第17話 長谷川編② ~今は、わたくしだけを見てくれますか?~

 ――梅雨の到来を伝えるように、降り注ぐ冷たい小雨が地面を弾いていた。


 今日は土曜練習。

 練習開始時刻の10時を過ぎたが、人数が1人足りない。


「よーし、じゃあ練習始めるよー!」


 輪島さんの声が練習場内を反響する。

 他のメンバーも腰を上げ、中央に集まりだした。


「え、長谷川さんは?」

「大橋くん聞いてないの? 麗ちゃんは今日病欠だよ」

「病欠……?」

「うん……風邪引いちゃったみたいで。最近ちょっと元気なかったし……」


 あの件からまだ数日も立っていない。

 なにかと気にかかる。


「あの、お見舞いとかは」

「あ! 大橋くん誘ってなかった! ごめん~、もうみんなで行っちゃったんだ~」

「え?」


 輪島さんが丸い目を潤ませて手を合わせる。

 え、まじ?


「いつのまに行ったんですか!?」

「今日の練習前、私と風音ちゃんとソフィちゃんで……」

「なん……だと……」


 申し訳なさそうに俺を見る輪島さん。


 女子部員たちがみんな仲良さそうでお兄さんは何よりです。

 俺という存在がみんなから薄れても、お兄さん泣かないからね。


 全然、悲しくなんかないんだからね。


「そ、そうですか……じゃあ、練習始めましょう」

「大橋くん、練習後はお見舞いに行くの?」


 置いていったくせに聞いてどうするってんだ。

 心配だし、お節介かもしれないが何か買っていこう。


「うーん……そうしようかな、とは」

「そっか~、1人で麗ちゃんの家に行くの?」

「まあ一応」

「……みんなで行くときに連れていけばよかった~」

「ん、どうしました?」

「ななな何でもないよ!さあ、始めよっか!」


 結局なんて言っていたのかは分からないが、頭の片隅に長谷川さんのことが残ったまま、練習がスタートした。







「ええと……このマンションだな」


 小雨はまだ止んでいない。

 風邪も強く、傘を差してもあらゆる方向から水しぶきが襲い掛かってくる。


 彼女の家の前にようやく辿り着いた。


「さすが、でかいマンションだな」


 高級タワーマンションの35階。それが長谷川さんの住んでいる部屋だった。

 おそるおそる、インターホンを押す。


 10秒ほど待つと、インターホンから声が聞こえた。


「はい」

「あ、大橋です。お疲れ様です……色々、買ってきました」

「えぇっ……? と、とりあえず中にいらっしゃいまし……」


 通話が切れる音と同時に、ガラス張りのオートロックが開放される。


「…………」


 コンビニで買った食品や飲料の詰まった袋を片手に、俺は中へと吸い込まれていった。






 部屋のドアが開き出迎えてくれた長谷川さんは、

 白色のもこもこ生地なパジャマを着て、フードを深く被っていた。


 意外とこういうスイートなパジャマ着るんだな……。


「体調はいかがですか?」

「うーん……だいぶマシにはなったのでございますが……」


 中へと通される。

 生活感のない広い一室だった。


 大きなテレビ、白色の革ソファに黒いテーブル。

 リビングには余計なものが一切見当たらない。


 俺が思わずキョロキョロしながら立ち尽くしていると、彼女は心配そうに口を開いた。


「お父様とお母様は別居しておりまして、わたくしとお父様でここに住んでいるのですが……」

「ただ、お父様は多忙であまり帰ってこられませんので、ほとんど1人暮らしですわ」


 こんな広いマンションに1人暮らしか。

 毎日買ってるAVはどこに収納されているのだろうか。


「どうぞ、お掛けになって」

「あ、ありがとうございます。失礼します……」


 面接?

 とでも言いたくなるように、俺は緊張しつつソファにそっと腰を掛けた。


 大きく身体が沈む。


「わざわざお見舞いなんて、大丈夫ですのに」


 弱々しく、クスッと彼女は笑った。


「あ、そうですわ。紅茶かコーヒー、どちらがお好き?」

「お見舞いに来ただけなので気遣わなくて大丈夫ですよ!」

「いえいえ。せっかくお越しになったのですから……」

「ほ、本当に大丈夫ですよ!なんなら俺が――」

「遠慮なさらずに。座っていてくださいませ」


 立ち上がり制止しようとするも、てのひらを向けられる。

 座っていろ、と合図され俺は再びソファに腰を掛ける。


 この人は、こんな時くらい受け身になればいいのに。

 って、俺が押しかけて来ちゃったんだもんなぁ。


「午前中は、ひかりんたちが来ましたのよ」


 キッチンから声が響いた。


「聞きましたよ……あいつら俺をハブにしやがって……」

「ふふ……同情しますわ」

「しなくていいですよ。ていうか、輪島さんのことひかりんって呼ぶんですね」


 長谷川さんの性格からして、そういったコミカルなあだ名で人を呼びそうにはない。

 少し、意外だった。


「ああ、そうですわね。中学から同じですので……親しみがあるんですわ」

「そうだったんですか?」


 それは初耳だ。

 中学時代からあの二人は仲が良かったのか。

 で、二人仲良くボクシング部の門を叩いたと。


「へぇ、その2人が仲良くなる経緯とか気になりますね。組み合わせが意外なので」


 パッと見、あまり同じグループにはいなさそうというか。

 どちらも中学時代はボクシングという共通点もなかっただろうし、今のところ変態という点しか共通点しかない。

 しかし、その変態の点においても、臭いフェチと童貞フェチじゃ気は合わないだろう。


「ひかりんは……恩人ですわ」

「え?」

「いえ、なんでもないですわ。熱いのでお気をつけてくださいませ」


 話しながら、長谷川さんがキッチンから歩いてくる。

 片手には白いマグカップに入ったコーヒー。


「ああ、本当にすいません。ありがとうござ――」

「きゃっ!?」


 一瞬、彼女がふらついた。

 持っているマグカップが、大きく傾く。


 液体が大きく波打ち、その半分はマグカップの外へ。


「あっつ……ッ!?」


 宙に舞ったコーヒーは俺の腹部やヒザへと降り注いだ。


「ミスター拳弥!? ごめんなさい!火傷はしておりませんか!?」


 慌てふためいた彼女が、俺の腹部やヒザに掛かったコーヒーを拭き取ろうとする。


「い、いえ……火傷はしてないと思います」

「本当にごめんなさい……」


 膝を付き、頭を下げる。

 その顔は今にも泣きだしそうであった。


「やっぱ体調万全じゃないのかもしれませんね……」

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「…………」


 目に涙を溜めながら、彼女は謝り続ける。

 いたたまれなくなった俺は、彼女に笑顔を向けた。


「俺は大丈夫ですから……元気出してください、元気ではないでしょうけど」

「で、でも……お洋服が」


 シャツとジーンズが茶色に染まっている。

 これは……放置すると取れなくなるやつか。


「ええと……」

「今からお洗濯いたしますわ!服をいただいてもよろしいですか?」

「え、いや、代えとかないですし」

「Tシャツとハーフパンツくらいならありますわ、さあ早く!」


 言われるがままに、シャツとジーンズを脱ぐ。

 濡れたシャツとジーンズを受け取り、洗濯機までパタパタと走っている。


「…………」


 俺パンイチなんだが?


 だだっ広いリビングの白い革ソファにパンイチで座る男の姿。

 なんてシュールな光景なんだろう。


 またもやパタパタと小走りで戻ってくる。

 その手には、代えのTシャツとハーフパンツが握られていた。


「ミスター拳――」


 俺のパンイチ姿を見て、頬を赤らめながら一瞬目を逸らす。

 自分から脱げと言ったんじゃないか。


「コホン……こちらに着替えてくださいませ」

「ありがとうございます」


 そっぽを向いたままの長谷川さんから代えの衣類を受け取る。

 あ、フローラルの香り。


「本当に申し訳ないですわ……洗濯が終わるまでご自由にくつろいでくださいませ」

「は、はあ……わかりました」


 着替え終わりソファに腰を掛ける。

 長谷川さんも、溜息を付きながら俺の隣に腰を掛けた。


「テレビは付けなくていいのでございますか?」

「あー、テレビあまり見ないので」

「さようでございますか……」


 隣に座ると、ふわっと髪からシャンプーの香りがする。

 お風呂入ったばかりなのかな……。


 というか……近くで見ると長谷川さんって。


「わたくしの顔に何か付いていますか……?」

「あ、いや! ほんと綺麗な顔してるなって!」

「え……?」

「あっ」


 間違えた。

 俺は時折、思ったことを口に出してしまうことがある。


 直したい。切実に。


 唖然としながら俺の顔を見つめる。

 その頬は、次第に赤く染まっていく。


「か、風邪ですので顔が少々熱いですわ……あー冷たいものが飲みたいですわ~」

「…………」

「ミスター拳弥、本当に……そう思ってる?」

「え?」


 目が合った。

 もこもこのパジャマを萌え袖にしている手が、俺の手に一瞬触れた。


 こ、これは……。

 鼓動が早くなっていくのを感じる。


「…………」


 しかし、その手はすぐに引かれてしまった。

 彼女は目を逸らし、天井を見上げた。


「……何でもないですわ……だってわたくしは――」

「それ、もうやめましょう」

「…………?」


 ――脇役ですから。


 きっとそう言おうとしたんだ。


 彼女に顔を近づけ、目をジッと見つめる。

 驚いた表情で彼女も見つめ返す。


 静寂が続いた。


「長谷川さん、自分が主人公か脇役かなんて……考えるのは意味ないです」

「な、なんですのいきなり……別に説得されたいわけじゃないのですが」


 少しムッとする。

 俺はお構いなしに言葉を続けた。


「あなたはどうしてボクシング部に入ったんですか」

「わ、わたくしは……ひかりんが恩人だからですの」

「さっき言ってた話ですね」

「そうですわ……ひかりんだけは、いじめられて孤立していたわたくしと仲良くしてくれたのです」

「だから……彼女と同じところにいたいですし、力にもなりたいのですわ」


 輪島さん、あの人……。

 五十嵐に救われただけの人じゃない、こうして誰かを救ってるじゃないか。


 自分は付いてきただけだから主人公じゃない。

 きっとそう考えているのだろう。


「俺だって脇役です」

「え……?」

「俺だって……自分でボクシングができなくて悔しいに決まってる」

「みんなが試合に向けて頑張ってる中、俺だけはもう傍観者で、卑屈になるときがある」


 そうだ。


 俺だって、まだボクシングができるなら、世界を獲るまで人生を賭けたかった。

 でもできないから、お前らに託してるんだ。たとえそれがエゴだとしても。

 1番の負け犬で脇役は俺だ。


 でも。


「人は誰しもが主人公でありたいっていう傲慢な気持ちを持ってる」

「わ、わたくしは!」

「いつでも、どんな時でも脇役なんですか?」

「え……?」

「今日だって、あなたのためにみんながお見舞いにきた」

「自分が弱っている時や活躍している時くらいは、幸福を受け入れたらどうですか」

「…………」


 彼女は下を俯く。


「いつでも自分を見て欲しいなんていうのは傲慢だ。でも、あんたのことを気にかけてくれて、好きだと言ってくれる人がいる以上は、脇役脇役言ってるのは……むしろ失礼だ」

「このボクシング部では俺にとってあんたは脇役なんかじゃない」


「…………それは綺麗事ですの」

「いや、違うね」

「いろんな時に、あんたの気遣いに助けられた。五十嵐の時だってそうだ……」

「だから、脇役なんて言わずに、あなたに対する恩返しを受け入れて欲しい。そこまで思えるくらいの……」


「素敵な、先輩です」

「――ッ!?」


 目が見開いた。

 俺の目を見て固まっている。


「でも……でもわたくしは……」

「はい、次それ言ったら襲いますよ?」

「ふ、ふしだらな……!」


 目が合って、二人で笑い出してしまう。

 表情が一変して緩くなった。


「わかりましたわ……そこまで言ってくれる人、いなかったから」


 正直、天才と呼ばれていたところからマネージャー兼雑用係まで堕ちた俺からすれば、自分を脇役だと卑下する気持ちは分からなくもない。


 でも、たまには自分を主人公だと思わなければ、人のためだけに動いて壊れてしまう。


「じゃあ」


 長谷川さんが突然、俺の頬に手を当てる。


「な、なんですか……?」


 え、さっきまでと顔つきが全然違うんだが。

 とろけそうな目で俺を見つめている。


「今は……わたくしだけを見てくれますか?」

「えっ……!?」


 頬を赤く染めながら、妖艶に微笑んだ。


 え、待って何が起きるの?


 片方の手が、俺の腰に回される。

 俺も思わず手を彼女の腰に回した。


 そして、その大きな柔らかい胸が俺の胸部へと押し付けられる。

 より強くなるフローラルの香りと、柔らかな感触。

 あ、これは俺もう……。


 目を瞑り、彼女の唇へと――


「ち、ちがいますから!」

「んぎゅっ!?」


 手で顔を押さえつけられる。

 彼女は、ぷくっと頬を膨らませていた。


「それはさすがに照れますわ。なに本当に襲おうとしてるんですか……これだからヤリチンは」

「え、違うんですか……」


 てっきりそういう雰囲気かと……。


「わたくし、こう見えてそういうの慣れてませんのよ」

「…………」

「と、いうか。な、なに興奮してらっしゃいますの……!」

「あっ」


 俺の股間を小さく指差す。

 あんなに胸が当たったら多少は仕方ないだろ!


 ゆでだこのように真っ赤になった顔で、俺を睨む。

 このままでは悔しいので、俺は反論をすることに決めた。


「ははーん、年下相手に照れちゃって、それで筆下ろしが本当にできるとでも?」

「ば、ばか!うるさいですわね……! この変態」

「あんたに言われたくないね。これじゃ騎乗位の練習するレベルになってませんね」

「う、うるさいうるさい!わたくしのキ、キュンキュン返してください」


 ぽかぽかと体を叩かれる。


「……好きになるかと思いましたわ」

「え、なんですか?」

「なんでもないですわ!お洗濯終わったら早くお帰りくださいませ!ばか!」


 機嫌を損ねた長谷川さんは、立ち上がり洗濯機に向かってしまった。


「あんなキャラでも、ウブなもんだなぁ……」


 正直、めちゃくちゃ可愛かった。


 しかしその後、俺は本当にすぐ帰されてしまうのであった――。







「みなさーん! 復活記念に本日はスペシャルな新作をお持ちしましたわよ~!」


 放課後、練習場に長谷川さんの声が響き渡った。


「…………」


 まだ俺しかいませんけど。


「あら、ミスター拳弥しかおりませんのね」

「そうですね、みんなちょっと遅いですね」

「…………」


 沈黙が流れる。

 俺のことをチラチラ見ながら、頬を赤らめている。


「な、なんですか?」

「い、いえ……別に……」


 会話のあと、俺は着替えるために練習場の端に向かって歩き出す。


「あ、あの!」

「…………?」


 後ろから大きな声で呼び止められ振り向いた。

 パタパタと寄ってくる長谷川さん。


 夕焼けが窓を赤色に照らしていた。

 俺の顔を見つめて、また頬を紅潮させながら彼女は口を開いた。


「ま、また……わたくしのことだけを見てくれる時があれば……」

「う、嬉しいですわ……」


「…………!」


 この人、こんなに可愛かったっけ?

 え、どうしちゃったの?


「そうですね、また2人で話しましょう」


「はい……!」



 心底嬉しそうに、無邪気な笑顔で大きく頷いた――。



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