明治の乱

@ryumei

第1話 僕たち、エセ外人

 人生の価値とはなんだ?

 金持ちになる?女にもてる?偉くなる?

 くそっくらえだ。反吐が出るね。

 金がない。学がない。女がいない。友達がいない。

 じり貧だぜ、俺は。

 でも誰かが笑った時にだけ、少しだけ救われる気がする。

 それだけだ



第一章  


 世間がロンドンオリンピックで賑わっている平成二十四年の七月十五日。俺は、築三十七年の木造アパートの六畳一間の一室で、家にある最後の米を茶碗に盛ってちゃぶ台の上に置き、対面していた。

 これを口にすれば、あと一カ月はまともな食事にありつける保証がない。

 だから、イメージを膨らます。

 これを口にしたとする。ほかほかとした豊かな土の香りが、口いっぱいに広がり、噛んでいるうちに俺のこの溢れんばかりの唾液と相まってグルコースに分解され、甘さが滲み出て、俺を幸福の極致へと導く。

 いい。素晴らしいイメージだ。実際に本物を目の前にすると、リアリティが違う。俺はしばらくのあいだ、茶碗に盛られた米を見て、しかる後に目をつむって、を繰り返す。あと五十回は堪能する自信がある。

 しかし、一瞬ではあるがサブリミナル的にコメの上をさっと通り過ぎるゴキブリが見えた。

 こういう時俺は、早く食べればよかったと考えるのではない。もっと早く目をつむっていれば見なくてすんだのに、と考える。世の中見ないほうがいいものもある。

 しかし一回見てしまったものはしょうがないのだ。こういう時は解釈を変える。ついてない、のではない。笑いの神が降りてきているのだ。笑いの神は、いつだって飢えと貧乏の味方だ。そういう意味では、俺は笑いの神に愛されまくっている。愛されすぎて死んでしまいそうなくらいに。

 俺は、ままよ、と一気に米を頬張った。べつに味は変わらない。涙が出るほど美味い。でもどうしてもあのカサカサ動く黒い虫が脳裏をよぎる。まあ仕方がない。どこかでネタになる日も来るだろう。

 夕飯を食べ終わると、俺は電気を消してさっさと寝ることにする。電気代がもったいない。カロリーもなるべく消費したくない。寝ていればどちらも節約でき、すべて解決だ。

 俺の眠りは深い。いつだって夢を見ない。いろいろと疲れ過ぎていて、夢など見ている暇がないのだ。夢を追いかけている人間は夢を見ないと、どこかで書いてあった気がする。夢だけが俺の糧だ。それが危険な呪いであることも承知の上だ。でも、俺には追いかけるしかないのだ。自分にはそれしかないのだから。

 そしていつものように、沼みたいに深くて濁った眠りの中に埋没していく。


 朝起きると、七時を少し回っていた。俺は慌てて飛び起きて、裏のパン屋さんでもらったパンの耳を五本ほど頬張り、もごもご口を動かしながら身支度をした。いつもの、だるだるの真っ青のTシャツに袖を通した。これ以外には、白と黒の合計三パターンしかない。それぞれ二着ずつ持っている。それで、一週間を乗り切るのだ。

 家を出て、駅まで歩いて十五分である。向かうはC大学医学部付属病院である。俺はそこで清掃のアルバイトをしている。廊下をピカピカに磨いて、ゴミを出すのが仕事だ。クソみたいな日常だ。もどかしい。時間がもったいない。もっと、本業のほうに専念したい。本業だけで食べることができたらと思うが、残念ながらこれまでの本業での稼ぎのマックスは、一か月八千五百円だ。底辺もいいとこだ。

 ただ、仕事があるだけましだとも思う。とある歌の歌詞にもあるように、お金がなけりゃ嫌なことでもやらなきゃならないし、下らない仕事でも仕事は仕事なのだ。

 改札をくぐりホームに出ると、ちょうど電車が来たところで、俺はそれに乗った。俺は東京の隅っこの江戸川の近くに住んでいる。下り電車に乗るので、満員電車に巻き込まれることはない。すれ違い様に目の前を過ぎていく上り電車は、それこそ人間が乗る代物じゃないような混雑振りである。あんなのに乗ったら、俺みたいなもやしはぺしゃんこに潰されてしまう。

 駅を降りると、次はバスに乗る。病院に向かう患者さんで一杯だ。おばあちゃん同士が、私はあそこが痛い、ここが悪いとか、自分の体の症状を披露している。年をとると病気がコミュニケーションツールになるようだ。父方も母方も、どちらの祖父母も亡くしているので、俺はそういう光景を見ると、なんだかほろりときてしまうのだ。

 バスが緩やかな坂を登っていき、頂上付近に病院の姿が見えてきた。ぎりぎり八時前に着くことができた。俺は急いでロッカーに向かい、水色のつなぎの清掃服に着替え、モップとバケツを抱えて、病棟の四階に向かった。昨日は一階、その前は十階。日ごとに請け負う場所が異なる。

 よし、と思ってモップで廊下の端から拭きはじめる。端から端まで丁寧に横切らせ、少しずらしてまた端から端まで動かす。ずっとこれの繰り返しだ。単調な作業だが、大事なことでもあるのだ。拭き残しがあって、埃が溜まったりしたら不衛生だ。患者さんの中には免疫が弱くなっている人が多いので、なるべく衛生環境を保たないといけない。でも念入りに拭きすぎて濡れていたりすると、足の悪い患者さんがすっ転んで頭を打ったりするかもしれない。これがたまにあるから怖いのだ。医者や看護師ももちろんそうだろうが、俺たちは俺たちで患者さんの命に多少の貢献はしている。

 エレベーターが開き、看護師たちがどやどやと入ってくる。そろそろ看護師の申し送りの時間なのだ。それに混じって、ぽつぽつ医者も来はじめる。挨拶してくれる人もいれば完全スルーの人もいる。まあそれは仕方がない。俺も積極的に挨拶をするほうでもないので、声をかけられない限り黙ってうつむいていることが多い。なんとなく、あいつらは上の世界の人たち、という考えが拭えない。

 九時前、医者の申し送りの時間直前になって、ひとりの女医が四階に降り立ち、俺を見るとにこりと笑って会釈をしてくれた。精神科の跡見先生だ。いつ何時に会っても素敵な笑顔を返してくれるのだ。もちろん、俺だけにではない。俺たち清掃員にも、患者さんにも看護師にも誰に対しても優しい人なのだ。俺もその笑顔を見ると癒される。モップを握る手にも力が入るというものだ。この跡見先生との挨拶イベントがあるから、四階の清掃は俺たち清掃員の間では人気が高い。

 非常用の階段のドアが開いて、同じ水色の清掃服を着たくたびれたおじさんが入ってきた。無精髭をぽつぽつ生やし、白髪がもはや頭の八割を占めている。病院清掃歴三十年の大ベテラン、武田のおっさんこと武さんだった。

「よお、明治。おはよう」

「あ、おはようございます」

 俺は頭を下げる。武さんが、俺がモップで拭いた跡をざっと見渡す。

「きれいじゃん。お前、やっぱり丁寧だな」

「俺わりと几帳面なんですよ」

「そうみたいだな。お前、才能あるよ。一生続けろよ。俺の後を継げ。そうしたら秘伝の清掃法を伝授してやる」

「え……。一生はちょっとな……」

 俺は本気で不安になり、少しへこむ。武さんが盛大に笑い出す。

「冗談だよ、冗談。それより、本業のほうはどうだ。ガラス職人だっけ」

「……お笑い芸人ですよ。だれと間違ってんですか」

「ああ、そっか。お前は芸人か。最近、いろいろ夢追う若者が多いからごっちゃになっちとゃうんだよな」

 廊下の隅にある椅子に、武さんがよっこらせと腰を下ろす。

「いやあ。七階にさ、井桁さんていたろ。あの、面白かった人」

「ああ、いましたね」

 井桁さんは七階に長いこと入院している名物みたいな患者さんで、アルコール性肝硬変で顔が真っ黒の人だった。元大道芸人と自称していて、点滴アートと称して、自分の腕に刺さってるロックされた点滴チューブをぐねぐね曲げて花模様をつくったりして、さんざん看護師から注意を受けていたりした。

「あの人、亡くなったってよ」

「ええ?……そうですか」

「この仕事やってると、何遍も経験することなんだけどさ。やっぱつれえな。いいやつだったのにさ。こういう感じで、いろんな人間の終末の姿、なんてやつを見てると、人生は本当一回こっきりで、なるべく後悔がないように、って思っても、なかなかどうして、思うようにはいかねえもんだな、って思うね。思うがやたら多いな。日本語間違ってるかな」

「大丈夫です。ニュアンスは伝わってますよ」

「ならいいけどよ」

「武さんはなんか、後悔してることでもあるんですか?」

「そりゃあるよお」

「どんなことですか?」

「言うわけねえだろお」

 そう言って武さんはガッハッハと笑う。

「まあなんにせよ、お前には夢があるからいいやな。今日もこの後、なんかあるんか?」

「ああ、はい。これ終わったら、夜から神社の祭りのイベントで司会進行とネタ披露があるんですよ。まあ、しょぼいにも程がある規模ですけど」

「そうか。じゃあお前、今日早くあがれよ。残った分俺がやっとくから」

「え?いやいいですよ。俺やりますよ」

「いいから俺にやらせろよ。どうせ俺のほうが上手いんだから。四時にはあがれよ。じゃあな」

 そう言って、武さんは立ち上がり、また非常階段をコンコンと音を立てて降りて行った。

 いい人なんだよな、と思う。ああいう感じで、俺たち若手の清掃員をまとめている。俺はその後ろ姿を見送りながら、武さんに幸あれ、と密かに願った。


 四時になるのを見計らって、俺は武さんの言葉に甘えて仕事を切り上げ、営業に向かうことにした。場所は江戸川区内の小さな神社だ。ここから一時間もあれば着く。舞台での催し物があるのは日が暮れてからだろうから、ネタ合わせをする時間は十分にある。

 営業で気を付けなければいけないのは、なんといっても時間厳守だ。遅刻をするとノーギャラになることがある。俺は几帳面な性格なので大概大丈夫なのだが、相方のパナモが滅茶苦茶ルーズな性格なので、涙を呑んだことは数知れない。何度となく叱責したことがあるのだが、

「落チ着ケ、明治。モトモト大シタ収入源ジャナイカラ問題ナイ」

 と見事に真実を言い当て、俺の心をえぐりつつ開き直って、まったく改善の兆しが見られない。

 会場の神社に着くと、提灯には灯りがともり、露店がいくつも出ていて、すでにかなりの賑わいを見せていた。ベタだが、夏だなあ、と思わずにはいられない。べつに祭りを楽しむ友達や彼女がいるやなし、なのだが、それでも否応なしにテンションが上がってしまう。それが祭りというものだ。

 そういえば、自分も小学生くらいの頃までは家族と祭りに来たっけな、と思う。粉っぽくて絶対に元手が定価の三分の一くらいと思しきお好み焼きやらタコ焼きやらを好んで食べて、ろくな景品が当たりっこないのにくじを引いて、射的では倒れっこないのにゲームソフトの景品を狙ったりして。

 目の前に、浴衣を着た高校生と思しき女の子二人組が通り過ぎる。

 頭の中でふとよぎる、赤いリボンで髪の毛をまとめた、勝ち気そうな少女の姿。

 そう言えば、さくらも祭りが好きだった。金魚すくいで一匹も取れない俺をクズ呼ばわりしやがったけど、お情けでもらった一匹をやたら大事に育てて、一年後に死んだ時に大泣きして。口は悪いけど根は優しいやつなのだ。

 あいつ、そういえば今年受験じゃなかったっけか。

 いかんいかん、と頭を振る。営業の前に雑念にとらわれてはいけない。郷愁は危険だ。麻薬みたいなものだ。あの頃はよかったなどと思い始めたら最後、すべてを失うことになる。いや、そもそも失うものなどほとんどない状況ではあるのだが。

「ヨオ、明治」

 後ろから声をかけられる。振り向くと、そこには身長一九〇センチをゆうに超え、褐色でアフロの、恐ろしいまでの異彩を放った外国人がぬぼっと突っ立っていた。目鼻立ちが3Dポリゴンみたいにはっきりしていて、顔のパーツが全部でかい。何がおかしいのか、やたらニコニコ人懐こい笑顔を振りまいている。『一蓮托生』とロゴの書かれた意味不明のTシャツを着ており、ズボンは大工が履くもののようにダボダボである。三百六十度、どの角度から見ても、はっきり言って普通じゃない。

こいつこそ、俺の相方であるパナモである。

 パナモは自分のアフロ頭くらいある巨大なわたあめを持って、頬張っていた。

「パナモお前、何それ」

「何ッテ、コレガアスベストニデモ見エルカ?」

「わたあめなのはわかってるよ。不謹慎すぎるだろ、それ。俺が言いたいのは、仕事で来てんのに、なに普通に祭りを楽しんでんだ、ってことだよ」

「固イコト言ワズニ、明治モ食ベロヨ」

 パナモが差し出してきたわたあめを、思わずひとつまみ取って口に入れてしまう。

「……うめえじゃねえか。いやそうじゃない。お前本番前なんだからもう少し緊張感――」

「チョト、カキ氷買ッテクル」

 パナモはくるりと体を反転させる。

「聞け!話を!」

 いつものことながら参ったな、と俺は頭を抱える。

 パナモはもともと、上野の路上で怪しげな石を売ったりしていたのだが、それを見た所属事務所『アンブー舎』の社長こと団長が、存在感が面白いという理由だけでスカウトしたのだ。そして、当時ピン芸人だった俺をパンチが足りないと言い放ち、無理矢理パナモと組ませた。揚句、俺が母方の祖母がイギリス人なので、少し外国人ぽい顔立ちなこともあり、『エセ外人』という小学校低学年が二秒で考えたようなコンビ名まで付けた。

 そのいかにも場当たり的で適当なやり方に腹が立ったが、団長には多分に恩義もあるので、俺は甘んじて受け入れることにした。なにはなくとも、組んだからには俺はパナモと共に、この世界で駆け上がらなければならないのだ。

 隣でカキ氷をシャクシャク食べるパナモを横目にネタ合わせをしていると、ベージュ色の作業服を着たニコニコ笑顔の気のよさそうなおじさんが近づいてきた。おじさんは背が低くて、頭が俺の肩くらいの位置だった。

「どうもどうも、こんばんは。わたくし、このたび祭りを仕切らせていただいとります、高井と申します。よろしくお願いいたします」

「あ、どうも。こちらこそよろしくお願いいたします」 

 と俺は頭を下げる。

「ええっと……」

 おじさんが段取りが書いてあると思われる紙にさっと目を通す。

「ニセ外人さんでしたっけ」

「あ、いえ。エセ外人です」

 俺はコンビ名を間違えられて、軽くショックを受ける。駆け出し以前のレベルなので、無理もないのだが。

「あ、ああ、すいません。エセ外人さんですね」

「気ニスナ、オッサン。ドッチモ、似タヨナモン」

 パナモよ、フォローのつもりだろうが、それを自ら言うなと俺は思う。

「じゃあ、エセ外人さん。今日の段取りなんですけどね。六時半になったら、あの舞台の照明がつきますから、そしたら紹介しますんで、お二人に舞台に立っていただきます。で、ネタを一つ披露していただいて、そこからはお客さんを舞台に上げてのクイズやゲームです。司会進行と、合間にこう、キレのいいギャグを入れて、会場をどっかんどっかん笑いの渦に巻き込んじゃってください」

 簡単に言うなよな、と思う。客いじりは難しいのだ。

「俺タチ二任セロ、オッサン。泥船二乗ッタツモリデ――」

「大船だろ!沈んじゃうだろ泥船じゃ」

「ゴメン、間違エタ。オッサン、タイタニック号二乗ッタツモリデ――」

「それも沈む!悲劇!たしかに大船ではあるけど」

「戦艦大和――」

「沈む!」

「ジャ、頑丈ナ原子力潜水艦二乗ッタツモリデ」

「はなから沈んでる!それに、頼もしいんだか頼もしくないんだか、なんかぴんとこねえよ」

 ちらとおじさんの顔色をうかがう。?といった感じで、きょとんとしている。

「まああの、こういう即興のやりとりとかを、合間に入れてこうかなって」

「あ、あ、左様でございますか。あ、それでは、よろしくお願いいたします」

 そそくさとおじさんが去っていく。その後ろ姿を見て、不安にさせちゃったかな、と申し訳なく思う。

 隣ではパナモが、満足げに笑っている。

「イヤー、ウケタウケタ」

「何見てたんだよ、お前!きょとんとさせちゃったよ!」

 こんな調子で、果たしてうまくいくのだろうか。

 

 時間が差し迫ってくる。舞台袖にいると、鼓動がどくどくと高まる。いかにちんけな、場末の神社の祭りといっても、まだまだ人前でやるのは緊張するのだ。不安が波のように襲ってくる。だれも笑わなかったらどうしよう、と考えてしまう。これまで何度もだだスベりの経験はあるが、これが慣れない。毎回身も心も削られる思いだ。

 不意に肩にぽんと手を置かれ、俺は振り返った。

「落チ着ケ、明治。俺タチ、世界一面白イ」

パナモが不安げな俺を察してか、優しく微笑んでいる。

「パナモ……お前口の周り林檎飴でテッカテカじゃねえか!」

「それでは、今宵の祭のゲストをご紹介いたしましょう」

 舞台から声が聞こえる。いよいよ出番だ。

「戦慄のお笑い逆輸入!『エセ外人』のお二人です。どうぞ!」

 余計な二つ名付けやがって、と思いながらも、俺は颯爽と舞台へ上がり、マイクの前に立つ。沸き立つ観衆、雪崩のような拍手、黄色い声援……といったものとは無縁だ。みな、だれ?といった感じでぽかんとしている。そりゃそうだろう。

「どうもこんばんはー」

「僕タチ、『滞在ビザノ切レタ外人』デス」

「違うだろ!僕たち『エセ外人』ですよ」

「ア、ソウダッケ」

「ビザの切れた、とかあなたが言うと笑えないですから」

 ここからネタに入る。パナモが奇妙な形の笛を取り出し、それをピーピーと鳴らす。

「お、お。なんか取り出しましたね。なんですか、それ」

「コレ、インドノ民族楽器、プーンギ」

「へえー。じゃあ、あなたインド人?」

「イヤ、バングラデシュ」

「バングラデシュかよ!じゃあなんであえてインドの民族楽器持ってきたんだよ。脈絡ないでしょ」

ちらと観客に目をやる。みなくすりとも笑っていない。スタートからすっ転んだ。ここから挽回するのは至難の業だ。しかし、とにかく振り切るしかない。ダメとわかっていてもフルスイングだ。

「でもバングラデシュってあんまり馴染みのない国ですよね。なんか、これぞバングラデシュ、みたいなオススメありますか」

「アル。メッチャ美味イ、スンゴイオススメ民族料理アル」

「どんな料理ですか」

「マズ、肉炒メル」

「ほうほう」

「次二、人参トジャガイモト玉葱炒メル」

「ふんふん」

「次二、水ジャバジャバ入レテ、グツグツ煮込ム」

「ほうほう……ん?」

「最後二、カレールー――」

「カレーかよ!だれでも知ってるだろ、それ」

「諸々面倒臭カッタラ、カレーノ王様――」

「レトルトかよ!手抜き過ぎでしょ。もっと自国ならではのものをプッシュしてくださいよ。たとえば河があるでしょ。あのすごい大きな、世界的に有名な河が」

「アア、アルネ。確カニアルネ」

「イスラム教で神格化されて、みんなが沐浴してる」

「チンカス――」

「ガンジス!チンカスじゃなくてガンジス河。不謹慎すぎるでしょ」

 破れかぶれの下ネタも不発。

「デモ、俺コナイダ感心シタ。日本人デモ敬虔ナイスラム教徒ガ、チャントイルノネ」

「あ、見たんですか、そういう人」

「平日ノ昼間二、頭二玉葱ミタイナ大キナターバン巻イテ、テレビ出テタ」

「へえ」

「甲高イ声デ、早口ノオバチャン」

「ほうほう……ん?それ何て番組」

「何トカノ部屋、ッテイウ――」

「あれターバンじゃない!頭!まごうことなき、あの人自身の頭です」

「噂ニヨルト、アレ玉葱型宇宙人ガ首カラ下操縦シテルッテ――」

「出鱈目です!もういいよ!」

 どうも、ありがとうございました、と二人で頭を下げる。

 しんと静まりかえる会場。お客さんの、終始一貫した無表情。重い空気が粘度を持って、下げた頭にのしかかってくる。脇の下にじっとりと汗をかく。これはきつい。

 その後のことはほとんど記憶にはない。だだスベり後の虚脱感の中、挽回する余地もなく司会の業務をこなした。アドリブをする頭ももはや回らない。揚句、パナモは先ほど食べたカキ氷に当たって、腹痛で途中退席しやがった。

 舞台から降りると同時に、俺は盛大な溜息をついた。ダメダメだったなあ。終始笑いの神から見放された数時間だった。

「いやいやどうも、ご苦労様でした」

 先ほどの祭りを仕切っているおじさんが、やはりニコニコしながら近づいてきた。

「いやなんか、ちょっとお客さんの層的にきつかったかなって。若い人が多かったんで。僕らすごい、シックな笑いを追い求めているので」

 苦しい言い訳なのは自分でもわかっていたが、主催者にはせめてもの見栄を張りたかった。どういう形であれ、一応仕事は果たしたのだ。

「あのそれで、ギャランティの件なんですけど、たしか取っ払いでしたよね」

「ギャラは払えません」

 おじさんが表情を変えずに言う。俺は耳を疑う。

「え?」

「我々は、笑いを取って盛り上げてくださいと頼んだのです。笑いもないし、盛り上がりもしませんでした。ですから、ギャラは払えません」

 一瞬の間がある。

「いやいやいや。常識的に考えてくださいよ。そんなことまかり通るわけないでしょう」

「ガタガタうるせえよ、この野郎!」

 ニコニコしていたおじさんの表情が豹変した。俺はまさに蛇に睨まれたカエルのごとく、背筋が凍りついた。

「さんざんスベり倒した上に片方は途中退席しやがって。運営の身にもなってみやがれ。てめえらみたいなやつに払う金なんざ、びた一文ねえよ」

 いつの間にか、おじさんの両隣には明らかにまともな職種じゃなさそうな、派手めのシャツを着ているいかつい男二人がついていて、こちらを睨みつけていた。

 俺はその場を離れ、携帯電話で事務所の団長に電話した。

「もしもし、団長」

「おう、明治。どうかしたか」

「じつは、えらいことになってまして……」

 俺は事のいきさつを説明した。団長は、怒り心頭で、声を荒げた。

「なめたマネしやがる連中だな。かわれ、責任者に。俺ががつんと言ってやるよ。任せろ、お前らにただ働きなんかさせねえよ」

 いやはや、やっぱりこの人は頼りになると改めて思った。一生団長について行こう。

「すいません……」

 俺はおずおずと先ほどのおじさんに声をかける。

「なんだお前?まだなんか用か」

 おじさんはじろりとこちらを睨む。さっきまでのニコニコ笑顔が影も形もなくなっている。

「団長……いえ、うちの事務所の社長が話をしたいと……」

 おじさんは携帯電話を取ると、こちらに背を向けてポケットに手を突っ込みながら電話口に向かって話し始めた。雑踏であまり聞き取れなかったが、さぞ団長が厳しく言ってくれているものだろうと思った。そしてしばらくすると、おじさんはまたこちらに歩み寄ってきて、携帯電話を差し出してきた。

「またお前と話がしたいとよ」

 俺は電話を受け取る。

「もしもし、団長。どうなりました」

「明治、ありゃだめだ。ただ働きだ。すまん、諦めろ」

「えええ!そりゃないでしょ!」

「俺くらいになると、危機管理ってもんに鼻がきくようになるんだよ。ありゃやばいやつだ。さっさと諦めて、事務所戻ってこい。飯奢ってやるからさ。納豆定食でいいよな。じゃ」

 そしてぷつんと電話が切れた。俺は呆気にとられ、しばらくのあいだ、そのままの姿勢で微動だにできなかった。

「イヤー。エライ目二合ッタ。脂汗カイタ」

 今頃になって、腹痛で便所に籠りっきりだったパナモが戻ってきた。

「ドウシタ、明治?顔青イゾ。カキ氷ニデモ当タッタカ?」

 パナモがそう言ってげらげら笑う。『そりゃお前だろ!』のツッコミも口から出てこない。

「パナモ……帰ろうぜ」


 結局事務所には戻らないことにした。納豆定食なんてとても喉を通りそうもなかった。帰りの電車の中で、きゃっきゃと騒いでいるカップルや、スーツを着てアタッシュケースを抱え、書類に目を通すサラリーマンが目についた。同じ空間をともにしているが、その境遇は隔絶されている。窓の暗がりに映る自分の姿は、背を丸めた痩せぎすでいかにも華がない。『妖怪ごぼう猫背』と揶揄された中学時代と何一つ変わっていない。

 俺は家の裏のパン屋に寄って、パンの耳八十本を二百円で買い、その先にある豆腐屋でおから五百グラムを七十円で買った。米は当分食べられない。しばらくのあいだ、これらが俺の命綱というわけだ。

 負けちまったのかな、俺は、とふと頭によぎる。

 今年で二十三歳になる。まともな人生を歩んでいる人間ならば、もう大学を卒業して就職している年齢だ。片や俺は、中学二年でドロップアウトして以来、勉学というものに携わったことがない。中卒どころか小卒である。毎日パンの耳で命をつないで、清掃の仕事は薄給の上にいつクビになってもおかしくなく、本業と銘打っている芸人は芽が出る気配など一向にない。

 急にブラックホールに放り込まれたような恐怖感が体を覆う。もう、詰んでいるはずのゲームを、それも自覚できずに続けているだけなのだろうか。こうして、貧困の中で喘いでいるうちに、いつの間にか人生の残り時間がゼロになっていたりするのだろうか。そしてその時、俺の隣には誰かがいてくれるのだろうか。

 うつむき加減で、重い足取りで、俺はアパートに帰った。

 すると自分の部屋の前に、見たことのない、水色の塊のようなものが横たわっているのが目に入った。イルカの死体みたいだな、と思って近づくと、それが水色のパーカーを着た人間が体をくの字にして寝そべっているのだとわかった。何か、事件性のあるものかもしれないと思って、怖くなった。

 そろりと覗き込むと、長い真っ黒で艶やかな髪の毛に、パーカーと同じ水色のリボンをしている女性が横たわっていた。

「すいません」

 と俺はおずおず声をかける。

するとその女性はうっすらと目を開け、ゆっくりと身を起こし、ふああと一つ大あくびをした。

俺は驚き、思わず身を引いた。

 女性が辺りをきょろきょろと見回し、ふと俺と目が合う。眠たげに目がとろんとしている。

「あらやだ。わたくしったら、いつの間にかこんなところで寝てしまったのですね」

「あの、どうされたんでしょうか……。具合でも悪いんですか?」

「いえ、そういうわけではございません。ここのほら、ドアの近くに――」

 俺は女性の指差す方向の地面に目を向ける。

「蟻さんの巣がございます。買い物から帰ってきて、地面の蟻さんをちょっとした好奇心でもって追って行きましたら、ここにたどり着きまして。食べ物を咥えて、一生懸命、せっせせっせと蟻さんが出入りしている様子がなんともかわいらしくて、しゃがみこんでじーっと見て観察しておりましたら、いつの間にか寝いってしまった次第です。なんともお恥ずかしい」

 しばしの間がある。俺と女性は、互いに無表情のまま見つめ合う。

「……いやまあ、あの……そうですか」

「あ、申し遅れました。わたくし、この上の階に住んでいる者で」

 えっ!と俺は驚く。

「先月このアパートの二〇一号に引っ越してまいりました、大野蘭と申します。通称ノラで通っておりますので、どうか以後そうお呼びください」

 ノラと名乗った女性がうやうやしく頭を下げる。つられて俺も頭を下げる。

 いつの間に引っ越してきたのだろうか。家にいない時間が多いので、まったく気が付かなかった。

「あ、どうも。一〇二号に住んでる、鈴原明治です」

「明治さん。昭和でも大正でもなく、明治さん」

「え?あ、はい。明治です」

「大変失礼ですが、明治何年さんでしょうか?」

 一瞬、思考が停止する。こいつは何を言っているのだ?

「いやだから、明治何年とかないです。ただの明治です」

「多田野明治さん?」

「いやだから、多田野じゃないです。鈴原明治です」

「あ、鈴原明治さん。いいお名前ですね」

 俺はなんだかこの女性が気味が悪くて、そそくさとその場を立ち去ろうと、

「じゃ、失礼します」

と言いながらドアノブに手をかけた。

「蜜柑を召し上がりますか?」

 背後から女性が声をかけてくる。

「先日、和歌山にある父方の実家から蜜柑が送られてきたのです。よかったらお裾分けいたしますが」

 蜜柑と聞いて、空腹が突然、大海嘯のように押し寄せてきた。蜜柑の甘みをイメージしただけで、口の中はすでに唾液で一杯だ。こういう得体の知れないやつとは、あまり関わらないほうが、と頭では考えるものの、飢餓につき蜜柑を摂取せよと体が信号を送ってくる。

「……いただきます」

 と俺は返した。空腹には抗えないのだ。

「少々お待ちください。ただいま持ってまいります」

 女性がとんとんと階段を上っているのを見届けて、俺は自分の部屋に戻った。むわりとした埃っぽい空気が立ち込める。電気をつけると、布団にちゃぶ台、それに所々に本が積まれているだけの、なんとまあ愛想のない部屋だ。俺は布団を畳んで隅に押しやり、とりあえず目につく埃を払った。不気味ではあるが、一応、仮にも女性が訪ねてくるのだ。

 ん?よく考えたら、セールスや勧誘以外で女性が訪ねてくるのは、もしや人生で初めての経験になるのでは?

 そう思ったとたん、俺はなんだか動悸がして、そわそわと落ち着かなくなって、吐き気をもよおした。緊張すると、頻脈と吐き気に襲われる体質なのだ。

 チャイムが鳴った。ほとんど壊れかけのチャイムなので、なんだか間の抜けた音がする。

 ドアを開くと、先ほどの女性が袋をぶら下げて立っていた。改めて見ると、女性はぎょっとする程綺麗な顔立ちをしていた。化粧気はまるでなかったが、目が大きくぱっちりしていて、肌も透き通るような色白だった。格好は水色のパーカーに白いデニムズボンと洒落っ気もなかったが、きっとそれなりの物を身につけたら、すれ違い様に振り向かれるくらいに目立つ容貌になるんじゃないかと思った。身長は一七五センチの俺より二回りくらい小さくて、女性の頭のてっぺんが俺の鼻の辺りだった。

「なんだか、豚のゲップのような音のチャイムですのね」

「豚のゲップって……」

 俺は面食らう。

「あ、大変失礼いたしました。豚さんのゲップのような――」

「そこ気にしてるんじゃないです」

 女性が袋をかかげる。

「お話した通り、蜜柑を持ってまいりました」

 袋を受け取り、中をのぞくと、そこには美味そうな蜜柑が六つも入っていた。飢餓で麻痺していた胃袋が、ゴウンゴウンと活動を始めるのがわかった。

「ありがとうございます」

 と俺は心の底から感謝を口にした。

「いえ、とんでもない。こちらこそ、ご近所の方と知り合えて、とても心強いです」

「そんな、心強いって程のもんじゃ――」

 突然女性の表情が、柔和な笑顔から鋭い悪巧み顔に豹変した。

「御しやすそうな、ヒョーロク玉の住人がおった。吹けば飛びそうなもやしや。どうせ碌に飯も食えてへんのやろ。蜜柑でもやって手なずけとけば、あとあと便利かも知れへん。安いもんやな」

 そして、女性が柔和な笑顔に戻る。

「……なんてことは、一切考えておりませんので、どうか以後お見知りおきを」

「え……あ、はい」

「あと、その蜜柑、毒とか入っておりませんので」

「はい?」

「毒とか入っておりませんので、安心してお召し上がりください」

「あ、そう……ですか。じゃあまあ、いただきます」

「それでは、今後ともよろしくお願い申し上げます」

 女性は名乗った時と同様、うやうやしく頭を下げ、そして階段を上って戻って行った。

 俺はなんだか狐につままれたような気がした。物腰は丁寧だが、明らかに変なやつだった。元よりこのクソぼろい安アパートに好き好んで引っ越してくる女性なんて、その時点でまともじゃない。

 しかし、と思う。

 俺は変なもの、謎のもの、奇怪なもの、わけがわからないものが、大好きなのだ。

 それにどういうわけだか、玄関口のやりとりをしているうちに、あの緊張がすっかり解けてリラックスしてしまっている。

 かくして俺は、二〇一号の住人、大野蘭こと通称ノラに興味を抱いてしまった。

 

 翌日、休日だったので俺は二駅先にある事務所に向かった。先日の経緯を一応団長に報告しようと思ったのだ。

 駅に降り立つと高架橋があり、そこを渡りきると昭和の化石のような古いラーメン屋がある。その隣にある、灰色の薄汚れたビルの階段を上がっていくと、三階のフロアの隅に、『アンブー舎』と書かれた小さな看板が立てかけられている。団長の中学生時代のあだ名『アンブー』にちなんでそう名付けられたらしい。団長は、本名が安藤学でデブだったので、すなわち安藤はデブ→安ブー→アンブー、というわけだ。

チャイムを押すと、団長本人がドアを開けて迎えた。当たり前だが、秘書など雇う金などない。

「あがれよ」

「お邪魔します」

禿げ、ちび、デブの三種の神器をそろえ、ちょび髭を生やした小男、それが団長である。団長に勧められて廊下にあがると、廊下にはいつものように書類やら本やらが山のように積み重なっていて、およそ足の踏み場もなかった。

「たまに重要な書類とかあるから、慎重に歩けよ」

「慎重にって。どれが重要だかなんてわかんないですよ。それに床が見えてないじゃないですか」

「所々にちゃんと足の踏み場があるんだよ。あそこと、あそこと、あそこ」

 団長が床を指差す。A4用紙くらいの大きさの隙間がわずかに見える。

「あの辺に飛び移る感じで足ついて、部屋まで辿り着け」

「因幡の白兎じゃないんだから」

「あと、本の山には触れるなよ。崩れたら道が塞がれるからな」

 酷い惨状だと思いつつ、言われた通りのルートを通って、俺は部屋に辿り着いた。部屋の中にも、本のタワーが所々に積まれていた。右手には団長の仕事用の大きな机と、本棚が据え置かれていた。部屋の奥には、四十インチくらいの大きな液晶型テレビと、その前にテーブルと黄土色のソファが置かれていた。

団長は椅子の上にどっかりと腰を下ろし、爪切りを手に取った。

「爪切ってる途中だったんだよ。」

「はあ、そうですか」

 団長が机に肘をつきながら、ぱちぱちと爪を切り、念入りにやすりをかける。

「昨日は災難だったな」

「冗談じゃないですよ。スベるし、怖いし、金ももらえない。まあ、スベるは自分の責任ですけど」

「あ、納豆定食は昨日までだぞ。今日は奢らないぞ」

「べつにそれを要求しに来たんじゃないですよ。ただ、もうちょっと安全な仕事を回してもらえないかなと」

「仕事を選り好みできる立場かよ、お前。売れてないんだから、ああいうどさ回りをこつこつやっていくしかないだろ」

 それを言われてしまうと、ぐうの音も出ない

「まあでも、もし何かあったら、そん時はちゃんと守ってやるから。一人前になるまで、ケツの穴まで面倒見てやるって、約束した訳だしな」

 急に、いてっと言って、団長が表情を歪める。

「深爪しちまったよ。血が出てきたよ。どうしたらいい?」

「どうって。舐めときゃいいんじゃないですか」

 深爪した指をちゅーちゅー吸っている団長の姿を見ていると、この人についていって本当に大丈夫なんだろうかと、一抹の不安に襲われる。

「テレビ、貸してもらっていいですか。こないだ録画したんで」

「おお、いいよ。好きに使えよ。嫁がどっかからもらってきた饅頭もあるから、それも食えよ」

 俺は遠慮もせずに、饅頭をもぐもぐ食べながら、テレビをつけてレコーダーの再生ボタンを押す。俺の家にはテレビがないので、ここで見たい番組を録画して見ていくのだ。

 見る番組は決まっている。ネタ、バラエティ、演芸が主だ。音楽番組やドラマは一切見ない。バラエティも、クイズなど番組の企画そのものよりは、そこに出ている芸人の返しなどに注意して見ている。楽しむというよりはほとんど勉強の一環である。

 俺は実家を出てから七年間使っているリュックの中から、ノートとボールペンを取り出す。そして録画したネタ番組を見て、時に一時停止しながら、芸人のネタを書き起こしていく。

 ただ聞いているのと、書き起こしてみるのとではまるで違う。ひとつひとつのフレーズに注目するようになるし、何気ないやりとりの中にどれだけその芸人のこだわりがあるのかわかる。それに、ストーリー、伏線の張り方など、より俯瞰して構造的に見ることができるようになるのだ。

 今演じているのは、芸歴二十年にもなるベテランの漫才師である。オーソドックスなスタイルだけど、間とテンポがいい。同じネタを俺がやっても、まずこんなに受けないだろうなと思う。

 さらさらと書き取る俺を、背後から団長がじっと見ているのがわかる。

「お前は、本当に真面目だよな」

「本当に真面目なら、最終学歴が小卒になったりはしませんよ」

「いや、真面目だよ。いささか真面目すぎるくらいだ。自分でもわかってるんだろ」

「お笑いオタクなだけですよ。べつに、ほかに好きなこともないし、やることもないし」

「そういう姿勢は大事だ。長くやっていけるやつらは、ちゃんと頭を使ってる。勘だけでやらない。ネタにもコードがあるからな」

「才能がないから、こうやるしかないだけですよ」

「真面目も才能のうちだ。お前のそういうところは好きだし、他に変えられない武器になる。でも笑いは構造だけなぞってできるもんじゃないのも事実だ。時には構造を破ることも必要だ。だからパナモと組ませた。あいつはお前が用意した枠の中に納まりきらない」

「納まりきらないどころか、大きくはみ出て完全に手に余ってますよ」

「真面目すぎるお前にゃ、あのくらいのカオスが必要なんだ。要は秩序とカオスのバランスが大事なんだ。もちろん、カオスは単体じゃだめだ。パナモだって、一人じゃとても世に送り出せたもんじゃない。あいつにもお前という秩序が必要だ」

「どうしたんですか、急に」

「いやさ、なんつうか。無理矢理あいつと組ませたの、根に持ってないかなと思ってさ」

「べつに根には持ってないですよ。パナモは、そりゃ時間にルーズだし、腹立つくらい適当ですけど、でも相方があのくらい適当じゃないとバランスとれないのは自分でもわかってますから。俺たぶん、ともすれば自分でなんでもコントロールしたい人間で。でも本当に全部自分でコントロールしちゃったら、今よりさらに、滅茶苦茶つまらない代物になると思います。だから、相方はあのくらいコントロール不能な人間のほうがいいんだろうと思います。それに、あいつはいいやつですし」

「そうか。まあ、不満がないならいいや」

「不満がないこたないですよ。ギャランティのこととか」

「あ、それは言わなくていいから」

 団長は再び爪切りに勤しみはじめる。

「でも団長、そこまで考えて俺とパナモを組ませたんですね」

「当たり前だろ。俺はいつだって二、三歩先まで読んでんだよ。ちょっと面白そうなのが目に入ったから、いたずらに雇ってみたらどうなるだろうとか、とりあえずのお目付け役をお前にさせようとか、そんないい加減な理由じゃないからな」

 どうやら後者が真の理由であることは明白だったが、そこは黙っておくことにした。

「それよりお前、あれ出んのか?」

 団長が顎で示す先には、『お笑い新人演芸大賞』の張り紙が貼ってある。

「今年は出ますよ。パナモにも言ってあります。うまくすれば、テレビに出られるかもしれないですし」

「大丈夫なのか?お前、あがるととちるからなあ。劇団の時も、しょっちゅう舞台で台詞噛んだしさ」

「大丈夫でしゅ、ですよ」

 俺は言われたそばから噛んでしまった。

「あの時よりは、俺も成長してますから」

 胸を張る俺に、団長が疑惑の視線を向ける。

「……まあじゃあ、せいぜい頑張ってみろや。あ、また深爪」

 団長が狼狽した様子で再び指をちゅーちゅー吸い始める。

 つくづく、この人についていって大丈夫なのだろうかと思う。

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