僕とばーちゃんと、時々彼女の島 ~僕の穏やかな島暮らしが終末を迎えるまで~

武石勝義

第1話

 あの島でいったいどれだけの時間を過ごしただろう。


 凪いだ海の上に小型クルーザーを走らせながら、少年は背後で徐々に遠ざかっていく島影に思いを馳せる。


 ずっとこの先まで、あの島で時を費やしていくものだと思っていた。


 辺り一面見渡す限りの海に囲まれた小さな島で、ただ淡々とした日々を繰り返し続けるのだと、そう信じてきた。


 少年にとって当然であったはずの日常は、もはや取り戻すことはかなわない。ただ吹きつける風と共に流されていく。


 操縦席でハンドルを握る少年の脳裏によぎるのは、物心ついてから暮らし続けてきた島での穏やかな記憶。


 そして彼があの島に残してきた人の、忘れ得ぬ面影――


 ***


 抜けるような青空を背景に、もくもくと聳え立つ白い雲。


 そのさらに上から顔を覗かせる太陽は、燦々と日差しを降り注がせている。


 日焼けした肌には既にじわりと汗が滲んで、季節がすっかり夏入りしたことを否応なしに思い知らされる。


 メッシュ地のキャップを持ち上げて、額にへばりついた前髪を右手で掻き上げながら、少年は水平線の彼方を凝視し続けていた。


 青空と積乱雲の下に広がるのは、鮮やかなエメラルドグリーンの大海原だ。今はまだ多少波が高い程度、島育ちの彼なら余裕を持って泳ぎ回れるだろう。だが雲がどんどんと頭をもたげていく様子を見れば、おそらく夕方にはひと雨来そうな気配である。ひと雨といっても、この季節の夕立はなかなかに強烈だ。時間にすれば短いものの、ちょっとした嵐を思わせる雨量が島全体を叩きつけて、海面だって荒れに荒れる。


(だから船が来るとしたら、きっと昼過ぎまでのことだろう)


 この島に唯一ある埠頭の先に立って水平線に目を凝らす少年にとって、それは予想というよりも、ほとんど既定の事実に近い。


(船は今、どの辺りにいるのかな)


 おもむろに瞼を伏せて、少年は訪れるはずの船の現在位置に思いを致す。


 少しずつ吹きつける風が強まる中、まるで暴れ馬のように海面をかっ飛ばす真っ白い小型のクルーザー。きっとまた、無茶なスピードでこの島に向かっている。だとしたらあの水平線の向こうから姿を見せるのはもう間もない。もうあと十秒、いや五秒、サン、ニ、イチ――


 少年が心の中で数えながら瞼を開いたその瞬間、彼の濃い茶色がかった瞳にはっきりと映し出されたのは、白い雲と青い海面の境界に現れた豆粒のような船影であった。




 岸壁に横着けされたクルーザーの中から現れた人影に向かって、少年は大きく手を振った。


「アカリ!」


 少年の声を聞きつけた人影は弾けるように振り返ると、クルーザーの甲板からひょいと身体を躍り上がらせて、係船用のロープを手にしたまま岸壁の上に軽々と飛び移る。


 耳元が辛うじて隠れる程の短い髪は、日に焼けて若干赤茶けている。その下に覗くのは心持ち目尻が吊り上がった大きな目。黒い瞳はきょろきょろとよく動いて、まるで栗鼠のようだ。色の褪せたタンクトップの上には半袖のパーカーを羽織り、ショートパンツの先から伸びる長い脚の先には、素足にデッキシューズを履いている。


 夏の日差しの下に晒された彼女――アカリの装いは、少年にはもうすっかり馴染みの姿であった。


「出迎えご苦労さん。今日もたくさん差し入れ持ってきたよ」


 ロープを埠頭の柱に手早く繋ぎながら、アカリは細い顎先で船の中を指し示した。少年が目を向けると、船内にはいくつものクーラーボックスや段ボール箱、それに大きなガスボンベのようなものまで何本もひしめいている。


「結構あるなあ。これだけあると、カートでも一回じゃ運びきれないや」


 少年はそう言うと大量の荷物と、背後の広場に停め置かれた電動カートとを見比べた。二人乗りのカートに牽引される格好の荷台は、アカリが持ち込んだ荷物を全て積み込むにはどう考えても小さすぎる。


「今回は結構奮発したからね。ほら、あんまりのんびりしていると雨に降られるから、急げ急げ」


 再び船内に戻ったアカリはそう言うや否や、持ち上げた段ボール箱を乱暴に手渡してくる。突然ずしりとした重みを両腕で受け取って、少年は危うくバランスを崩しそうになった。


「いきなり渡すなよ、危ないなあ」

「何言ってんの、もう十三歳だろう? それぐらいで音を上げてだらしない。そいつはばーちゃんの薬だから、落っことすんじゃないよ」


 アカリはからからと笑いながらも手は休めずに、次々と船内から岸壁の上へと荷物を運び出す。


 アカリの体つきはすっきりとした細身だけど、パーカーの半袖から覗く二の腕や剥き出しの太股は引き締まった筋肉に覆われて、少年は未だに力比べで勝てたためしがない。彼女の方が年上だからとはいえ、最近は少年の背丈も追いついてきたのだ。それだけに男としては少々情けない。


 だから少年は口をへの字に曲げながらも反論することなく、段ボール箱を抱えたままカートに向かって駆け出した。その様子を少しの間眺めていたアカリは一瞬口角を上げてから、再び荷揚げに取りかかる。


 結局アカリが持ち寄った荷物は、カートを三往復させてようやく運び終えることが出来た。最後の荷物であるガスボンベをふたりがかりで荷台から積み降ろした頃には、少年が身につけていたTシャツは汗びっしょりになって肌に張りついてしまっていた。


 手の甲で汗を拭う少年に向かって、同じように汗だくのアカリが礼を言う。


「サンキュ、助かった」

「これぐらい、どうってことないよ」


 本当は結構腰に来ていたが、少年はおくびにも出さないつもりで強がりを口にする。するとアカリはどこか笑みを含めた目を細めつつ、両手で前髪を掻き上げた。その仕草と同時に彼女の髪の先から、いくつかの汗の粒が飛び散って見える。


「じゃあひと息ついたことだし、一服させてもらおうかな」


 そう言ってアカリが歩き出すその後を、少年も黙って追いかけた。


 ふたりが荷物を運び込んだのは、島の中でもやや高台にある一軒家だ。と言ってもしばしば見舞われる強烈な台風対策のため、コンクリート地剥き出しの見るからに頑丈そうな外観の平屋建てである。


「お邪魔しまーす」という掛け声と共に玄関から入っていったアカリは、返事がないのも構わずに靴を脱ぎ捨て、そのままずかずかと中に突き進む。広めの居間を突っ切って、その先にある台所にたどり着くと、アカリは躊躇わずに冷蔵庫の扉を開けた。中から薄茶色の飲み物が入った瓶を取り出すと、流し台の洗い物掛けに逆さに置かれたグラスを手にして、おもむろに茶を注ぎ入れる。


 そのまま流し台に片手を突いて立ったままの格好でグラスを呷り、あっという間に中身を飲み干してから、アカリは肺の奥からぷはあっと大きな息を吐き出した。


「やっぱりばーちゃんが淹れたさんぴん茶は美味しいわあ」


 後をついてきた少年は、この家で何度目にしたであろう彼女の勝手知ったる振る舞いに、今さらながら呆れ顔を見せる。


 だがその思いを実際に言葉にしたのは、少年とは異なる声であった。


「あんたはひとの家で、よくもまあそこまで気侭に振る舞えるね」


 背後から投げかけられた、年嵩の女性の声に振り返ったアカリは、空のグラスを掲げながら悪びれない笑顔を見せた。


「こんちわ、ばーちゃん。ひと仕事済ませたお代に、一杯頂いてるよ」

「はいはい、いらっしゃい」


 アカリの邪気のない態度を見てため息混じりに返事したのは、電動の車椅子に腰掛けた老女であった。


 ばーちゃんと呼ばれた老女の短く切り揃えられた髪は真っ白で、やや丸まった背中のせいでことさら小柄に見えた。麻のシャツの襟元から覗く首筋には皺が目立つし、手の甲にも血管が浮き出て、見た目はいかにも年相応だ。


 ただ鼈甲縁の老眼鏡の奥にある瞳には、見かけに比べると思いのほかしっかりとした眼差しがある。


「ばーちゃん、アカリが持ってきた荷物は全部運び入れたよ。今回は結構な大荷物だったから、倉庫もいっぱいだ」


 少年はそう言って、居間の窓ガラス越しに見える庭先の石造りの倉庫を指差した。するとばーちゃんは眼鏡の奥の目つきを柔らかくして、少年の言葉に頷いた。


「ありがとうね、ハジメ。そんなにたくさんの荷物なら、運ぶのも大変だったろう」

「ちょっとばーちゃん、私とハジメと、随分と扱いに差があるんじゃない」


 アカリがわざとらしく不貞腐れた口を開くと、今度はばーちゃんが悪びれずに答える番であった。


「何を言ってるんだい。ハジメは私の可愛い孫だよ。贔屓があって当然じゃないか」


 ばーちゃんにとってはごく当然のことなのだろうが、そうと口に出されるのは少年にはさすがに気恥ずかしい。上手い言葉が思いつかず、そのまま彼は居間の中央のダイニングテーブルの一席に腰を下ろす。


 その様子を見てアカリはにやにやしながら、さらにグラスを二杯取り出して、全員分のさんぴん茶を用意する。ばーちゃんは車椅子を動かして、少年の斜向かい――彼女の定位置に着く。


 窓の外では強い夏の日差しが、徐々に広がっていく雲に遮られ始めている。庭の向こうにはアカリが乗ってきたクルーザーを停める埠頭が一望出来るが、船の周りの海面に浮かんでは消える波頭が、先ほどよりもやや高くなっているのが見て取れた。


「もうすぐ降り出しそうだね。やっぱり早めに運び終えて正解だった」


 三杯のグラスを乗せた盆を両手に持ちながら、ガラス越しの景色に向かってアカリが呟いた。


 少年は差し出されたグラスを受け取ると、何も言わずに口をつけた。冷えたさんぴん茶の微かな苦みが、喉の奥まで適度に潤していく。


 ***


 ハジメは物心ついたときから、ずっとこの島で育ってきた。


 彼にはこの島を出た経験がない。


 彼が目にする人間とはたったふたり。この家に共に暮らすばーちゃんと、島に定期的に物資を運び込むアカリだけだ。


 ハジメはこの島で、間もなく十三回目の夏を迎えようとしている。


 それは彼が彼女たちと共に過ごす、最後の夏であった。

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