第32話 ~ソフィが性癖誕生秘話を暴露した~
「あー……これはまずい」
日曜日。
練習も休みで、昼の12時を過ぎたというのに俺はまだ1歩もベッドから出ていなかった。
何をしようかな、と無意識に学習机の上に目を向けると、悪いニュースを発見してしまった。
「レンタルしたDVD、1か月延滞してるわ……」
完全に存在を忘れていた。
1か月延滞ってなかなか取られるんじゃないか。
一時のテンションで借りた大して面白くもなかったB級洋画のディスクが俺を睨みつけていた。
重い体を起こし上げ、DVDを手に取る。
仕方ねぇ。
「返しに行くか」
立ち上がり、スウェット姿のまま部屋を出ようとしたはずなのに。
「…………」
俺は何故かそのDVDをプレイヤーにセットし、再生ボタンを押していた。
適当なチャプターを選択する。
ヒロインのグラマラスな女性と、髭の濃い中年小太りの男が会話しているシーンのようだ。
「良いニュースと悪いニュースがあるんだが……どっちから聞く?」
「良いニュースだけ聞いて墓場に行きたいわ、私は」
「ははん、良いニュースは……嬢ちゃんの前に最高のナイスガイが、運命的に現れるってこった」
「それは素敵ね。じゃあ悪いニュースは?」
「そのナイスガイは、なんでもケツを叩かれてオーガズムするらしいぜ! ガハハ!」
「oh shit……」
「…………」
なんだこの映画。
2回見てもつまらないな。
もういいや、返しに行こ。
俺は、寝癖だらけの髪を掻き上げて、結局シャツとジーンズに着替えてからDVDを抱えて自宅を後にした。
横浜駅すぐ近くにあるレンタルショップ。
これだけのために電車に乗るのも面倒だったが仕方ない。
店の前に辿り着いた俺は、延滞金に恐怖を抱きつつ自動ドアを潜る。
「っしゃせ~」
レジの方から気だるそうな低い声が聞こえてくる。
「…………」
返却するDVDを抱えたまま、俺は棚に並ぶDVDたちを眺めていた。
現実逃避だ、分かっているんだ。早く返却するべきなのは。
「あ、これ五十嵐が面白いって言ってたな」
あいつがオススメしてきた恋愛系の邦画を手に取る。
今、大人気な甘いマスクのイケメン俳優と、清楚系で売れている顔の愛嬌のある女優が向かい合っているパッケージ。
ピンクの丸っこい可愛い筆記体でタイトルが書かれていた。
「あいつ……キュンキュンしにいってんじゃねぇよ……」
申し訳ないが俺は見ません。
パッケージを棚に戻し、店内を見回す。
あれ?
今、視界の左端に見覚えのある"何か"が映りこんだ。
「あれは……」
棚の隙間から、銀色のアホ毛が見える。
うん、間違いないですね。
「あいつ、何してやがるんだ……?」
「ソフィ――」
思わず、声を掛けようとしたが俺は固まった。
「…………」
挙動不審に周囲を警戒するソフィが、ピンク色ののれんの前を行き来している。
そう、R-18と記されたピンク色ののれんだ。
銀色のアホ毛が行ったり来たり。
これは耐え切れない。
ついにピンク色ののれんを潜ろうとした彼女を――
「おい」
「ひゃっ!? すいませんすいません間違って入りましたすいません」
「こんなところで何してんだ」
「親にだけは言わないでくださいお願いします何でもしま――オーハシ!?」
「…………」
ピンク色ののれんの前で沈黙が流れる。
大量の汗を噴き出しながら顔を真っ赤にしていたソフィの顔が無表情に戻る。
店員が不審そうにこちらを見ている。
「とりあえず、少し離れたところにいこうか」
「……うん」
ハイウエストのチェックフレアスカートに、もこもこの黒いニットを着た私服姿のソフィの手を引っ張り、俺は1度店を出ることにした。
意外と女子高生らしい格好するもんなんだね。
「……で、お前はなんであんなところに」
「AV借りようとしたに決まってるでしょ……」
「当たり前みたいに言うなよ」
レンタルショップと同じビルにテナントを構えるチェーンの喫茶店。
お互いアイスコーヒーを注文し、窓際の席に向かい合って座っていた。
「借りれないだろ、年確されたら」
「ワンチャンを狙ってた」
「そんなことにリスク背負ってんじゃねぇよ」
プライベートでソフィと遭遇するのは初めてだ。
家には来たけど……あのケツシバキ事件は忘れよう。
「自由が丘住んでるんだろ? なんたってわざわざ横浜に……」
「家が近いと誰に見られてるか分からないから……」
「なるほど、納得した」
その理由だけは納得した。
理由だけは。
「女の子だけでああいうコーナー入るもんじゃないぞ、別にエロいもんを見たいって気持ちを否定してるんじゃなくて普通に危ない」
「オーハシ、珍しく性癖否定をしない」
「いつもしてるか!?」
なんだろう、この部活に入ってからは性に寛容になった気がする。
誰がグローブの匂いで絶頂しようと、リング上でオナニーしてるのを発見しようと、練習場に大量のAVが持ち込まれても。
今はすべてを笑顔で流すことができる。
本当の変態は俺だったのか――!?
俺がこの世の理に気付き絶望しつつあるその間、目の前のソフィは相変わらずジト目で俺を見つめながらコーヒーを啜っていた。
「じー…………」
「なんだよ」
溶けた氷がカラン、とコーヒーの中に沈んだ。
「オーハシだって、えっちぃの借りに来たんじゃないの?」
「なわけねーだろ、延滞してたDVD返しに来たんだよ」
あ、まだ手に持ってた。
一体なにをしに来たんだろう、俺は。
ジッとみられると、ソフィって可愛い女の子だなと実感する。
ハーフということもあり顔立ちは整っているし、中学生に見間違えるようなコンパクトボディだけど愛らしさもある。
「じー……」
「オーハシ、なに見てるの……!」
俺の視線に気づいたソフィが顔を赤らめながら手をパタパタと振った。
お前が見てたんだろうが。
「…………ねえ、オーハシ」
「どうした?」
「私だけすぐ負けたの……がっかりしてる?」
「え……?」
物憂げにアイスの溶け切ったコーヒーを見つめていた。
がっかり? 一体なにを言ってるんだ?
「みんなは上の方まで行ったけど、わたしは2回戦でボコボコにされたし」
「いやいや、むしろお前が初戦勝ったことは大金星だぞ?」
「…………」
釈然としない、ソフィの顔がそう語っていた。
「どうしてそんなこと思うんだ?」
「やっぱりわたしは、ダメな子なのかなって」
珍しいな。ミス・ポーカーフェイスであるこいつがこんなに不安げに弱音を吐くなんて。
「勉強も相変わらずだし、陸上でトップまで行けなかったし、ボクシングでも……」
「おいおい、ソフィはこれからだぞ?」
「新人戦も同じ結果だったら……」
「…………」
ソフィは深い溜息を付いて、窓を見つめた。
なんだよ、えらくネガティブだな。
「ソフィ……お前……」
今まで親に求められてきたハイレベルな要求を、1つも乗り越えたことのない自分を卑下しているんだ。
豪快なケツシバキで解決したと思っていたあの問題は、根本の部分では実は解決していなかった。
「わたし、ぼーっとしてるから、汗臭とか爆乳くるんくるんとか、エセギャルに全部遅れ取ってて……」
「オーハシのことも……」
「お、俺のこと?」
「ん、なんでもない……」
「……?」
もっと。
もっと、こいつと2人で話をしなきゃならないのかもしれない。
正直、インハイ期間中は勝ち残った3人のことで精一杯になっていた俺がいた。
でも、こいつは最後まで付いてきてサポートしてくれたじゃないか。
「ちょっと、青春しに行くか」
「せい……しゅん……?」
ソフィが目を丸くしながら首を傾げる。
俺はフッと口角を上げ、親指を立てた。
「ああ、青春しに行こう。ただし」
「この延滞金不詳のDVDを返してからな」
「ここは……」
「みなとみらいの公園だ。海が綺麗だろ」
「綺麗だけど……青春って」
「公園のベンチで海を見ながら語るなんて青春だろ?」
「えぇ……?」
俺は、ソフィを連れてみなとみらいまで来た。
臨港パーク。みなとみらいに降りてすぐ、海が一望できる広場のような公園が広がっている。
広がっていく海から、波の音がこだまする。
公園の芝生や、港の階段に腰を降ろして海を眺めるファミリーやカップルが所々にいた。
日曜日で人は多かったが、落ち着いていて喧騒とは程遠い空間だった。
小さい頃、よく親父のバイクの後ろに乗ってここに来たものだ。
「落ち着くだろ?」
「落ち着くけど……」
「ソフィ、強くなりたい理由ってあるか?」
「理由……」
指で唇を触れて、ソフィは海から膝へと視線を落とす。
「わたしは……ボクシングが意外と面白いなって思って……あとはオーハシが……」
「…………?」
「ないといえばないのかもしれない」
「そうか……」
楽しい。
それだけでいいんだ。
俺はソフィがボクシング部を辞めると言った時、たしかにそう言った。
しかし、本人が負けることに憤りを感じるようになった瞬間、それは少し変わる。
勝つための理由がないと、1対1の勝負は勝てない。
でも、それは彼女がこのスポーツにのめり込みつつある証拠であるとも信じている。
「勉強とボクシング」
「え?」
「その2つのどちらかで、親を納得させなきゃならないとしたら、どっちを選ぶ?」
「…………」
戦いを重ねれば、勝ちたい理由が生まれる。
まだ、彼女は始まったばかりなんだ。
「それは……ボクシングだと、思う」
「だったら、引退するまでに親が納得するような結果を残せばいい。そのために勝てばいい」
「…………」
「楽しむことを前提にして、負けたくない理由は頑固親父にもう無理矢理辞めさせられないようにするため」
「オーハシ……」
今はそんな理由でいい。
でも、こいつが全力で頑張りたいと言うのなら。
「夏はお前のことだけに集中できなかった俺がいる。でもソフィは強くなってる、次はみんなと一緒に戦える。その時、俺はお前ともっと一緒にいれるように全力を尽くす」
「…………」
黙り込んでしまった。
海からソフィに視線を向ける。
え?
「どうした……黙って俺の顔見て」
「……オーハシ……やっぱり……」
「みんなにそうやって言ってるんだろうけど……ずるいよ」
「オーハシとずっと話したの、初めてかもしれない」
「……そうかもな」
ジュースを片手に、恐らく3~4時間ほどは話していたかもしれない。
賑わっていたファミリーやカップルは殆どいなくなり、暗い海が静かに波音を立てていた。
「もう夜になっちゃったな」
「うん」
暗い空を、煌びやかなみなとみらいの夜景が照らしていた。
港には水銀灯のランプが点灯し、橙色の光が俺たちを包む。
「…………」
そして、涼しい風が肌に触れて通り過ぎていく。
「わたしね、オーハシがいるからボクシング部にいる」
「俺がいるから……?」
「うん。エセギャルが無理矢理わたしをあそこに連れてきて、オーハシが遊んでくれた」
「はは……最初はそんなんだったな」
「普段は冷めてるのに、弱ってる時に絶対一生懸命励ましてくれて、たまにちょっと熱血で、かわいくて」
「…………」
「わたし……そんなオーハシが――」
刹那、静かな海を渡る大きな船が汽笛を鳴らした。
「――――」
「…………ッ!?」
その瞬間を俺は忘れないであろう。
響き渡る汽笛に掻き消されたソフィの言葉と俺が漏らした声は、涼しい風にそのまま飛ばされてしまった。
「…………」
水銀灯の光で潤んだソフィの青い瞳と、地面に付かない細い足をパタパタと振る姿。
「ソフィ……」
「わたし、オーハシでいてくれる限り、絶対に強くなるから」
水面に写る三日月の前で、俺たちは目を合わせた。
頬を紅潮させながら、彼女が優しく、静かに微笑んだ――。
「オーハシは、ずるい男」
「な、なんだよ……」
俺たちは、あのあと駅まで二人で歩いていた。
人の少ない道を、ゆっくりを歩く。
「多分誰にでもいい男なんだ」
「言い方わりぃぞ、ジェントルマンと呼べ」
「まあ、わたしはドMだからそういうのも悪くないけれど」
「それはよかったね」
関係ある?
そういえば、こいつって……。
「ソフィって、なんでドMなの?」
「それ聞いちゃう?」
「いや……単純に気になって……」
「わたし、親があんな感じだから世間でいう箱入り娘っていうやつだったと思う」
「あー……」
たしかに、あの親父じゃ外出ひとつも許さなそうな家庭なのは想像もつく。
「だから……小学校の時とかも、先生も周りの大人もクラスメイトは、わたしには親切だった」
「気を遣ってたわけか」
「そう、だからわたしは優しくされることしか知らなかった。でも」
「でも?」
隣を歩くソフィがニヤッと笑う。
「小6の時に、1人の男の子がちょっかいを出してきたの。朝、顔を合わせるとわたしのことイジりに来たり、筆箱を奪ったり……」
ああ、それ思春期男子が好きな人にやるやつ。許してやってくれ。
「今まで、そういう風に扱われたことなかったから……びっくりした」
「中学でもその男子と同じクラスで、ある日の保健の授業で性教育の章をやっていた時に」
「子供ができる仕組みのページを見てたわたしに、その男子は言った」
「うわ! 星野えろいページ見てる! やーい淫乱! このビッチ! って」
「ひでぇな」
「わたし……今まで罵られることも、ましてやそんな汚い言葉で……なかったから」
「うん」
「なんか、すごいムラムラしたのを今でも覚えてる」
「なんでだよ」
脈略クラッシュすな。
その男子はどうしてもソフィの気を引きたかったんだろうな……ああ青春よ。
「初めてだったから……びっくりしたけど少し嬉しくて、クセになった」
「その男子がわたしを罵倒する度に、濡れた」
「もうやめろ」
何だこの話。散々こいつをドM開発しといてそいつは今どこで何してやがるんだよ。
「それで、Ⅿに目覚めたと」
「そう」
星野ソフィア、性癖爆誕秘話。完。
さっきまで可憐な女の子だったのにどこに行ってしまったんだ。
最後まで真面目に聞いた自分をぶん殴りたい。切実に。
『性癖とは常に抑制への反動である――』( 大橋拳弥 / 2003~ )
DVD、返せなかった。
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