第20話 ~夏合宿編③ ボクシングはドMこそ最恐である~

「あっ……」


 昨夜の大事件も明けて、晴天がこの旅館を照らしていた。

 青森の心地良く涼しい空気が吹き込んでいた。


 旅館共用の古びたランドリールーム。

 昨日はあの事件のせいで練習着を洗濯できていなかった。


 早朝5時。

 みんなより早く起きて洗濯をするつもりだった。


 の、だが。


「あっ……大橋くん……」

「…………」


 そのランドリールームに、何故か下半身だけ何も着ていない輪島ひかりが立っていた。

 え、なんで上はブラジャーだけで下なにも穿いてないの?


 輪島家ってそういう文化なの?


 俺は入口、輪島さんは洗濯機の前。

 お互い、体が硬直して動けずにいた。


 最大のツッコミどころがあるからだ。


「てかなんで……俺のパンツ顔に押し当ててるんですか?」

「…………」


 そう。

 輪島さんは、下半身丸出し。

 右手で何故か俺のパンツを顔に押し当て、左手を股の間へ、滑らせていた。


 ふーん、そっちのシャドーボクシングの時はサウスポーなんだ?

 とか、ふざけたことすら口から出てこなかった。


「あの……輪島さん」

「はい」


 パンツの布から、チラッと顔を出す。

 新しいよ、新しんだよ、光景が。


「何してるか、一応聞いてもいいですか?」

「はい」


 なんで冷静なんだよ。

 そしてなんでちょっと怒ってるんだよ。


 多少我に返ったのか、彼女は白いパンツに足を通し、洗濯機に掛けてあった浴衣に袖を通した。


「見れば分かると思うんだけど……大橋くん」

「え、なんか怖いんですけど」


 洗濯機の鈍い振動音が響く。

 輪島さんは真顔のまま、俺の目の前へとゆっくり歩いてくる。


「…………」

「…………」


 生物のオス同士の戦いが始まるように、ゴングが鳴る直前のように、睨みあっていた。


 刹那、輪島さんの顔が真っ赤になり、勢いよく口を開いた。


「大橋くんが! 他の子に手出すから!! 拗ねてたの!!!」

「…………」


 俺は唖然としていた。

 だからランドリールームで俺のパンツをオカズにオナニーしてたの? え?


「え、それって……」

「ばか! ばかばかばか! ムカつくからパンツ奪ったの!! ばか!!」

「えぇ……」


 なんかちょっと可愛く思えてきた。

 病気かな?


 赤くなった頬を膨らませて唇を尖らせている。

 とりあえずパンツ返してくれないかな?


「あの時ぎゅーされてドキドキした私の気持ちなんて虚しいったらありゃしない……!」

「す、すいません……」

「エモーショナルオナニーだよ!エモーショナルオナニー!!」

「なにそれ初めて聞いた」


 輪島さんがこんなに感情を剥き出しにしてくるのは、あの部屋に行ったとき以来かもしれない。


「はい、パンツ」

「あ、ありがとうございます……」

「ここでしてたこと……絶対誰にも言っちゃだめだよ?」

「絶対に言いません、誓います」


 やっと笑ってくれた。

 そしてパンツも返してくれた。


「ふふっ……今日も練習がんばろーね」

「はい、頑張りましょう」


 頬を、ツンと指さされる。


「…………?」

「昨日のことは、忘れたげる」

「は、はあ……」


 たまに年上お姉さんな部分出してくるんだよなぁ、この人。







「長谷川!ブン回し過ぎだ!カウンターしてくださいって言ってるようなもんだぞォ!」

「わかりましたわ柴田さん……はぁっ……はぁっ……!」


 2日目。

 昨日はフィジカルトレーニングがメインだったが、今日はひたすらスパーリングをするらしい。


 大学生とも悪くない戦いをする五十嵐から、初心者のソフィまで全員参加である。

 柴田さんから飛び交う怒号に、全員汗を噴き出しながら応えていく。


 ウチよりも古びた黄ばんだリングで、今日も30人ほどが機敏に動き回っている。


 長谷川さんのスパーリング相手は、体格が同じくらい、つまり170cmでガタイも同程度の大学生女子。

 ウチにはそんな選手はいないため、同じくらいのリーチとパワーで来る相手に距離感を掴めずにいる。


「長谷川さん!ガードを固めて、相手に打たせてもいいです!スタミナを奪いましょう!」

「こっちが振るだけじゃ先に消耗しちゃいます!」


 思わず、俺も端っこから声を飛ばす。


 たしかに、重量級は軽量級に比べて動きも少ないしパンチの回転数も少ない。

 だから怖いんだ。


 プロは強さ、アマチュアは上手さが大事とも言うが、重量級の場合はプロアマどちらでも1発は怖い。

 動きが少ない分、ガードを固めていないと1発でダウンするような狙いすましたパンチを喰らってしまう。


 長谷川さんが先手で大振りな左フックを打ち、ディフェンスした相手がすぐさまボディに上手く当てる。


「ぐっ……!?」


 さすがに悶絶の表情だ。


 長谷川さんの左腕は高校生女子ではあり得ないくらいのパワーがある。

 しかし、ウチでは同じ階級の選手と練習したことがないため打たれ弱くもある。


 この合宿で、感覚や相手のパンチの威力を認識すれば、きっと高校生相手なら左を生かせる。


 当たれば勝つ、なんてギャンブル的な考えだ。

 まずは当たっても大丈夫な状態を作る方が、何倍もリスクヘッジできるだろう。


「シッ……!」

「ぐっ!?」


 ナイス。

 たしかに時たま相手に当たった時に関しては、相手もダメージを隠しきれていない。

 7年程度やっているであろう相手でもあの左は受けたら苦痛なモンだ。





 中級者と上級者は意外と見分けにくいものだが、素人と初心者は明らかに違う。

 ソフィも、圧倒的な成長をしているように見えた。


「星野!回れ!回って打て!」

「ふっ……はぁっ、ふぅっ……!」


 しかしまだ、このハイレベルな環境ではやられっぱなしである。

 体重がもう少し増えるまでは辛い思いをすると思う。


 しかし、ソフィはダウンしない。

 このラウンドも、幾度も幾度も強烈なボディやストレートを喰らっているはず。


 そして、ボディを喰らったあと、たまに少しニヤける。

 これは恐ろしいモンスターを発見してしまったのかもしれない。


 ボクシングは、ドMこそ最恐であるかもしれない。


「ソフィ!ジャブをもっと出せ!」


 左を制する者はボクシングを制する。と言われるほどジャブは大事だ。

 まず、けん制のジャブで距離を測る。

 そして、後は飛び込むタイミングを考える。


 ラッシュを喰らってしまった際に、ジャブで相手を押しのけながら回り込むこともできる。

 便利な弱攻撃、みたいなものだ。


 あとは、単純に実践に慣れるだけだ。

 インハイ予選、1回戦勝てるといいけど……。


 端っこから延々と声を出しているものの、

 俺に課せられた筋トレもまた、延々と続くのであった――。







「ありがとうございました!」

「「したッ!!」」


 先日のデジャヴのように、揃った声が練習場内に響き渡る。


「………………」


 そして、ウチの部員が全員汗だまりの上で突っ伏しているのもまたデジャヴであった。


「五十嵐、輪島さん」


 1つ違うのは。


「どうした大橋ィ……ウチは死にそうなんだ」

「大橋くん……なにかあった?」


 こいつらに、話さなければならないことがあるということである。







「順当に勝ち進んだら、輪島さんと五十嵐は決勝で当たります」


 昨日は賑やかだった和室内に、沈黙が走る。


 俺は、茶色いテーブルの上にインカレ予選のトーナメント表を広げた。


「決勝で……」


 五十嵐が小さく呟く。

 輪島さんは無言でトーナメント表を見つめていた。


「長谷川さんはライトウェルター級、ソフィはピン級で変わらず行きます」


 名前を呼ばれた二人が心配そうに俺を見つめた。

 わかってる。


「五十嵐と輪島さんは前に話したように、バンタム級で出ます。決勝まで行かないと当たらない、というのは幸いと捉えるかどうかは……」


 俺も正直、話が上手くまとまらなかった。

 誰のせいでもない。これは仕方のないことだから。


「ただ、神奈川県大会で決勝に行くだけでも正直かなり難易度は高い……まずはここまで勝ち上がれるよう頑張るしかない」


 それしか言えることはなかった。

 意外にも、無言だった輪島さんが静かに微笑んだ。


「うん、頑張ろうね! 風音ちゃん!」

「そ、そーっすね……お互いぶちかましましょう」


 この夏合宿が終わったら、インハイ予選まではもう1か月しかない。


 輪島さんも、この2か月ちょっとでかなり伸びた。

 運動神経の悪さを懸念していた割には、スパーリングでは戦えている方だ。

 手足が長いため、段々と戦い方を覚えていけばボクサーとしては有利この上ない。


 五十嵐は……この合宿でもう一皮化けたらインハイ出場は確実だと思う。

 ただ、高校にはもっと体が出来上がっている選手がいる。油断はできない。

 こいつが実際の試合でどれだけ出来るヤツなのかは知らないが、あの喧嘩を通して、前より練習に真摯になった。


 二人の顔を交互に見る。

 この二人よりも、ソフィや長谷川さん、俺の方が心配そうな顔をしているかもしれない。


 俺らがこんな顔するべきじゃないか。


「よし! 柴田さんに頼んで、最終日はマンツーの時間を作って細かいテクニックを教えてくれることになった! 課題は分かったと思うから、明日はそこを重点的に鍛えよう!」

「うん!頑張るぞー!」


 こういう時、元気よく返事してくれるのは輪島さんだけなんだよなぁ。


 明日は個々の課題点を何としても改善する。

 いや、柴田さんに改善してもらう、が正しいか。


 俺は明日も筋トレですかね……?



 俺はボクサーとしてしかボクシングを見てこなかった。

 傍観者や、サポートをする立場だったことはないし、いつも自分がプレイヤーだった。


 でも、熱くなっていた。

 きっと、こいつらのインハイのために俺はいくらでも頑張ると思う。


 だが。


 俺はまだ、分かっていなかったんだ。



 ボクサーを支える立場の人間が、どうあるべきかを――。



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