第14話
その十四
俺は仕事の合間の昼休みに、外科病棟を訪れた。廊下では、術後と思しき患者さんが、点滴をからからと引きながら歩いており、看護師がにこやかに声をかけていた。
五〇二号の個室のドアをノックした。
「どうぞ」
ドアの向こうから声が聞こえた。
ドアを開けると、健二がベッドで横になっていて、枕元のテレビに目を向けていた。
「よお」
健二が気の抜けた声で言った。
俺は椅子をベッドの近くに置いて、座った。
「そこに蜜柑がある。見舞いでもらったやつだ。食えよ。悪くない味だ」
俺はテーブルの上に積まれた蜜柑を一つ取って、皮を剥いた。そして蜜柑の粒を口の中に放り入れた。
「痛みは引いたか?」
「まだ痛いよ。誰かさんが雑に縫うからだ。ナートぐらいもう少し練習しとけよ。どの科行ったって、今後やる機会はあるぞ」
「それでも頑張ったんだよ」
「精進が足りない」
健二は天井を見上げ、目をつむった。
「でもまあ、ありがとう。世話かけたよ」
「まったくね。二度とごめんだ。金輪際ごめんだ。絶対にごめんだ」
「……悪かったよ」
健二が呟いた。
「酒を、飲んでたんだ。毎日毎日、一人でな。事故った日も、べろべろに酔ってた。うっすらだけど、その瞬間を覚えてる。道路で車を走らせていたら、目の前に人が飛び出してきた。避けようと思って、慌ててハンドルを切ったんだ。そしたら、ものすごい勢いで、電柱が目の前に近づいてきた。あ、こりゃ死ぬな、と思った。なるほど、俺はこれで死ぬのかって」
健二が、シーツをぎゅっと握った。
「でもその瞬間に、いやだ、って思った。心の中で叫んだんだ。いやだ、冗談じゃない。死ぬのなんてごめんだ。誰か、俺を、助けてくれ。お願いだから、この俺を、助けてくれ、ってな。信心なんてまるでないが、初めて、神に祈っちまった。情けない話だが」
健二がふうとため息をついた。
「情けないことない。俺なんて、しょっちゅう祈ってる。この、ぽんこつ具合が治りますように、ってな」
「そりゃあ、ちっとも祈りは届いてなさそうだな」
「退院したら、祈りが届くように、二人でお遍路でも巡るか。もちろん、フェラーリじゃなくて、徒歩でな」
「悪くないアイディアだ」
健二は、少しだけ笑った。
テレビではお昼のニュースが流れていた。医療法人嶺明会会長、井岡雅夫が闇献金疑惑で起訴されたニュースだった。膨大な数のカメラのフラッシュに照らされながら、井岡雅夫は何かを弁明していた。髪の毛は白髪混じりだったが、顔のつくりは整っていて、年齢よりもずっと若く見えた。輪郭から目鼻立ちまで、健二とそっくりだった。
健二がテレビ画面に目をやった。
「親父ももう、終わりだな。後継ぎとかそれどころじゃない」
健二がテレビのスイッチを消した。そして、静寂が訪れた。向かいの大きな窓からは、青くて広い空が見えた。
「お前、何科に進むか、決めた?」
健二が訊ねた。
「……俺、精神科医になろうと思って」
「精神科?」
健二が意外そうにこちらを見た。
「また、どうして?」
「どうして、かな。ここんとこ、いくつか、そっち方面に縁があったりして、なんとなく、やってみたくなったんだ。できるかわかんねえし、ローテーションで回ってもいないから、不安はあるけど」
「そうか……。まあ、お前なら、合ってるかもしれない。あれは、親切で大雑把なやつがなるべきなんだ。几帳面なやつは病んじまう。直人は全然几帳面じゃないからな。細かい検査値も読み飛ばす。そういうこだわらなさって、内科医としちゃ致命的だが、精神科医ならむしろ臨床に生かせる」
「健二はどうなんだよ。本当に、腎臓内科に入局すんの?」
「俺はなあ……」
健二が再び天井を見上げた。
「入局は、しない。暴行傷害に飲酒運転に器物破損だからな。そんなやつを入れてくれる医局なんてないだろ。ていうか、医者を辞めようと思う。俺に、医者をやる資格なんてない。自分のことでいっぱいいっぱい。たぶん俺は、‘仕事’はできても、‘治療’はできてない」
再び沈黙が降りた。
突如、ドアをノックする音が聞こえ、ドアが開いた。そして、術衣の上から白衣を羽織った何人もの消化器外科医が、ぞろぞろと入ってきた。その中に、医局長の髭達磨も混じっていた。
「よお、ドラ息子。回診に来てやったぞ。調子はどうだ」
髭達磨が野太い声で言った。
「べつに、普通ですよ」
健二は表情を変えずに答えた。
「せっせと歩けよ。イレウスになりたくなかったらな」
「ノルマはこなしてます」
髭達磨が椅子に座って、看護師から渡された温度版に目を通した。
「お前、二年目だろ。来年何科に進むか決めたのか?」
「決めてないですよ。こんなことになって、雇ってくれるところもないでしょうから」
「ならお前、うちに来い。教授は俺が言いくるめてやる。お前は馬鹿だが見込みはある。お前みたいな馬鹿の受け皿になるのも、我が第二外科の伝統なんだ」
「生憎ですが、お断りします。外科なんて未来がない科だ」
「そう言うな。糸結びから仕込んでやるぜ」
「結紮なんて、もうだいたいできますから」
それを聞いた髭達磨は吹き出し、ものすごい大声で笑い始め、そしてやがて周りを囲む医局員全員も、顔を見合わせて笑いだした。
「お前な、なんか勘違いしてねえか。そりゃ、たしかにお前は才能もあって器用だ。機転も利く。いいもん持ってる。でもな、そんなもん、俺らの泥に塗れた二十年の継続と経験に比べたらな、ミジンコみたいなもんだぜ。あれで結紮ができたと思ってんなら、おめでたいもいいとこだわな」
髭達磨は温度版を看護師に渡して、立ち上がった。そして、胸ポケットから糸の束を取り出して、ぽんと健二の掛布団の上に置いた。
「これで練習でもしときな。色よい返事を待ってるぜ、ドラ息子。さっさとよくなれよ」
そして医局員たちは、来た時と同様に、ぞろぞろと部屋から出て行った。
皆が出て行った後も、健二はしばらく、ドアの方を睨みつけていた。
「前言を撤回する。俺、消化器外科に入局するわ。五年であそこにいたあいつら全員の技術を超えてやる。あいつらの二十年の積み重ねを、五年であっさり覆す。吠え面かかせてやる」
「まあ、きっかけはどうあれ、続けてくれるんならよかったよ」
不意に、ノックもなく、からりとドアが開く音が聞こえた。
振り返ると、紺色のセーターと赤いスカートに身を包んだ、浅井芽有が部屋に入ってきた。
「メアリー嬢、部屋に入る時はノックくらいしろ」
「場所、ドクターから聞いたのよ」
浅井芽有は健二の言うことを無視して言った。
「やけ酒飲んで電柱に突っ込んで、死にかけて生還して、少しは気が済んだかしら、お坊ちゃま?」
「……何が言いたい?」
「恵まれたあんたにとっちゃ、絶望だって道楽の一つなんだろうね。道楽だから、ドクターがどんだけあんたを心配したかなんて、想像にも及ばないんだろうね。本当、自分勝手だよね。くだらない人間だね」
健二は黙ったまま、浅井芽有の目を見据えた。
「あんたさ、前に、あんたとあたしは同類だって言ってたけど、それ、全然違うから。見当違いも甚だしいから。あたしは、もっと周りのこと、考えてる。それだけ、言いに来たの。じゃね。お大事に」
そして浅井芽有は、くるりと体を翻して、部屋を後にした。
ドアが閉まると、健二は苛立たしげな表情をつくって、頭をがりがりとかいた。
「病み上がりの人間にひどいこと言いやがって。あいつは嫌いだ。一生折り合えそうにない」
と健二は言った。
「でも見込みはある。端的な言葉で真実を述べてる。ただ者じゃない。腹立たしいが、それは事実だ」
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