第3話 『明治の乱』結成
第三章
学園祭の前説の仕事が入った。埼玉の、名前も聞いたことのない田舎の大学の学園祭だ。それでも、普段のローカルな祭やら、デパートのイベントよりは集客が望める。顔を売る機会としては良質なものだ。ギャランティも悪くない。
朝十時に現地で打ち合わせの予定だった。しかしパナモは来なかった。前日に確認をとったにも関わらず。学園祭の実行委員の焦りと苛立ちがわかって、俺は肩身が狭かった。十回くらい「すいません、本当すいません」と頭を下げた。
本番の午後一時になった。パナモは来る気配はなく、電話しても繋がらなかった。あいつからかかってくることはあっても、こちらからかけて繋がった試しがないのだ。協議の揚句、俺は一人で舞台に立つことになった。ピン芸など何もないのにも関わらず、だ。
とりあえず、劇団員時代によくやった、団長直伝の一発芸を次々とやっていくことにした。高速で悲哀、怒り、慈愛の三つの表情をかわるがわるつくる『阿修羅』、サンバを口ずさみながら、次々とあるあるネタを言っていく『サンバであるある』、うんこ座りしながら「出てこい出てこい守護霊さん!」と絶叫する『祈祷師』。まさかまた人前でやる羽目になろうとは夢にも思わなかった。
予想してはいたことだが、結果は凄惨なものであった。これだけの人数がありながら、誰一人表情を変えないのもすごいなと思った。もはや、ショックを超えて自暴自棄である。ヤケクソだ。空振りする時はフルスイングの団長の教えの通り、もうとにかく声だけは張って、やりきることに集中した。
「ヤアヤアヤア、遅レテ申シ訳ナイ」
背後から聞き覚えのある、軽い調子のたどたどしい日本語が聞こえる。パナモが、『石油王』と書かれたまっ黄色のTシャツを着て登場する。どこでそんな物買ったんだ。そして、ようやく来やがったか。
「出テコイ出テコイ守護霊サン!」
パナモが姿を現すなり、うんこ座りで叫ぶ。
「面白イネ、コレ。イイ飛ビ道具持ッテタネ」
「面白くないよ!だだスベりだったでしょ!どこで何やってたの!遅刻だよ」
「滞在ビザ延長シテタ」
「大事だね。すっげえ大事だねそれ。俺たちの未来に関わるね」
「デモ、ココマデ来ルノ、遠カッタ。東京カラ電車デ一時間カカル」
「秩父ですからね。ちょっと東京からは離れていますね」
「スンゲエ田舎。アレトカ竪穴式住居――」
「失礼だろ!縄文か!竪穴式じゃないですよ。鉄筋ですよあれは」
パナモがぐるりとあたりを見回す。
「デモ、ノドカデイイトコ。空気ガ綺麗。水モ綺麗」
「そうですね」
「デモ市民ノ心ハ荒ンデル……」
「失礼だろ!市民のみなさん澄んだ心ですよ」
「ア、 アソコニ可愛イ子イル。コンニチハー」
パナモが会場の中の一人を指差し、手を振る。指差された女の子は、驚きながらも笑顔で手を振り返す。
「イヤ、オ前ジャナイ。後ロノ子」
「失礼だろ、お前。さっきから遅刻したくせに、失礼なことばっかり言って。え?この失礼外人が!」
パナモは無表情のまま俺をじっと見てしばしの間を置き、しかる後にうんこ座りする。
「出テコイ出テコイ守護霊サン!」
「ごめんごめん、謝る。忘れさせて、それ。お願いだから忘れさせて」
即興のやり取りの後、予定通りコントを一つやり、俺たちの出番は終わった。会場はパナモの客いじりの効果もあってか、それなりに笑い声も聞こえた。何はなくともパナモはその存在感が際立っているので、お客さんの視線を引き込むことができるのだ。
学園祭の後、俺はパナモと駅前のファミリーレストランに入って、案内された席に座った。店内には一昔前のポップスが流れていた。隣では茶髪ロン毛でズボンを腰までずり下したあんちゃん達が、大声を上げて笑っていた。無気力そうなウェイトレスに、ドリンクバーを注文した。ウェイトレスは一瞬パナモの顔と頭にちらりと視線を送り、すぐに目を伏せてその場から立ち去った。
「今日、マジデウケタジャン」
パナモがコーヒーをズルズルすすりながら言う。
「まあね」
俺はおしぼりで手を拭く。
「今日、なんで遅れたの?」
「寝坊シチャッテ。アト猫ノ餌買ッテタ」
パナモがげらげら笑う。
「こないだもネタ合わせすっぽかしたよな」
「アア。アン時ハ、高円寺デTシャツ買ッテタ。コレダヨ。イカシテネ?」
「なあ、パナモ」
俺はおしぼりを置いて口にする。
「お前はネタ合わせと高円寺のTシャツとどっちが大事なんだよ」
「ンー、ドッコイドッコイ」
パナモは笑う。でも俺は笑わない。
「いくらなんでも時間にルーズすぎるだろ。こんなこと繰り返してちゃだめだ。主催者だって、二度と俺達を呼ばない」
「一回クライ、ドッテコトナイゼ」
「一回くらい、なんてことねえよ!」
俺はつい声を荒げてしまった。周囲の客たちが、一瞬おしゃべりを止め、こちらに注意を向けるのがわかる。
「チャンスなんて一回しかねえよ。一回取り逃がしたら、もう掴めないもんなんだよ」
俺の頭の中に、両親の姿が浮かぶ。言うべきでない言葉を浴びせた。謝ることができなかった。一度機を逃したら、修復はできなかった。
「お前がのんびりで、適当なことはわかってるよ。そこがいいとこなのもわかってる。でも今のままじゃ、上にいけない。俺は多くの人に自分を知ってもらいたい。もっと有名になって、たくさんの人の前でネタを演じたい。無理に決まってるって笑われても、でも目標に向かって歩むことだけは止めたくない。お前が俺のこの気持ちに同調してくれないんなら、俺たち、解散しよう」
「明治……」
パナモが驚きの表情で俺を見つめる。それは、ほとんど初めて見るパナモの真顔だった。俺はひと口コーヒーを飲む。泥水みたいなコーヒーだ。
「ゴメンヨ」
パナモが少しうつむき加減で、ぽつりと話す。
「明治ノ気持チワカッタ。モウ、遅刻シナイ。ネタ合ワセモシッカリヤル。ダカラ、解散ハシタクナイ。明治ト漫才ガヤリタイ」
「本当に遅刻しないか?」
「モウシナイ」
「本当に?」
「ナンナラ三日前カラ現地入リシトク」
「早過ぎだろ!」
パナモがすっと手を出して握手を求めてくる。
「約束スル」
「お、おう」
俺が求めに応じて握手をすると、パナモがぎゅうと手を強く握ってきた。
「いたたたたた!」
パナモがげらげら笑う。真顔が拝めたのは一瞬のことで、またいつものにやけ顔だ。こいつは、どこまでも適当なやつだと思いつつ、それでもパナモなりの反省が伝わったので、よしとすることにした。それにパナモの笑う姿を見ているうちに、なんだか俺までおかしくなってきて、結果的にレストラン内に響き渡る大声で二人で笑ってしまった。巨大な褐色アフロと猫背がげらげら笑っていて、傍から見たらさぞ異様な光景だったと思う。
言えばわかってくれるのだ。俺は自分の気持ちを伝えることができて、ほっとした。パナモの口から、漫才をしたいという言葉を聞くことができた。これからは、相方と意識を共有できると、そう思っていた。
そう思っていたのだが……。
翌日から、急にパナモからの連絡が途絶えた。こちらからの電話が通じないのは毎度のことだが、向こうからの連絡もまったくなくなるというのは初めてだった。団長に聞いてみたが、事務所にもなんの連絡もいっていないとのことだった。
「またいつもの気まぐれだろ。じき戻ってくるよ」
と言って団長はあまり気にしていない様子だった。
俺は大いに落胆して、同時に腹を立てた。いろいろ言っていたけど、全然変わってないじゃないか、結局どうでもいいんじゃないか、と。次ぎ会った時こそ、ガツンと言ってやる。そう思っていた。
ある日のこと、俺は昼過ぎまで寝ていた。起きたのは枕元の携帯電話が急き立てるようにけたたましく鳴ったからだった。電話に出ると、相手は団長だった。
「どうしたんですか、団長」
「明治か。落ち着いて、よく聞け」
「なんですか。何かあったんですか」
「あのな、じつは……」
「はい」
「パナモが母国に強制送還になった」
「はい?」
俺は、寝ぼけまなこでもあるので、団長の言っていることの意味がよくわからない。
「だから、パナモが、強制送還になったんだよ。今朝成田から出て、今もう空の上」
「……」
呆けた頭が、徐々に覚醒していく。そして団長に言われた言葉が脳に染みてくる。そしてその意味を理解すると同時に、俺の携帯電話を持つ手がぷるぷると震える。
「ええええええええええええええ!」
俺はアパート全体に響き渡るような、声帯が引きちぎれんばかりの大絶叫をあげた。こんな大声を上げたのは生まれて初めてだった。
何がどうなっているんだ?
「強制送還て、え、それどういうことですか?」
「ビザが切れてたらしんだよ」
あいつ……ネタじゃなくて本当にビザが切れた外人だったのか。
「え、でも俺、全然そんな話聞いてなかったんですけど」
「申し訳なさすぎてとても連絡できなかったんだとよ。帰るぎりぎりになって、事務所に連絡してきた」
「え、じゃあ、俺はどうなるんですか」
「どうって。ピンでやってくしかないだろ」
「ピンって。軽く言いますけど、ピン芸なんて俺ないですよ」
「俺が昔仕込んだのがあったろ」
「あんなのやりたくないですよ。……こないだやりましたけど」
「あんなのってどういうことだよ」
「とにかく、ピンは嫌ですよ。『お笑い新人演芸大賞』に出られないじゃないですか」
「でもネットでバングラデシュとつないで漫才やるわけにもいかないだろ。なんなら俺と組むとでも」
「どっちもごめんですよ」
「どういう意味だよそれ」
「とにかく、あいつがいないとダメなんですよ。なんとかこっちに連れ戻す方法ないですか?」
「無理だよ。また来れるようになるにしたって、しばらくかかるよ。どうしてもピンがいやってんなら、なんとか自分で相方見つけろ」
「軽く言わないでくださいよ。そんなに簡単に見つかるわけないじゃないですか」
「とにかく、なっちゃったもんはしょうがないんだから、現実を受け入れろ。今後についてはまた相談しよう」
俺は電話を耳にあてたまま、うなだれる。
「元気出せよ。とりあえず今から事務所に来い。奢ってやるから。納豆定食でいいよな。じゃ」
そして電話がぷつりと切れた。
俺は携帯電話を放り投げ、布団の中に顔をうずめて呻いた。そして床をバンと叩いてから、大きくため息をつき、ゴロリと仰向けになって天井を仰いだ。
ついてない。どこまでもついてない。
どうしてこうなった。俺がいったい何をしたってんだ?
それから後は、ほぼ寝て過ごす毎日だった。相方がいないのだから、なにしろ仕事ができないのだ。清掃の仕事にも身が入らず、周坊からは余計にいびられるようになった。いびられてもなんだか抵抗する気にもなれなかった。まことにもって無気力な毎日になった。
見かねた団長が、新しい相方を紹介するから事務所に来いと言ってきた。行ってみると、そこにはパグ犬を抱いている団長がいた。
「こいつを新しい相方にしたらどうかな」
「……なんですか、それ」
「うちで飼ってるパグ犬のマイちゃん」
「……メスなんですね」
「猿回しはよくあるけど、パグ回しとか穴じゃないかな。だれもやってないし」
そりゃ誰もやるわけねえだろうよ、と思う。
「……結構です」
「そっかあ。だめか。じゃあ、こういうのはどうかな」
団長がパグ犬を床に置き、ソファの上に放ってあった巨大な人形を持ってきた。その人形は口がホの字になって、女性をかたどっていた。
「これ大久保のアダルトショップで買って来たんだけど」
「はあ」
「出オチ気味になっちゃうけど、じつはこう見えて腹話術的な正統派漫談をやる、と。結構ウケると思うんだけど」
さすがに我慢の限界がくる。
「ウケるか!どこの世界にダッチワイフと組んで漫才やるやつがいるんですか!仮にウケてもテレビに映せないでしょ!」
団長が真顔になる。
「お前な。ローカルデパート営業しか回ってない一端の駆け出し芸人が、テレビとか軽々しく言うんじゃないよ。そんな心配はテレビに出られるようになってからしろ」
しばしの間がある。
「……いやそういう問題じゃないでしょ!今からすべき心配ですよ。危うく言いくるめられそうになりましたけど。ダッチワイフとコンビなんて非常識にも程がありますよ」
「まあなあ。やっぱそうか」
団長が顔をしかめる。
「やっぱそうか、じゃないでしょ。わかっててやってんですか」
「いやほら、お前、落ち込んでるみたいだったからさ。ちょっとしたユーモアを提供しようと思ってさ」
「どうかべつの方法を検討してください。ちっとも笑えないですよ」
「まあ、わかったよ。ちょっと方針、真面目に考えとくから。とりあえず顔見れてよかったよ。その剣幕で反論できる元気があるなら、上々だ」
団長は机の中から一枚の手紙を取り出し、俺に差し出してきた。
「なんですか、それ」
「パナモが残していった手紙だよ」
俺は手紙を受け取る。
「急に帰国することになって、あいつ本当に落ち込んでてさ。明治に申し訳ない、合わせる顔がないってな。それで、ぎりぎりんなってその手紙書いて、明治にっつって入国警備官に渡したんだとよ」
「あいつ……」
便箋を取り出すと、中からはものすごいかなくぎ文字の、カタカナだけで構成された文面が目に入った。解読するのになかなか根性が必要であったが、内容はおおよそ以下のようなものだった。
メイジヘ
キュウ二 カエルコトニ ナッテ、モウシワケナイ。オレ、メイジニ メイワク バカ
リカケタ。モット メイジト マンザイ ヤリタカッタ。メイジト イッショニ ブタイ タツノ スキダ。
メイジト ハジメテ アッタトキノコト、オボエテル。ガイジンノ オレニ、ヤサシクシテクレタ。オレ、モノワカリ ワルイ。デモ コンキヨク シンセツニ マンザイ オシエテ クレタ。アンマリ ワカラナカッタケド、スゴク カンシャ シテル。
メイジ、オマエガ イチバン オモロイ。ダレガ ナント イッテモ、オレハ メイジノ ファン。トオクニ イッテモ、オウエン シテル。ガンバレ。ユウメイニ ナッテ、オカネ タクサン モラッタラ、バングラデシュ キテクレ
頭の中に、悲嘆の中で飛行機に乗り込むパナモの姿が思い浮かんで、俺はなんだか泣きそうになった。
「戦時中の電報かよ」
と俺は鼻をすすりながらつぶやいた。
ふと封筒を見ると、中に一万円札が一枚入っていた。
「なんだこれ」
手紙の続きを読む。
ツイシン
イチマンエン オイテク。コレデ アキハバラデ ニホンセイノ カメラトカ トケイトカ 20コクライ カッテ オクッテクレ。カゾクヘノ ミヤゲニ スル。ジャナ
「あ、あの野郎……」
「どうした、明治?」
「一万円で二十個も買えるか!」
最後の最後まで、手間をかけさせるのだ。そういうやつなのだ。
しかし帰り際、電車に乗っている時に、もう一度手紙を読み返して、俺はやっぱり泣きそうになるのだった。嗚咽するのを、周りに悟られたくないので、必死になってしゃっくりのふりをした。そしたら逆に心配されて声をかけられる始末だった。
こうして、エセ外人は解散した。
パナモの帰国から一週間たった。相変わらず、俺は腑抜けた毎日を送っていた。清掃の仕事の入っていない日は、日がな一日布団の中で過ごした。ずっと湿っぽい布団の中に埋もれていると、なんだか体がどんどんふやけていくような気がした。パンの耳をもらいに行くのも億劫で、徐々にストックは減り始めていた。
このままどうするのだろう、と思いが巡る。相方なんてそうそう見つかるものでもない。同じ事務所から探そうとしても、アンブー舎には俺を含めてたった七人の芸能人しか所属していない。しかも俺以外は全員俳優志望だ。もともとは舞台演劇をやっていて、そこから独立して作った事務所だから無理もなかった。そもそも俺は極度の人見知りなのだ。パナモと組んだ時も、ぶつくさ文句はいいつつも団長の半ば無理やりといった強引さがなければ実現していてなかった。
素直に清掃の技術でも磨こうかという気になってくる。今なら武さんの秘伝の技術を継承できる。そのほうがまっとうな道ではある。だいたい誰かと組めたとして、それで成功する保証はない。貧乏もここに極まっていて、いつ本格的に体調を崩してもおかしくないのだ。
弱気の虫が全身を這う。脱力と倦怠がのしかかり、俺は布団の中でもそもそと落ち着きなく動く。
家のチャイムが鳴る。例の豚のゲップのようなチャイムである。のそりと起き上ってドアを開けると、ノラが袋を抱えて立っていた。
「山梨に住んでいる母方の実家から桃が送られてきまして。お裾分けしようかと。もちろん、てなづける一貫なのですが」
「手の内見せすぎでしょ。そういうのは心に秘めといてくださいよ」
ノラが俺の顔をじっと見る。
「なにやらやつれていらっしゃいます。まるで、水気の抜けた一反木綿のように」
「まだそれ言いますか」
「何かございましたのでしょうか」
「まあ、ちょっと……」
俺は、以前あれだけ息巻いて、お笑いへの情熱と夢を語っていたのに、あっけなく解散し無気力になっている自分が恥ずかしく、口ごもった。
「あの、ちょっと上がらせていただいてよろしいでしょうか?」
「え?いやでも、汚いし。最近掃除してなかったんで」
「大丈夫です。わたくし馬小屋で生まれ育ちましたので」
「キリストか!」
ツッコむ俺を見てノラはにこりと笑い、失礼します、と言って家に上がった。
「馬小屋よりは幾分ましでございます。包丁を貸していただけますか?」
「その引き出しの中にあります」
ノラは台所に立ち、包丁を使って丁寧に桃の皮を剥きはじめた。
「どういったご事情なのでしょうか」
「相方……パナモっていうんですけど、バングラデシュ人で。そいつと三年間コンビを組んで漫才やってたんですけど、滞在ビザが切れて、不法滞在で強制帰国することになっちまって。急遽解散ですよ」
「あら、まあ」
「これからって時に、本当にどうしようかと。一人でなんてやっていけないですよ。でも相方なんてそうそう見つからないし。もうおしまいですよ。絶望です」
俺はがっくりとうなだれる。ノラはそんな俺を横目に、皿の上に切り分けた桃を並べ、ちゃぶ台の上に置いた。
「ではわたくしと組むというのはいかがでしょう」
「はい?」
「わたくしが鈴原様の相方になります。いかがでしょう」
ノラと俺はしばしじっと視線を合わせる。沈黙が辺りを漂う。
「な、なに冗談言ってるんですか」
「これが冗談を言っている顔に見えますでしょうか」
ノラが白目をむく。
「ふざけてるでしょ!思いっきり冗談言ってる顔じゃないですか」
「失礼いたしました。わたくし、真剣にございます。それこそ、備前長船のごとき真剣にございます」
「でも、なんでいきなりそんな提案を」
「鈴原様が困っているからでございます」
俺は返答に窮する。
「いや、でも……なんでそんなに、俺のことを」
「簡単なことです。面白そうだからでございます」
「面白そう?」
ノラはうなずく。
「わたくしは、面白いもの、奇妙なものが好きです。失礼ながら、鈴原様は面白くそして奇妙です。面白い人間の近くにいれば、面白いことが起こります。わたくしはそれを体験したいのです」
面白いと言われ、俺は少しテンションが上がる。
「俺ってそんなに、面白いですかね?」
「ええ。芸以外は」
「え?」
「いえ、なんでもございません」
「今、芸以外はって聞こえたような気がするんですけど」
「幻聴にございます」
「そうですか。ならいいんですけど。……いやよくない。ついに発症?」
「コンビ名は『メンタルヘルス』でいかがでしょう」
「笑えない。それ一切笑えないから。え、でも、やっぱり、いきなりは無理ですよ」
「なぜでしょう」
「だってほら、漫才には呼吸が大事ですし。まだその辺が合うかわからないし」
「わたくしたちは相性が悪いと」
「いえ、そうは言わないですけど」
「わたくしたちは相性が悪い。互いに憎み、傷つけあう悲しい運命だと、そう仰るのですか」
ノラが眉を吊り上げてえらい剣幕になる。表情がじつに豊かだ。
「大げさすぎるでしょ。なんのドラマのクライマックスですか」
「相性など後で考えればよいのです」
「そういうものですかね」
「相性など、死ぬ間際にふと考えるくらいでちょうどいいのです」
「そんなに後なの?相性って召される直前でいいの?」
「さておき、桃でも食べましょう」
「さて置くの。結構重要な問題だと思うんだけど」
「はいどうぞ」
ノラがフォークで桃をぶっ刺して、俺の口にすごい圧力でぎゅうぎゅう押し付けてくる。
「痛いよ!冷たいよ!なにすんですか」
「一刻も早く食べていただきたくて」
「自分のペースで食べさせてくださいよ」
俺はフォークを取り、桃を頬張る。柔らかな歯ごたえ、口の中にほのかに広がる甘み。やはりうまい。涙がでるほどうまい。空腹に染みる。
「わたくしも食べさせていただきます」
ノラがフォークで桃を小さく切り分けていく。
「女が人前で大口を開けるものではないとの祖父の遺言ですので。祖父は礼儀や作法に厳格な御人だったのです。この小さな切れ端を一つずついただきます」
するとノラはあんぐりとものすごい大口を開け、その中にバキュームのごとく次々と桃を放り込み、手で口を押えながらもっくもっくと咀嚼した。
「おいひいでふ」
「言えてないでしょ!お祖父さんの遺言ガン無視か!思いっきり大胆に頬張ってるじゃないですか!」
ノラは、時にむせこみながらたっぷり一分間咀嚼し、ようやくごくりと飲み込んで胃に収めると、ふうと息をついた。そしてふと目が合うと、俺はなんだかおかしな気持ちになってきて、少し笑った。それを見て、ノラも微笑んだ。
「組みましょう、鈴原様。わたくしと漫才を、やりましょう」
「……はい」
「それにわたくしは、鈴原様と夢を共有することができる者です」
「え?どういうことですか?」
「いずれおわかりになるかと思います」
ノラが俺に向かって、手を差し出してきた。俺はノラと握手をした。小さくて暖かい手だった。
いずれわかると、ノラは言う。出会った時から、ボケ倒してきた。ほとんどそれが日常とでも言うように。どういう過去があるのかはわからない。なぜ俺なんかと組むのかもわからない。ただひとつ言えるのは、ノラが天性のボケで、今俺たちはコンビを組んだというその事実だけだ。
「コンビ名は、全会一致で『メンタルヘルス』でよろしいでしょうか」
「いつ俺が賛同したんですか。そんなコンビ名嫌ですよ」
「ではいかがいたしましょう」
俺はううんと唸る。何もかも急なことで、頭がうまく回らない。
「名前を合わせるのがオーソドックスかね。鈴原と大野……鈴原大野……」
「ややインパクトに欠けますね」
「明治と大野……明治と蘭……明治とノラ……明治の蘭」
俺の頭にひらめきの雷鳴がとどろく。同時にノラも何かに気づいたように、はっと顔を上げる。
「「明治の乱!」」
二人同時に声を上げた。
「決まりですね」
ノラが微笑む。
「わたくしたちは、明治の乱。観る者の頭の中を、笑いでかき乱してしまいましょう」
かくしてここに、『明治の乱』は誕生した。
*
団長がふうと息をひとつついて、たばこに火をつけて煙をくゆらせた。そして、俺とノラを交互に見つめた。明らかにその表情は不機嫌だった。
「で、その小娘を相方にするから、事務所に入れてくれと、そういうことなんだな」
「そういうことになります」
「ばあか野郎。できるわけねえだろ、そんなこと。二十歳の小娘が笑いの何をわかってるってんだ。お前も耄碌してんじゃねえぞ。こんな小娘にたぶらかされやがって」
「いや団長、この娘はただの小娘じゃないんですよ。天性のボケです。パナモとはまた違ったベクトルの」
「そんなこと信じられるわけねえだろ。どこからどう見たって、こう、綺麗な、おしゃまさんじゃねえか。ボケのボの字も感じられない」
ノラがにこりと微笑む。すると団長は、頬を染めてだらしなくえへらと笑い、しかる後に我に返ってぶんぶんと顔を振る。
「いけねえ。こいつ、俺まで籠絡しようとしやがった。俺あ騙されねえからな。おい、明治。女には気をつけろとあれほど言ったろうが。ケツの毛までむしられてポイ、だ」
俺はため息をついた。口で言っても理解してもらえそうにない。ネタを見せて納得してもらうしかないのだ。
ここまでは想定内だ。俺はノラに目で合図を送る。ノラは、わかったと、うなずく。
俺達は立ち上がり、所定の位置に立つ。ボケのノラが向かって右、ツッコミの俺は左である。
「ショートコント。プロポーズ」
俺はひとつ咳払いをする。
「どうもこんにちは。鈴原明治です」
「みなさま、こんにちは。世を忍ぶ仮の名前は大野蘭、通称ノラです」
「世を忍ぶ仮のて。どこぞの悪魔ですかあなたは。年はやっぱり十万歳ですか」
「いえ二十歳です」
「あ、そこ設定普通なんですね」
「なんでも巷では、結婚という儀式が流行っているとか」
「流行り……とかそういうのじゃないと思いますけど」
「わたくしもなりたいんですよね、お嫁さんてやつに。夢なんです」
「うーん、なれますかねえ」
「一番がお嫁さん、駄目なら力士になりたいんです」
「……前者のほうがまだ難易度低いかもしれないですね」
「だからちょっと、プロポーズの予行練習に付き合っていただきたいんです」
「ちょっとやってみましょうか」
団長は品定めするような、鋭い視線をこちらに送っている。
「うーん、遅いなあ」
「ごめんなさい。待ちました?」
「いやいや、全然待ってないよ」
「もう、ウソばっかり。三十分前からもうそこに立ってて、落ち着かない様子でしきりにうろうろしながら、時々本読んだり携帯いじったりしてたくせに」
「見てた?ねえ、物影から俺のことずっと見てたの?うわ、怖っ」
「今日どちらに行きます?」
「今日はね、素敵なレストランを予約してるんだ」
場面をレストランに移す。
「うわあ。きれい。素敵なところね」
「今日のために予約したんだ。ほら見てごらん。窓から一面に見下ろす、光輝くきれいな夜景」
「やだ、本当。市街地から白い光が交差して爆音とともに閃光が夜空を照らしてる」
「そんな光なの!そんな不穏な光なの!眼下で湾岸戦争張りの抗争?」
「とりあえず、注文しましょう」
「なんでも、好きな物を食べて」
「本当?じゃあアワビ七十個とフィレステーキ八十枚と――」
「力士か!二番目の夢かなえる気か!もしくは業者か!」
「あ、ワインが来たわ」
「とりあえず、乾杯しよう」
「あ、すごい、おいしい。このワイン、なんか、ブドウの果汁を発酵させたアルコールの味がする」
「ワインてそういうもんだからね。すべからくワインはその味がするよ」
「ところで明治さん、話ってなんですか」
「蘭、じつは、受け取ってほしいものがあるんだ」
「うそ、やだ、これ……。輪っかになって、薬指にすっぽりおさまって……。カブトムシの幼虫?」
「指輪!なんでプロポーズに幼虫渡すの。おかしいでしょ。指輪ですよ」
「でもこんな、高そう」
「蘭、俺と、結婚してほしい」
「……明治さん、気持ちは嬉しいけど、わたくし、あなたに言ってないことがあるんです」
「え、どんなことですか?どんなことがあっても、俺はあなたを愛し続けます!」
「じつはわたし、借金が三千万円あるんです」
「えええ!三千万!」
「バブルの頃、土地転がしに失敗して」
「え、じつは結構年いってます?年齢詐称してません?まあでも、それでも、俺はあなたを愛し続けます!お金なんて関係ないです」
「あと、じつはわたし――」
「あ、まだあるんですか」
「バツ七で子供が九人いるんです」
「えええ!バツ七!」
「長男は肌が褐色のジョン」
「え?か、褐色?」
「長女がメアリー、二男がスンチャイ、三男がセルゲイ――」
「前の旦那さんたちどこの人なの、ねえ?そ、それでも、それでも俺は、あなたを愛し続けます!結婚してください!」
「あともう一点あって……」
「まだあるの?」
「これは本当、ささいなことなんですけど。わたくし、戸籍が男で本名タケシです」
「えええええ!」
「こんなわたくしでも、お嫁にもらってくれますか?」
「お断りだ!もういいよ」
「「どうも、ありがとうございました」」
俺達は、二人で頭を下げる。
「採用」
と一言だけ団長は言った。
俺とノラはがっちりと握手をした。
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