第02話 ~部長、輪島ひかりはグローブの匂いで絶頂した~
「ここは女子ボクシング部の練習場なんです」
「それは見ればわかります」
「だから……男の子がいるなんて思わなくて……」
大事故のあと、俺は走って外へ逃げ出そうとした。
女の子はバスタオルで体を覆ったまま、俺を引き留めた。
たしかに、このまま俺が逃げていれば犯罪者になり果てていたかもしれない。
制服に着替え終わるのを待った末、今ついに出会って初めて会話をしたのである。
「あの……勝手に入ってすいませんでした……」
「い、いえ……こちらこそ……」
気まずすぎる。
好奇心で中に入るんじゃなかった。
「ええと、昼休みに自主練でもしてたんすか?」
「そ、そうなんです……昼休みはサンドバッグを打つのがルーティンで……あ、グローブ干さなきゃ」
下を俯きながら、足元に転がっていた赤いグローブを持ち上げた。
そして。
「はぁぁぁあああん……いい……いい……っ」
「は?」
「くんくん……あぁぁんっ……!」
状況を整理しよう。
この女は突然、持っていたグローブの中に鼻を突っ込んだ。
そして、恍惚の表情で体をクネらせながら悶え始めたのだ。
終いには、片手で肩を押さえながらガクガクと小刻みに震えていた。
セーラー服のスカートから伸びた太ももに、キュッと力が入る。
なにこれ?
「あ、あの」
「いいっ……いいっ……じゅる……ハッ!?」
「これは一体」
「ちちちちちち違うんです! わわわわ忘れてくださいっ!」
頬を紅潮させたまま、小走りで窓際に移動し、匂いを嗅いでいたグローブを干す。
え、なにしてんのこの人。
「またお恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「理解不能って印象しかないんで大丈夫ですよ」
「私、たまにこういうクセが出ちゃうんです……」
「多分ですけど、生きづらそうですね」
女子ボクシングって、グローブの匂いを嗅ぐ競技だっけ?
てか練習後のグローブってマジで冗談にならんレベルで臭いぞ?
本当にその匂いで絶頂してるなら飛んだド変態だ。
「今更なんですけど……この女子ボクシング部の部員ってことですよね?」
もうよく分からないので、話を変えよう。
「そうです! 一応、部長なんです」
こんな正統派清楚系でサッカー部のマネージャーでもしてそうな美女が、ボクシング部の部長とは。
間違えて入ったとしか思えん。
「へぇ、部員は結構いるんすか?」
「いえ……減ってしまって、今は私含めて2人しかいないんです」
「あ、でも……新入生の子が1人だけ入部届出してくれたみたいだから、3人かな」
めちゃくちゃ少ないな。部として成立してるのか?
実は同好会って話か?
「でも自主練してるってことは活動はちゃんとしていると」
「1人でも大会は出れますからね……新入生の方ですか?」
「はい、俺は1年の大橋拳弥って言います」
「大橋くん、よろしくね……私は輪島ひかり、2年生です」
輪島ひかり、2年生。女子ボクシング部部長。
グローブの匂いを嗅いで、イった。
今のところはそれしか情報がない。
「よろしくお願いします、輪島さん。設備も整ってて、いい練習場っすね」
「大橋くん、ボクシングやってる人なんですか……?」
「あー、やってた……かな」
やってたってレベルじゃない。
俺は、3歳からずっと、ボクシングに人生のすべてを賭けていた。
もう過去形だけど。
「え!? どこでやってたんですか!?」
顔が近い。
でも近くで見ると一層美人だ。
「アメリカで……」
「アメリカ!? 帰国子女なんですか?」
「帰国子女っていうか……中学3年間はラスベガスにボクシング留学してたんです」
「え? ボクシングの本場ですよね……?」
「まあ一応」
「え!? ボクシングは続けないんですか!?」
「いや……」
「相楽高校って去年まで女子高だったじゃないですか、だから男子でやりたい人がいれば、女子だけじゃない混合のボクシング部にしたいんです!」
勢いがすごいな。
俺に何も喋らせてくれない。
「ボクシングは、できないんです」
「え……」
顔を近づけたまま、キョトンとする。
後ずさって距離を取ると、出口へと歩き始めた。
「そろそろ5限始まっちゃいますよ、輪島さん」
「あ、本当……!」
俺の後ろを、パタパタと小走りで付いてきた。
「大橋くん」
「はい?」
「あの、よかったら」
「またお話しませんか……?」
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