夏に走る
@1qazxsw23edc
夏に走る
情けない音が空に響き、と同時に前に飛んだ。
走るという事は、前に向かって落下する事である。
銃の音と共に崖から飛び出したが、しかし目的地に撃墜するまで自分の足で進まねばならない。
前方への道は、今、崖下への転落に変わったのだ。
ゴールという大地にこの身を激突させる事。己の身はその時間を短縮する為に動かさなければならないのである。
全身の汗が重しとなって、落下速度を和らげようとする。
太陽から迫る圧力が、この身を地面に押し付けようとする。
普段よりも重力が増している。しかし目的地は下では無く、前なのだ。何もないつまらない整えられた道では無い、そちらに引きずり込まれるつもりは無い。
最初の一歩で地面への重力は忘れてしまった。
前に落ちた事で軽くなった体だが、それだけではいけない。
さらに落下速度を上げなければならない。
地面を蹴って加速、さらに加速。一歩一歩、加速加速加速。
実際には最高速度を維持しているだけなのだが、しかし自分の頭の中では一歩ごとに、ゴールが近づくごとに速度が上昇している。
大地に激突し、粉々になる己を想像しながら足を動かす。テンポ良く、地面を足で後ろに送り蹴り飛ばしながら。
一瞬、思い浮かぶ己の体のイメージは翼を失った鳥。空中をダラダラと無駄に生きる事を捨てて、この一瞬に最速を、最大を込めて、崖下の大地に全てを叩きつけてやろうと思っている。
腕を振り子に体を前に引っ張らせる。上腕が前に振られる度に、全身が前に引き寄せられる。両腕のどちらかは常に前なので、常に前に引っ張られる。
渾身の力で前に突きあげられる腕が、空中に浮いた体を前に引き寄せた。
空飛ぶ体はしかし、まだ足りない。この程度の落下速度では、満足な気分で大地にぶつかれない。地面を蹴って蹴って、加速を繰り返す。
あの大地を、ゴールを、この身で粉砕してやる。
鋼鉄どころか岩にも負ける脆弱な身体。そんな自分が堂々とそり立つゴールの大地を粉砕するならば、速度を上げて威力を増加させる以外に手段が無いのだ。
今日は無風だったはずが、いつしか向かい風に触れてしまった。ただその場にとどまっていたはずの大気は、唐突にこちらに抵抗してくる。
風の壁を拳で、この体で触れてしまえば、それだけ落下速度が落ちてしまう。
だから風の隙間、その中に通してもらう。
腕の振りを中央に向ける。
イメージだけだが、顔は鳥の嘴の様に尖らせて、膝も鋭くなって、体を全身を鋭角にする。
鋭く細くなった体が、風の塊の間を通る。こちらは後から来たのだから、遠慮して体を縮こまらせて、合間を通るのがマナーだ。
それでも風が邪魔をするなら、仕方が無いので貫き壊すのである。
イメージの中の己が、すでにゴールに激突していた。
いつだって頭の中の己は、自分よりいつだって早くゴールにたどり着いている。
なんだったらスタートの時にはすでにゴールに自分がいるのだ。
すでにゴールしているはずなのに、なぜにこの身はまだゴールしていないのか?
一瞬でも、刹那でも早く、あれに追いつかねばらならない。未だに空中に浮いている己の身が恥ずかしくてたまらない。
呼吸など忘れた、苦しいとかどうでもいい。早く早くあの場所に着かねばならない。落下していたはずのこの身が、羽ばたいているのだ、足掻いているのだ。
地面を蹴り飛ばし、一歩の跨ぎが大きくなる。腕も足もテンポは変わっていないのだが、しかし気持ちの上では加速を重ねている。今の状況から逃げ出したくて、加速をひたすらに繰り返している。
それでもまだ辿り着かない。なんて恥ずかしくて苦しいのか。この苦しさは息苦しさや、疲労によるものではない。ただ切なくて苦しいのだ。
いまだに、己は空を浮いている。いつ終わるのか? いつ落ちるのか?
苦しい、早く大地に、この身を叩きつけたい。
走りが終わり、軽くランニング後。膝に手をついて立ち、ボロボロと落ちる汗の跡を眺めながら、激しく乱れた息を整える。
妄想の世界は終わり、ここは空中ではなくグラウンドで、崖下ではなくてただのゴールラインで、己は羽の無い鳥ではなく人間である。まして鋭くも無い。
崖下に落ちれば大体、人は怪我するか死ぬ。
自分は生きている。怪我をしたくないし、死ぬ気は無い。
ただ空中にその身をゆだねる妄想は、少しだけ気持ちよかった。
雲一つ無い青空を見て、来年の夏は陸上など止めて、スカイダイビングでもしてみたいと考えてみる。そんな2020年の夏。
夏に走る @1qazxsw23edc
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