第34話 ~歌が上手い女はセックスも上手いってさ、五十嵐~

「はい、ワンツー」

「シッ! シッ!!」


 練習場に、ミットを叩く破裂音が2度響き渡る。


「ほい、じゃスイッチして」

「おう」


 五十嵐が、前足と後ろ足の位置をスイッチする。

 そして、左右、打っていたワンツーを反対の左右、と打ち込む。


「うん、いいんじゃないかな」


 パンチを打った五十嵐の日焼けした二の腕がぷるん、と揺れた。

 その腕で額に浮かぶ大粒の汗を拭った。


「だいぶ慣れて来たわ~、ウチってば天才だな」

「これくらいで天才とは呼べねーよ」


 現在、五十嵐はサウスポーで戦う特訓をしている。

 オールラウンダー的に戦える彼女の実力を、サウスポーとしても戦えるようにすることで更に幅を広げようと思い立った。


 夏の大会後からは「右利きのサウスポー」としてのコンバートを行っていた。いわゆる「コンバーテッド・サウスポー」というやつだ。

 右利きのサウスポーというのは、利き手じゃない方でストレートを打つため素人目には不利に感じる。


 しかし、実は有利な戦法である。

 威力を出せる利き腕が前に来ることによって、力強い右フックを軽いフットワークで繰り出せる。

 インファイト気味である彼女にとって、より近い距離で威力の高いジャブやフックを繰り出すことができるようになるというわけだ。


「まあ、五十嵐は完全にサウスポーになるにはちょっと遅いからスイッチャータイプになるだろうな」

「そうだな~、ここまでもうオーソドックスでやっちまってるからな。うまく使い分けるよ」


 小学時代にやっていたフルコン空手を除くと、彼女はボクシングでいえば4年目選手だ。

 もっと早い段階でサウスポーにコンバートしていればスムーズだったが、さすがに少し遅いためどちらでも戦える「スイッチャータイプ」を目指すことになった。


「五十嵐、お前少し太ったんじゃねーか?」

「あぁ!? 殺すぞ!?」

「ぐっ――!?」


 五十嵐のボディブローが脇腹に突き刺さる。

 膝を付いて腹を押さえる俺。上から睨みつける五十嵐。


「ボクシングなんだから体重について言及する権利は俺にはあるはず……」

「うるせぇ! てめーはウチの体重より中間テストのこと心配しろや!」

「ぐっ――!?」


 今度はメンタルに言葉のボディブローが突き刺さった。

 ああ、中間テストって来週末だっけ……全然意識してなかった。


 リングに屈服してうなだれていると、ツンと汗の酸っぱい匂いが鼻を突き刺して目が覚める。


「五十嵐……助けてくれ」

「は、はぁ? 何をだよ」

「テスト……助けてくれ」


 上から目線で普段ボクシングを教えているだけあって、素直に頭を下げるのはプライドが許さなかった。

 と、思いきや俺はいとも簡単に土下座をしている。この生活で自尊心が段々と失われていくのを実感している。


「ふーん、大橋。勉強あんまできねーもんなぁ?」

「仰る通りでございます……」

「前期末は学年何位だ?」

「200人中の130位でございます」

「あちゃー、低いな~……教えてほしいのかァ? ん?」

「はい……教えてください……」


 土下座をする俺の前にしゃがみ込んで頭をツン、と突かれる。

 肉付きのいい太ももが視界いっぱいに広がる。そして、タイトなショートパンツの隙間から、汗で湿った股関節の骨がチラッと見えた。


「おい、なに見てんだよ大橋」

「いや、なんでも……」

「まあ、しゃーねーから教えてやってもいいよ?」

「ありがとうございますッ!!」

「じゃ、来週月曜から計画実行だ。心して取り掛かれよ」

「かしこまりました!!」


 学年1位に教えてもらえるんだ。

 もう、俺にプライドはない――。







「で、ここはどこですか」

「見りゃ分かんだろ、カラオケだよ」


 時を経て、月曜日の放課後。

 俺たちは制服姿のまま某カラオケチェーンの受付カウンター前に立っていた。


 え? なにこれ?


「あの、勉強を教えていただけるとのことだったはずですが」

「うるせぇ。黙ってついてこい」

「は、はい……」


 受付で渡された伝票とマイクを受け取り、部屋まで向かうエレベーターに乗り込む。

 これ、なんのイベント?


 エレベーターが部屋の階に止まり、ドアが開く。

 降りてすぐに該当の部屋があったため入ると、2人で入るのには丁度いいくらいの狭さである。


「で、これは一体なんのイベントですか?」

「とりあえず座れよ」

「はい」


 チンピラの方ですか?

 横並びソファしかないため、俺と五十嵐が横並びで座る。大きなモニターでは新規配信の楽曲紹介ムービーが流れ続けていた。


「…………」


 割と近い距離で座っている。

 そして、何故俺たちが放課後すぐに時間を作れたかと言うと、テスト週間は部活が禁止されているからである。運動部にとってある意味では休暇週間であるとも言える。


「大橋」

「なんだ」

「頑張るために大切なことって知ってるか?」

「え……?」


 五十嵐が、テーブル上にあるデンモクを素早い手つきで操作し始める。

 ピッピッという電子音が高速で鳴っている。


「ずっと頑張ってるだけだといつか糸が切れて空っぽになっちまう」

「うん」

「勉強なんかウチはできるだけ時間を取りたくないから、いかに効率的にやるかが大事だ」

「学年トップの方が言うのであれば間違いないと思います」

「だからよぉ……」


 ピッ、という音と同時にモニターの宣伝動画がフェードアウトする。

 数秒の沈黙のあと、画面には曲のタイトルとアーティスト名が表示された。


「…………」


 そして、次第にポップな音楽がフェードインして流れ始める。

 その音は段々と爆音へと変化していき――


「先に息抜きしとこうぜぇぇぇぇぇぇぇッ!!」


「うわぁっ!?」


 マイク越しに、五十嵐のドでかい声が耳を塞ぐほどに響き渡った。

 クソうるせぇ!


 ハウリング混じりの大声に思わず眩暈がする。

 横を見ると、ソファに立ち上がり得意げな表情でモニターを見つめる五十嵐がいた。


 最早ただのカラオケで遊んでるギャルJKやん。


「~~♪」


 テロップが流れ出すと同時に、五十嵐の歌声が響き渡る。


「~♪」


 え、こいつってもしかして……。


「なあ、五十嵐――」

「んだよ」


 間奏に入ったところで声を掛けると、怪訝な顔で俺を見る。

 パンツ完全に見えてるけどそれはいいとして。


「お前……めちゃくちゃ歌うまいな」

「へっ、まーな!」

「…………」


 正直、驚いた。

 五十嵐の歌声は、本家の歌手じゃないかと思うほどに音程も正確で、力強いと同時に美しいものだった。

 いや、本当に動画サイトとかSNSでバズるんじゃないか? このレベルは。


 正直俺もよく「大橋くんうま~い!」とか言われてたタチだが、ちょっとレベルが違う。

 俺はあくまで(普通より)上手いみたいなニュアンスだ。


「まさか五十嵐がこんなに歌上手いとは」

「ウチは基本何でもできんだよ」

「いや、否定できないのがムカつくな。昔から家で1人になると歌って踊るって本当――」

「その話だしたら殺すぞ」

「はい」





 なんだかんだで、2時間くらいはカラオケにいるだろうか。

 本当に今日は全く勉強しない気なんだな。


 お互い歌い疲れて、曲を入れるペースも次第に遅くなっていく。


「…………」


 そして今は完全に曲を入れずにソファでぐったりしている状態である。

 2人で2時間は結構疲れるんだよなぁ。


「五十嵐、いつ勉強する気なんだ?」

「あー? 明日からだよ」

「やっぱそうか」

「まだ教えるなんて言ってないしな」

「はっ!?」


 衝撃発言である。

 俺はカラオケに付き合わされただけだってのか?


「お前っ! それは――」

「勉強教えて欲しい?」

「当たり前だろ! そのために今日も……」

「じゃあ、あと1つ条件を提示するわ」

「な、なんだよ……」


 五十嵐が距離を詰めて座る。

 俺の顔をじっと見つめて、沈黙した。俺も五十嵐に目を合わせているため向き合って数秒は経っただろうか。


 おいおいおい。これは何か嫌な予感がするんだが。


「ひさしぶりに、しよっか」

「え……?」


 なにを?


 なんでそんなに麗しい目つきしてんの? いま舌ぺろってした? なに?


「い、五十嵐……?」

「んだよー……分かってんでしょ」


 拗ねたように唇を尖らせる。

 おい、これってまさかまた……。


「最近お前、ウチのことほったらかしにしてんだろ」

「は……? いきなりなんだよ」

「うるせーな、あれから可愛いって言われてねーぞ」

「そ、そんなの普段から言うわけないだろ」

「じゃー、今は?」


 彼女が首を傾げる。

 あ、だめだこれ可愛いわ。


「…………」


 モニターから流れるPRムービーの音声だけが部屋内に流れ続けている。

 不思議と、その音が煩わしくさえ感じた。


 五十嵐の、金色に染まったショートカットにそっと触れる。


「んっ……なんだよ」


 喘ぐような声を出して、頬を赤らめながら俺を睨む。

 俺は何を答えるわけでもなく、その頭を撫でた。


「は、はあ? 子供じゃねーんだけど」

「うるせぇな」

「く、口がわりぃぞ大橋」

「お前に言われたくねーよ」


 小競り合いを続けながら、その顔の距離は次第に近づいていく。


「大橋……」


 いきなり女の子らしい声を出すな。こっちもそういう感じになるだろうが。


「大橋……」

「…………可愛い」

「ん、もっかい」

「可愛いよ」

「大橋も、ちょっとはかっこいいよ」

「ふざけんなお前」


 もう鼻が当たりそうな距離である。

 五十嵐は背もたれに寄りかかる形で、俺は手を握り今にも押し倒しそうに覆い被さっている。


「や、やべぇ、めちゃくちゃ緊張する」

「五十嵐から言い出したんだろうが」

「そ、そーだけどっ!」

「てか、五十嵐ってこういう甘々なイチャイチャが好きなんだな」

「べ、べつにいいじゃん……ねえ、ウチのことどう思ってる?」

「えっ……可愛い、と思ってる」

「じゃなくて! 嘘でいいから好きって言えよ」


 お前、照れながら切ない顔できるのすごいな。

 これは……状況的に言うだけ言うしかないよな。


「すき」

「んっ……ウチもすき……ちゅっ」


 唇が1回触れる。

 五十嵐が静かに微笑んだ。


「すき?」

「ああ、すきだ」

「ウチもしゅきっ……んっ……ちゅ……」


 お前、甘々なイチャイチャ好きすぎだろ!

 しゅき、て! しゅきて!!


 なんて甘えん坊なんだこいつは。


「あ、あくまでこれは演じてるだけだからな! 大橋、勘違いすんなよ。ぎ、疑似恋愛みたいなやつだ」

「なんだよそれ……んっ」


 今度は五十嵐からキスをする。

 ぷにっと柔らかい唇の感触がしたあと、柔らかく温かい舌同士が触れあう。


「ちゅっ……んぅっ……大橋ぃ、しゅき……しゅきしゅきしゅき……っ!」

「…………」


 リップ音が鳴り続ける。

 お互いの舌を、優しく吸ったり、舌同士を滑らせたり、絡めたり。


 五十嵐が漏らす声が大きくなっていくと共に、俺の手も汗でびっしょりとしていく。

 握った手が、さらにキュッと強く握り返される。


「大橋っ、そこは……んっ……!」


 俺は無意識のうちに、思わず五十嵐の胸に片方の手を添えていた。

 ビクンッ、と体を小さく跳ねさせた五十嵐が少し荒い息遣いで俺を見つめる。


 これ以上は……まずい。

 一度、唇を離す。


「…………もお、終わり?」

「終わりだ」

「え、やだ……もっとしたい」

「だめだ」

「大橋~、お願い」

「条件は果たしたはずだ。明日からは勉強を教えろください」

「ちっ……」

「いま舌打ちした!?」


 キスを懇願する五十嵐の上目遣いに、再び理性を擽られる。

 だめなんだ。これ以上は本当にだめなんだ。


 俺には分かる。

 ここまで来たら、カラオケという密室である以上、いくところまでいく。


 こいつは一夜限りの人間ではない。これから3年間共に過ごしていく仲間だ。


「んっ!」

「うおっ!」


 突然、五十嵐に勢いよく抱き着かれる。

 驚きで思わず体が固まってしまった。


「さっきの言葉、ウチは…………んん、なんでもない」

「…………」


 耳元で呟きかけ、言葉を途中で止めたあと俺から離れた。

 お互いの体が離れて冷静になると、随分と恥ずかしいことをしていたように思える。


 すきすき言い合ってひたすらキスをしていた欲情高校生カップルでしかない。


「今日はもう帰ろうぜ、大橋」

「あ、ああ……」


 元の五十嵐に戻っていた。

 先ほどの困り顔の乙女はもうそこにはおらず、眉間に皺を寄せた金髪ヤンキーが帰ってきていた。


 てか俺もクセでさりげなくおっぱい触ったの怒ってるかな。


「大橋」

「どうした?」

「練習場のカギ、貸してくれ」

「は? お前それって――」

「うるせぇばか! ちょっと触ってきたくせに止めたのお前だろ! 人のムラムラ返せ!」

「んなこと言われても……」


 練習場のカギ、というワードだけでこいつが何をしようとしてるのか分かる俺も病気である。


「カギは渡しません。てかもう21時だから学校閉まってるぞ」

「うわ、マジだ……もう帰る!」

「お、おう……」


 ぷりぷりしている五十嵐と共に、部屋を出て受付へと向かう。


「…………」


 明日からは絶対に勉強教えてもらってやる。






「この公式、わかるか?」

「わからん」

「だからぁ、第4章で出てきた公式あるだろ? そう、このページ」

「ふむ」


 時は昼休み。

 そして場所は図書室。


「てか、昼休みもやるんだな」

「あたりめぇだろ大橋。一回抜いたらあとは全集中なんだよ」

「さすがです……」


 カラオケの件の翌日、俺たちは何事もなかったかのように一緒に勉強をしていた。

 さすがに2回もああいうことがあると、五十嵐が勉強を教えている時に顔が近づくとフラッシュバックしてしまう。


「……おい、聞いてんのかよ」

「ごめん、聞いてなかった」

「ばか」

「ごめん」


 キッと睨みつけられる。だが、心なしか楽しそうであった。


「じゃあ続きいくぞ、ここの公式を……」

「…………」


 五十嵐風音は、運動もできて勉強もできて歌も上手いし容姿もいい。

 ヤンキーっぽいところを除けば、完璧人間である。


 だが、弱い部分もあるし、ああやって甘々なイチャイチャをしたいという超絶女の子な内面もある。

 なんというか、こいつってそういう天邪鬼だけど乙女を隠し切れないところが……。


「五十嵐」

「ん?」

「お前、めちゃくちゃ可愛いやつだな」

「~~~~~~~~ッ!!」


 近い距離にある彼女の顔が、一気に真っ赤に染まった。

 目は見開き、唇をキュッと噛んでいた。


「ば、ばか、こんなところで何言ってんだよ」

「いや、ふと思ってさ」

「勉強教えるどころじゃなくなるからやめろよ!」

「ご、ごめん」

「……これ終わったら、もっかい言って」

「は?」

「…………」


 素直にデレられる子なのね。

 顔を赤くした五十嵐が髪を耳に掛け、咳払いをしたあと再び教科書に目を向ける。


「…………」



 そういえば、この前ネットで見た情報があったな……。


「歌が上手い女はセックスも上手いってさ、五十嵐」

「――ッ!?」



 このあと、めちゃくちゃボディブロー喰らった――。



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