第7話 唐突に試練がやってくる
第七章
そわそわと落ち着きのない日が続いた。そろそろ予選の結果が送られてくる頃合いだった。俺は毎日、仕事の帰りや買い物のついでに、アパートの郵便受けを確認した。ゴミ箱みたいにおんぼろな郵便受けだ。冗談ではなく、たまに本物のゴミが入っていたりする。心無い誰かのいたずらだ。
緊張に疲れて、どうせ入っていないんだろ、と郵便受けを開ける手もやや投げやりになっていた頃、一通の封筒が入れられているのが見えた。俺は驚いて二度見し、なぜか周囲をきょろきょろ見回して確認してから、恐る恐る取り出した。そして、その場で封筒の端を破って中身を確認すると、一通の紙面が入っていた。紙面には数字が羅列されていた。予選通過者のエントリーナンバーだ。
上から順に目で追っていくと、そこには俺たちのナンバーの、二〇七の文字があった。
俺はわけがわからなくなり、気が動転して、どこぞの少数民族の言語のような意味不明の言葉を叫びながら駆け足で部屋に戻った。慌てて途中で転びそうになった。
「ノラ!」
扉を開け、俺は口にする。
「なにやら鶏を絞めたような声が聞こえましたが。いったいなんでございましょう」
「決勝進出だ」
ノラの表情が固まる。
「……しょうもないギャグやな。笑えへんわ」
「本当だよ。俺たちのエントリーナンバーが書いてある。決勝行けちまうよ」
硬直していたノラの顔が、徐々に緩み始め、最後には満面の笑みになった。
「「やったあああああ!」」
天井が突き抜けそうな声量で、俺たちは叫んだ。手に手をとって小躍りした。ノラが手を広げるので、喜びのどさくさで抱きついてもいいのかなと思って飛び込んだら、なぜかそのまま巴投げにされて腰をしたたか打った。
布団の上に仰向けになって、しばし痛みに呻いたが、段々それが笑いに変わり、最後には大声をあげて笑ってしまった。隣でノラも仰向けになって、一緒になって笑った。
「やべえな、これ。人生で一番うれしいや」
「わたくしも同じにございます」
「開始早々に噛んじゃったから駄目かと思った」
「手元にバットがあったら振りぬいていたところにございます」
「噛んだ瞬間ノラの眉がぴくって動いたから、肝冷やしたよ。スベることよりノラが怖くってさ。でもあれで冷静になれた気がする」
「会場では三回ほど拍手笑いが起きていました。順番に助けられた面もありましたが、ウケていたほうだと思います。審査員も、五人中三人は笑っていましたし。手ごたえは感じておりましたが、まさか本当に通過するとは思ってもみませんでした」
俺は感心してノラに目をやる。
「すごいな、あの舞台でそんなに冷静に周りを見てられるなんて。俺、そんな余裕なかったよ。ネタやるだけでいっぱいいっぱい」
「よくも悪くも、わたくしは俯瞰してしまうのです。明治様は、余裕がなくなってしまう一方で、その世界に没頭する強みがあります」
そういう捉え方もあるか、と思う。
「なんかさ」
「なんでしょう?」
「なんか、俺たちって、いいコンビだよね」
ノラがきょとんとした表情でこちらを向く。
「当たり前でございます。今さら何を仰っているのでしょうか。わたくしたち一人一人の力なんて知れています。わたくしなんて、蟻みたいなものです。明治様はミドリムシくらいです」
「俺のほうがだいぶひどいね、それ」
「しかし二人で組めば、無敵です。きっと何もかもうまくいきます」
夕方、俺たちはいつもの公園でささやかな祝宴を開いた。俺は半年ぶりにビールを買い、ノラはバナナジュースで乾杯した。
ごくりとビールを飲み干すと、気分がふわふわしてきてほのかに酔いが回った。すきっ腹でアルコールの回りが早かった。
「いやでも本当、ノラのおかげだよ」
俺は口にした。
「いきなりなんでしょう」
「パナモがいなくなって、本当お先真っ暗だった。一人でなんてやる度胸ないし、誰とでもやれるような柔軟な人間じゃないから。パナモとの漫才が自分でも気に入ってただけに、次の相手なんて考えられなかった。ちょっと自暴自棄にもなりかけちゃって。どうして自分ばっかりこんなについてないんだろうって、思っちまった。でもそこに、ついと突然ノラが現れて、手を貸してくれて、背中を押してくれて、本当助かった。漫才だけじゃなくて、なんか生きてくことそのものでも、救われてる気がするよ」
「大仰です。わたくしはそのような大層な人間ではございません。わたくしがその道を選んだのは、わたくし自身のためです。その道がその時選べる選択肢の中で、最も面白いから選んだまでです。それにここがゴールではございません。決勝が待っています」
「決勝は何組だっけ」
「予選のエントリーが三百十七組、決勝進出が十二組です。関東ローカルの深夜枠ですが、テレビに出ることができます。この上ない名を売るチャンスです」
「テレビなんて、想像もつかないや。考えるだけで緊張してくる」
俺は飲み干したビールの缶を捨てた。
「さて、決勝のネタはどうするかね」
「同じネタでいきましょう。まだ結成間もない我々が勝負するには、ひとつのネタのクオリティを上げていくしかありません。予選で、普段のライブとは違う反応も見ることができました。いくつか修正点も見当がついています。あの『プロポーズ』のネタをバージョンアップして挑みましょう」
「うーん……」
「いかがいたしました?」
「俺は、ネタは変えたほうがいいと思う」
珍しくノラが、率直に驚きを表情に出した。
「なぜでしょう?ネタを変えれば、せっかく磨いた精度がまたゼロになります。この短期間で、あのネタよりも優れたネタをつくるのは困難です」
「いや、あのネタはもう伸びシロがない。十分練り上げた。次のステップに行くには、別の構造にしないといけないと思う」
「たとえゼロからのスタートになっても、ですか」
「あのネタをやれば大スベりはしないだろうけど、でも決勝は勝ち抜けない。やるからには勝ちに行きたいし、勝つためにはリスク背負わないとダメだと思う」
ノラはしばし口をつぐみ、何かを思案し、そしてまた顔を上げた。
「わかりました。明治様がそう言うのであれば、その案に乗っかりましょう。わたくしもいつの間にか守りに入っていたのかもしれません。ただし相当覚悟して臨まねばならないでしょう。ネタの概略はできているのですか?」
「いや、皆目」
ノラの目つきが変わる。
「あかんやないか。明後日までには見せえや。時間がないねんで」
「あ……はい」
お世話になった団長にご挨拶をとノラが言うので、俺は団長に電話した。決勝進出を伝えると、団長は開口一番に「嘘だろ!」と叫んだ。
「嘘じゃないんですよ」
「そっかあ……。いや、信じてたわあ」
「今しがた嘘だと叫んだでしょ」
「いや本当、感慨深いよ。最初に会った頃を考えたら、成長したもんだ。あの頃は、土砂降りの中でずぶ濡れになって、ミャアミャア鳴いてたもんなあ」
「捨て猫ですか、俺は」
「すげえなあ。テレビなんて俺も出たことないのに。きっと楽屋でいい弁当食べさせてもらえんだろうな」
「なんか観点ずれてるでしょ」
「まあ、なにはなくとも、嬉しいよ。今日はいい日だ。でもこれで満足せずに、やるからにはてっぺん目指せよ」
「……ありがとうございます」
団長との電話を終えた後、俺はしばらく思案した。このことをさくらに伝えたかったのだが、いざ通話ボタンを押そうとすると、母さんの顔が浮かんで、どうにも踏ん切りがつかなかった。
「いかがいたしましたか?さくらちゃんにも、早く伝えてあげたほうが」
「やっぱ、やめとく」
「なぜでしょう。きっと誰よりも喜んでくれます」
「これ以上、あいつを巻き込むのはどうかなって。母さんが言うことも一理あると思うんだ。あいつは医者になるんだし、そのためには勉強しなきゃいけないし、お笑いがどうのとかそういう世界とは距離を置いたほうがいいと思うんだ」
「明治様。それは手前勝手というものです。それを決めるのはさくらちゃんご自身です。明治様ではございません」
俺はその言葉に口をつぐみ、しばし電話のディスプレイ画面をじっと見ていたが、結局通話ボタンを押すことができなかった。俺は携帯電話をポケットに突っ込み、立ち上がった。
「そろそろ帰ろうぜ。ネタ考えなきゃいけないし」
「明治様……」
背後にノラの視線を感じつつも、俺は振り返ることができなくて、そのまま公園を後にした。
不吉な予兆を感じ始めたのは、その翌日からだった。
清掃の仕事に行くために、病院に向かう満員のバスに乗っていた時に、急に激しい動悸と吐き気が襲ってきた。息も荒くなって、なんだか気が遠くなりそうだった。突然のことに俺は狼狽して、病院まで行かずに途中のバス停で降りて、ゆっくりと深呼吸をした。すると、またすぐに調子が戻ってきた。ちょっと疲れがとれてなかったのかな程度に思い、さして気にもとめなかった。
ネタはノラに言われたとおりの期日になんとか骨組みだけ仕上げ、例によって公園で打ち合わせた。設定は、いろいろ考えた揚句、診察の場面にした。普段、清掃している時にちらちらと外来の診察場面が見られ、それを参考にした。患者が自分の不調を訴えて、それに対して医者がボケを返していく。シンプルで構成しやすい。
ノラとの打ち合わせを繰り替えし、初めてライブでネタを下ろすという段になって、決定的なことが起きた。
その日は、団長がもらってきてくれた、他事務所のライブの仕事の日だった。朝から胸になんだかもやもやした感じがあって、落ち着かなかった。そのネタをやるのが人前で初めてということもあって、少し緊張しているのかなと思った。
俺たちの名が呼ばれ、出囃子が流れる。
「はいどうもー」
舞台に上がる。掴みのネタで笑いがとれた。出だしは順調だ。
しかし中盤にきたところで、急に脈が速くなり始めた。呼吸も徐々に浅く早いものになっていくのがわかった。ちらと客席を見ると、みな俺たちを見て笑っていた。
その時、ふとある場面が頭の中によぎった。
中学生の時に、いじめっ子に掃除用具入れに入れられて、やっと這い出た時に床に手をついた。そして顔を上げると、教室の皆が、俺のその無様な様子を見て、ニヤニヤと侮蔑の笑みを浮かべていたのだ。
今の客席の人たちがそんな風に自分を見ているわけじゃないことはわかっていた。しかし一度過去の嫌な光景が浮かんでしまうと、どうにも払拭できず、客席の笑いが怖いものに思えてしまった。するとますます脈が速くなり、小刻みに手足が震えはじめた。
ノラが異変に気付いたが、俺は目線で続けろと指示した。ここで降りるわけにはいかないのだ。
視界がゆらぎ、気が遠くなってきた。指先がちりちりと痺れた。自分が今何をしゃべっているのかもよくわからなくなってきた。
いったい俺の体は、どうなっちまったっていうんだ?
「もういいよ!」
「「どうも、ありがとうございました」」
二人そろって頭を下げた。ようやく終えたのだ。四分の時間がまるで永遠にも思えた。ふらふらとした足取りで舞台袖に戻った。そしてスタッフからお疲れ様でしたと声をかけられ、水の入っているペットボトル渡してもらったところで、足の力が抜け、俺はがくりと膝から崩れ落ちた。背後から「明治様!」というノラの叫び声が聞こえた気がした。
意識の糸は、そこで途切れた。
目を覚ますと、目の前には真っ白な天井があった。俺は身を起こそうとしたが、体に力が入らなかった。ふと横を見ると、そこにはノラが座っていた。
「おはようございます」
「ん……ああ、おはよう」
俺は辺りを見回す。壁が全面白塗りで、パソコンがあって、点滴台があって、注射器なんかが入っている棚があって。なんだか見たことがあるような光景だ。
「ここどこ?」
「竜宮城にございます」
「こんな竜宮ないでしょ。病院でしょ。ってなんで病院にいるんだ、俺?」
「覚えてらっしゃらないのですか?」
俺は記憶の糸を手繰る。そういえば、ライブ会場でネタをやってたのだ。出だしのところまでは思い出せる。しかしそこから後の記憶が、まるで手つかずのキャンパスみたいに真っ白だ。
「会場の舞台袖で気を失って倒れたのでございます。ここは近くの病院の、救急外来の休憩室です」
「倒れたの、俺?」
「それはもう、西部劇の撃たれたガンマンのように、膝から折れて。肝を冷やしました」
「……ふうん」
俺はなんだかガチガチに固くなっている体を起こして、靴を履こうと手を伸ばした。
「どうされたのですか?」
「どうされたのって、帰るんだよ。早く帰って練習しないと」
「いけません。医者から許可が出るまでは」
「許可なんて待ってられないよ」
ノラの制止を振り切って、俺は立ち上がろうとした。後頭部がずきんと痛んで、俺は頭を押さえて呻いた。
ドアが開いて、白衣を着て聴診器を首からぶら下げたずん胴の男が入ってきた。見た瞬間に俺は、クリオネというあだ名をつけた。
「やあ、目が覚めたみたいだね」
「だれですか、あなた?」
「だれって、コックにでも見えるのかい」
「いえ、クリオネに見えました」
がっはっはと男が笑った。
「クリオネか。トドとかアザラシとか白ダルマとか、その辺は言われたことあるんだけどな。まあ、好きに呼んでくれよ」
男は俺の手を取り、脈をとった。そしてパソコンの前に座り、なにやらパチパチとキーを叩きはじめた。
「どっか痛いとこある?」
「頭の後ろが少し」
男が立ち上がって、俺の後頭部をさする。いてっ、と俺は思わず声に出す。
「ちょびっと膨らんでるな。ただのコブだよ。頭のCTは問題ないから、たぶん大丈夫」
気を失っている間に、そんなものまで撮られていたのか。
男が再びキーを叩きはじめる。俺はイライラする。こんなところで寝ている場合ではないのだ。
「あの、すいません、僕帰りますんで」
「帰ってもいいよ。でもせめて病気の説明だけでも聞いていくべきだな。そこのお嬢ちゃんだって心配してたし」
「なんの病気なんですか、俺は?」
男がくるりとイスを回転させ、こちらに向き直る。
「君はね、突発性頻脈」
「貧弱?」
「頻脈。そりゃ君はもうちょっと肉付けたほうがいいと思うけど。頭のCTも問題ないし、心電図も問題ないし熱もないし、血液検査もしたけど問題ないし。倒れた時の様子もそこのお嬢さんから聞いた。まあ、突発性頻脈で間違いないよ」
「どんな病気なんですか、それ?」
「強いストレスとか、緊張とか不安がずっと続いてると、自律神経機能の異常をきたして、動悸が激しくなるんだよ。ひどくなると過呼吸も出て、手足が痺れてきて、気が遠くなって、最後に倒れる。ブラックアウト。しばらくは緊張するような場面を避けて、安静に過ごしたほうがいいな。でも体のほうは全然問題ないから」
男は何やらプリントアウトして、それを封筒に入れて俺に渡してきた。
「はい、これ紹介状。これ持って精神科に行ってきてね」
「せ、精神科?」
「さっきも言ったけど、体は問題ないから。ストレスとか緊張とかがもとで頻脈発作が起きるから、精神科の領分だよ。僕は体の専門で、あんまり詳しいことわからないんだ。じゃ、お大事に」
そして男は部屋を出ていった。看護師がそそくさと寄ってきて、会計を済ませてください、と小声で言った。
帰りがけ、俺は病院を出ると同時にもらった紹介状を破いてゴミ箱に捨てた。
「何をなさるのですか」
ノラがゴミ箱から破れた紹介状を拾って駆け寄ってくる。
「いやだって、必要ないから」
「必要ないことないでしょう。一度診てもらったほうが賢明です」
「必要ないよ。だってもう平気だもの。それに病院なんて金もかかるしさ。それよりさっさと帰って練習しようぜ。時間がもったいない」
「練習はいたしません。せめて今日はゆっくり休みましょう。医師からも安静の指示がございました」
「決勝の一か月前にそんな悠長なことできるわけないだろ」
言ってるそばから、俺はよたつく。まだちょっと足もとがおぼつかない。
「明治様」
ノラが慌てて俺の背中を支える。
「大丈夫大丈夫」
ノラが俺の襟首を掴む。
「大丈夫やあらへん!こっちの気も知らんで!どんだけ心配した思てんねん!気が変になりそうやったわ!」
見ると、ノラの目にうっすらと涙が溜まっている。
「ノラ……」
涙を見せられてしまっては、ぐうの音も出ない。
「わかったよ。今日は帰って休むよ。悪かったよ、心配かけて。でもこんなのは今日だけだと思うんだ。たまたまちょっと朝から体調が悪かっただけだ。それに、新しいネタを初めて人前でやるから、緊張もあったんだと思う。今後はなるべくリラックスするように心がけるからさ。だから、また明日から練習再開な。でも今日のところはゆっくり休む」
ノラがこくりとうなずいて、涙を袖でぬぐう。ノラの目にも涙だな、とか思っていると、パーカーの胸ポケットから目薬が覗いているのが見えた。
「何それ?」
「わたくしドライアイなもので」
ノラがこれみよがしに上を向いて、目薬を一滴目の上に落とす。
「目薬一滴で御せるなんて、なんともたやすい男、などとは露ほども思っておりませんので、誤解のないよう」
言われるまでもなく、俺とはかくもたやすい男なのであった。
*
翌日になると、昨日の重だるさが消えていた。
「健康って素敵だ」
「それだけが取り柄ですし」
そんなやりとりをしながら食卓を囲み、俺は病院に向かうために家を出た。清掃をしているあいだは、昨日発作を起こしたことすら忘れていた。
夕方から、小さなイベント会場での仕事があった。俺は会場でノラと待ち合わせた。
「体調はいかがでしょうか?」
「うん、快調。仕事中も全然問題なかった」
ノラがほっと胸を撫でおろした。
「くれぐれも、無理なさらぬよう」
自分で自分の体を点検する。動悸もない。落ち着いている。やはり昨日はきっと体調が悪かっただけなのだ。
本番が始まり、俺たちは舞台に上がる。昨日よりはだいぶ規模が小さいし、リハビリにはちょうどいい。
と、思ったのもつかの間。ちらと客席を見て、その視線を感じた瞬間に、ふたたび中学生の頃の嫌なイメージが湧いてきた。皆がこちらを見て、クスクスと嘲笑うのだ。
急速に脈が速くなり、息が荒くなっていく。さっきまでの落ち着きはどこへやらだ。まるで高速のジェットコースターに安全バーなしで乗っているような気分だ。
踏みとどまらないと、と自分に言い聞かせる。焦りを悟られてはいけない。たかが三十人ばかりの客だ。あがることなんてないのだ。
しかし体のほうは自分の思惑とは裏腹に、その緊張の度合をますます強くさせていくのだった。ツッコミの声が変な風にうわずった。
「これ、身体症状ビンゴっていって、わたくしの唯一の趣味なのです」
ノラがボケる。続く言葉は、『不謹慎でしょ!不謹慎すぎるでしょ、それ!』である。しかし、声が出てこない。喉がカラカラに乾いて舌がうまく回らない。
「ふ……ふ、ふきん……ふきんし……」
事態を察知したノラの顔色が変わる。このまま喋られず、舞台で意味のわからない沈黙の時を過ごすことになるのか。ある意味スベよりも大事故だ。どうすればいいのだろう。
「って舌回っとらんやないか、自分」
ノラが俺の頭を軽くはたく。
「……ふきんし、ふ、」
「ゆえてへんわ。もうええわ。どうも、ありがとうございました」
ノラがほぼ強制的にネタを終了させ、俺の肩を掴んでほとんど引きずるような形で舞台から下ろした。引き際に、狐につままれたようなお客さんの顔が見えた。
舞台袖に戻ると同時に、俺はノラに長椅子の上に寝かされた。激しく動悸がして、視界がゆわんゆわん揺らいだ。その様子を見たスタッフががやがやと集まってきた。
「明治様、ゆっくりと、息を吸って、吐いてください。深呼吸です」
俺は言われたとおり、意識して息をゆっくりしてみる。
「そうです、その調子。ゆっくりと、落ち着いて。一緒に深呼吸をしてみましょう」
ノラが深呼吸を実演する。そのリズムに合わせて、俺も呼吸をする。
五分ほど横になって深呼吸をしていると、徐々に脈が落ち着き、意識がはっきりしてきた。
「ありがとう、ノラ。助かった」
「ちょっと無理のある終わり方でしたが。あれしか思い浮かびませんでした。唐突な印象を与えてしまったかもしれません」
「ごめん、本当。今日もあんまり調子がよくなかったみたい……」
「気に病むことはございません。きっとまだ少し疲れているのです」
スタッフの一人が、心配そうに覗き込んできた。
「あのう……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫ですよ」
お客さんを前にすると頻脈発作を起こすなどと知られたら、もう二度と呼ばれないかもしれない。俺は慌てて取り繕った。
「全然、問題ないです。ちょっとお腹壊しちゃったんですよ。今朝食べた卵が悪かったのかな。賞味期限が切れてたから。あれ、賞味期限いつのだっだっけ、ノラ?」
とっさにノラに振ってしまう。
「え……か、寛永二年の皐月にございます」
「そう、寛永二年。いやあ、四世紀も寝かすと卵も腐敗がすすむ、すすむ」
あははと俺が笑う。ほほとノラも笑う。ちらとスタッフを見ると、にこりともしていない。
「はあ……そすか。お大事にしてください」
そそくさとスタッフが立ち去った。
「やべえな、これ。広まっちゃったらどうしよう。どこからも声がかからなくなる」
不安がよぎり、俺は頭を抱える。
「大丈夫です、明治様。きっと、すぐによくなります。たまたま調子の悪い日が続いただけです。また仕切り直しましょう」
「そう……だよな。うん、そうだ」
俺は自分に言い聞かせた。ノラの言うとおり、たまたま調子が悪い日が続いただけなのかもしれない。現に少し休んだら、もう落ち着いている。
しかしその楽観的な見通しは外れた。一日挟んでその二日後、小さな営業が入っていたのだが、そこでも俺はぶっ倒れた。その次の営業も、その次の営業も、直前までは落ち着き払って平気だったのに、いざ本番になると動悸と過呼吸と吐き気で続行することができなかった。舞台に上がってから発作が起こるまでの時間は、徐々に短くなっているような気がした。
本番はすぐそこまで迫っていた。どうしようどうしよう、と同じ言葉が頭の中でぐるぐる廻った。堂々巡りの中で焦りばかりが募った。何度か気を失って救急外来の世話になり、その度に精神科の受診を推奨された。俺は受診を強く拒み続けていたが、見かねたノラから半ば脅されて、クリニックを受診することとなった。
精神科の先生は、てかてかと血色がよく、金縁の趣味の悪いメガネをかけていて、やたら物のよさそうな上等な白衣に身を包んでいた。待合室も小奇麗で、受付の医療事務は若くて美人だった。さぞ開業で儲かっているのだろうなと思った。ベンツにでも乗っていそうだと思ったので、俺はその精神科医をベンツと名づけた。
ベンツはセロテープで継ぎはぎされた紹介状にざっと目を通した。本当にざっとだ。細かいところまでは絶対読んでいなそうだった。
「――と、こういうわけなんですけれど」
俺はこれまでのあらましを説明した。
「要は、客の前に立つと、中学生時代に受けてたいじめ体験を思い出して、動悸とか吐き気とかが起こる、とそういうことですか?」
ベンツがいかにも事務的に、俺の言ったことを要約して聞いてきた。
「そういう感じです」
ベンツが顎に手を当てながら、ふうむとうなって十分ためをつくってから、「フラッシュバック」と一言言った。
「スラッシュメタル?」
「ちょっと無理がございます、明治様……」
「過去のすごくトラウマティックな体験が、何らかのきっかけで、当時の恐怖感、身体反応を伴って、明瞭な感覚を伴って再体験されることをフラッシュバックというのです」
俺は解せない。
「いきなりなんで、そんなんなっちゃったんですか?今までは全然平気だったんですけど」
「ストレスですね。お話を聞く限り、かなり緊張を強いられる場面に何度も出ていたようですし、その表出がなかなかうまくいかなくて、ある日ぽんとはじけてしまったのでしょう。ストレスマネジメントは難しいものですから。家族関係を考えても、権威的で無関心な父親と、支配的な母親の影響を強く受け、非常に抑圧の強い人格形成――」
「あの、その手の分析とかいいです。俺の無意識を掘り返さないでください。立ち直れなくなっちゃうんで。せっかく、無意識に押し込んでるんだから」
俺は思わず遮った。
「で、治療法はありませんか?手っ取り早く緊張が解けるような。三、四日で効果が表れるような、お手軽なやつ」
「ありません」
とベンツは間髪いれずに即答した。当たり前だろ、と顔に書いてあった。
「この症状は、もともとストレスをため込みやすい傾向の上に、様々なストレスが時間をかけて積み重なって引き起こされたものなので、治療にもまた長い時間が必要です」
「長いって、どのくらいですか?」
「人それぞれですが、スムーズにいって一年程度と考えて頂ければ」
「一年?」
俺は思わず聞き返した。
「本番が二週間後なんですけど」
「まずは安静休養が原則です。今の段階では、そういった緊張を強いる状況は推奨しかねます」
「二週間後に出るのは絶対なんですよ。対処療法でいいから、なんとかよくなる方法を教えて下さいよ」
「ですから、先ほど申し上げましたように、長い時間をかけて出てきた症状ですので、治療にも長い時間がかかります。その舞台とやらに、出るか出ないかはそちらの選択の自由です。ただ、治療的な意味合いでは推奨できない、ということです。倒れて頭部外傷という危険もあります」
ベンツがA4の紙に何やらさらさらと書いて渡してきた。紙にはメモリのように、〇と五〇と一〇〇という数字が書いてあった。
「この表に、自分が緊張するような状況を、そのストレスの強さの順に従って書いていってください。そして、ストレスの低いものから、少しずつ実行していくのです。もしできたらちょっとずつストレスの強度を上げていってください。ただし無理をしないように。徐々に徐々に、緊張する状況に体を慣らしていくのです。これを行動療法と言います」
俺はしばしその紙を眺めた。
「あの……こんな悠長なことやってる場合じゃないんですけど」
「次回の外来予約はいつになさいますか?」
ベンツが被せ気味に言ってきた。聞く耳持たない、といった感じだ。
クリニックを出ると、俺は早足で歩き始めた。「明治様」とノラが言って追いかけてきた。
俺は手渡された紙をひらひらと揺らす。
「笑っちゃうよな、こんな紙っぺらが治療だとさ」
「治療法がないよりましです。とりあえず言われたとおりにしてみましょう」
「馬鹿言うなよ。そんな暇ないよ。本番は二週間後だし」
「あの……」
ノラがためらいがちに言う。
「この際、大会に固執しなくてもよいと思うのです」
俺は思わず立ち止まって振り向く。
「固執しないだって?するに決まってるだろ。このためにやってきたんだ。せっかく、決勝に出られるっていうのに。テレビに出られるっていうのに。こんなつまんないことでふいにしてたまるか。ぶっ倒れてでも舞台に立たなきゃ」
「ぶっ倒れたらお客様は笑えません」
ノラが俺の目を見据えて言う。
「今は、御自愛されることが大事だと思います」
返す言葉もなかった。ノラが言っていることが正論だ。頭ではわかってはいたが、納得ができなかった。この土壇場で、こんなことになっている自分が不甲斐なくて、許せなかった。掴みかけたチャンスが遠のいていってしまう。
俺は無言のまま、踵を返して歩いた。背後からノラの呼ぶ声が聞こえたが、俺はそのまま歩き続けた。
翌日、俺は団長に呼び出された。俺は武さんに許可をもらって早めに仕事を上がり、事務所に向かった。
「ちょっと座れ」
と団長は言った。言われるままに、俺はソファに腰を下ろした。何を言われるかはだいたい見当がついていた。
「なんの話かはわかってるよな?」
俺は黙っていた。
「発作を繰り返して、何度か倒れてるって聞いた。本当か?」
「……」
「本当なんだな」
団長はため息をついた。
「ノラから聞いたんですか?」
「違うよ、営業の依頼先から報告を受けたんだよ。どうして黙ってた。大事なことだ」
「……言ったら、舞台に立つなって言われるかと思って」
「馬鹿野郎!俺はお前を親御さんから預かってる身なんだぞ!お前になんかあったら顔向けできねえよ!」
団長が顔をしかめて頭をかく。
「医者にはかかったのか?」
「……はい」
「そうか。で、なんて言われた?」
「……一週間くらいでよくなるって」
「明治、それ俺の目を見て言えるか?」
俺は団長の顔をじっと見る。すると、つけ髭の片方がひらりと落ちた。俺は思わず、ぶふうと吹き出した。
「笑いごっちゃねえよ」
「笑わせてるのはそっちじゃないですか。反則ですよ、それ」
「で、どうなんだ?本当なのか?」
「……しばらく安静にしてろって」
俺は観念して言った。団長は大きくため息をついた。
「医者の指示に従え。しばらく休め。以上」
「休みません」
「だめだ、休め。これは社長命令だ」
「団長だって言ってたじゃないですか。このチャンスをものにしろって」
「あの時とは状況が違う。わかってんだろ」
俺は下を向いて、口を結ぶ。
「なあ明治、お前の気持ちはわかる。これでもお前と七年間一緒にやってんだ。でもな、俺にとって舞台なんて二の次だ。俺は団員の舞台より、団員自身のほうが大事だ。だから、無理をしないで欲しい。これは、命令であると同時に、俺からのお願いだ」
俺はうつむいたまま黙っていた。団長の気持ちも伝わってきて、それでも出たいという気持ちと、せめぎ合っていた。葛藤が頭の中で渦をつくった。足元ではパグ犬が無垢な瞳で、ふんふんと俺の足のにおいを嗅いで回っていた。
事務所から出ると、日がもうとっぷりと暮れていて、街灯が街を照らしていた。俺は帰りがけにコンビニエンスストアで五百ミリリットル入りのビールを五本買い、それを持って普段ネタ合わせに使う公園に向かった。
公園にはだれもいなかった。俺はベンチに座り、背もたれによりかかって、空を見上げた。三日月よりちょっと進んだ、どんぶりみたいな月が上がっていた。月の光は夜空全体を照らすには心もとないものだったが、その分星がよく映えて、北極星がきらきら輝いて見えた。
俺はおもむろに袋の中からビールを一本取り出し、それをごくりと飲み下した。喉仏が大げさに上下に動くのがわかった。瞬く間に体内にアルコールが循環していった。俺は本来、アルコールに強くはない。
漠然とした浮遊感が身を包んだ。しかし気は晴れなかった。アルコールでぼんやりとしているはずなのに、ネガティブな感情だけが、くっきりとした輪郭を描いて心の中に浮き彫りになった。
ものの十分で、一本目を飲み切ってしまった。間髪入れずに俺は二本目に手をかけた。なんだか得体の知れないアルコールへの飢餓感が湧いていた。こんなことは生まれて初めてだった。
二本目も半分ほど飲んだ頃合いで、意識がさらに狭く、曖昧なものになってきた。穏やかな酩酊の中で、俺は深い深いため息をついた。
どうしてなんだろうな。
どうしてこう、うまくいかないんだろう。
過去のことは振り切ったと思ったのに、どうして今頃ぶり返してくるのだろう。
俺のせいなのかな。俺が弱いから、こんな症状が出ちまうのかな。
これで俺だけのことならまだいいのだ。でも俺には相方がいる。ノラはノラなりの過去を背負って、志を持って、漫才をやってる。俺がここでドロップアウトするということは、ノラの夢も潰えるということだ。
三本目のビールをあけ、さらにアルコールの霧が深くなってきた頃合いで、月に重なって誰かの影が俺を覆った。
顔を上げると、そこにはノラが立っていた。ノラ、と口に出そうと思ったが、呂律が回らなくて、「ニョラ……」と言ってしまった。
「帰りが遅いので、探しました」
俺はビールの缶を一本差し出す。
「ニョラ……ノラも飲む?」
「結構です」
「あっそう」
俺はひと口ビールに口をつける。するとノラが、俺の手からビールの缶をするりと取り上げた。
「らしくありません。酩酊で誤魔化すなど。楽しむ酒ならまだしも、誤魔化す酒は看過しかねます」
「ちゃんと楽しんで飲んでるよ」
「楽しんでいる人間がそんな悲しそうな顔をするはずがございません」
「……誤魔化して何が悪いんだよ。誤魔化しでもしなきゃやってられないだろ」
俺は袋の中からさらにビールを取り出し、蓋を開ける。
「団長から、よくなるまでしばらく休めって言われたよ。よくなる見通しだってないのにさ。それどころかだんだん症状がひどくなってるよ。最近じゃ商店街の人ごみでも動悸がする始末さ。学もないし金もないし、家族からも見放されてるし、夢だけがよりどころと思ってたけど、その夢も潰えたんじゃ、俺もうなんにも残ってねえな」
「慰めの言葉が欲しいのですか?でしたら今日は何も話しません。何を言っても、明日には覚えてらっしゃらないのでしょうから」
ノラがベンチに置いてあった残りのビールを袋ごと公園のごみ箱に捨てた。
「さあ、今日はもう帰りましょう。立てますか?」
ノラが俺の腕をとったところで、俺はその手を思わず振り払ってしまった。
「……解散しよう」
しばしの沈黙。ノラがきょとんとした表情でこちらを見ている。
「……は?」
「俺たち、解散しよう。別々の道でやっていこう」
「……なにアホなこと言うとんねん。おもんないわ。さっさと帰るで」
ノラがもう一度俺の腕をつかんで立たせようとしたところで、俺はまた振り払った。
「自分ええ加減にせえよ!」
ノラが俺の襟首を掴んで、ぐいと顔を引き寄せた。いつもならここで萎縮して口をつぐんでしまうところだが、この日ばかりは酔いもあって、口が止まらなかった。
「もう無理なんだよ、俺には!ダメなんだよ!俺をよく見てみろよ。酔いどれで貧弱な負け犬だろ。笑いがどうのとか大仰に振りかざして、身銭も稼げないろくでなしなんだよ。俺なんかと一緒にいたら、お前まで貧乏くじ引いちまう。勝ち馬に乗りたけりゃ、俺なんかとはさっさと別れて、別の相方探したほうがいいぞ」
襟首をつかむ手の力が緩んだ。ノラはしばらくのあいだ、じっと俺を見ていた。夜風がぴゅうと吹くと、ノラの長い髪の毛がふわりと揺れた。ノラは徐々に小刻みに肩を震わせて、その目に大粒の涙を溜めはじめた。そして一度瞬きをすると、涙が頬をゆっくりと伝った。
「……べつに……勝ち馬に乗りたくて、あんたと一緒にいるんやない……」
ノラは袖で涙をぬぐうと、向きを変えて、静かにその場から歩き去って行った。ノラの後姿が、夜の闇の中に溶け込み、消えていくのが見えた。
後悔が波のように襲ってきた。もうノラと漫才ができないと考えると、まるで心臓がえぐられたような喪失感がわいてきた。それでも俺は、ノラの後を追うことができなかった。これであいつは俺を見放せばいいのだ。見放して、もっと面白くて才能のあるやつと組んだほうがいいのだ。自分で自分にそう言い聞かせた。
俺は手に持ったビールの残りを下水に捨てて、公園の水を顔にぶっかけた。そして服の裾で顔をぬぐい、またぼんやりと夜空を見上げた。
翌朝目が覚めた時、俺は公園のベンチに横になっていた。いつの間にか眠ってしまったのだ。体が冷えきっていて、ひとつ大きなくしゃみをした。体を起こすと、ずきずきと頭が痛んだ。「いってえ……」と思わず声に出してしまった。二日酔いで最悪の気分だった。
公園の時計を見ると、七時五十分だった。家に戻っている暇はなかったので、俺はそのまま病院に向かうことにした。一晩外で明かしたので体の臭いが気になり、バスの中できょろきょろと周囲をうかがった。行きがけに俺はコンビニエンスストアで小さな石鹸を一つ買って、病院の当直室のシャワーを拝借させてもらって髪と体を洗った。
フロアを掃除しているあいだも、俺は昨夜のノラの涙を浮かべた顔を思い出していて、いまいち集中できなかった。言うべきでない言葉を言った気がした。でも今さら取り消せなかった。
昼休みになり、俺はサンドイッチをもむもむと食べながら、今後いったいどうしようかと考えた。大勢の客前に立てない以上、もう漫才を続けることはできない。腹を括って武さんに弟子入りして、病院清掃道でも極めようかと思った。
「おう、調子はどうだ」
武さんがいつもの調子で俺に声をかけてきた。
「あ、お疲れ様です」
武さんがよっこらせと俺の隣に座る。
「腰いてえんだよ。昔ヘルニアやってるからさあ」
「……あの、武さん」
「ん?どしたい?」
「いつか言ってた、清掃の秘伝の技なんですけど、俺に教えてもらってもいいですか?」
「お、どういう風の吹き回しだよ。継承する気になったのか?」
「はい。いろいろあって。やっぱ清掃を極めるのが俺には合ってるのかなって」
「そうかい。どれ、顔見せてみろ」
俺は武さんに顔を向ける。武さんはただでさえ細い目をさらに細め、じっと俺の顔を睨みつける。まるでシーラカンスとにらめっこしているような気分だった。
「だめ。却下」
「えっ!」
俺は意外な返答に、驚いた。
「迷いがあるもん、お前。顔にそう書いてある。お前、病院清掃を甘く見てるだろ。消去法で選んで大成できるほど、簡単なもんじゃねえのよ、病院清掃道ってやつはよ」
積極的に病院清掃の道を選ぶ人間なんてかなりレアなんじゃないか、そして病院清掃における大成とはいったい何なのか、と思ったが、そこは黙っておいた。
「とりあえず、今やってることを完全燃焼しろ。それができたら、もう少しましな顔つきになるだろ。そん時は教えてやるよ」
言われるまでもなく、お笑いへの未練はたらたらだ。でも、いくら情熱を持っていても、体がついてこないのだ。考える間もなく、発作に襲われて、客前に立てないのだ。
「完全燃焼したくても、いろいろあってできないこともあるんですよ」
「ふうん……」
武さんがふと左手を上げる。たくさんの皺が張り巡らされていて、ごつごつしていた。そしてよく見ると、なんだか不自然に少し指が太い気がした。
「俺のこの左手、リウマチで指が動かないんだよね。握力ゼロ」
「えっ!」
「でも誰よりも早く正確に、フロアをぴかぴかにする。お前ら五体満足な若造にも全然負ける気がしねえ」
武さんが手を引っ込める。
「何かが欠けてるからその道を進めねえなんて、そんなもん言い訳だね。壁がありゃ壊すだけが能じゃねえ。回り込んだっていいし、よじ登ったっていいし、穴掘って下からくぐるんだっていい。どうとでもやりようがある。それをしねえで進めねえなんて弱気なこと言ってんだったら、そりゃ考えもやる気も足んねえな」
武さんが座った時と同様に、よっこらせと立ち上がる。
「何があったか知らねえけど、その様子じゃ技は伝授できねえな。お前にはまだ他にやるべきことがありそうだ」
そして武さんは去って行った。
午後になり、二つ目のフロアの清掃にとりかかった。このペースだと五時には上がれなそうだった。周坊がいなくなってからというもの、ノルマが少し増えていた。バケツにモップをぴちゃぴちゃ浸していると、背後から三、四人で立ち話する看護師の声が聞こえてきた。
「今、西病棟の五階って、すっごく大変らしいよ」
「知ってる。なんでも、すんごい問題患者がいるんでしょ」
「肝硬変らしいんだけど、病棟のルールを全然守らないし、大声あげて怒鳴り散らすし、暴言は吐くし、そろそろ強制退院になるかもしれないんだって」
「そういえば、うちの病院の清掃員らしいよ」
俺はモップを持つ手を止めた。まっさきに周坊の顔が頭に浮かんだ。そういえば、今この病院の消化器内科に入院しているのだ。
べつに何か特別な意図があったわけではないのだが、俺は休憩時間に西病棟の五階に出向いた。周坊の入院している部屋を聞くと、看護師の顔が一瞬引きつり、しかる後に五〇七号室だと教えてくれた。
「ご家族の方ですか?」
「いえ。職場の後輩です」
部屋の前まで行くと、すでに周坊の怒鳴り散らす大声が廊下まで聞こえてきた。
「飯がおせえんだよ!俺のとこだけ最後にしてんだろ!」
「そんなことするわけないでしょう」
うんざりした男の声が聞こえた。会話の内容から、おそらくは医者だろうと思った。
「こっちは間食もできねえで、腹減って苛立ってんだよ!」
「周坊さんは食前薬をいくつか飲まないといけないから、少し配膳が遅くなるんですよ。前にも言ったでしょう」
「じゃあ食前薬なんていらねえよ」
「そういうわけにはいきませんよ。糖尿病もあるんですから。これ以上合併症が増えたら困るでしょう」
「うるせえよ。偉そうに言ってんじゃねえよ。入院してから全然痛みもよくなってねえじゃねえか。金返せ馬鹿野郎、このやぶ医者がよお」
「周坊さん。他の患者様もいます。あまり大きな声を出さないでください」
医者がつとめて冷静な声で言った。
「病棟は集団生活ですから。大声を上げないようにと以前にもお話したはずです。ルールが守れないようであれば、退院していただくことになります」
医者がつかつかと部屋から出ていく姿が見えた。三十代と思しき若い男性医師だった。
「上等だよこの野郎!クソみてえな病院だって世間にぶちまけてやるからな!」
荒れてるなあ、と思った。怒鳴り声がやむのをひとしきり待ってから、俺は病室に足を踏み入れた。周坊は俺の顔を見た瞬間、わずかに驚きの表情を見せたが、すぐにいつもの威圧的で人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「よお、グズの鈴原じゃねえか。何しに来たんだよ」
周坊の姿を見て、俺は驚いた。顔は以前よりもさらに浅黒く、痩せて頬から肉が落ち、一方で腹が腹水で膨れていた。腕には点滴の針が刺さり、点滴台には黄色い袋がかぶせられたボトルがぶら下がっていた。
「どうだ。お前の期待通り、惨めな姿だろ。トイレに行くのも一苦労だ」
「べつにそんなの、期待してないですよ」
俺は椅子を持ってきて、ベッドの前に置いて座った。
「嘘つけこの野郎。てめえ俺を笑いに来やがったんだろ、え?散々嫌な目に合わせられたから、これみよがしに俺の惨めな姿を見てやろうって思ったんだろ。笑えよ、俺を、なあ。俺がお前を笑いものにしたみたいに、俺を笑えよ。正直に言ってやろうか。俺はてめえが大っ嫌いなんだよ。なんも持ってねえくせに、夢語って、ガキみてえに目えきらきらさせてよお。いらつくんだよ。踏みにじってやりたくなんだよ、てめえの顔見るとよお」
しばし沈黙がある。周坊は息をするのもつらいようで、ぜえぜえと肩で呼吸しながらこちらを睨みつけている。
「……今日は、笑いに来たんじゃなくて笑わせに来たんです」
「あ?」
俺はすっくと立ち上がり、右手を上げる。
「物まねシリーズ。C大学病院清掃員の面々」
俺は自分でぱちぱちと拍手をする。
「まずその一。従業員に気を配るリーダーの武さん」
俺は武さんの物まねをする。猫背でゆったりと動いて、野太い声で喋るのが特徴だ。やや細目で、口をもちゃもちゃ動かすのがコツなのだ。周坊は唐突のことに、呆気にとられている様子で何のリアクションもない。
「続いてその二。薄給に不平を言う、若手の有望株の吹田君」
吹田君はいつも口をヘの時に曲げているのが特徴の男である。俺は口を曲げ、「こんな安月給じゃタイル一枚磨く気にならないですよ」と吹田君の口癖を言う。
ちらと周坊を見ると、わずかに口角がぴくりと上がったような気がした。
「その三。若いイケメンの医者に絡む、紅一点の松島さん」
松島さんは四十代半ばのベテラン清掃員だ。甲高い声で目を見開いて喋るのが特徴だ。普通、清掃員はなんだか医者には声をかけづらいものなのだが、松島さんはずけずけと絡む。俺は裏声で、「四半世紀前のあたしを見たら、あんた絶対落ちてるわよ」と言う。
周坊がひとつ鼻をふんと鳴らして、下を向いた。肩が少し震えている。笑いをこらえているのがわかった。これは勝算ありだ。
「では最後。遅刻した後輩をいびる周坊さん」
周坊の特徴は、胸を張って鳩胸をつくり、顎を引き気味にして、威嚇するように眉を曲げて睨むような目つきをすることだ。そしてアルコールで声帯でやられているので、声が少しハスキーになっている。俺は周坊の声まねをして、「てめえ、この野郎。遅刻十分につきワンフロア追加だぞ、馬鹿野郎」と言った。
「俺だってそこまで酷なこと言ってねえよ、馬鹿野郎。十分ごとに一フロア追加じゃ、お前なんか院内全室を掃除することになるじゃねえかよ」
周坊が少し笑いながら言った。
「物まねは誇張するものなんですよ」
「ったく、気が抜けちまったよ。芸人の癖につまんねえんだよ」
「でも少し笑ってんですから、俺の勝ちですよ」
「誰がお前のネタなんかで笑うかよ。痛くて顔が引きつっただけだっつんだよ。……まあ吹田あたりのはちょっとだけ似てたけどな」
周坊がどこかきまり悪そうに、視線を逸らしてシーツをいじる。
「そんじゃ俺、帰りますんで」
俺は立ち上がり、椅子を片づけた。そして病室を出ようとしたところで、「おい」と周坊に呼び止められた。
「なんすか」
「俺の分のノルマは今どうなってんだ?」
「皆で手分けしてやってますよ」
「……そうかい」
周坊はなにやら思案しているようだった。落ち着きなく、顎を触ったり髪をかいたりしている。
「…………とけ」
周坊がなにやら早口で呟いた。あまりに小声で早くて、俺には聞き取れなかった。思わず、「はい?」と聞き返してしまった。
「ありがとうっつっとけって言ったんだよ」
周坊が面倒くさそうに言って、舌打ちする。
「……ええ、伝えときます。周坊さんも、医者の言うこと聞いて、早くよくなって戻ってきてくださいね」
「うるせえんだよ。大きなお世話だよ。ワンフロア追加すんぞ、馬鹿野郎」
悪態は変わらないが、先ほどの苛立った表情が少し和らいだ気がした。それを見て、俺は少しほっとした。
上がりの時間を一時間ばかり超えてようやくノルマを終え、俺は着替えて病院を出た。家に帰ったら、ノラに何を言えばいいのだろうと、考えた。いや、それ以前に家に帰ったらノラがいる保証もない。昨日自分から、あんな風に突き放すようなことを言ったのだ。それを考えると、俺は絶海の孤島に取り残されたような、孤独感に襲われた。
背を丸めて、うつむき加減で歩いていると、門のところに見覚えのあるシルエットが見えた。夕日の逆光で見えにくかったが、近づいてよく見ると、ノラの姿がそこにあった。ノラはいつもの水色のパーカーに身を包み、門柱に背をもたれ、つま先で地面の砂利をいじっていた。そして俺に気が付くと、薄く微笑んだ。俺は、それまでの憂鬱が嘘みたいに晴れていくのを感じた。しかし同時に、昨日のことが思い返されて、なんだか気まずかった。どの面下げて話をすればいいのかと思った。
「近くまで来たので、ついでに……」
「……あ、本当。まあじゃあ、一緒に帰ろうか」
しどろもどろで、なんだか間の抜けたことを言っている気がした。
バス停まで続く一直線の道のりを、俺たちは歩いた。ノラは何も話さなかった。まっすぐ前を向いて、黙々と歩を進めていた。ちらちらと横顔をうかがうと、瞳が夕日に照らされてきらきら輝いていた。
「あの……さ」
「カノッサ?」
「いやカノッサじゃない。なんでこのタイミングでイタリア北部の基礎自治体のこと呟くの。あのさ、って言ったの。何気ない会話の出だしだよ」
「そうでしたか。それで、いったいなんでしょう?」
「その……昨日は本当、ごめん。返す返すも、馬鹿なことしたと思う」
「本当ですね。大馬鹿です。呆れてものも言えません。つくづく馬鹿につける薬はないんでしょうね」
顔色ひとつ変えず、ノラが言う。静かな口調だが怒りが伝わってきた、俺はさらに背を丸めて身を縮めた。このまま小さくなり続けて、地面に吸収されてしまうんじゃないかと思った。
すると、突然ノラが歩みを止め、俺の方に向き直った。
「わたくしを泣かせた罪は償っていただきます。賠償です。とりあえず百万円お支払いください」
「ええっ!逆さになったってそんなお金出てこないよ」
「でしたら――」
ノラがいたずらっぽく微笑む。
「かわりに今後その生涯をかけて、わたくしを百万回笑わせてください。それでチャラにいたします」
俺は頭の中で試算する。
「一日三十回笑わせても百年かあ」
「女を泣かせたのですからそのくらい当然です」
「……わかった。善処するよ」
「約束です」
ノラは小指を差し出してきた。俺は頬をぽりとかいて、自分の小指も差出し指切りをした。
「何も、舞台にこだわる必要はないのかな、って思った」
ふたたび歩きはじめたところで俺は言った。
「ええ」
「舞台で演じるだけが笑いじゃないかなって。いろんな形の笑いがあって、でもって一人でも笑ってくれる人がいたら、それでいいかなって気もしてね」
「いかにも明治様らしい結論です」
ノラがふふと笑う。
「いろいろと一緒に模索していきましょう。一人では難しくても、二人なら名案が浮かんでくるかもわかりません。わたくしたちは、コンビですから」
「……うん」
その時、携帯電話の着信音が鳴った。画面を見ると、見慣れない電話番号が表示されていた。
「誰だろ」
俺はノラと顔を見合わせながら、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「……もしもし?」
女性の細い声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声だった。俺は記憶の糸を手繰り寄せ、声の主の見当がつくと同時に焦った。
「母さん?」
「……もしもし、明治?」
母さんの声には明らかに力がこもってなかった。時々鼻をすすっていて、すすり泣いているのがわかった。俺は何が起こっているのかと、動揺した。
「母さん、どうしたの?」
「あのね、明治……。さくらが……さくらが……」
震えるその声に、不吉な予感がよぎった。
「さくらが……さくらが……」
「さくらがどうしたんだよ、母さん」
「……が、……のに、手術……よくなって……」
言葉が嗚咽で分断されてしまっていた。正確な意味はわからなかったが、さくらの身に何かあって、母さんがそれにひどく動揺していることは伝わった。
「わかった、母さん。俺すぐそっち行くから」
俺は電話を切った。ちらりとノラを見ると、察したので何も言わなくてもいいという風に、こくりと頷いた。
俺とノラは、即座にさくらの病院のある駅に向かった。道中、何も口にすることができなかった。いろいろと最悪の可能性が頭の中でぐるぐると回ってしまい、その度に俺は悪夢を振り払うかのように、首を振って、落ち着けと自分に言い聞かせた。焦りで、そわそわとせわしなく体を動かした。窓の向こうの景色も、なんだかいつもより色が褪せているような気がした。
駅に降り立ち、俺たちは小走りに病院に向かった。病院のロビーについて、辺りを見回すと、待合室の奥の方で、見覚えのある二人がいた。
母さんと、そして父さんだった。二人して並んで、何かを話し込んでいた。
突然俺の中に、先程とは別の種類の緊張が湧きあがってきた。あの日両親に言った言葉と、その言葉を聞いた時の両親の顔が思い出された。
俺は少しだけ弱気の芽が出てしまい、躊躇してロビーの真ん中で立ちすくんでしまったが、やがて意を決して父母のもとに行くことにした。
俺が近づいて、父さんと母さんの前に立った。父さんは俺の顔を見るなり、驚いたように口を開け、立ち上がり、「明治……」と漏らした。
父さんの顔を見るのはじつに五年ぶり程だった。記憶の中の父さんよりも、少し白髪が増えて疲れているように見えた。父さんはジャケットも羽織らずシャツ一枚で、仕事をしている最中にそのまま急いで駆け付けたといった風情だった。
「お久しぶりです、父さん」
「明治……その、元気に、してたか?」
「……はい。元気に、してました」
妙な間と、妙な言葉遣いだった。どちらもぎこちなさが前面に出ていた。
母さんはその間も、椅子に座ってうつむき加減で顔を覆っていた。普段は整容に神経質すぎるくらい気を使うのに、この日は髪の毛がまとまらずぼさぼさで、余裕のなさがうかがえた。
「母さん」
母さんが顔を上げた。
「母さん、事情を話してよ。さくらに何があったんだよ?」
「今日先生からお話があって。先延ばしにしてきたけど、そろそろ手術をしたほうがいいって。本人にもそう話してくれたの。そしたら、さくらが……」
そしてまた、母さんは手で顔を覆った。
「心臓の手術なんだ」
背後から父さんが言った。
「あの子に心臓に障害があるってことは、お前も知っているだろう。今のまま放っておくと、心臓の動きが弱くなっていってしまう可能性があるんだ。そろそろ手術をしたほうがいいんだ。でもその話を聞いたら、さくらが絶対手術は嫌だって言うんだよ」
そう言って、父さんはうつむいた。八年前に家から飛び出した時には、すごく大きくて怖いというイメージだった父さんが、どこか小さく見えた。
「二人で説得したんだが、嫌だの一点張りで、いかんとも取り付くしまがなくて。そしたらさくらが、お兄ちゃんを呼んでくれって言うんだ」
父さんが顔を上げ、俺を見た。
「明治、こんなこと頼めた義理じゃないことはわかってる。でも、お前の方から、さくらに手術を受けるように説得してほしい」
母さんも手の甲で涙をぬぐいながら、懇願の眼差しで、こちらを見た。
両親の、切迫と疲弊が、痛いほど伝わってきた。
病室の扉を開けると、さくらがうつむき加減で身を起こしていた。
「ああ、来たんだ、兄ちゃん」
さくらが顔も上げず、視線だけをこちらに動かして呟いた。
「どうやら死ぬみたいだよ、あたし」
「さくら!そんなこと言うんじゃありません!手術をすればよくなると、先生も言ったでしょう」
「手術なんてしないよ。したってよくなる保証なんてないじゃん」
俺はベッドの脇からしゃがんで、さくらの顔を覗き込む。さくらは無表情に、ちらりとこちらに視線を移す。
「なんだよ、グズの兄ちゃん」
「さくら。事情を父さんと母さんに聞いたんだ。お前、手術――」
「手術はしないって言ってんでしょ!」
さくらが大声で怒鳴った。
「あたしは、父さんと母さんがぐずぐずつまんないことばっか言ってるから、うんざりして、いつもの馬鹿話をするために兄ちゃんを呼んだのよ。退屈凌ぎよ。兄ちゃんまでつまんない説得に加担するんだったら、今すぐ出ていってよ」
さくらの顔をじっと見ると、瞼が少し赤く腫れており、人知れず泣いたあとが見て取れた。俺はその瞳の奥に、恐怖と、悲嘆と、諦観と、そして精一杯の強がりを見て、やるせない気持ちになり、さくらの顔をそっと抱き寄せた。俺の腕にすっぽりおさまってしまうくらい小さな顔だった。指先には細くて滑らかな髪の毛が触れた。さくらの肩が、その呼吸とともに小さく上下した。
さくらはその肩を小刻みに震わせて、すんと小さく鼻をすすった。抱き寄せた俺の胸に、さくらの涙が滲んでいくのがわかった。さくらは最初、悟らせまいと声を押し殺すように泣いていたが、やがて俺の胴に回した腕にぎゅうと力を込めて、わんわんと声を上げて泣き始めた。
「兄ちゃああん!あたし、死にたくない!学校行ったりもっともっと兄ちゃんと話したりしたい。いろんなとこ行きたい!美味しいもの食べたい!でも手術も怖いの!すごく、すごく怖いの!考えると息も詰まりそうになっちゃうの!不安でどうにかなっちゃいそうなの!父さんと母さんを困らせてるのもわかってる。でもどうしたらいいのかわからないの!助けてよ、ねえ。助けてよ、兄ちゃあああん!」
それは病院全体に響き渡るような叫びだった。まるで空気まで震えたような気がした。看護師が病室をドアをそっと開けて様子を見に来た。さくらの嗚咽を聞きながら、俺の中にいろいろな思いが去来した。今兄として、こいつにできることはなんだろうと考えた。
しばしの逡巡の後に、俺の中に、ひとつの決意が固まった。
「なあ、さくら」
俺はさくらの肩をそっと掴んで離し、涙で頬を濡らしたさくらの顔をじっと見た。
「兄ちゃんな、来週、新人の漫才師の大会に出る。ちょっと夜遅い時間だけど、生放送でテレビに出るんだ」
さくらが、すんと鼻をすする。
「俺は、その大会で優勝するぞ。絶対だ。約束する。だから、俺がテレビでガッツポーズしてるところを見たら、お前も手術を受けろ」
「そんなん、優勝なんて、兄ちゃんにできるわけないじゃん。全然面白くないくせに」
「やってみなきゃわかんねえだろ。俺は優勝すると言ったら優勝するぞ。そう決めた。グズの一念を見せてやる」
「本当?」
「本当だよ。それともなにか?俺が一度でもお前に嘘ついたことあったか?」
「……そこそこあるじゃん」
さくらはそう言って、涙を指でぬぐって少し笑った。
俺は立ち上がり、向かいに並んで立っている両親に目を移した。
「父さん、母さん。今まで本当、ろくに連絡もしないで、ごめんなさい」
俺はそう言って頭を下げた。
「いろいろ伝えたいこともあるんだけど。……でも俺、言葉じゃ全然うまく伝えられる気がしないんだ。だから、一週間後の午後十一時からの7チャンネルを、さくらと一緒に見て欲しい。そこに、俺の全部が、出てるから」
俺はもう一度しゃがんで、さくらに目を移す。
「んじゃさくら、俺の勇姿を、しっかりとその目に刻めよ」
「そうだね。兄ちゃんの勇姿なんてレアだもんね」
「次に見られるのは七十六年後かも知れませんし」
背後からノラがぽそりと呟く。
「ハレー彗星か、俺の勇姿は!」
さくらがくすりと笑った。俺は拳をつくり、さくらの前に突き出した。さくらも拳をつくって、こつんと合わせた。それは白くて、細くて、小さな拳だった。
病院を出ると、日がとっぷりと暮れていて、夕闇の中にビルの光がチラチラと光って見えた。湿り気のある風が吹いて、公園の銀杏がワサワサとその葉を揺らした。駅へと続く高架橋には、仕事を終えた人たちや、学校帰りの学生が行き来していた。その中の、制服を着た中学生くらいの子供たちを見るたびに、さくらの握った小さな拳が目に浮かんだ。
「我ながら、でかい風呂敷を広げちゃったもんだよ。東京ドーム二個分くらいあるな」
「あるいは三個分くらいあるかもわかりません」
「無茶なのはわかってるんだよ。でも、あいつの顔見てたら、考える前に口に出ちゃってさ」
「今までひた隠しに隠してきた兄の威厳というやつを見せつけるチャンスです」
「べつに、隠してきたつもりはないんだけど……」
俺は立ち止まって振り返った。それを見て、ノラも一緒に振り返った。先ほどの病院が夜空の一部をかすめてそびえているのが見えた。自然にさくらが入院している辺りの病室の明かりに目がいった。
「あいつは、戦ってる。だから俺も戦おうかと思うんだ」
「俺たち、ですね。正確に言うには」
とノラが訂正した。
「……そうな、うん。俺たち」
俺は確かめるように言った。
「わたくしたちは、明治の乱。ぼちぼち戦の時なのです。ともに、戦いましょう」
「……うん。討ち死にしたら、後を頼むよ」
「墓代もないので、生き延びてください」
そう言ってノラが微笑んだ。
胸底からふつふつと、勇気が湧いてくるのがわかった。
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