第15話
その十五
「こう?」
浅井芽有が、あやとりの紐を指に絡ませて言った。
「こう、こう」
母親が、斜めになったベッドに横になりながら、同じく紐を絡ませた自分の指を前に突き出して言った。
「三段梯子」
「なるほど。そこに左手の人差し指、入れるわけね」
浅井芽有は一人で納得して、ふんふんとうなずいた。
「お母さん」
俺は耳元で声をかけた。
「うん?」
母親がこちらに顔を向けた。
「ご飯、食べられてる?」
母親は小さくうなずいた。
「うち、いつ帰るの?」
「……いつか、帰るよ」
俺は少し迷ったが、そう言うことにした。
「今日は?」
「今日はちょっと、難しいよ。でも、元気になって、本当、よかったよ」
「そう。よかったね」
と母親は他人事みたいに、あっけらかんと言った。
「直人は、元気かい?」
母親が、俺の目を覗き込んだ。
俺は驚いた。母親が自分を、直人と認識することなんて、しばらくなかったからだ。だから俺は思わず、
「それは、俺のこと?」
と聞き返した。
母親は否定も肯定もせず、
「直人は、元気かい?」
ともう一度繰り返した。
「……ああ、元気に、やってるよ」
俺は母親の手を握った。痩せて、骨ばってはいたが、それでも、温かい手だった。
「だから、心配しないでも、大丈夫だよ、お母さん」
母親が入院している病院から十分ほど歩いたところにある、大きな公園のベンチで、俺と浅井芽有は並んで座った。落ち葉が風にくるくると舞っていた。西の空が赤く染まり、夕日が正面から俺たちを照らしていた。
浅井芽有はガムを噛みながら、指に紐を絡ませて、今しがた母親から教わった、あやとりをしていた。
「最近よく、ガム噛んでるな」
「ちょっとね。禁煙してみようと思って、代わりにガム噛んでるの。顎痛くなっちゃう。イライラすると、結局吸っちゃうしね」
「そうか。じゃあ、とりあえず肺癌のリスクは減ったな」
「でも今度は虫歯になりそう」
「虫歯も気を付けろよ。放置すると、最悪、心内膜炎を引き起こすことがある」
「また、嫌なこと言うわね」
浅井芽有は、顔をしかめてこちらを一瞥し、ポケットから包装紙を取り出し、口の中のガムを包んで捨てた。
「この間、学校に行ってみたわ」
「え?」
俺は驚いた。
「なんかあったの?」
「なんも、ないわよ。ただ、不意にちょっと、行ってみようかな、って思ったのよ。気まぐれよ。もう、教室に入った瞬間、好奇の目、浴びまくりでさ。途中で嫌んなって、午前中だけで帰ってきちゃった」
「まあ最初は、そうなるよな。皆、退屈だからさ。珍しい存在に、ちょっと注目しちゃうんだ。でもさ、そのうちすぐにおさまるよ。思春期のやつらなんて皆、自分自身のことでいっぱいいっぱいで、そんなに他人に関心を払い続けられないからさ」
「あたしさ、勉強ってやつ、ちょっとやってみようかと思って。今まで教科書なんてろくに開いたこともないし、そのうち飽きてまた投げ出すかもしれないけど。医者になってみようかな、って思ってるの。だって、ドクターみたいなぼんくらが、なんとか成立してるんだったら、あたしにもできるんじゃないかと思ってさ」
「そりゃちょっと、心外な言い方だけど」
俺は少しむっとした。
「でも、君ならなんだってできる」
浅井芽有が指に絡まった紐を俺の前に掲げた。
「ほら、できた。三段梯子」
赤い紐でできた三段梯子の間から、浅井芽有と目が合った。
「すごくない?」
「まあね」
「本当、感動が薄いなあ」
浅井芽有はつまらなそうに唇を突き出した。
「あやとりで大きなリアクションを期待することに無理がある」
「まあいいや。この達成感は、おばあちゃんとだけ共有しよう」
浅井芽有は紐をポシェットの中にしまい、腰を上げた。
「さて、あたしは、あたしのお母さんを迎えに行くかな。そろそろ、デイケア終わる頃だから。ドクターも帰る?」
「いや、俺、ちょっと施設に寄ってく。大澤さん……施設の看護師さんと、話すことあるし」
「そっか。じゃあ、ここでお別れね」
浅井芽有が手を振った。
「じゃあ、ばいばい、ドクター」
「うん」
俺も応えて小さく手を振った。
そして浅井芽有は、公園の道を、歩き去って行った。その小さな後姿と、夕日が、重なった。
「おいっ」
俺は立ち上がって、浅井芽有の背中に向かってそう声をかけた。
浅井芽有がぴたりと足を止め、振り返った。
「なに?」
なにと聞かれて、俺は戸惑ってしまった。
はて、俺はいったい何を言いたくて、呼びかけたのだろう?
「君は」
俺は自然と心の中に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。
「君は、大丈夫だから。絶対、大丈夫だから。君の幸福を、俺は確信してる。だから、自信を持って、前に進めばいい」
浅井芽有はしばらくの間、じっと黙っていた。そしてやがて、にこりと笑って、
「ありがとう、ドクター」
と言った。
それは、浅井芽有が初めて見せた、年相応の笑顔だった。
「また愚痴が溜まったら、連絡するよ。ドクターも、元気でね」
そして、浅井芽有は再びこちらに背を向けて、歩いて行った。俺はその後姿が、徐々に遠ざかって行くのを、ずっと見送った。
浅井芽有の姿が見えなくなると、俺はなんとはなしの一抹の寂しさを感じ、でもそれ以上の、穏やかな安堵に包まれていた。
彼女はきっと、大丈夫なのだ。
その日、施設に寄って大澤さんに母親の現況を伝えた後、俺はバスで駅まで行って電車に乗った。そしてたまたま同じ車両で、宮本先生が吊革につかまって立っているのを見つけた。宮本先生は、トレンチコートを羽織っていて、いつものように髪の毛を素っ気ない小さなゴムで留めて、耳にはイヤホンを付けていた。
「宮本先生」
俺は声をかけた。
宮本先生は、イヤホンを外して俺に目をやった。
「鈴木君」
「今、帰りなんですか?」
「うん。施設のバイトのね。同じバスに乗ってたかもね。お母さん、調子どう?」
「なんとか、持ち直しました。来週退院して、施設に戻ります」
「そっか。よかった」
宮本先生が、笑った。それは、本当に、心底ほっとしたような表情だった。この人は、そういう人なのだ。
電車がかくんと揺れて、緩慢に速度を上げ始めた。しばらくの間、沈黙が続いて、カタコトと車輪が路線を駆ける音が響いた。
正面の座席の端っこで、数人の女性が、大きな笑い声を上げた。宮本先生が、ちらりとそちらに目を向けて、ため息をついた。
「いいなあ、若くて。私、本当、おばさん。いろいろ夢中になってたら、いつの間にか十年過ぎちゃった。今日も当直明けだし、お肌荒れ放題」
宮本先生が自分の頬を指で触れた。
「一句できた。肌荒れて、今日もこれから、大学院。これどう?」
そして、冗談ぽく困った顔をつくって、微笑んだ。
その笑顔を見て、なんだかじわりと胸の奥底から、不思議な高揚が浮かんでくるのを感じた。その不思議な高揚の正体が何なのかは、その時点ではわからなかった。
それから俺と宮本先生は、帰りの電車の中で、互いが反射して映る窓を眺めながら、とりとめもない会話をした。好きな音楽の話、本の話、テレビの話、映画の話、食べ物の話。まだまだ話を続けたい気分だった。
夜空には、月がおぼろげな光を放ちながら、南の空に向かって緩やかに上昇しつつあった。
<完>
研修医グラフィティ @ryumei
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