知識の館 1

 トワは雨で濡れた坂道を滑らないように慎重に歩きながら、鳩森図書館を目指した。

 考えてみれば、単純なことだったのかもしれない。

 タイムリープなど、本来できないものなのだ。それを一瞬でも出来てしまった、と考えたトワ自身が最初の過ちであった。

 過去に戻った。

 その不可思議な現象の原因を辿れば、自然と世界の綻びに気が付く。

 肉体を伴う人に、魂のみの自由など、得られようはずもない。

 スミレの言っていた、『肉体の枷、魂の自由』という標語は成立しない。おそらく、アヤの言っていた『人間の機械化』も完全には為し得ない。人が真の意味で肉体を捨てる覚悟をしない限り、現実的とはいえない。

 トワも肉体を持つひとりの人間である以上。結局のところ、元の肉体を好むのだろう。だから、綻びに気が付いた。


——ユイという人物がはじめから存在しないことに——


 ようやく、トワは鳩森図書館の門の前へと辿り着いた。

 深く深呼吸をし、トワは門を開けた。頭に痛みはなく、警告画面もアラームも鳴り響かない。はじめから、あの警告が嘘であったかのように、すんなりとトワは鳩森図書館へ入ることができた。

 エントランスを抜け、トワは1階へと向かう。

 昨日、トワ自身が探索しなかった場所。しかし、それは大した問題ではない。1階はアヤが探索していたのだから。

 本来、探索するべき場所は表に現れない、図書館の裏側にある——閉架書庫——であったのだろう。

 トワはかつてカウンターがあった場所を超え、壊れ掛けたドワをこじ開けて奥へと進んでいく。カウンターの奥は、トワの見たことのない機材が並べられていた。ベルトコンベアのようなそれは、閉架書庫から紙書籍を取り出すものだろう。その奥には、地下へと続く階段があった。

 ゆっくりと地下室へ入るとそこは明るかった。幻想的な青い光が浮かび上がり、仮装画面が表示されている。その中心には、青い光に煌びやかな髪の毛が反射するユイの姿であった。

「ユイ……なのか?」トワは声を掛けたが、どう続ければ良いのか分からなかった。

 彼女はトワの方を見る。「随分と早く気が付きましたね」ユイは落ち着いた様子で言った。

 周囲に浮かぶ仮想画面には、様々な情景が浮かび上がっていた。その中の一つにトワがあった。何処から撮っているのか分からないが、ユイと対峙するトワの姿が画面に表示されていた。

「はじめから、奇妙だとは思っていたよ」トワは言う。

 実際、唐突に高校時代に戻ればおかしいと感じる。ただそれだけでなく、ユイの姿が、その先の彼の中に無かったのだから。

 それでも、ユイという人物はこの時代のトワの記憶に、はっきりと焼き付いていた。

「ユイ……じゃないね。時折、君にはスミレが混ざっているように感じるよ」

 ユイは笑った。「まったく、キミには敵わないね」

 その声は何処か懐かしく、愛おしく感じた。そういえば、随分とその声を生で聞いていないような気がした。

 トワは目を閉じ、深く息を吸う。再び目を開けるが、目の前にはやはり、ユイが居た。しかし、その中身はユイではないのだろう。

 仮想画面を挟み、二人は見つめ合う。

「スミレだね」トワがそう言うと、彼女は頷いた。

「話を始める前にひとつだけ聞かして、どうしてここだと思ったの?」不思議そうに尋ねるユイ——もとい、スミレにトワは答えた。「表に答えが無ければ裏にあるものだろう」

 彼の答えにユイは笑った。「そんな理由、根拠の欠片もないじゃない」

「確かに。根拠はなかった」トワは認めた。そして、言葉を続けた。「でも、君に会えた」

 ユイは表情を変える。そして、嫌味っぽく言った。「先輩との方が仲良さそうに見えるけど? わたしのこと、本当は対して興味なかったんじゃない?」

 嫉妬深い彼女にトワは小さい溜め息を溢す。「そもそも、この時代の僕らは出会ったばかりだろう。先輩より親しいはずがないだろう」

「でも、あなたには未来の記憶が残っていたでしょう?」ユイが問い返す。トワが頷くと、「だったら、それを理由にすれば親しくてもおかしくない」とユイが言った。「実際、初対面のはずなのに、わたしの名前を呼んでいたじゃない」

 いまは、どちらだろう。と、トワは首を傾げる。ユイなのか、それともスミレなのか。彼女の中には、二人の人物が同時に存在するように思えて仕方ない。

 実際、二人の人物が居るのだろう。

 そして、もうひとりは現実世界と繋がっている。

「言えるわけないだろう? 未来から戻ってきました、なんて」トワは呆れたように言った。

  周囲の光が明滅し、トワとユイを隔てていた仮想画面が消えた。「さぁ、こっちに来て」と、彼女が言った。「真実が知りたいのでしょう?」

 トワは頷き、仮想画面に囲まれたその中心へと入った。

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