30.

ある日、気付いたことがある。絵を描いていると無心になれる時がある。気が付いたら日が暮れている時もあった。それぐらいからだ。そいつからのダメ出しが減ってきたのは。


「なんで絵を描いて売っているんですか?」


僕は何回も同じようなことを聞いた。


「かっこいいだろ?芸術家って。」


「そんな理由なんですか。」


「そうだよ。みんなそんな理由だよ。」


「なら僕は自分自身への純粋な祈りのために描きます。」


そういうとそいつは少し驚いた後、悲しそうに微笑んだ。


「そうだな。それでいい。」


いつの日か、僕も自分が満足できる絵を描けるようになった。そいつにも俺の絵と大差ないなと言われたほどだ。自信がついたので僕の絵も売れないかそいつに聞いてみた。


「売るのはやめとけ。」


「どうしてですか?あなたの絵と遜色ないように思えますし、そういってくれたじゃないですか。」


「それでもダメだ。売ることだけは。」


「なんでですか?」僕は憤って聞いた。


そいつは逡巡した後、一言ずつ慎重に話を始めた。まるでガラス細工を触るかのように。


「俺は有名になるために絵を売ろうと思った。売るということは売れる絵を描くということだ。売れる絵というものはきっと万人に受けいれられるようなものなんだろうな。でも俺は万人に受け入れられるものなんて知らないし、知りようもなかった。なんとなくのイメージで描き続けた結果、ありきたりな絵しか描けないようになってしまった。誰かのために描こうとした瞬間、筆が宙に浮いてしまう。目の前につなぎとめて描くことに俺は必死だった。」


僕はただ黙って聞いていた。

そいつは一度、拍を置きまた話し始めた。


「お前が言ったことが多分正解だよ。きっと絵を描くことの根底にあるのは自分自身に対する無垢な祈りなんだよ。俺はそれを手放してしまった。お前は俺みたいになるなよ。」


そいつが言いたいことはほぼ伝わった気がした。その時の自分はあまりに子ども過ぎてそいつに掛けてやりたい言葉のひとつも浮かばなかった。なので無理やり話を続けた。


「どういうことですか。」


そいつは何も言わず、ただ僕の頭を撫でて悲しそうに微笑んだ。そいつに頭を撫でられたのは後にも先にもその一回きりだった。


「俺が伝えたい絵の描き方は全て伝えたつもりだ。免許皆伝だ。これやるよ。」

そういうとそいつは僕に1枚の絵を渡した。何気ない2階建てのベランダ付の洋風住宅が描かれている。今まで見たそいつの絵の中では飛び切り下手くそな絵だ。


「なんですかこれ。」


「ただの絵だよ。大切にしてくれ。」


詳しくは聞かなかったが、おそらくこの絵はそいつが初めて描いた絵なのだろうと思う。


その日以降、そいつがその橋に現れることはなかった。当時、近くの駅で人身事故があった話を聞いたが真相は掴めなかった。だが僕はなんとなくそいつはもうこの世にいないことを感じた。


思えばそいつは僕が絵を売っている時にも、僕に絵を教えている時にも、自ら絵を描くことはしなかった。おそらくもうできなかったのだ。もしかすると、そいつの中にあったはずの絵を描く能力が失われてしまっていることをそいつ自身が分かっていたのかもしれない。



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