第2話 さくらを見舞う

第二章 


 モップをバケツに浸し、しっかりと絞り、廊下の端から端まで丁寧に拭いていく。この水加減が大事なのだ。水気があり過ぎると患者さんが転んでしまう危険性がある。乾きすぎていると、汚れが吸着してくれない。この按配はなかなかに難しい。武さんくらいのベテランになると、それはもうほれぼれするようなバランス感覚なのだが、俺はまだまだだ。武さんからは、未熟なうちは絞り気味でいけ、と言われている。汚れが取りきれないほうが、水気が残って患者さんが転ぶよりはまだましだからだ。患者さんの中には高齢で、足がおぼつかない人も多いし、頭でも打ったら致命的だ。

 今日は二階の東病棟から西病棟への連絡路を任された。かなり広い面積をやらなくてはならない。人通りも多いので、思うように作業が進まない。要は貧乏くじの持ち場だ。

 黙々とモップで拭いていると、椅子に座って談笑している若い男女が目に入る。単純作業をしていると、つい耳に入ってくる会話に耳をそばだててしまう。話の流れからすると、お互いに友人の見舞いに来て、今日待合室でたまたま知り合った感じのようだ。男は茶髪のロン毛でちょっとちゃらそうで、女はやたらと主張の強いオレンジのシャツを着て派手な格好だった。

「だからわたし、綾瀬春美に似てるってたまに言われて」

「へえ、あの女優の?」

「自分ではあまり、そんな風に思わないんですけど」

「じゃあかわいいってよく言われるでしょ」

「え、そんなこと言われないですよ」

「言われてるはずだよ。だって綾瀬春美に似てるんだもの」

「いえいえ、そんな、全然言われないです」

「言われてるよ」

「いえ、本当、言われないです」

「本当?」

「本当です」

「じゃあ似てないんだよ」

 場の空気が凍りつくのがわかる。女の笑顔が一瞬にして引きつる。男は、恐らく相当鈍いやつと思われ、地雷を踏んでしまったことにも気付かずにいる。

 面白いな、と思う。女の、謙遜と見せかけての誇示と、それをあっさりとぶった切る男。最後の一言が、抑揚のない平坦なトーンなのが面白い。他意なく、思ったことをそのまま言ってしまった、という感じがでている。

 俺はポケットから取り出して、一応メモする。どんな些細なことであっても、ちょっと面白いと思ったら書き留める癖をつけておけと、団長から言われているからだ。およそネタに応用できるものでもなさそうだが、どういう所で生きてくるかはまったく予想がつかないので、ストックしておくに越したことはない。

 俺の仕事中のもう一つの暇潰しは、道行く人に片っ端からあだ名をつけていくことである。これも団長から教わったのだ。面白いフレーズが脊髄反射で思い浮かぶようにするための訓練なのだそうだ。これによって実際どの程度の笑いの能力がついているのかは定かでない。というか笑いの能力ってそもそも何なのだろう?

『相模原一のイケメン』

『白亜紀なら美女認定』

『夢はラノベ作家』

『ホットヨガとアロマが趣味です』

『塊』

 こりゃ駄目だな、と思う。何が面白いのだかさっぱりわからない。こういうのは、誰もが思っているけどなかなか言語化できないニュアンスを、上手に言葉にするのが大事なのだ。あだ名を付けることをきっかけにして売れていった芸人がいたが、よほどの感性と頭の回転だとつくづく思う。

「おい」

 背後から聞き覚えのある男の声が聞こえる。嫌な予感がする。

「はい」

 予感は的中。振り向くとそこには、暴君こと周坊が立っていた。周坊は小さいがガタイのいい、まるで豆タンクみたいな体型で、言いがかりをつけては若手をいびる最低の男だ。相変わらず太鼓腹が飛び出ていて、作業着がパツパツである。もみあげと髭がくっついていて、アルコールの飲み過ぎで顔色が浅黒く、表情はいかつい。

「お前、今日また遅刻したんだってな」

「あ、すいません。電車が遅れて、五分だけ」

「五分でも遅刻は遅刻だろ。お前、今日のノルマ倍な。三階のフロアもやっとけよ」

 こいつは遅刻常習の自分を差し置いて、ノルマを俺に押し付けてきているのだ。ここまで悪びれずに下衆をやれるその根性にある意味感嘆する。

「いえでも、武さんには報告したんで」

「武さんが許しても俺が許さねえよ。若手に示しがつかねえからな」

「でも僕、今日ちょっと仕事終りにやらなきゃならないことがありまして」

「あ?知らねえよ」

「じゃあ明日やりますよ。すいません、今日は無理なんです」

「ひょっとしてあれか?やらなきゃいけないことって、てめえの下らねえお遊びのことか?」

「いや、一応あれが本業なんですよ。まあ稼ぎは副業の二十分の一以下ですけど」

「じゃあ俺を笑わせてみろよ。芸人なんだろ?そら、面白い事やってみろよ」

「いや無理ですよ。僕、笑ってほしい人しか笑わせられないんですよ」

「ほお」

 俺はニコニコ作り笑顔で応戦する。すると突然、周坊が俺の頭をむんずとつかんで、汚い水の入ったバケツに無理矢理押し込もうとする。俺は背筋をフル稼働させて耐えようとするが、悲しいかな力では周防にまったく太刀打ちができない。

「そらそら。さっさとバケツに首を突っ込めよ。面白いぞ。笑ってやるよ」

 濁った水が近付いてくる。嫌だなあ、と思う。うんざりだぜ。でも俺は屈しないぞ、と思う。どんだけ惨めな思いしても、抵抗してやる。同じバケツに顔を突っ込むなら、せめてプロレスラーの猪木田の顔真似をしながら突っ込んでやる。いかにも惨めな、悔しいよおと頬に書いてあるような表情には絶対にならない。

 俺が人知れず全力で猪木田の顔真似をし、今まさにバケツに突っ込もうとしているところで、

「お前ら何やってんだ」

 と武さんの声が聞こえた。

「周坊、どうした。揉め事か。揉め事だったらまず俺に話せ。つまんねえいざこざ起こすな」

 周坊の腕の力が緩め、俺は解放された。力を入れ過ぎて背筋がつり、俺は背中をさすった。

「べつに揉めてなんかいないですよ。ただじゃれてただけですよ」

「じゃれてる暇あんなら持ち場に戻れ」

 周坊は不機嫌そうにむんずとモップを手に取り、

「明日俺のノルマやっとけよ」

と俺の耳元で小さな声で捨て台詞を吐いて、その場を後にした。

「大丈夫か?」

「ええ、問題ないです。こういうの慣れてるんで」

 俺はよっこいせと立ち上がる。俺の顔を見て武さんがぎょっと身を引く。

「お前、なんて顔してんだ。顎出して、いかつい表情で」

 俺はつい猪木田の顔真似のまま立ち上がっていたのだ。前を通り過ぎていく人たちが皆俺を二度見する。

「あ、すんません」

 俺は顔の筋肉を弛緩させ、元に戻す。

「そういうのも舞台でやるのか?」

「ええ、たまに」

「あんまりウケねえだろ」

「……はい」

 俺は素直に認める。

「今日もあれか、営業なのか?」

「いえ、今日は全然、別件なんですよ。親戚の見舞いに」

「おお、そうなのか。時間大丈夫なのか?」

「定時にあがれば平気です。さっさとやっちまいます」

「そうか。まあ、無理そうだったら言えよ」

 そう言って武さんは俺の肩をぽんと叩き、立ち去っていった。


 仕事を終えると、俺は家には戻らず、そのまま東京方面に向かった。実家の三鷹は遠い。総武線の端から端だ。俺は席に座ると、リュックからMDプレイヤーを出して、昨日録音したラジオ番組に耳を傾けた。俺の周囲の音響機器は、MDで時代が止まっていた。ラジオとは十年の長い付き合いだ。ほとんど人と喋らなかった時期は、ラジオだけが唯一耳にする人の声だった。ラジオは偉大だ。大多数に向けて発信しているのに、まるで近くから語りかけられているような気がする。きっとネットがどんなに普及したって、ラジオは生き残る。

 電車をぐるりと見回す。目の前の座席に座っているホスト風のちゃらそうな男が目に入り、『十八股かけています』というあだ名が浮かんで、慌てて振り払う。つまらない習慣だけが身についてしまった。

 新宿を過ぎたあたりから、俺はそわそわし始める。それに、体が緊張して硬くなっていく。実家に近づくと、いつも決まってそうなるのだ。思い出したくもない記憶が、数珠のように頭の中に連なって出てくる。

 過去のことだ、と思うようにする。拭い去ろうったって、拭えやしない。だったら、時間が解決するのを待つしかない。

 目的の駅に着き、俺は降りる。住宅地なので、一緒に降りる人たちは多い。雑踏に紛れて改札を抜けると、俺は実家のある方角の逆の出口を出て、商店街を抜け、町で一番大きな病院に辿り着く。夕方に来ると、ライトアップされて、まるで要塞みたいに見えるのだ。全国でも屈指の大きさの有名病院だ。

 たしか四階の小児科病棟の、四〇五号室だ。個室を一つ借り切っている。再入院になって、一か月経った。俺はナースステーションの面会用の用紙に名前を書き、部屋に向かった。あちこちには大人用の病棟にはないような、アニメのキャラクターの貼り絵やら、動物や虫の絵が描いてある。

 廊下を歩いていると、四〇五号室から泣きながら出てくる看護師が見えた。看護師は目元を拭いながら、足早にナースステーションに戻って行った。すれ違いざまにちらりと顔が見えたが、まだだいぶ若そうだった。

 あいつ……。またやりやがったな。

 ノックをして、引きドアを開ける。薄いピンク色の病衣を着て、黒髪を肩まで伸ばした少女が、ベッドの枕を背にしてぽつねんと座っている。妹のさくらだ。

「お、兄ちゃん」

 さくらが顔を上げて言う。

「グズの兄ちゃん」

「グズは余計だろ」

「間違えた。クズの兄ちゃん」

「いきなりひどい言い様だな、おい」

 さくらがけらけら笑う。

「久々じゃん。元気してた?」

「お前、今さっき、看護師さんに何かしたか?泣きながら出て行ったぞ」

「ああ、あれ。どうせ一年目の看護師でしょ。手際悪いし、気取っててなんかむかついかたら、ちょっとからかっただけだよ。あのくらいでへこんでるようじゃ、この先やっていけないよ。社会の厳しさ教えてやらないと」

「十四のお前が社会を語るなよ」

「病院に関しちゃわたしのほうがベテランだよ」

 たしなめようと思っても、そう言われてしまうと口ごもってしまう。

「いったい何て言ったんだよ」

「いやもう、端的にブスですねって」

「ブスって、おい」

「なんか自意識が見え隠れしてますけど、あなたの他覚的評価は自己評価のきっと六割くらいだと思いますって。いくつか問題があるけど、あえて一つ指摘するなら鼻の形に問題があります。やがてそれを思い知るときが来てしまうと思います。だからその時のために、せいぜいあたしたち子供に優しくして、せっせと自己評価を上げておいてくださいって。そしたら、泣いちゃった。本当、やわなんだから」

「鬼か、お前は」

「退屈凌ぎよ。つまんないんだもん」

「あまり波風立てるなよ」

「大きなお世話よ。滅多に来ないくせに」

 俺はまた口ごもる。

 さくらが、ちらと俺の手に持っている袋に目をやる。

「何それ?」

「あ、これ?近所の人が蜜柑くれたんだ。たくさんもらったから、見舞いに持ってきた」

「近所の人ってだれ?」

「二階に住んでる人だよ。こないだ引っ越してきたばっかりなんだって」

「あのアパートの住人?大丈夫かなあ。その蜜柑、毒とか入ってない?」

 毒は入っていない、と念を押した女性の顔が頭に浮かぶ。

「失礼なこと言うもんじゃないよ。せっかくくれたんだから」

「あんな、妖怪が住んでそうなぼろアパートの住人なんて、怪しいやつに決まってる。すっごい怪しいやつに決まってる」

「古株の住人を前にしてそういうこと言うなよ」

「兄ちゃん怪しいじゃん。『妖怪ごぼう猫背』じゃん」

 妖怪ごぼう猫背は俺の中学時代のあだ名だった。

「嫌な思い出を喚起させるなよ。わかったよ。いらないんなら持って帰るよ」

「いらないなんて言ってない。食べるわよ。だってそれ、あたしのために持ってきたんでしょ?」

「そりゃそうだよ。お前のために持ってきたんだよ」

「……なら食べるわよ。皮剥くの面倒だから、かわりに剥いてよ」

 たかだか蜜柑を食べるのにどうしてこんな面倒なやりとりが必要なのだろう。俺は袋から蜜柑を二個取り出して、ベッドの脇にある台の上に置いた。

「粒に付いてる白い筋は好きじゃないから、そういうのも綺麗に取ってね」

「はいはい」

俺は足元にゴミ箱を置いて、蜜柑の皮を剥き始める。

「調子はどうなんだよ」

「よかないよ。よかったら入院してないよ」

「そりゃま、そうだろうけど。よくないなりにどうかってことだよ」

「べつに、落ち込んじゃいないけどさ。ただ、あーあ、またかっていう、虚脱感があるだけ。あと暇すぎるのが苦痛。漫画でも買ってきてくれればよかったのに」

「そんな金ないよ。見りゃわかんだろ」

「……そうね。聞いたあたしが馬鹿だったわ」

 さくらが俺の頭から足の先までざっと見る。

「また痩せたんじゃないの。今体重何キロ?」

「こないだ事務所の洗面所で測ったら、五十三キロだった。いよいよまずい」

「何食べて生活してんのよ」

「主にパンの耳」

「パンの耳?」

「パンの耳のポテンシャルには、日々感心させられるよ。砂糖まぶしたり、ドレッシングつけたり、ごま塩まぶしたり。あと――」

 さくらが手で話を制する。

「もう結構。不憫でこっちの体調が悪くなるわよ」

 俺は一粒一粒綺麗に筋まで取った蜜柑の粒を、持ってきた紙皿の上に乗せて、ベッドに備え付けられているテーブルの上に置いた。さくらが一粒口の中に放り込んだ。俺も一粒食してみる。ほのかな酸味とさっぱりした甘味が口の中に広がる。

「うまいだろ」

「まあ、普通ね」

「感動の薄いやつだな。こんなにうまいのに」

「万年飢餓状態だから、味のハードルが下がってるんじゃないの。これべつに、そこまでうまくもないよ。まずくもないけどさ」

「味覚のハードルが高いやつは不憫だな。俺は何でも美味しく食べられてラッキーだ」

「そのバカみたいな楽天的発想が、兄ちゃんの二本足を支えてるのね。本気で感心するわ」

「褒め言葉と受け取っておく」

 俺達は蜜柑を食べ終え、紙皿をゴミ箱に捨ててティシュで手を拭く。

「学校はどうだよ」

「つまんない。女は男のことばっかり。男は女のことばっかり。底が浅いのよ。人生がなんたるかをわかってない」

「お前くらいの年のやつなんてだいたいそういうもんだと思うけど」

「ノーテンキすぎて、付き合ってらんないのよ。一人で本読んでるほうがまし」

「お前も教室でぼっちか。俺と同じ道歩んでんな」

「兄ちゃんと一緒にすんじゃないわよ。兄ちゃんは孤立してただけ。あたしは率先して孤独を選んでるだけ。兄ちゃんは一匹羊、あたしは一匹狼」

「一匹羊か。お前、面白いこと言うな」

 俺はノートを取り出し、さらさらと書きつける。

「ウケたら著作権料払ってよ」

「懐に余裕があったらな。勉強のほうはどうなんだ。期末テストは受けられたのか?」

「受けたよ。一番だよ。当たり前じゃん。あんなのできないやつの気がしれないよ。ろくに登校できてないあたしよりできないんだもん。どいつもこいつも猿以下だよ」

「相変わらずすげえな、お前は。俺とは出来が違うな」

「あたしは現役で医学部に行くんだもの。そんで医者になって、父さんの病院継ぐのよ。兄ちゃんがドロップアウトしちゃったんだから、あたしが継ぐしかないのよ」

「……迷惑かけてすまん」

 俺はへこんで、頭をかく。

「……べつに迷惑ってこたないよ。もともとあたしのほうが能力高いんだから、どの道あたしが継ぐことになってたわよ。自然な成り行きよ。だから気にしないで、せいぜい好きにやればいいよ」

「できのいい妹で助かるな。でもあんまり背負いこむなよ」

「本当にそう思うなら、土産に漫画の一冊でも買えるくらいには稼げるようになってよね。まったく期待してないけど」

「善処するよ」

 そう言って俺は立ち上がり、椅子を部屋の隅に片付けてリュックを背負った。

「なによ、もう帰るの?」

「ああ。パナモとネタ合わせやんなきゃいけないからさ」

「どうせ遅刻するでしょ、あのアフロ。もう少しいりゃいいじゃん」

「まあそうだろうけど、俺まで遅刻したら示しつかないからさ」

 さくらはふいとそっぽを向いて横になる。

「ああそう。じゃあ帰れば。帰ってさっさと報われない芸の道を邁進したら。だれも何の得もしないけれど」

「そうカリカリすんなよ。また来るからさ。顔見れてよかったよ」

 俺が立ち去ろうとすると、

「兄ちゃん」

と背後から呼び止める声が聞こえた。振り向くと、さくらがベッドから身を起こしてこちらに顔を向けていた。

「また来るのね」

「おお。また来るよ」

 さくらが右手で拳を突き出してくる。俺も拳をつくり、こつんと重ね合わせる。俺たち流の挨拶なのだ。

 さくらはふたたび背を丸め、ベッドの中に体をうずめた。俺はその小さな背中を一瞥し、病室を後にした。


 待てど暮らせど、パナモは来ないのであった。俺は待っているあいだに、ドリンクバーでコーヒーを四杯飲んだ。カフェインの過剰摂取で脈がとんだ。本も一冊読み終えてしまった。電話をするも、むなしく留守番電話サービスに繋がるだけであった。結局夜の十時を回ってもパナモは姿を見せないので、俺は諦めて帰路につくことにした。

 帰り道、俺は頭の中でぐるぐると考えた。あいつはたぶん、芸人として名を売りたいなんてこれっぽっちも考えてないのだ。ただ楽しく日々を過ごせればそれでいいのだ。そういう適当さがいいところでもある。でも、適当で開かれるほどこの世界は甘くない。そして、俺は開かれることを痛切に願っている。この温度差は埋めがたい。

 なんとなくまっすぐ自分の家に戻るのが嫌で、俺は公園に寄ることにした。人気がなく、街灯もおぼろげな公園は、不審者の溜まり場のような雰囲気を醸していた。要するに俺にぴったりということだ。ダウナーな気分の俺は、この暗がりの中でせいぜい落ち込んでやろうと思って、噴水の向かいのベンチに向かって歩いて行った。

 すると、淡い街灯に照らされる一つの影が、ベンチに横たわっていた。目を凝らすと、それは何やら水色の物体であった。

 イルカの死体かなと思って近づいていくと、見覚えのある水色のパーカーとリボンが見えた。覗き込むと、それは先日のノラを名乗る女性であった。

 ノラはぱちりと目を開けると、がばっと飛び起きてあたりをきょろきょろと見回した。

「あらやだ。わたくしったら、いつの間にかこんなところで寝てしまったのですね」

 ノラが俺の顔を見て、首をかしげる。

「あら、あなたは先日の……蜜柑ごときで気を許した一階の住人さん……?」

「……まあ、間違っちゃいないですけど、せめて名で呼んでいただけないでしょうか」

「あ、これは、失礼いたしました。伊藤博文さんでしたっけ?」

「……鈴原明治です。そりゃ伊藤博文は明治にゆかりはありますけども」

「あ、鈴原明治さん。夜分に、まっこと奇遇なことで」

 ノラがうやうやしく頭を下げる。

「こんなとこで何やってんですか?」

「それはですね」

 ノラが地面を指差す。

「あちらに蟻さんの巣がございます。食べ物を咥えて、せっせせっせと――」

「せっせと出入りしている様子がかわいくて、しゃがんで観察していたら、いつの間にか寝入ってしまった、ってことですか?」

「あらいやだ、ご明察。エスパー?」

「先日似たような話を聞いたもので」

「左様ですか」

「こんなとこで寝てたら危ないですよ。この辺、治安悪いですし」

「ご心配には及びません。わたくし、父以外の者とタイマンで負けたことがございませんので」

「はあ……そうですか。ならいいんですけど」

 ノラが空を見上げる。

「今宵はいい月が出ております」

 俺はつられて空を見上げる。

「真ん丸い満月ですね。ウサギの形がはっきり見える」

「餅つきで自分を追い越した亀を撲殺しているのでしょうね」

 俺はノラに目を移す。

「あの、こないだからずっと言いたかったんですけど」

「なんでしょう?」

「ボケてるでしょ」

「はて?」

 ノラが人差し指を口元にあて、首をかしげる。

「ツッコんでいいですか」

 ノラがこちらをじっと見据え、そのきれいな瞳をのぞかせて、わずかに微笑む。

「何のことやらわかりませんが、それが鈴原様のお望みとあらば、断る言われはございません」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 俺は一つ咳払いする。

「ウサギさん狂暴か!本当は残酷な昔話か!」

 しばしの間がある。ノラはこちらにニコニコしながら視線を向けている。

「いや、ありがとうございます。すっきりしました」

「大変結構なツッコミでございました」

「ツッコミどころを放置すると、フラストレーションが溜まるんです。でも女の子に強い口調でツッコむのってどうかなと、躊躇しちゃって」

「ご遠慮なさらず、どんどんツッコんでくださいまし」

「あの、そもそもどうしてそんなにボケるんですか?」

「そもそもボケとはどういうものを言うのでしょうか?」

 質問を質問で返されてしまった。そして何気に深い。俺は改めて考えてみる。そもそもボケとはどういうことだ?

「そりゃあ、意図してズレたことを言う、ってことじゃないですか」

「わたくしは、ただ思うままを言葉にしているにすぎません。そこにはどのような意図も存在しておりません」

 俺はこれ以上の詮索をやめた。この人はこういうスタンス、ということだ。前回の経緯から、よほど変わった人間であることはもはや明白だ。

「どうしてあんなおんぼろのアパートに引っ越してきたんですか?あまり女の子に好まれるような所でもないと思うんですけど」

「妖怪屋敷のようで趣があるなと。わたくし妖怪が大好きなもので。あらやだ、一反木綿が目の前に」

 ノラが俺の顔に触れる。俺はどきりとして、ツッコむのがワンテンポ遅れる。

「だ、誰が一反木綿か。厚さ三ミクロンか」

 ノラがほほと笑う。笑うと口角に皺が少し寄って、えらくチャーミングだった。

「お笑いがお好きなのですか?」

「好きというか、一応芸人やってんです」

 ノラの顔がぱっと華やぐ。

「あら、素敵じゃないですか」

「素敵じゃないですよ。いや、素敵な芸人さんはたくさんいるんですけどね。僕はもう全然ダメで。才能ないんですよ。面白いことを考えてるうちに、いったい何が面白いんだかわかんなくなってっちゃいますしね。本当に上にいくやつはそんな風に自分に疑いを持たないですし」

 俺は話しているうちにネガティブモードのスイッチが入る。

「どこの営業先でもスベってばかりですしね。相方は適当だし。今日もネタ合わせをすっぽかされたし。このまま清掃員で人生を終えるのが関の山なのかなと」

 俺は話しているうちにいつの間にか徐々に顔の髙さが低くなっていって、気付いたら膝の上に置いた手の中に顔をうずめていた。

「あ、すいません。湿っぽい話しちゃって。スイッチが入っちゃうとダメなんです」

「誰しもがそういった時はございます。無気力と諦観の穴に入ってしまったときは、無理に上がろうとせず、しばしそこでお休みになってもよいと思います。そのうち浮かぶ瀬もございましょう。それに――」

 ノラが立ち上がる。

「得てして人の世を生きていくのは困難です。誰もが淘汰されまいと、常に気を張り注意を怠らないようにしていなければなりません。現代はそういった世の中です。そんな中で、その緊張にふとした緩みを与え、明日への活力をもたらすもの。それが、笑いやおかしさ、ユーモアといったものだと思います。ですから、人々の笑顔を求め、仮にそれが達成されなくとも、その目標に向かって苦悩できる方たちを、わたくしは尊敬いたします」

 ノラが振り向く。満月の月明かりが、ノラを照らし、その姿を映し出す。なんだか一枚絵みたいな美しさで、俺はしばし見とれてしまう。

「あ、ありがとうございます。尊敬とか言われると、なんか痒いですね」

「鈴原様は、どうしてお笑い芸人を志したのでしょう?」

「そうですねえ……」

 俺は自分の生涯をざっと思い返す。

「あまり笑えない青春だったからですかね。十代の中頃って、いろいろあって、本当に笑えなかったんですよ。学校はもちろん、家の中も。そういう中で、ある芸人さんがやってるラジオ番組だけが救いで。毎週録音して、次の回まで擦り切れるほど聞き返して、自分もネタを書いてハガキを送ったりして。一番きついときは、本当にそれだけの世界に浸ってなんとかやり過ごしたんですよ。結局十六の時に、家を出て劇団に入って、死ぬほど貧乏だけど、まあそれまでのどうしようもないきつさからは解放されたんですけど。でも自分がこれだけ救われたから、同じように他の誰かにも救われて欲しいんですよね。有名になりたいし、いい暮らしもしたいけど、まずはそれかなあ。自分みたいなやつに、救われて欲しい、心底」

 俺は言っているうちに、そう言えば自分はそういうモチベーションでやってるということを思い出した。

「もちろん、現実が残酷なこともある程度わかってるんですよ。大仰な志を語ろうと、笑ってもらえなかったら、この世界では無価値です。ただモテたいってだけでも、すごい面白いこと言えちゃうやつはいるんですよ。華やかな青春で、学校でも面白いやつで通ってて、そのまま芸の世界へ、みたいな。そういうやつら見ると腹立つんですけどね。僕なんかは難しく考えすぎなのかもと思います。でもその、笑う笑わないのみの評価尺度が全てで、それ以外は一様に無価値っていうものすごくドライな現実が、滅茶苦茶きついと同時に、ある意味楽です。シンプルですからね。だから、そのシンプルなルールに則りつつ、冴えない感じのどこかの誰か、自分を無価値と思っている誰か、自分が無価値だと周囲から思われていると思っている誰か、そういうやつらに、ひと時の安らぎを与えたい、のかなあ」

 俺ははっと我に返る。

「あ、すいません、なんか。今度はまた別のスイッチ入っちゃって」

「いろんなスイッチがございますこと」

 ノラがほほと笑う。

「そのお志の行く末がどうなるのか、お近くに住まわせていただいているよしみで、見守らせていただきたいと思います」

 夜風がひゅるりと舞い、ノラの艶やかな髪の毛がはらりと揺れる。

「冷えてまいりました。そろそろ戻りませんか」

 時計に目をやると、時刻は十一時を過ぎていた。

「そうですね。戻りましょうか。すいません、つまんない話で引き止めちゃって」

「いえ、人生の希望と悲哀を垣間見る、非常に含蓄の富んだお話でした。またぜひお聞かせくださいまし」

「なんかえらく大げさですけど」

 俺は腰を上げる。

 二人で並んでコツコツと夜道を歩く。俺は横目でちらちらとノラをうかがう。ノラは自分よりも小さいし明らかに若いのに、どこか落ち着いた雰囲気がある。

「ノラさん、えっとノラさんて呼んでいいんですよね」

「はい。ノラでもブチでも、ミケでもどれでも構いません」

「斑でも三毛でもないでしょ。大野蘭、略してノラでしょ」

「思うままに、呼んでいただいて結構です」

「ノラさんは普段何をやってるんですか?」

「今この瞬間と同様に、ただそこに存在しております」

「いえなんか小難しい哲学的なことじゃなくてですね、学生かあるいは働いているのか」

「しがない工場勤めでございます。バナナチップ工場で、ベルトコンベアから流れてくる片面が炙られたバナナを次々とひっくり返すのでございます」

「そりゃまた……えらい単純作業ですね」

「一時間も続けていると、二、三の悟りを開くことができます。なにも滝に打たれることはございません」

「あの、お年は?」

「先日、齢二十歳になりました」

「そうですか。おめでとうございます。酒が飲める資格を得たばかりなんですね」

「お酒は嫌いです」

 ノラは表情を変えず、前を向きながらきっぱりとそう答えた。唐突な反応に、俺は少し面食らった。

「元々どちらにお住まいだったんですか?」

「生まれも育ちも大阪は西成にございます」

「えっ、関西なんですか。それにしちゃ全然関西弁じゃないですね」

「諸事情につき、関西弁は基本的に封印となっております」

「諸事情?諸事情って一体何ですか?」

 ノラがくるりとこちらを向く。

「それ以上、わたくしのことを聞きますか?」

「はい?」

「聞くと後戻りができなくなりますが、それでも聞きますか?」

 ノラの笑顔が急に恐ろしいものに思え始めた。

「……あ、いえ、やっぱいいです」

 ノラが前に向き直り、空を見上げる。

「本当に、今宵はよい月ですこと」

 ますますこの女がわからない、と思う。

 でも、奇妙じゃないか。面白いじゃないか。俺は、奇妙なもの、面白いものが大好きなのだ。

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