第5話 再び、さくらを見舞う
第五章
完全に丸め込まれた形で始まったノラとの生活だったが、当の俺はというと楽しんでいた。お互いの生活リズムを合わせるという名目のもと、ノラは完全にマイペースでこちらに合わせるということをしないのだが、やはり家に帰ってかわいらしい女の子がいるというだけで心躍るものだ。ノラは俺が出勤した二時間後くらいにゆっくりと起床し、散歩したり百貨店を覗いたり本屋で立ち読みをしたりして過ごし、夜になるとタイムサービスで安く仕入れた物や親戚から送られてきた食材で夕食をつくった。ノラの父方の実家は農家をしているとのことで、父を失い一人になったノラを心配して頻繁に野菜や果物を送ってきた(ノラは「間取りが悪いから」とか適当な理由をつけて、上の階に引っ越したことにしていたのだ)。おかげで、俺の栄養状態は以前よりもだいぶ改善された。それに、一人で食べるよりも、誰かと向かい合って食卓を囲んだほうが何百倍も美味しく感じた。
ある日、二人で営業先で漫才を終えた後、またギャランティで一悶着あった。前回と同様、相手方がこちらになにかといちゃもんをつけて、払わないと言って凄んできたのだ。事務所も無名もいいとこでなめられているのもあるのだろうが、どうしてこう何度も揉めなくちゃいけないんだと、俺はうんざりした。
団長がこういう時に役に立たないのはもうわかっていので、また泣き寝入りかな、と思った。後ろではノラがじっと見ていた。相手が怖いからと言って、主張したいことも主張できずにペコペコ謝って、情けないなと思った。軽蔑されちゃうかなと思った。
すると、俺の背後でニコニコことの成り行きを見守っていただけだったノラがすっと前に立った。
「なんだ、このアマ」
相手の男が凄む。すると、ノラの表情がガラッとかわり、男の襟首をむんずと掴んで軽々と持ち上げた。
「自分、舐めてんちゃうか、こらあ!四の五の言わずにさっさと金払えや、ボケェ!ボランティアちゃうわ!文句あるんやったら出るとこ出てもええねんで!」
男は喉が締め上げられて、軽くチアノーゼを起こしていた。
「す、すひません……」
男が呻くような声を絞り出した。するとノラは男を地面におろし、またいつもの穏やかな表情に戻り、「少々取り乱しました。申し訳ございません」と言ってぺこりと頭を下げ、俺の後ろに身を引いた。
ノラのあまりの変貌ぶりの激しさ迫力に気圧されたのか、相手はそれ以上は何も言ってこず、ギャランティも無事回収できた。
「ノラはすごいな」
帰りの電車の中で、俺は言った。
「ああいう輩はどこにでもおります。弱みをみたら搾取にかかるのです。ハッタリでもいいので、弱みを見せてはいけません。それにわたくし、前にも申しました通り、タイマンでは父以外の人間に負けたことがございませんので」
ノラが微笑みながら、指をぽきりと鳴らした。このあいだ自分で語った以外にも、もっと凄まじい過去がありそうだなと思った。しかし恐ろしくて、あえてつっこんで聞いてみようとも思わなかった。
「強いな、ノラは。でもって、弱いな、俺は」
そういって俺は頭を垂れる。
「ここは励ましたほうがよろしいですか?」
「いやまあ、その……。つい弱音が口に出ちゃっただけで、べつに同情を買いたいわけでもないんだよ」
「我々には目標があります。それに向かって邁進するのみです。頭を垂れている暇はございません。ですから顔をお上げください」
「そうね……うん、そうだな」
俺は言われたとおり、顔を上げる。すると電車が止まり、駅のホームから七、八歳くらいの男の子が乗ってくるのが見えた。男の子は俺の隣に座った。顔を覗くと、ぐしゃぐしゃに泣いていた。
俺は隣が気になって、ちらちらと見てしまう。何か嫌なことかつらいことがあったんだろうが、まだそれを表現する言葉がないんだろうなと思った。
俺は男の子の肩をたたいた。すると男の子が顔を上げた。
俺は、男の子に向かって悲哀、怒り、慈愛の三つの表情をかわるがわる高速でつくる『阿修羅』を披露した。件の、劇団時代に団長から教えてもらった一人芸の一つだ。男の子は最初、わけがわからないという目で俺を見ていたが、しつこくやり続けた末に、やがて吹き出し声を上げて笑い出した。
笑わせることができて、俺は大いにカタルシスを得て、満足した。初めて団長から教わった芸が人に笑いをもたらした。
結局男の子は、次の駅で電車を降りた。目にはまだ涙が溜まっていたが、表情は少し緩んでいる気がした。
俺のそんな様子を、ノラが隣でじっと見ていた。
「お優しいですね」
「優しさとかとも違うと思うんだけど……。泣いてる子供を見たりすると、なんか、しのびなくてさ。昔の自分を思い出すというか」
ノラが薄く微笑んだ。
「えてして人間というのは、長所も短所も表裏一体のものです。明治様の押しの弱さも、それはきっと優しさの一側面です。気に病むことなどございません。わたくしは、明治様のそういうところが、とてもいいと思います」
褒められているのかな、と思った。人に褒められるのなんて十五年ぶりくらいだ。十五年前、たしか半分ボケていたおばあちゃんに、ティシュを取ってあげたらやたらと褒められたのだ。
慣れないことに、俺は照れて頭をかいた。
「ひとつ褒めてさしあげたので、明治様もわたくしにひとつ褒めの言葉をいただけませんか?」
えっ、と俺は驚いた。そう言われて改めてまじまじと見ていると、なんだか気恥ずかしくて言葉が出てこないのだ。そして、恋愛のレベルが小学三年で止まっている俺は、つい照れ隠しで
「ないね」
とか口走ってしまうのだった。
すると途端に、空気が冷たく鋭利なものとなり、ノラは表情を一変させ、俺の襟首をむんずとつかんだ。
「もういっぺん言うてみい」
「ある!あるよ、褒めるとこ!かわいい顔、豊かな表情、強気な性格、ユーモア!言うことなし!」
ノラがふっと手を緩める。
「そんな。いやだ。おひとつでいいと言ったのに」
ノラがほほと笑った。俺もつられて引きつり笑いをした。何度かノラの豹変を見てきたが、どうにも慣れない。その度に背中がひやりとする。
でも、気圧されて冗談めかした感じで言ったけど、全部本音なのだ。
*
モップをバケツに溜めた水の中に沈め、縁で少し水をきってから、フロアの隅の床に置く。そして端から端まで直線状に拭き、壁までついたら翻して、今後は逆方向に端まで拭いていく。いつもと同じ工程だ。なんの変化もない。でも最近、どこか違和感があるのだ。何か物足りないような気がする。前はもっと一日の中でも、不愉快な気分になることが何度かあった気がする。最近は平穏そのものだ。
エレベーターの扉が開き、中から武さんが降りてきた。
「よお」
「あ、こんにちは」
俺はぺこりと頭を下げる。
「調子はどうだ」
「ぼちぼちですかね」
武さんが、フロアをぐるりと見回し、靴の先できゅっと床を撫でる。
「うん、水はけの加減もちょうどいい。また腕あげたな。でも俺から言わせりゃまだ荒い。どうだ、ぼちぼち秘伝の技を教えるか?」
武さんの表情が継承モードになり、きらりを目を光らせる。
「え、いや、今は遠慮しときます。まだ俺、芸の道に未練があるんで」
「なんだよ、まだ腹括らねえのか。お前ならいい清掃員になれると思うんだけどな。才能あるわ」
その才能はあまりいらないなあ、とぼんやり思ったが、清掃マスターを前にしてそんなこと言えなかった。
「まあいいや。気が変わったらいつでも言えや」
武さんはそう言って戻ろうとしたところで、何かを思い出したように立ち止まって、くるりと体を反転させた。
「そういえば、周坊のことなんだけどな」
「はい」
「あいつ最近、見ねえだろ」
俺ははっとした。最近の違和感の正体がわかった。周坊が姿を見せていないのだ。あいつのいじめがないから、のびのびやっていたのだ。
「じつはあいつ、今この病院に入院してんだ」
「えっ!」
俺は驚いた。
「あいつこないだ、清掃中に血を吐いてよ。青い顔して痙攣しちまって、慌てて皆で内科の処置室に運んだんだ。なんでも肝臓と食道がどっちもやられてるんだと」
なんだか言葉も出なかった。あれだけいびられて、ほとんど毎日のように死ねばいいのにと呪っていたが、実際に周坊が血を吐いている姿を思い浮かべると、ちょっと不憫だった。
「だから今、あいつの持ち場を皆で手分けしてやってるから、ちょっとお前の仕事も増えるかもしんねえけど、勘弁な」
「ええ、それはべつに、構わないんですけど……。その、周坊さんの容態は?」
武さんは腕組みする。
「さてな……。俺は医者じゃねえから、わかんねえ」
そして武さんは去って行った。
しばしのあいだ、俺は椅子に座って何をするでもなく、モップの柄に手と顎を置いて、じっと考え込んだ。なんだか胸のあたりがもやもやした。何を思えばいいのかわからなかった。ノルマはもうワンフロアあったが、どうにも手につかなかった。
突然、ポケットの中の携帯電話がブルブルと震えた。俺は驚いて、モップを床に倒してしまった。液晶画面を見ると、事務所からだった。
「もしもし」
「もしもし、あたい、あたい」
「だれ?」
「わかんない?あたい、あたいだよう」
「……」
「あたい今すごく困ってるの。あたいの銀行口座に、五十万円振り込んでくれない?」
「……ノラ、今仕事中なのだが……」
「俺俺詐欺ならぬ、あたいあたい詐欺にございます」
電話の向こうでほほと笑うノラの声と、さらに向こうからがははと笑う団長の声が聞こえた。
「団長とつるんで冷やかしかよ」
「はい、冷やかしです」
堂々と断言されると、何も言えなかった。
「なんでまた事務所に?」
「団長様と我々の今後の方向性について、話し合っていたのでございます」
「ふうん。で、結論は出たの?」
「はい。パグ犬のマイちゃんを入れて、トリオでやっていこうと――」
「そそのかされてる!それ団長にそそのかされてるから!」
えらい剣幕です、とノラが団長に言っている声が聞こえた。同時にまた、団長のがははという笑い声が聞こえた。
「冷やかしてるでしょ」
「はい、冷やかしです」
「なら切るよ。もうワンフロアやらなきゃいけないし、仕事終わったら行かなきゃいけないとこあるし」
「何か御予定がおありで?」
「うん。今日は妹の見舞いに病院に寄って帰るから」
「妹?」
「あれ?言ってなかったっけ。俺、八つ下の妹がいるんだ。ちょっと病気して、入院してんだけど」
「左様ですか……」
少し間がある。ノラが電話の向こうで、思案しているのがわかる。
「その、妹様のお見舞いに、わたくしもご同行させていただくわけにはいきませんか?」
「えっ」
「明治様の妹様と、会ってみたいのでございます」
「そりゃまあ、いいけど……」
「なにか問題がおありですか?」
「いや、問題なんてないんだけど。ただ、俺の妹、ちょっととんがってるとこあって、ノラを見たら、なんか変な絡み方すんじゃないのかなあって。失礼なこと言ったらやだなあ、って、そこが心配」
ノラが電話の向こうでふふと笑う。
「俄然、興味が湧いてしまいました。変な絡み方、上等にございます。面白そうです。わたくしは、面白いものが大好きです」
そんな成り行きで、ノラはさくらの見舞いに同行することになった。
ノラとは駅で待ち合わせをした。いつものように、トレードマークの水色のパーカーを羽織っていた。
「お疲れ様でございます」
ノラがあらぬ方向に頭を下げた。
「どこに挨拶してんの!俺ここ!ここにいるから!」
「あちらの明治様にご挨拶したのでございます」
ノラの指差す方向を見ると、ドアガラスに映った俺がいた。
「反射使って挨拶しないでよ。直接ねぎらってよ」
「では、今日はいかほど稼いだのでしょうか?」
「やめて、その質問。死にたくなるから」
「それは稼ぎゼロのわたくしへの当てつけでしょうか」
「いやいや、そんなこと言ってないから!そんなことないから!」
「では、『ノラはいるだけでプライスレス』ということよろしいでしょうか」
「いや、そこまでは……」
俺はぶつくさつぶやく。
「はて、なんと仰いました?」
「いや、なんでもないよ。そろそろ行こう。日が暮れちまう」
病院に行く途中で、ノラの提案で花屋に寄った。見舞いの花を買うつもりだったのだが、どれも自分たちの一日の食費の二倍はした。店内をさまよった揚句、一番安い手のひらサイズの小さなサボテンを買った。
二人で病院のドアをくぐり、小児科病棟に行くと、いつもの看護師さんがにこやかに対応してくれた。三宅さんと言って、小児科病棟の副師長だった。笑顔を絶やさず仕事もできて、あの辛口のさくらをして「あの人は特別」と言わしめる看護師だった。
俺は見舞い用の用紙に、自分の名前をさらさらと書いた。
「さくらちゃん、首を長ーくして待ってますよ。兄ちゃんまだかな、兄ちゃんまだかな、って毎日言ってましたから」
と三宅さんが言った。
「そうですか。来たら来たで悪態ついてきますけどね」
「お兄さんが来られた日は、彼女、全然違いますから。活気があるし、表情が豊かだし」
「看護師さんたちにきついこと言ってないですか?」
一瞬、三宅さんの表情が少しひきつる。
「ま、まあ、ちょっと泣かされてる子もいるんですけど……。でもさくらちゃんは、どういう形であっても、ちゃんと自分の気持ちをこちらに表現してくれますから。それもすごくストレートに。なかなか気持ちを表に出せなかったり、あるいは自分が本当はどう思っているのか、自分で気が付くのが難しい子も多いんです。さくらちゃんは、ちゃんとした自分の考えを持ってて、しかもそれを言葉にするだけの力がありますから。わたし本当、お話ししてて感心することが多いんです。すごく利発で、人をよく見てます」
そうそう、と別の看護師が同意の声を上げた。
「皆様、寛容でとても助かります」
俺はぺこりと頭を下げた。
「なんだか緊張いたします」
病室に向かう廊下の途中で、ノラが胸に手を当てながら言った。
「べつにそんなかしこまらなくても……」
「いえ、変な女と思われたら、それこそ明治様の信用に関わりますから。素敵なお姉さんと思われなくてはなりません。何を言われても、つとめてにこやかにいたします」
「ありのままでいいのに」
「アリババ?」
「ありのまま!なんでアラビアンナイトになっちゃうの。脈絡ないでしょ」
さくらの病室のドアの前に来る。
「開けゴマ」
「いや、アリババはもういいから!」
がらりと扉を開けると、さくらが身を起こして顔をこちらに向けていた。勉強していたらしく、ベッドの上の机には教科書が積まれていた。
「ドアの向こうで、うるさい声が聞こえたから、もしやと思ったんだけど。つまんないくせに声だけは張ってるのね」
「とりあえずでかい声出しとけっていうのが、団長の教えだからさ」
俺は病室に入って、リュックを床に置く。
「今日は何時までいられるの?どうせ暇なんだからゆっくりしていけば。病院の屋上のレストランに行こうよ。お金はお母さんが結構置いてってくれてるから――」
さくらが俺の背後の存在に気づき、途端にその顔色を変える。
「なにそれ?」
さくらが顎でノラを指す。
「あ、この人は俺の新しい相方で、ノラっていうんだ」
「はじめまして。大野蘭、通称ノラにございます。以後お見知りおきを」
ノラがにこりと微笑み、深々と頭を下げる。
「新しい相方って、どういうことよ。パナモはどうしたのよ」
「あいつ、ビザが切れてたもんで、不法滞在で強制送還されちまって。それで急遽、上の階に住んでたノラが相方をつとめてくれることになったんだ」
「そんな成り行き任せで素人と組んで大丈夫なの?」
「いろいろあって、若いけどお笑いの造詣は深いんだよ、ノラは」
「ふうん……」
さくらが、査定するかのごとく、ノラを頭からつま先までじろじろ眺める。
「よろしくお願いしますね、さくらちゃん」
「あ?気安く名前で呼ぶんじゃねえよ」
先制攻撃である。ノラの眉がぴくりと動くのがわかる。
「目が笑ってないし。腹黒さが見え見えだよ。ボケっとしてるお兄ちゃんは騙せても、あたしの目は誤魔化せないね」
「あのな、さくら。人聞きの悪いこと――」
「兄ちゃんは黙ってて!」
ぴしゃりと言い放たれて、俺は押し黙るしかなかった。
「年いくつ?」
「はて、なんでございましょう?」
「年いくつかって聞いてんの」
「先日、齢二十歳になりましてでございます」
「二十歳?目元三十代じゃん。苦労が透けて見えるよ、ババア。お気の毒」
ノラの笑顔の口角がひくひくと痙攣しだす。俺はもう、はらはらしてとても見ていられない。
「なに頬をひくつかせてんの。無理して笑顔つくるとますます目元にしわ寄せが来るよ。五年後とても見れた顔じゃなくなっちゃうよ。小娘に馬鹿にされていらついてんでしょ?だったらその能面剥いでとっとと本性出したら。楽になるよ」
「上等や、こら」
ノラが眼を鋭く光らせ、さくらにぐいと顔を寄せる。
「好き勝手言いよって。自分だれに口きいとんねん。ナマ言うのもええ加減にせえや、小便臭いガキが。しばいたろか、ほんま」
つとめてにこやかにするんじゃなかったのかと思ったが、とても口に出せるような剣幕じゃなかった。
「やってみなよ。訴訟して全力であんたの人生壊してあげるから」
「訴訟?訴訟がなんぼのもんじゃ。こちとら素寒貧で失うものなんかないねんで」
さくらも顔を突き出し、二人はにらみ合う。
「だいたい、お兄ちゃんに取り入って何しようっての」
「べつに取り入ってへんわ。コンビ組んでてっぺん目指しとるだけや」
「てっぺん?ばあっかみたい。何考えてんのか知らないけどね、この人にそんな才能はないの。グズでのろまの、あたしの兄ちゃんなの。取り入ったって得るものなんてないよ。さっさと解散して他あたったら」
さくらがそう言うと、それまで険しかったノラの表情がふっと緩み、すっと身を引いた。
「あたしの兄ちゃん、ね。なるほど、そういうことですのね。よくわかりました。年相応でおかわいらしい」
さくらは口を真一文字に結び、ノラをきっとにらむ。
「得るものはございます。本当はご存じなのでしょう?明治様には情熱があります。世に出る可能性も秘めています。でもどうかご安心ください。いかなることがあろうとも、誰と組もうとも、明治様は変わることはありません。いつなんどきも、妹を気にかける優しいお兄様です。それはわたくしが保証いたします」
「……わかってるよ、そんなこと。当たり前でしょ。どうして初対面のあんたに、そんなこと言われなきゃなんないのよ」
さくらが俺に目をやる。
「兄ちゃん」
「ん?」
「こいつとやってくのね。兄ちゃんが決めたのね」
「……うん。ノラとなら、面白いことがやれそうなんだ」
さくらがノラに顔を向ける。
「わかったわよ。いいよ、じゃあ。少しのあいだ、兄ちゃんを預けるよ。そのかわり分はわきまえてよね。変な気起こさないでよね」
「ご安心ください。わたくし、年収三千万以下は眼中にありませんので」
「えっ、そうなの?」
と俺は思わず口に出して振り向いてしまう。
「だってさ。せいぜい頑張ることね、兄ちゃん」
「せめてその三分の一にならない?」
「馬鹿言わないでよ。一千万なら稼げるとでも思ってるの?本当おめでたいんだから。それよりなんか土産でもないの?」
「おう、あるある。はいこれ」
俺は袋を渡した。さくらは黙って受け取り、袋の中身を取り出した。
「……なにこれ」
「マリモ」
「サボテンでしょ。見りゃわかるわよ。ていうか病人の見舞いにサボテンなんて、聞いたことないわよ」
「花が高くて買えなかったんだよ。それにお前は知らんかもしれんが、巷じゃサボテンが流行ってたりするんだぜ」
「嘘言わないでよ。なに適当なこと言ってんのよ。病室にいたってそのくらいわかるわよ。向かいのあすかちゃんなんて、すっごい大きくてゴージャスな花を飾ってんのにさ。サボテンなんて、華もないし香りもないし」
「俺を貶めるのはいいとして、サボテンを貶めないでくれよ」
「なんでサボテンの肩持つのよ。サボテンに弱みでも握られてんの」
「もういいよ、じゃあ。嫌なら返せよ。持って帰るから」
「嫌よ。返さないわよ。だってこれ、あたしのために買って来たんでしょ?」
「もちろん」
「じゃあもらうわよ。そこに飾っといて」
多感なやつだと思いつつ、俺はサボテンを枕元の台の上に置く。
一連のことを眺めていたノラが、ほほと笑う。
「なに笑ってんのよ」
「いえ、なにやら漫才を見ているようで」
「漫才?冗談じゃないわよ。そういうのはグズの兄ちゃんと、得体の知れない二重人格のエセおっとり関西弁女で十分よ」
「気のきいた二つ名をつけていただき、ありがたいことです」
「あんたも座ったら。突っ立ってると視界に入ってきて邪魔なのよ。そこに椅子あるし」
「ではお言葉に甘えさせていただきます」
ノラが部屋の隅の椅子を持ってきて、俺の隣に腰を下ろす。
「パナモは帰っちゃったのね」
「うん。連絡もらった時には、もう雲の上だった」
「ていうか、あいつ母国どこなの?」
「バングラデシュだって」
「バングラデシュ?インドの隣の?」
「いや、どこかは知らんけど」
「パナモさんとはお知り合いなのですか?」
ノラが尋ねる。
「知り合いってほどでもないわよ。一度会っただけ。兄ちゃんに会いに行ったら、やたらでかくて異様な存在感のアフロがいたのよ。兄ちゃんが紹介したら、いきなりあたしのこと抱き上げて頬すり寄せてきて、『故郷ノ妹二似テル』とか言ってさ。似てるも何も肌の色から違うってのに。本当、適当でしょうもないやつだったわ」
「たしかにしょうもなかったなあ……」
「でも憎めない感じだったわ。いいやつよ。コンビとしての兄ちゃんとの相性も、悪くなかったと思うし」
「おそらくその通りなのでしょう」
「せめて大会の後に帰ればよかったのに。一次審査近いんでしょ?」
「うん、一か月後かな」
「出るの?即席のコンビで勝ち抜けるとはとても思えないんだけど」
「もちろん出るさ。そのために今すげえ根詰めて、毎晩夜通しで寝て朝五分間練習してるから」
さくらがじろりと睨む。その顔には、ツッコまないよと書いてある。
「結果が出るかは、正直なところわかりませんね。ただ一つ言えるのは、挑戦しなければ可能性はゼロということです」
「挑戦することに意義があるとか、おめでたいこと言うつもり?」
「いいえ。結果は大事です、とても。ですがそれよりも大事なものがあるのも事実なのです」
さくらがノラをじっと見る。
「……ふうん。まあいいけど。べつに、あんたたちのことなんかどうだっていいし。ねえ、屋上のレストラン行こうよ。なんか甘いもの食べたい」
さくらが足を下ろしてスリッパをはく。
「おいおい、大丈夫なのか?」
「平気よ。最近調子いいし。あんたも来る?」
「わたくしも同行させていただいてよろしいのですか?」
「べつにいいよ。ただ奢るのは兄ちゃんだけね。あんたは隣で水でも飲んでれば」
「お前はまたそんな狭量なこと……」
さくらが立ち上がり前を見たその瞬間、顔色を変えた。俺は思わず振り返りさくらの視線の先を追うと、そこには花を抱えた女性が無表情にこちらを見据えていた。
「あっ……」
と俺は思わず声をこぼした。
「母さん……」
母さんに最後に会った時よりも幾分やつれていて、白髪も増えていた。彫の深いその顔には皺も目立つようになっていて、月日が経ったことを否応なしに思い知らされた。母さんは無言のまま、花瓶に水を汲んで、その中に持ってきた花を挿し入れた。そして枕元の台の上に置き、俺に視線を移した。俺は、思わず目を逸らし、うつむいた。
「病人に根付くものを持ってくるなんて、相変わらず常識がないのね」
母さんがサボテンを一瞥して、そう言った。
長くて重い沈黙が訪れた。まるで永遠にも思える程だった。息がつまった。自分の周囲だけ、徐々に空気が薄くなっていくような気がした。
「なんでここにいるの?」
母さんが口を開いた。
「さくらの前に現れないでと言ったはずだと思うけど」
「違うのよ、お母さん。あたしが来てって言ったのよ」
「あなたは黙っていなさい」
母さんが言う。
「あなたが自分で家を出たのよ。何もかも投げ出して。さくらが大変な思いをしてるあいだ、あなたは何をしていたの。ふらふら好き勝手にほっつき歩いて、愚にもつかない馬鹿なことばかり考えて、それをノートに書き貯めていただけでしょう。私たちの苦労も知らないで」
「……」
俺は声を出そうとする。でも声は喉の奥で石みたいに固まってしまって、出てこない。情けなさと罪悪感が、洪水のように溢れてくる。
「違うわよ、お母さん」
「違わないわよ。明治、あなたはクズなのよ。昔からそう。何をやらせても失敗ばかり。ピアノを習わせても、塾に行かせても、長続きしない。軟弱で、学校にも適応できなくて、部屋から出てこようともしないで。あげくに私たちになんて言葉を浴びせたのか、覚えているの?」
「もうやめてよ、お母さん」
「お前らなんか親じゃない、と言ったのよ。その言葉に、私たちがどれほど苦しんだか。明治、あなたに家族を名乗る資格なんてないのよ。今すぐここから出ていってちょうだい」
「申し訳ございませんが、少し横槍を入れさせていただいてよろしいでしょうか?」
母さんがノラに視線を移した。
「誰ですか、あなたは」
「ノラ……大野さんていうのよ。兄ちゃんのお笑いの仕事のパートナーよ」
「そう。で、何の御用?」
「家族であることに資格など必要ありません。それに、妹を心配し見舞うことも自然なことで、誰に制限されるいわれもございません。どうかご撤回ください」
「どうして無関係のあなたに、そんなこと言われなくてはならないのかしら」
「無関係ではございません。わたくしは明治様と志をともにする相方です。相方が無闇に傷つけられることを、快くは思いません」
「傷つける?とんでもない。当然のことを言っただけよ」
母さんが俺に視線を移した。俺はうつむいたまま、その姿を直視することができなかった。
「明治、私たちはもうあなたを子と思っていない。あなたは鈴原家にふさわしくない。くだらない人間だわ。どこででも好きにやればいい。そのかわり、もう二度とさくらにその顔を見せないで頂戴。いいわね」
母さんが立ち去ろうとドアの前に行くと、ノラが立ち上がり、母さんの前に立ち塞がった。
「明治様はくだらなくなんかありません」
「そこをどいて」
「どきません。どうか撤回してください」
「くだらないわよ。無能で身勝手で、そして誰のためにもならない。そういう人間をくだらないと言うのよ」
「あなたこそくだらない人間です」
「そこをどいて。医者から病状の説明を聞くのよ。看護師を呼ぶわよ」
しばしのあいだ、母さんとノラは表情を変えず視線を合わせ、やがてノラが無言のまま身を横に引いた。そして母さんが部屋を後にし、ガタンとドアの閉まる音が響いた。
俺は立ちすくんだまま、動けなかった。全身の力が虚脱して体が鉛のようだった。重い沈黙が辺りを漂った。
「兄ちゃん……」
さくらが口を開いた。
「……ごめんな、さくら。なんか、こんな空気にしちまって」
「ううん」
「今日ちょっと……ネタの打ち合わせがあるから、もう帰るわ……」
俺は立ち去ろうとドアノブに手をかけた。
「兄ちゃん!」
背後から呼び止められる。でも俺は振り返らなかった。
「また、来てくれるよね?」
いろいろな考えが巡る。俺はその問いに即答できなかった。
「……じゃあな」
そして俺はノブを回し、病室を後にした。背後から呼び止めるさくらの声が聞こえたが、俺はその足を止めることができなかった。
俺は病院を出て、道路を隔てて向こうにある公園のベンチに座った。生ぬるい風がぴゅうと吹いた。サッカーに興じる子供たちが見えた。俺は右に左に流れるボールの行方を、しばしぼうっと視線で追った。虚脱感で一杯だった。肩の上にスライムみたいな疲労感がのしかかっていた。急に十年くらい老け込んだような気がした。
隣に気配を感じた。目の端にノラが映っているのがわかった。でも俺はしっかりと顔を見据えることができなかった。一人の世界に閉じこもりたかった。
「一人にしてくれと頬に書いてあります」
とノラが言った。
「でもその隣に、一人にしないでくれとも書いてあります。どちらが本音なのでしょう?」
「どっちもだよ」
と俺は力なく、正直に言った。ノラが少し微笑んだ。
「気まずい空気にしちゃってごめんよ」
「誰にでも過去はあるものです」
サッカーボールがコロコロとこちらに転がってきた。俺が柔らかく蹴り返すと、ボールを追ってきた少年が頭を下げて駆けていった。
「小さい頃は俺もあんな感じでサッカーやってたなあ」
「現在のインドアぶりからは想像もつかないことで」
「小学校まではわりと活発だったんだよなあ。友達も普通にいたし。でも中学に入って、なんでだかよくわかんないんだけど、えらいいじめ受けちゃってさ」
「いじめ?」
ノラが眉をひそめる。
「うん。それで嫌になって学校行かなくなっちまって。両親もすごく心配してさ。うち、親父が病院経営してんだ。代々医者の家だし長男だし、俺も医者にしたかったんだと思うんだ。負けるな、頑張れって、言ってくれたんだけど、でも無理だったな。もうこれ以上頑張れねえな、って思って。教室の中に入っていくのを想像するだけで、どきどき動悸がして、呼吸が荒くなっちゃって、派手に吐いちまって。外に出ると同級生と会うかもしれないから家に閉じこもりっぱなしで、余裕もなくなって」
街灯に灯りがともった。俺は思わず顔を上げた。夕闇がひっそりと辺りを包みこみ始めていた。
「そんである日、両親が学校行けって言ってきた時に、なんかもういっぱいいっぱいになって、もう嫌だ、もうごめんだって思って、それでああいうこと言っちゃったんだよな。言った瞬間に悔やんだんだけど、でもそれも口に出せなくてな。親も黙っちゃって、それ以降何にも言わなくなった。飯も自分の部屋で食べるようになって、いよいよ自分の部屋から一歩も出なくなって。俺もきつかったけど、親も大変だったと思う」
「できればいじめに絡んだ連中を絞め殺してやりたいですね」
「伝え聞いたところだと、有名大学出て大手企業だとさ。俺にしたことなんて覚えてないだろ。そんなもんなんだよな、世の中。不条理だし、きつい。劣等感と疎外感で、なんか歪んじまったとこあるし。でも団長が言うんだ。笑いはいつだって持たざる者の味方だって。真に創造的なものは歪みの中からしか生まれねえよって。そういうもんかなって思ったけど、なんか少し楽になったよ」
ノラが微笑む。
「団長様はとても、いい人ですね。少々変わったところもありますが」
「いい人だよ。ボスにするにはちょっと頼りないけど。すげえ感謝してる。あの人がいなかったら、今頃俺はまだ実家の自分の部屋の中だろうから」
「団長様とはどのようにして知り合ったのでしょう?」
「引きこもり時代にラジオ聞いてたら、当時団長が主催してた劇団の演劇のコマーシャルが流れててね。ちょっと興味持って、意を決して劇場まで見に行ったんだよ。同級生に見つからないように、帽子かぶってマスクしてさ。えらく昭和テイストの、古いコメディ演劇でね。笑い転げてさ。だってあの団長の風貌反則じゃん。ちびデブ禿げにちょび髭までついて、三重苦プラスアルファって感じで、それがコミカルに動くんだよ。すかっとして、日頃の鬱屈したのが一気に晴れた感じがして。それで気に入って、足しげく通うようになって、そしたらそのうちに顔見知りになったんだ。客もたいして入ってないから、常連はすぐに顔を覚えられるんだ。そんで、いよいよ親との仲も険悪になっちゃって、家の中で息がつまりそうになって。このままだと俺か親かどっちかがおかしくなるな、って思って。だからある日、書置きだけ残して、ほとんど着の身着のままで家出した」
「向こう見ずですねえ」
「もう、なんも考えてなくてね。ただ現実から逃げ出したい一心だったんだけど。出てきたものの行くあてもなくて、劇場の辺りをうろうろしてたら、団長に声をかけられて。事情を話したら、面倒見てやるから入団しろって言われて、それで劇団に入ったんだ」
「最初は演劇だったのですね」
「団長の付き人みたいなことしながら、舞台のちょい役で出させてもらったりしてさ。ほとんど演劇場の床でかび臭い掛布団かけて寝る生活だし、稽古はきついし、これはこれで大変だと思ったんだけど、でも家に戻りたいとは一度も思わなかったな。生きてるなって実感があったからかな。家にいるときは、本当に無だったから。生きてるって感じがしなかった」
「人は希望があれば生きていけるものです」
「まあでも、劇団はその後いろいろあって、空中分解しちゃうんだけどね。副団長の使い込みが発覚したんだ。団長は馬鹿がつくくらい人がいいから、身内を疑えないんだよね。ほとんどの団員はそこで見切りつけて出てっちゃって、結局解散した。んで団長が残った団員を集めて、芸能事務所を開いて、今に至る」
ノラがパチパチと手を叩く。
「数奇な人生にございます。面白いです。わたくし好みにございます」
サッカー少年たちがぞろぞろと引き揚げ始めた。時計を見ると、もう六時を回っていた。日が暮れると少し肌寒かった。
「ぼちぼち俺たちも帰ろうか」
「ええ」
ノラが立ち上がり、俺たちは帰路についた。隣の大通りでは、かわるがわる車が近づいてきて、しかる後に遠ざかって行った。辺りの音は全部エンジン音にかき消されていた。自分の半生みたいなものを、言葉にすることができて、曇った気持ちが少しだけ晴れていた。
「さくらちゃん、かわいらしい子ですね」
帰りの電車で、ノラが言った。
「あいつ、案の定とんがりやがって。本当ごめん。でも根っこは優しいやつなんだ。ただ弩級に素直じゃないだけで」
「それは重々に伝わっております。優しくて、繊細で、鋭いところがありますね」
「そこが不憫なところでもあるんだけどね。病気で何回も入院してて、あの年にしちゃえらい苦労してるから、変に大人びたところと子供っぽいところの偏りみたいなものがあって。あれじゃ、学校でも浮いてんだろうと思う。ドロップアウトした俺が言うのもなんだけど」
「学校は均質であることが求められますので。でも偏りこそが人の魅力というものです。やはり今日、ついて来てよかったです。思った通り、とても面白い出会いでした。それに、明治様のいつもとは少々違う側面も見ることができましたし」
「俺?そんなの見せたっけ」
「さくらちゃんとお話ししている時、意識か無意識かわかりませんが、明治様はボケていらっしゃいます」
「そうかなあ」
俺は自分の言動を思い返してみる。普段、ほとんど脊髄反射で喋っているので断片的にしか思い出せない。
「きっと、ボケとツッコミとは、固定した役割ではないのです。その人間同士の関係性を反映した、流動的なものなのです。明治様のボケの側面が見られたのは収穫です。これは、今後の役に立ちます」
「なんだかよくわからないけど、収穫になったのならよかったよ。なんせあと一か月しかないからね。本当、間に合うのかな」
「間に合うのかな、ではなく、間に合わせるのです。ここからは秒の間も惜しんで練習をするしかありません。噛んだらケツバットです」
ノラがふふと笑った。冗談かと思って、またまたあ、と俺も笑った。
しかし帰りがけ、ノラはディスカウントストアで本当にプラスチックのバットを買った。家に帰ると、おもむろに素振りを始めた。スイングするたびにびゅんと空を切る音が聞こえた。明らかに素人のフォームではなかった。
「演芸場の近くにバッティングセンターがあったもので。百四十キロまでなら打ち返せます。父が所属していた草野球チームの試合にも出ていました」
「……ふうん」
「さて、練習を始めましょうか」
そして俺は夜明けまでに、計二十三回のケツバットを食らったのだった。月夜に俺の絶叫が延々とこだましていた。
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