではない。

 それにめちゃめちゃイケメンになっている。

 

 遼平は香織と結婚していた。

 リビングで朝食のハムエッグを食べているとき、香織との会話の中でその事実を知った遼平は盛大にむせ返った。「もーっ! なにやってんの!」と香織が呆れる。

「ほらほら早く」とせき立てられるまま、スーツに着替える。ワイシャツはアイロンで整えられて、皺一つ無い。

 香織は遼平の胸元でネクタイを結ぶ。左手の薬指には指輪が光る。きゅっ、と締めた香織はそのまま顔を近づけ、遼平の唇にキスをした。


 ちゅっ。

 

「ちょ、おまっ……!?」


 遼平は真っ赤になって動揺するが、香織は「なにあわててんの」と呆れる。

 夢かと思って頬をつねっても痛いだけだった。


「行ってらっしゃい。今日はハンバーグ作ってあげるから、早く帰ってきてね」という言葉とともに、遼平は家の外に足を踏み出した。



 

 異世界だ、と満員電車に揺られながら遼平は思う。現実世界とはまるで違う設定の、異世界。そう言っても過言ではないような気がする。

 左手のリングを眺める。

 好きな女の子と結婚していることを、まだ信じ切れずにいる。

 それにしてもリアルな夢だった。

 目の前に迫るトラックの鼻面や、それに気づいた心臓がぎくりと跳ね上がる嫌な感触。


 ふと、車内に不審な気配を察知した。

 痴漢だ。若い女性が一人、被害に遭っている。

 周囲の乗客は見て見ぬふりをしているのか、誰も女性を助けようとはしていない。女性はじっと目をつぶり、小刻みに震えている。

 痴漢は屈強な男で、恐ろしかった。

 しかし遼平は動いた。


「おい」男の右腕をつかんだ。「やめろ」


 男は「なんだテメェ!」と気色ばんだが、腕をつかむ力が思いのほか強いことに顔を引きつらせた。だが実のところ一番驚いたのは、遼平自身かもしれない。腕力に自信は無い。

 ほどなく駅に到着し、下車した遼平は痴漢を駅員に突き出した。

 すると被害に遭っていた女性が小走りに駆け寄ってきた。


「あ、あの! 先ほどはありがとうございました!」


「ああ、さっきの。当然のことをしたまでだから」


「いえいえ、そんな! 誰も助けてくれませんでしたし……本当に、ありがとうございます」

 

 深々とお辞儀をする。長い黒髪がさらりと垂れた。

 

「あとでちゃんとお礼がしたいので、連絡先を教えてくれませんか?」

 

 どきりとする。

 

「いいけど……LINEでいい?」


「あ、はい!」


 LINEには本名を表示しているらしい。「福山遥奈ふくやまはるな」。

 

「竹尾遼平さん、ですね。友達に登録しておきます」


 何度目かもわからないお辞儀をした後、遥奈は遼平の向かう先と反対方向に歩いて行った。



 

 プレゼンはとてもうまくいった。

 朝食を食べているときはプレゼンというものが一体何なのか見当もつかず、何をどうすればいいのかもてんでわからなかったが、会社に近づくにつれ、頭の中が自然と整理されてゆくように、やるべきことを把握していた。まるで慣れ親しんだ行動をするかのような感覚を持って場に挑めた。

 周りの反応は大変良く、重役たちがこぞって褒め称えた。

 自分のデスクに戻った後、同僚の男に背中をたたかれた。

 

「おい遼平、さっきのよかったぜ! この前のプロジェクトもお前がリーダーになって成功したし、昇進間違いなしだな。やっぱ京東大は伊達じゃねーな!」


「まあな……って、きょ、京東大?」

 

 遼平は驚愕して自分を指さす。


「京東大の経済学部を主席で卒業した期待のホープ様が、なに寝ぼけてんだ」


 男にからかう様子は見られない。


「俺は京東大に入ったのか……信じられん」

 

 勉強は得意ではない。むしろ高校の成績は下から数えた方が早いくらいだ。しかし同僚の男に言われてみれば、確かに自分は京東大の経済学部を主席で卒業した気がしてくる。いや、した。不思議とそんな確信がある。


 トイレの帰りに、コピー機の前で苦戦している女子社員を見つけた。

 操作方法がわからないのか、目を白黒させている。

 すると向こうの方が気がついた。


「あ、先輩!」


 と彼女は表情をほころばせた。顔見知りらしい。


「助けてください~! 操作がわからなくって……」

 

 遼平は操作パネルの前に立ち、操作を交代する。

 社員証を見ると「小日向椿こひなたつばき」とある。


「で、小日向は何を頼まれてるんだ」


 すると彼女はばつが悪そうに視線を下にそらし、頼まれているコピー設定の詳細を告げた。

 遼平は難なく設定を終え、印刷が開始された。

 決まったリズムでコピー機が紙を吐き出す音を聞きながら、「……やっぱり」と椿が小さな声でつぶやいた。

 

「やっぱり先輩は、怒ってるんですか?」

 

「え?」

 

 思い当たる節がない。


「いや怒ってないけど……」


「……だったら」頬を赤らめて言う。「小日向、じゃなくて。前みたいに。……椿、って、名前で呼んでください」

 

 どきん! と心臓がはねる。

 いやいやいや!

 どんな関係よ?

 

「ああいや、そうだな……つ、椿」


「……遼平先輩」

 

 どぎまぎしていると、遠くから「おーい小日向、終わったらこっちきてくれー」と椿を呼ぶ声がした。


「すみません、行きます。……また今度、遊びましょうね」

 

 ぱちり、と可愛らしいウインクを残し、椿は去っていった。


「俺、妻帯者のはずなんだが……」


 異世界だよな、と悶々とする。




  午後5時、終業時刻。

 帰宅すべく遼平がエレベーターを待っていると、


「竹尾くん、お疲れ様」


 と声をかけられた。

 今日どこかで聞いた声だなと思い振り返ると、プレゼンの場に同席していた上司だった。社員証の名前は「藤代依吹ふじしろいぶき」。


「今日のプレゼンも良かったぞ。重役のおじさま方もご満悦のご様子だ」


 依吹はおどけるように肩をすくめる。頼れる年上の女性だ、と感じる。

 ぽーん、と軽く明るい音がしてエレベーターが到来した。

 二人が乗り込み、扉が閉まる。

 遼平は一階のボタンを押し、背後の依吹に語りかけた。


「仕事って、いいもんなんですね、藤代さん。俺、今すっごく充実感があります」

 

「なんだ、藪から棒に」


 笑い声。

 

「俺、子どもの頃から、仕事なんて退屈で苦痛だって、ずっと思ってたんです。だけど今日一日、頑張って働いて、考えが変わりました」


 沈黙。

 

「藤代さん、俺、今日は本当に大変だったんですよ。いろんなことが起きて、目が回りました。だけどなんていうか、生きてる実感みたいなものを、初めてつかみかけてるような感じです。あんまうまく言えないんですけど」


 細い、ため息。

 ポーンという音とともに、エレベーターは一階に到着した。

 歩き始める寸前、

 

「……なあ、竹尾くん」


 と依吹は切り出した。


「近くにいいバーがあるんだ。よかったら少し、寄っていかないか」


「え」

 

 依吹は照れたように髪をなでる。

 

「いや、無理にとは言わないが……私のプロジェクトについて、君の意見を聞かせて欲しいんだ」


 心なしか瞳が潤んでいる。


「えーっと、ちょっと待ってください」


 今朝、出掛けに香織と交わした会話が頭によみがえる。

 早く帰ってきて、と言われたのだ。

 時間を確認する。まだ夕方だ。

 ちょっとだけなら。

 

「一杯だけですよ」


 遼平は依吹に微笑んだ。



  

 結局、長居してしまった。

 

 香織からのLINEは後ろめたくて既読をつけられない。

 今朝電車で助けた遥奈からのLINEもあった。あと後輩の椿からも。素早く返信し、遼平は家路を急いだ。

 駅の改札を駆け抜け、電車に滑り込み、飛び出し、階段を駆けのぼり、走り続けた。


 遼平は急いだ。


 やがて自宅が見えてきた。車道の向かい側だ。


 遼平は走り、香織の顔が脳裏に浮かび、


 クラクションが鳴り、


 そして、



 

 ・



 

 振り向くと一台の大型トラックが、猛スピードで向かってきていた。

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非・異世界転生 凍日 @stay_hungry

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