第25話 ~予選編④ 奇跡とは、時に残酷である~
「これからの決勝戦だが……輪島さんのセコンドには俺がつきます。五十嵐のセコンドには柴田さんが入ってくれる形になります」
決勝戦の日。
控室に集まった俺は、これからのことを部員に告げていた。
準決勝からサポートに来てくれている柴田さんも、太い腕を組んで端っこに立っている。
長谷川さんのインハイ出場が決まり、一時はお祭り状態だった。
しかし、輪島さんと五十嵐の戦いが決まった瞬間、ボクシング部に緊張感が走り始めた。
合宿で組み合わせを発表した時のように、長谷川さんとソフィは心配そうな顔で俺に訴えてくる。
わかってる。わかってるよ。
「直前は、輪島さんと五十嵐の控室使用時間を分けます。そこでお互い最終チェックを済ませてください」
「わかった……!」
輪島さんが強く頷く。
五十嵐は、相変わらず浮かない表情をしていた。
「風音ちゃん、お互い頑張ろうね!」
「…………」
拳を握りしめ、輪島さんが笑顔で五十嵐に語り掛けた。
が、当の五十嵐は呆れたような表情を浮かべ、溜息をついた。
「風音ちゃん……?」
「…………部長」
壁に寄りかかっていた五十嵐がスッと輪島さんの前に立つ。
その目は、無機質な金属のようだった。
「勝負、舐めてんすか?」
「え……?」
糸がピン、と張るように彼女らの間を緊迫感が通り抜けた。
俺も思わず体が固まってしまう。
「この大会中、ずっと思ってたんすけど」
「ウチら、本気で殴り合うのにその態度でいいんすか?」
「……風音ちゃん」
「平和ボケしてるんじゃないんですか? これ、格闘技ですよ」
「…………」
俺たちは、確かに普段はゆるい雰囲気で接しあっているかもしれない。
だが、全国を何度も経験した五十嵐は、こんな時でも闘争心を出さない輪島さんに苛立っているというのだろか。
責任の重い試合をしていた俺も、実は五十嵐の気持ちは分からなくもなかった。
だが、一緒に頑張ってきた仲だ。そう簡単に敵視できない輪島さんの気持ちも……
俺、優柔不断かもしれない。
「…………」
こんな時、なんて声を掛けてあげたらいいのだろう。
どうやって割って入るべきなのだろう。
悔しくも、俺には分からなかった。
「大体、そもそもでウチの方が圧倒的に強いのに、ガチガチで来ないと1ラウンドで勝負つけるっすよ」
「戦う気がないわけじゃ……」
「お互い頑張ろう、とかそういう気を遣ってる場合じゃないですよ。だったら」
「…………」
無表情のまま、五十嵐が踵を返す。
そのまま、無言で控室を出て行ってしまった。
柴田さんも、無言のまま五十嵐を追いかける形で控室を出ていく。
静寂とした空間に、ドアの閉まる音が響き渡る。
「…………」
輪島さん、ひどく落ち込んでいるかもしれない。
下を俯いて、うなだれている。
きっと放心状態のはずだ。
「輪島さん、人それぞれの考え方があります。きっと五十嵐も――」
「むかつく……」
「え?」
刹那、俯いていた顔がキッと前に向けられる。
強く歯を食いしばる輪島さんの口から、歯ぎしりの音がギリギリと鳴った。
「むかつく……むかつく……ッ!!」
「…………ッ!?」
周りの部員たちが目を丸くする。
拳を強く握りしめ、前を睨みつけながら歯を食いしばり続ける。
「私の何が悪いわけ? しかもあんな言い方……むかつくむかつくむかつく……ッ!!」
「輪島……さん……?」
ああ。
確信した。
彼女はファイターだ。
本気の潰し合いが始まるんだ――。
「バンタム級決勝戦を行います。赤コーナー、相楽高校……五十嵐選手」
奥のコーナーから、五十嵐が赤いグローブを付けてリングに上がる。
こちらを一瞥すると、数発シャドーをして肩を回した。
「青コーナー、相楽高校……輪島選手」
「輪島さん、信じてます」
俺の声に無言で頷き、凛とした表情でリングに駆け上がる輪島さん。
青いグローブをギュッと握りしめた。
「ローブロー、バッティングは厳しく取るからね。ルールを守って正々堂々戦うように」
レフェリーが彼女らが向き合う間で注意事項を伝える。
「…………」
「…………」
その間も、一瞬たりとも目を離さずに睨みあっていた。
「輪島さんじゃ、まだウチには勝てないっすよ」
「…………勝つから」
ブレイクすると、輪島さんがニュートラルコーナーに戻ってくる。
2度大きく飛び跳ねると、グローブを構えファイティングポーズを取った。
始まる。
「ファイッ!」
ゴングの音が鳴り響く。
音と共に、2人の距離がグッと縮まった。
グローブを合わせ、もう1度距離が離れる。
互いにステップを踏みながら、睨みあう。
「きっと一気に仕掛けてくる! 距離感気を付けてください! 輪島さん!」
「おい五十嵐ィ! 嫌がるとこ突いていけよー!」
俺と柴田さんの声が両サイドから交錯する。
正直、仲間同士で2対2になって争うのは違和感だ。
インファイトに持ち込まれたらきっと滅多打ちにされる。
五十嵐も、背が高くリーチの長い輪島さんと中長距離戦は絶対にしたくないはずだ。
まずは、輪島さんが準決勝から解禁したフリッカージャブで五十嵐をけん制し始める。
左手をだらりと下げ、足を動かし距離を取りながら左をコツコツと当てる。
「……シッ!」
「――ッ!」
刹那、鞭のようにしなるフリッカージャブの間を五十嵐が俊敏な動きですり抜けた。
一気に距離を詰め、至近距離でジャブ、右フックと2発を顔面にクリーンヒットさせる。
連打を避けようと、咄嗟に輪島さんが左ボディを打つ。
当たりはしたものの、下がりながら打ったボディは有効打にならず。
再び、距離が生まれる。
1ラウンド目は、五十嵐が距離を詰めて連打に持ち込む、それを輪島さんがカウンターで何とか止める、という流れの繰り返しだった。
どちらも未だに強い攻撃を喰らわせることはできていなかった。
いや、むしろ五十嵐とここまでほぼ互角というのは、紛れもなく輪島さんの成長だった。
「ファイッ!」
2ラウンド目のゴングが鳴った。
「お姉ちゃん! がんばれー!」
「…………!」
後ろから、聞き覚えのある声が聞こえる。
思わず振り返ると、あの時サッカーをして遊んだ輪島さんの弟2人が声を出して応援していた。
「あいつら……負けらねぇな、輪島さん」
弟たちの声が聞こえたのか、輪島さんの表情はさらに引き締まった。
1ラウンド目、思いのほか五十嵐が勝負を決めに行こうと畳みかけにいっていたため、輪島さんのスタミナは五十嵐ほど削れていなかった。
ここで削り切れば……。
今は輪島さんが勝つことだけを考える。
俺はこの試合中、ずっと自分に言い聞かせていた。
「輪島さん! 相手に打たせてもいいです! 相手の足を動かしましょう!」
「…………ッ!」
リング上を、輪島さんが大きく回りだす。
接近しようと前に出る五十嵐を、フットワークを駆使して翻弄していければ……。
「シッ!」
「ぐっ……!?」
しかし、試合勘の鋭さはやはり五十嵐にあった。
輪島さんの踏み込む先を予想し、いち早く潜り込みパンチを放つ。
一気に距離を詰められた輪島さんは、コーナーに追い詰められ4発、5発とコンビネーションを喰らう。
「回るか手を出せ! 輪島さん! 頭は下げるな!」
俺も思わず怒号を発する。
ここで連打され続けたらレフェリーストップの可能性もある。
「シッ!」
なんとか、ジャブを突き出し五十嵐から逃れる。
逃れたあと、フリッカージャブで足を止め、右ストレート、左アッパーと大振り気味ではあるが何とか五十嵐に命中させる。
多少は効いたかもしれない……が、耐えることにもスタミナは消耗する。
ダメージもスタミナも輪島さんの方がピンチになってしまった。
ポイント的には……まだ僅差だろう。
なんとか耐え忍んで判定に持ち込むしかないか?
お互い、肩で息をし始める。
五十嵐はまだ強打という強打を打っているわけではない。
命中率で言えば軍配はアイツに上がるが。
しかし、輪島さんもしっかり五十嵐の攻撃に合わせて反撃をしている。
今度は、輪島さんから仕掛けた。
これまで距離を取ろうと動いていた彼女が、キュッと前に潜り込み、左ボディを放った。
瞬時に、左フックへと移行する。
「…………ッ!」
五十嵐の頭が汗の散りと共に少し上がった。
今しかない。
畳みかけようと、輪島さんがワンツーアッパーとパンチをまとめにいく。
「いけ! 輪島さんッ!」
しかし。
「ぐあぁっ!!」
輪島さんの右ストレートを、ダッキング――上体を前に屈めて回避した。
右の拳は五十嵐の頭上を通過した。
そして、ダッキングをしたまま、五十嵐は左足を大きくバネのように踏ん張った。
溜めを作ったそこから、大きく跳ねあがるように腕を振り上げる。
フックとアッパーの中間位置くらいの軌道で、その左拳は輪島さんの頬に突き刺さった。
顎が上がり、よろめく輪島さん。
そのまま、足がもつれて片方の膝をリングに着いてしまう。
「ダウン!!」
「…………ッ!!」
――ガゼル・パンチだ。
ダッキングから大きく踏み込んで、フックとアッパーの中間の軌道で下から力強く拳を振り上げる。
アクションが大きいため当てることは難しいが、命中した場合のダメージは底知れない。
「1、2、3……!」
「ハッ……!?」
我に返った輪島さんが、急いで立ち上がる。
前に立ちはだかるレフェリーの目をジッと見て、ファイティングポーズを取った。
「7、8……」
俺もいつでも処置に入れるよう、リングに手を掛ける。
いけるか……?
レフェリーが輪島さんの腕を掴み、リング中央へと移動させる。
レフェリーストップにはならなかったようだ。
「ファイッ!」
「やめてもいいっスよ」
「うるさい……やるもん……!」
きっと一瞬記憶が吹っ飛んだレベルのダメージだったであろう。
なんとか試合は再開されたが、やはり先ほどまでの勢いは失われていた。
再びグローブを合わせ、五十嵐がジャブでけん制する。
輪島さんは距離を取りながら、タイミングを伺っている。
「…………」
逆サイドにいる、柴田さんと目が合った。
柴田さんは、俺を怪訝そうな目で見つめていた。
一体、なんだってんだ……。
「はぁっ……はぁ……大丈夫だよ、大橋くん」
「次が最終です。気持ち強く持っていきましょう、判定ならまだ――」
「大丈夫。私、強いお姉ちゃんになったから」
「…………!」
2ラウンド目終了後のインターバルにて、目を腫らせた輪島さんが静かに微笑んだ。
その微笑みとは裏腹に、額からは大量の汗が噴き出している。
逆サイドで座る五十嵐も、体力を削られたのかひどく消耗している様子だった。
「おねえちゃーん!!」
「あっ……!」
後ろから、手を振って応援する弟2人の声が響いた。
振り返った輪島さんは、静かに笑ってグローブをぐっと掲げた。
この人を、負けさせたくない。
俺の中で、そんな想いが沸々と生まれていた――。
最終ラウンド終盤。
輪島さんは追い込まれ切っていた。
このまま攻撃を受け続けたら、恐らくレフェリーストップがかかる。
それくらいにダメージを負っていた。
やはり、彼女は気持ちが強い。
あのダウンから勢いは落ちたものの、なんとか手数は保っていた。
だが、まだ1つだけ勝てるかもしれない理由があった。
「シッ、シッシッ!!」
「くっ……ハァッ……!」
右ボディ、左ボディ、と素早くリズムのよいボディ2連発が輪島さんを襲う。
ここにきてボディが鋭く刺さるのは悶絶ものだ。
耐え忍び、ジャブで五十嵐を押し切り潜り込ませないようにする。
そして、なんとか長い腕から伸びた右フックが五十嵐の顔面に命中する。
「――ッ!」
しかし、五十嵐への右フックはダメージとはならず、押し返して一気に接近させた。
再びコーナーで連打を浴び始める。
「輪島さん! いけますか!?」
「…………ッ!」
俺の声に、輪島さんが小さく頷いた気がした。
五十嵐のダメ押しの右フックを、なんとか潜って避ける。
そして。
「――ッ!?」
五十嵐の目には驚愕の色が浮かび上がっていた。
右フックを回避した輪島さんは、そのままリングへとしゃがみ込んだ。
レフェリーでさえも、目を見張った。
「りゃああああぁっ!!」
しゃがみこんだ輪島さんの足が、大きくバネのように踏み込まれ、刹那勢いよく飛び上がる。
リングにもはや足が着いていないほどに飛び上がった輪島さんの右拳が、五十嵐の顎を目掛けて突き刺さっていく――。
――カエル・パンチ。
「うぐぁっ……!?」
輪島さんがこの大会のために習得した技はもう1つあった。
それが、しゃがみこむまでに体を沈ませ、相手の死角から跳ね上がりながら放つアッパー、通称カエル・パンチ。
顎を突き上げられた五十嵐が、そのまま後ろへとよろめき、ロープにバウンドする。
何が起きたか分からない、と言いたげに狼狽する五十嵐の前にレフェリーが素早く立ちはだかった。
「ダウンッ!!」
ダウンを取った。
輪島さんは荒い呼吸をしながら、静かに五十嵐を見つめる。
「1、2、3……」
ローブに寄りかかったままの五十嵐。
「4、5、6……」
輪島さんが俺の顔をチラッと見た。
お互い、小さく頷いた。
「7、8……」
「…………ッ!」
去っていったレフェリーの後ろには、大粒の汗を垂らしながらファイティングポーズを取る五十嵐がいた。
キッと輪島さんを強く睨みつけていた。
「ハァ……ハァ……やってくれんじゃねぇかよ、部長……ッ!」
「私、絶対負けない」
「ファイッ!」
試合が再開された。
一目散に襲い掛かってくる五十嵐。
一瞬、その勢いにたじろぐも、後ずさりながら輪島さんも応戦した。
最終ラウンドは残り30秒。
完全なる乱打戦が始まった。
もはや、お互いガードを忘れているのではないだろうか。
それくらいに、打ち合っていた。
徐々に会場の声援を大きくなっていく。
これが本当にアマチュアの試合なのだろうか。
互いの顔面が何度も上や横に吹き飛ばされる。
しかし、目を離さずにひたすら打ち合っていく。
「…………ッ!!」
1打、強いストレートが輪島さんの額を捉える。
よろけて、彼女の体はロープにバウンドした。
「輪島さん……ッ!!」
手は、汗でぐしょぐしょになっていた。
自分の声が枯れていることに気付かないくらい、俺は叫んでいた。
「私……負けない……ッ!」
ロープにバウンドした彼女の体は、再び五十嵐の連打に鞭を打たれる。
右フックが顔面にクリーンヒットし、輪島さんの腕が脱力して完全に下がった――。
「ストップ!ストーーップ!!」
刹那、二人の間にレフェリーが体を割り込ませた。
遅れてゴングの音が強く打ち鳴らされる。
輪島さんが、ロープに体を寄りかからせたまま、ぐったりとリングに尻を付いた。
「おねえちゃーん!おねえちゃん!!」
後ろから涙交じりの枯れた声が聞こえる。
輪島さんは、うなだれまま、振り返らず背中を向けてグローブを弱々しく掲げた。
「輪島さんッ!!」
俺は急いでロープを潜り彼女に駆け寄った。
「輪島さ――」
倒れてから、初めて顔が見えた。
その顔は、唇を強く噛んで、嗚咽と共に大粒の涙を流していた。
「悔しい……悔しい……ッ!!」
ヘッドギアに涙が溜まる。
リングを、ギュッと握りしめた。
その目の前で、五十嵐が俺たちを見下ろしていた。
「五十嵐――」
「……部長、ありがとうございました」
「……ッ!」
立ち尽くす五十嵐の目には、涙が溜まっていた。
その涙が頬を伝る前に、彼女は踵を返しレフェリーに腕を掲げられた。
「バンタム級決勝戦、五十嵐選手のTKO勝利です」
アナウンスと共に、拍手がこだました。
こちらを振り返ることなく、柴田さんに手を差し出されてリングを降りていく。
「輪島さん、立ち上がれますか」
「うん……大丈夫……」
彼女の腕を肩に回し、立ち上がらせる。
「輪島さん……あなたは強いお姉ちゃんです」
「うっ……ぐ……ありがとう、大橋くん」
輪島さんを抱えたまま、ロープを降りようとした時。
目の前を、柴田さんと五十嵐が通り過ぎた。
二人が、俺の前で足を止める。
「部長、まだやれるって目してた」
五十嵐が小さな声で呟く。
しかし、それを静止して柴田さんが前に出て口を開いた。
「レフェリーより先に……タオルを投げるべきだった、お前は」
「…………!?」
「お前は選手としては天才だったが、ボクサーを支えることの意味を分かってない」
「出直せ」
「…………」
それだけ告げると、2人は控室へと歩いていく。
視界の隅に、こちらに向かって走ってくる長谷川さんとソフィが映っていた。
「大橋くん……私……まだ強くなるから」
「はい……」
柴田さんの、時々俺に突き刺してくる言葉。
その意味が、ここにきてやっと沸々と理解できるようになってきた自分に。
情けなさと、苛立ちが止まらなかった。
「俺は……」
腕を押さえて歩く輪島さんを、支えながら控室へと歩いていく。
俺は。
こいつらを。
強くする立場であると同時に、
守る立場なんだ。
騒がしい会場の声が何も聞こえなかった。
俺たちにとって初めての夏。
インハイ出場を決めたのは長谷川さんと五十嵐。
輪島さんの快進撃。それは奇跡的だった。
だが。
奇跡とは、時に残酷である。
そして、インハイ予選の幕が降りた――。
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