第19話有田中井手の戦い。論功行賞

1517年(永正14年)12月。


 多治比猿掛城では「有田中井手の戦い」と呼ばれる戦いの論功行賞が行われていた。年が明ければ、元就さまと吉川元経さんの妹である妙さんとの結婚が控えている。


「これより論功行賞をおこなう。第一功!、敵総大将武田元繁を討ち取った畝方三四郎。前へ」


 志道広長さんの声に従い、俺は元就さまの前に進み出て平伏する。ざわざわと論功行賞に呼ばれた100人ほどの兵士がざわつく。

 そう。論功行賞を前に俺は、元就さまを烏帽子親にして元服し、畝方せがたという苗字を貰ったのだ。ざわついているのは直接俺を知っている人間だろう。

 なお、元就さまの側にいて脇を固めるのは、家臣と呼ばれる志道家の広長さん広門さん兄弟。中村就親さんに赤川元久さん。井上俊秀さんに井上俊久さん。そして国司元純さんの7人。


「此度の功績として足軽組頭に取り立て、金150貫文と知行地として50貫文(約55石)の三入高松にある村をひとつ与える」


 元就さまより感状が差し出される。


「またいみなとして俺の元の字を授け、元近。畝方三四郎元近せがたさんしろうもとちかを名乗るがいい」


「はっ。ありがたき幸せ」


 俺は、うやうやしく感状を受け取る。名前の元ネタは、とあるゲーム機のイメージキャラクターから。

 論功行賞を受ける前に国司元純さんからレクチャーを受けたのだが、一石は、大人一人を一年間食べさせることが出来る米の収穫量を意味している。単純に村民約55人が養える村が貰えるということだ。

 毛利・多治比領では税率が六公四民なので、村人は米の取り分だけで22人を養える。まあ米以外にも税にならない稗や粟や蕎麦といった穀物や唐芋サツマイモがあるから、養える人間は2倍から3倍は増えるだろう。

 つぎに六公だけど、33石のうち10石がそのまま毛利幸松丸さまと元就さまに上納され、残る23石が俺の手取りになる。俺の米の手取りが多いのは、俺が米以外に唐芋サツマイモや大豆といった米以外の産物を税として納めるからだ。

 また、領地25石につき1人を戦働きのときに兵として拠出する必要があるので、俺を含む3人を率いて参陣することが義務となるようだ。(※あくまでもこの小説内での基準です)

 なお、兵の戦場での食糧を含む消耗品は領主である俺が負担することにする。できれば村民に武具を貸与したほうがいいだろう。この時代、雑兵の戦働きは基本手弁当で、戦後に手当のために乱取りが当たり前だけど、それを少しずつ変える。乱取りOKにすると後の統治に差し障りが出るからね。領地が小さな時からコツコツと。


 第二功は三入高松城を落とした国司元純さん。ただ、既に家督を嫡男の国司有相さんに譲っているうえに国司有相さんは毛利本家の人なので知行地ではなく金500貫文が下賜された。第二功の方が褒賞が大きいが、これには理由がある。

 国司元純さんがこの度の奉公を最後に完全に引退することを宣言したのだ。なので金額が多いのは慰労金の意味合いが大きい。老兵は死なずただ消え去るのみというやつだ。その代わり、嫡男国司有相さんの領地で治政をしていた孫の国司元相さんが多治比猿掛城に出仕するらしい。


 第三功は武田元繁の弔い合戦を挑んできたが撃退された香川行景と己斐宗瑞のうち香川行景を討ったという志道広門さん。金100貫文と馬が下賜されて、三入高松城の城代に任じられるようだ。なお己斐宗瑞は鬼吉川こと吉川経基さん御年90歳が一刀で切り捨てたそうだ。恐ろしや・・・

 あとは、討ち取った兵の首の質と数に応じて金子と感状が贈られる。四郎と六郎太にも感状が出て、足軽に取り立てられ書類上でも正式に俺の部下になった。


 さて、「有田中井手の戦い」についての結果をおさらいも兼ねて挙げていこう。


 侵略してきた安芸武田軍は総大将の武田元繁、重臣の香川行景、己斐宗瑞が討死。武田側では400人ほどの戦死者がでた。これに倍する就労できないほどの重傷を負った負傷者の数を考えると大損害だ。当主が討死した武田家は嫡男の武田光和が、香川家は弟の香川元景が、己斐家は嫡男の己斐直之が跡を継ぐことになった。また、武田元繁の弔い合戦での意見の相違を見た武田光和、香川元景、己斐直之と伴繁清、品川信定、粟屋繁宗との間で亀裂が入ったようだ。

 つぎに捕縛された熊谷元直が、捕縛した宮庄経友さんの説得により、宮庄氏の家臣となる事が決まった。それに伴い熊谷元直の居城だった三入高松城は正式に元就さまの支配下に入り、第三功に挙げられた志道広門さんが城代として入った。降伏した熊谷元直の嫁さんと次男と生まれたばかりの長女は元直を慕う3人の武士とともに宮庄に送られ、熊谷元直の嫡男である熊谷千代寿丸は人質として多治比猿掛城に送られた。

 熊谷家家臣の大半は領地の大半を安堵されたうえで三入高松城に残り広門さんの配下に入る。ちなみに俺が貰う三入高松城の知行地は、この宮庄に移り住んだ3人の武士のひとりの知行地だったりする。

 つぎに武田元繁の檄文に応じて安芸武田軍に参加した芸北の国人衆だが、現在、吉川氏と毛利氏による調略を受けて吉川氏と毛利氏に絶賛従属中である。これは、安芸武田氏の勝馬に乗るべく予定以上の村人を雑兵として動員し、想定以上の被害を受けた国人が多かったのが原因だ。何らかの手を打たないと、来年は農業就労者の不足で収獲が激減し、飢饉が起きる可能性がでてきたのだ。


 最後に俺の身分だが、元就さまに御伽衆という諜報部門を設置してもらい、平時はそこに席を置くことになった。御伽衆とはなんぞやと聞かれたので、表向きは元就さまを常に「よいしょ」する太鼓持ちだって言ったら怪訝な顔をされたよ。

 まあ御伽衆自体は、毛利氏のいまの主家である大内氏が天文年間(1532年-1555年)に記した大内氏実録という書物に書かれているのが最初。太鼓持ちに至っては、「太閤いかがで」と、秀吉の機嫌取りをしていた曽呂利新左衛門という武将を揶揄した「太閤持ち」が「太鼓持ち」と言うようになったのが語源だ。(諸説あります)

 ヤバイな。変な所で歴史の針を進めちゃったよ・・・まあ、表で元就さまのご機嫌取り腰巾着を装って裏では諜報機関の取り纏めの部署っだって言ったら理解してくれた。よね?


 そういえば、大内氏の当主である大内左京大夫義興さまから、感状が届いたらしい。「多治比のこと神妙なり」と書かれていたとか。

 1507年(永正4年)6月に前将軍である足利義尹を奉じて京に上洛。10年経ったいまでも京に駐留している義興さまの耳は、意外に良いようである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る