眼鏡が似合いますね
その日、ユイが学校へ姿を見せることはなかった。
トワはあらゆる悩みを抱えたまま、文藝部の部室へ向かう。クラスでカオルに相談したところで、今のトワの悩みが解消されるようには思えなかった。
今の彼が抱える悩みはそれ以上に深いものであった。
「やぁ、少年。今日は一人かな?」
トワが部室のドアを開けようとしたとき、背後から声を掛けられた。トワの背後には、アヤが立っていた。
「今日は遅いですね」
トワは認証を済ませ、部室のドアを開けた。
普段ならアヤの方が先へ、部室へ辿り着いている。
「ホームルームが少し長引いてね。くだらない与太話をひたすら聞かされたよ」どこか愚痴っぽく彼女は言った。「それで、昨日の件は少し考えてくれたか?」
部室に入るなり、アヤはいきなりその話を持ち出した。
「昨日の今日ですよ? すぐに答えられる訳ないじゃないですか」
「それもそうだな」トワの反論に、アヤは納得した様子だった。「彼女が来ていれば、昨日言い過ぎたことを謝ろうかと思ったんだけど、どうやら休みのようだね」
アヤはそのままいつもの定位置へ腰掛けた。トワも迷うことなくいつもの席へ座る。そして、課題リストを表示し、明日提出の課題をひとつひとつこなしていく。
何気ない、いつもの部活動が始まった。
朝から降り続ける雨が、一定間隔で窓を打つ。蛍光灯で照らされた部室も、今日はどこか暗く感じる。湿度のせいかもしれないが、いつもより空気すら重く感じられた。
普段から会話が多いとは言えない。多くの場合は、アヤから話を振って、トワはその話に付き合う。しかし、今日はそのような流れもない。定位置に座った彼女はひたすらに手に取った紙書籍を読み、トワは課題を進めていく。
「あれから——」小一時間程経っただろうか。課題がひと段落したからひと眠りしようとしたとき、アヤが口を開いた。「私なりに色々と考えてみたんだが……もしかしたら、私達の記憶の方が間違っていたんじゃないかな、と思うようになったよ」
彼女は目を落としていた紙書籍を閉じた。そして、まっすぐにトワの方を見つめる。「私の中にある、鳩森図書館が取り壊された、という記憶が元々間違っていたのではないだろうか?」
小さな息をひとつ吐き。トワは視界全体に広げていた課題リストを閉じる。仮想画面を無くし、自然な映像としてアヤの表情をみた。
黒く長い髪をひとつに束ねている彼女は、確かに、トワの記憶にあるアヤという女性そのものであった。短く切った髪を整え、ピンクゴールドの眼鏡をかける彼女も良かった。おそらく、どちらも真実で、どちらも仮想。
今朝の結論が真実であるのなら、とトワは思う。
「それはないと思いますよ」トワはゆっくりと答えた。
トワは目を閉じ、深く息を吸った。肺に満ちる湿った空気の感触も恐らく仮想、トワの中を巡るナノマシンが演出しているもの。
古い紙の香りも、この懐かしいと感じる文藝部の部室も全て仮想、トワはナノマシンに化かされていた。
それだけのことだろう。
——もし、それが正しいのなら……
トワは意識を集中させ、本当の彼女の姿を思い浮かべる。
「何故、そう言い切ることが出来る?」アヤが疑問を口にする。
「電脳の記録が偽りを語るとは思えません。それにその記憶は僕の中にもあります」トワは目を開け、まっすぐに彼女を見つめた。
そのとき、一筋の光が部室を照らした。
窓の外では、先程まで降っていた雨は止み、雲が晴れていく。陽が顔を出し、自然と世界を照らす。
——やはり……
トワは安堵の息を溢した。
先程までとは少しばかし、髪の長さが短くなったアヤ。髪の毛はひとつではなく、二つに結び、読書のときにしか身に付けない赤いフレーム眼鏡を掛けている。
「やはり、先輩は眼鏡が似合いますね」
この世界はトワの想像の産物であった。彼が望むのであれば、きっと何でも描画する。彼の記憶と齟齬がない範囲で。
「急にどうした」照れた表情を浮かべ、アヤは急に顔を赤らめて逸らす。
照れる彼女とは裏腹、落ち着いた様子でトワは言う。「率直な感想です」
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