第16話 長谷川編① ~騎乗位の練習をシたいですわ~
「騎乗位ですわ」
「は?」
「騎乗位ですわ」
「うん、だから、は?」
思ったより早く練習場に着いたら、同じ境遇なのか長谷川麗が既に立っていた。
どちらからともなく雑談をしていたはずだった。
長谷川さんがぶら下げている黒い袋を凝視してしまったがために、この話題を引き出してしまったのだ。
「ですから、騎乗――」
「聞こえないんじゃなくて、意味が分からないってことです」
「筆下ろしに騎乗位は不可欠ですわ」
「まあ、それはたしかに」
なに共感してんだろう、俺。
「ミスター拳弥は、騎乗位のご経験はおありですか?」
「ま、まあ……ありますけど」
「まあ、まあまあまあ!」
長谷川さんが目を輝かせながら顔を一気に近づけてきた。
髪から柔らかいフローラルの香りがふわっと鼻を刺激した。
ここの部員は基本的に汗臭いため、この香りは新鮮だった。
「あれ?長谷川さん何か変えたんですか?」
「ま、まあ……よく気付きましたわね……わたくしの変化なんか気付くわけがないと、てっきり」
「ん?何か言いましたか?」
「い、いえ別に」
「………?」
何やら小声でブツブツと言っていた。
近づいた顔が、クイッと踵を返してしまった。
「というか、非童貞のヤリチン話にはわたくし一切興味がございませんので」
「いやアンタが聞いたんだろ、あとそれ1回聞いたことある」
遠心力で揺れる乳と共に、再びこちらを勢いよく振り向く。
「騎乗位の極意を教えてくださいませ」
「ご、極意だ……?」
長谷川さんが笑顔で一歩俺に近づく。
俺は思わず後ずさった。
「わたくしも、童貞の殿方を虜にしてみたいものですわ……」
「は、はあ」
「練習をしたいですわ」
「え、ええ?」
「騎乗位の練習をシたいですわ」
「え? いや、ちょっと」
どういうこと?俺襲われちゃうの?
涎を垂らした長谷川さんがじわりじわりと近づき、その手を――
「お疲れ様ー! あれ?どうしたの?」
鉄扉が勢いよく開き、輪島さんが元気よく姿を現した。
「おっすー、部長? 何かあったんすか?」
続いて五十嵐。
五十嵐の少し後ろでソフィがちょこんと立っていた。
「ふ、ふう……長谷川さんが――」
「あれ……?」
真後ろにいた長谷川さんを指差そうと、振り返った。
彼女の姿はそこになかった。
「みなさーん! 今日のオススメ作品をご紹介いたしますわよー!」
「いや長谷川サン、もういいって」
「もー! 麗ちゃん、学校にそういう……え、えっちなビデオ持ってきちゃだめだよー!」
長谷川さんは彼女たちの目の前にいた。
いつのまに……。
「…………」
いつものようにハイテンションでAVを紹介する長谷川さんに、今は何故か違和感を感じた――。
「長谷川さん、めっちゃ上達してますね!」
練習が始まり、俺は長谷川さんにミットを構えていた。
パンチの指示を出し、応じて彼女がリズムよくパンチを打ち込んでいく。
相変わらず重い左ストレートだ。
他の部員は汗を散らしながら熱気と共にサンドバッグを叩きこんでいる。
「いい感じです、本当に上手くなりましたね」
「そ、そうでしょうか……?」
長谷川さんが額に浮かぶ汗を拭った。
初めてミットを持ってから1か月弱。
荒っぽかったフォームは早くもかなり修正され、パンチには更に磨きがかかっていた。
上達が早い。
このままいけば、インターハイも夢じゃないかもしれない。
「左も、より重くなってます」
「ありがとうですわ……!」
「これなら強いパンチを繰り出すお手本になれますね」
「お手本?」
「はい、輪島さんやソフィはまだまだパンチが弱いですから……」
「俺はパンチの力自体はそこまで強い方じゃないので……長谷川さんがみんなのお手本として教える時間を作りましょう」
ただ一方的に教えているだけでは「自分で考える力」は身に付かない。
当人たち同士で教えあうことも大事だ。
「え、遠慮しておきますわ」
「ん……?」
え、遠慮?
長谷川さんは額から滴る汗を拭って、目を逸らす。
その表情は曇っていた。
「いやいや……ただ長谷川さんがメインになって――」
「わたくし、脇役ですので」
「…………?」
目を合わせてくれなかった。
脇役ってなんのことだ。何の話をしてるんだよ。
「あの、長谷川さん」
「それでしたら、ミス風音が教えた方がよろしいのではないでしょうか?」
「そ、そうじゃなくて……」
サンドバッグを打ち付ける鈍い音と、ホイッスルの甲高い音が入り混じる。
体中から汗が零れ落ちるリングの上で、彼女は聞いたこともないような冷たい声音で、
再び言い放った。
「わたくし、脇役ですので」
「は……?」
彼女の言葉の意味を理解できなかった。
俺の首筋を、大粒の冷たい汗が伝っていった――。
「お疲れ様でしたー!」
輪島さんの元気のよい挨拶が、例の如く終了の合図である。
いつものように、汗が散らばった床をモップ掛けしていく。
もう5月も下旬か。
思えば、入部して1か月ちょっとが経った。
夏のインターハイ県予選にも全員分のエントリーを済ませ、これからどうしていこうというところ。
県予選は7月中旬。あと大体2か月弱か。
強化合宿、6月くらいに1発入れようかなぁ。
ふと、練習場を見渡す。
輪島さん、長谷川さん、五十嵐、ソフィは各々更衣室やシャワー室に吸い込まれていった。
「あれ? 備品、足りてるっけ」
ポカリの素、グローブやヘッドギアを消毒するアルコール液、絆創膏や包帯にテーピング……。
「やべぇ、全然買ってなかった」
練習用具に気を取られてばかりいた。
細かい備品にはまったく意識が行き届いてなかった。
俺としたことが。
しかしマネージャーの仕事なんて、まだ新人もいいところだし。
「もう切れてる備品もあるな……これから買いに行くか」
1度スーパーやドラッグストアで買い込んで、練習場に戻って降ろしてから帰ろう。
まだ時間は19時。往復しても学校は閉まらないだろう。
「さてと……」
しかし、あまりにも買うものが多い。
誰かに手伝って貰わなきゃな……。
「誰に手伝ってもらおうか」
部員の顔が、それぞれ頭に浮かび上がった。
「わたくしでよかったのでございますか?」
「むしろ、長谷川さんにお願いしたかったんです」
もう薄暗い歩道を、俺と長谷川さんは歩いていた。
「そ、そうですか……まあよいのですけれども」
「すいません、ありがとうございます」
1番、重い荷物を持つのに適しているから。
とは言えない。
「家は近いですか? もし遠いなら……」
「構いませんわ。横浜からはとっても近いところですのよ」
「へぇ、どこなんですか?」
「みなとみらいですの」
「ひぇっ」
さすが学校長の娘。
あの辺は高級タワーマンションが立ち並んでいるはずだ。
「…………」
その会話中も、長谷川さんの表情はどこか浮かない。
練習中、俺の提案を断った時と同じような。
「長谷川さん」
「えっ、あ、なんですの? もしかして童貞にご興味を!?」
「童貞に興味ってどういう概念?」
名前を呼ぶと、すぐにいつものハイテンションな笑顔と態度に戻る。
今日の長谷川さんはすべてが違和感だった。
スーパーやドラッグストアがある地点まではもう少し歩く。
俺は、ただ荷物を持たせたいわけではなく、これを機に長谷川さんと話をしてみたかったのだ。
夜道で、小さな黒い袋が歩調と共に揺れる。
「今日のことなんですが――」
「あっれー!? 長谷川さんじゃん!」
「あ、本当だ!久しぶりー!」
「…………ッ!」
前方から歩いてきた女子高生2人組が足を止めた。
そして、隣を歩く長谷川さんを指さし口を開いた。
「あ、知り合いですか?」
「そ、そうですわね……同じ中学の方々ですの」
「ん?」
顔が引きつっていた。
笑顔で近づいてくる2人組と対照的に、彼女は一歩後ずさる。
「ご、ご無沙汰でございますわね……ほほほ」
「サガコー通ってたんだぁ! てか隣の人って彼氏ー!?」
「え、彼氏なの!? かっこいい男捕まえたじゃ~ん!」
「い、いえ……お付き合いはしておりませんの……」
2人組は相変わらず笑顔で距離が近い。
この光景に、俺は大きな違和感を抱いていた。
どう考えても、長谷川さんの様子がおかしい。
「なんだ~彼氏じゃないのね! てっきりヒモにしてるのかと~!」
「きゃはは! お金の力で?」
「ちょっとそういうこと言っちゃだめだよ~!あはは」
「…………」
さすがに色々なことを察した。
長谷川さんはぎこちない作り笑いで怯えている。
震える足がそれを証明していた。
「そ、そうですわね……わたくしはお二方のように女性の魅力はありませんから!」
「あったりまえじゃん! あ、やば、タピオカ屋さん閉まっちゃうよ!」
「本当だ!んじゃーねー!」
嵐のように過ぎ去っていく2人。
残された長谷川さんは小さく手を振っていた。
「…………」
こんな顔は見たことがない。
淀んだ空気のまま、俺たちは無言で歩き始めた。
「…………」
「…………」
だめだ、我慢できない。
「長谷川さん!」
「な、なんでしょう」
「もし言いたくなければいいですが、何かあったんですか?」
「…………」
一度、キュッと唇を結ぶ。
また黙り込むのかと思っていたが、数秒後、彼女は絞り出すように言葉を紡ぎ始めた。
「わたくし……中学の頃はああやって毎日おちょくられていましたの」
「…………」
「わたくしにはお金と生まれ持った権力しかありませんから……」
「この大きい胸のせいで、殿方を誘惑してるって言いがかりをつけられたこともありますわ」
持たざる者からのヘイトを買っていたわけか。
ただ、彼女が何か悪いことをしたわけではないだろう。
「わたくしは目立ってはいけないのです。他の子が輝いていればよいのでございます」
「長谷川さん……」
「それは誰かに相談したことは」
「しませんわ。それもまた、生まれ持った環境を利用しているに過ぎませんので」
「え……?」
この人はジレンマに陥っている。
これじゃ誰にも頼れないし、自分のために行動することはできない。
「じゃあ、今日の練習中言ってたことって……」
「そうですわ。わたくしは皆さんが輝いていれば、それでいいのです。自分が目立つ必要はありませんの」
この辺りは、人通りも多く若者なども騒がしい。
そんな喧騒も、彼女の小さな声に不思議と掻き消されていた。
「わたくしは、脇役ですわ」
否定したかった。
でも、俺は彼女がそんな結論に至るまでの過程をまだ少ししか知らない。
強い言葉は、喉から出てこなかった。
「そうですか……」
あの細かい気遣いや、時折見せる繊細さ。
彼女のバックグラウンドは、本人を主人公というポジションから遠ざけた。
「ミスター拳弥」
「はい……」
「ドラッグストア、通り過ぎてますわよ」
「えぇっ!?」
後ろを振り返ると、隣にいたはずの長谷川さんは通り過ぎた店の前にいた。
「うわ、すいません」
俺は駆け足で道を戻る。
「あらあら、もしかして天然さんでいらっしゃいますの?」
俺の目に映る長谷川さんは、優しく、どこか弱々しく、微笑んでいた――。
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