第76話大内氏の没落
- 安芸(広島) -
1525年(大永5年)5月
吉川興経と元就さまの間で行われていた吉川国経さんの身柄引き渡し交渉は時間はそれなりにかかったけど、あっさり決裂した。まあ、お互いが戦の準備を整えるための茶番だったから当然だけどね・・・
口羽広良さん率いる毛利軍3000が吉川軍1200の籠る小倉山城を包囲。これを受けて周防(山口南東部)から大内義隆が兵2000を率いて出陣した。
「腐っても大内ですね。この状況でも兵を2000も出して来る」
俺の言葉に元就さまは頷く。今川貫蔵さんに調べて貰ったけど、北九州と周防・長門(山口北西部)では疱瘡と
「筑前(福岡北西部)や長門で一揆を起こせるか?」
「食糧を援助すれば容易いかと。あと、肥前(佐賀から長崎)の少弐氏を動かしましょう」
以前、家臣である龍造寺家兼を使って動かした大名の名前を出す。
「そうだな。毛利の名で倉庫に眠ってる一昨年の雑穀をバラ撒け」
「御意」と答え、側に控えていた服部半蔵さんに元就さまの指示を実行するように指示を出す。
元就さまが兵2000を率いて吉田郡山城を西に向けて出陣した。吉田郡山城の南にある多治比猿掛城で兵1000が合流。既にこちら側に降伏している有田城で南から来た三入高松城からの兵1000を吸収すると北にある小倉山城ではなく、有田城からさらに西にある厳島神領衆の一人で、安芸では数少なくなった中立勢力である栗栖親忠の発坂城を攻める。
栗栖親忠は軽く戦闘を行うと降伏。元就さまは異母弟である北就勝さんを城に入れると、そこから北上し、周防から侵攻してきた大内義隆軍の背後をとることに成功する。
「掛かれ!」
たっての志願が認められ、半蔵さん率いる兵300が大内義隆軍の後方部隊に襲い掛かる。兵糧を積んだ荷駄から優先的に焼いていくのが実に頼もしい。ただでさえ低かった大内軍の士気は駄々下がりし、ついに裏崩れが起きる。
「手柄を立てよ!」
元就さまの命令が下り、毛利軍が大内軍に襲い掛かる。昼過ぎに戦端が開かれ、日が落ちる頃には大内軍は壊滅していた。指揮官である大内義隆と副官を務めていた弘中興勝は捕縛され、吉田郡山城へと護送されることになった。
捕まえた当初は斬首する流れだったけど、止めさせた。大内の血は明との貿易に非常に役に立つのよ。史実だと、義隆以後の大内氏は養子を迎えての傀儡になるんだけど、明は貿易の正統な後継者でないって理由で明貿易が難しくなるからね。
その後、大内軍を撃破した毛利軍はそのまま東へと進み小倉山城の包囲に加わる。大内氏からの援軍が来ないことを知った興経は自らの首を条件にして自刃。開城して降伏した。
1525年(大永5年)6月
石見(島根西部)と長門の国境近くで起きた一揆が野火のように長門全土に広がった。一揆勢力が、雑穀ではあったが、食糧を配って広がるという前代未聞の一揆である。ついには、長門守護代である内藤興盛が僅かな兵と共に周防に逃げ出す事態にまでなった。
元就さまは坂元貞さんに兵2000を預けて長門を平定するように命令して送り出す。既に毛利の名で食糧援助を行っていたので、熱したナイフでバターを切るように長門の地は切り取られていったという。
また肥前の少弐資元が筑前に攻め入り大内領の切り取りを始める。
「弱肉強食が戦国の習いとはいえ容赦ないな・・・」
報告を聞いた元就さまの目が胡乱だったのが印象的だった。そしてここに至り、大内義興は本拠地だった周防を捨てて筑前に逃亡した。数年に渡る大規模出兵で完全に地盤崩壊した周防に閉じ籠もるより、疫病でダメージを受けてはいるが商業基盤が強固な筑前の方が建て直しが容易だと判断したようだ。
そしてその判断は間違っていなかった。少弐に切り取られた筑前領を娘婿である大友義鑑の力を借りてたちまちのうちに回復していった。
将軍足利義尹の後見人となり上京。管領代を務めて周防、長門、石見、安芸、筑前、豊後(大分南部)、山城(京都府南部)の守護職を務めた大大名大内義興が没落したのだった。
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