第13話

その十三


 その日、俺は救急外来の当番だった。パートナーがインフルエンザで体調を崩してしまい、自分一人でやることになった。

 夕方から病院に入り、日直からの申し送りを受けた。PHSがまったく鳴らない、穏やかな夜だった。俺は出前のうどんを食べて食器を洗って片付け、研修医室のソファに座ってテレビを眺めていた。研修医向けの月刊雑誌もぱらぱらとめくった。高級な白衣を着た、顔立ちの整った医者が、カメラ目線でにこりと笑っていた。健二も一度取材を受けて、この雑誌に載ったことがあった。

 院内のコンビニエンスストアでお菓子を買い、それをぼりぼりと食べながら、漫画を読んだ。医療系の漫画が、何冊か部屋に置いてあったのだ。午後十一時を過ぎたころに、それも読み切ってしまい、本格的にやることがなくなった。手のひらを枕に、ソファに横になって目をつむっていると、いつの間にか寝入ってしまった。

 鳴り響くPHSの音に飛び起きたのは、午前二時を過ぎたころだった。

 それは消化器外科の当直医師からの電話だった。

「緊急手術だから、オペ室に来い」

 端的にそう言って、消化器外科医は電話を切った。

 状況もわからないまま、俺は更衣室に行って青の術衣に着替え、マスクをつけてキャップをかぶった。モニターには、二番の手術室で準備の文字が表示されていた。俺は自動ドアをくぐって、二番の手術室に入った。手術室はひやりとしていた。麻酔科医がすでに待機して、薬剤をシリンジの中に吸い出していた。

 続いて、慌ただしい様子で、看護師と若手の外科医が入室してきた。

「お前、研修医?」

「はい」

「交通外傷、来るから」

外科医は手術室内の電子カルテの前に座り、ガチャガチャとキーを動かし始めた。俺は、彼の背後から、遠目でカルテ画面を覗いた。

そこには、井岡健二の名前があった。

「健二?」

 俺は思わずつぶやいた。瞬間、背中に冷たい戦慄が走った。

「ちょっと、ちょっとすいません」

 俺は半ば無理矢理マウスを奪い取って、画面を動かした。

「なんだよ」

 と言って外科医が怪訝な表情をした。

 井岡健二、昭和六十二年五月十二日生まれ、二十六歳。

同姓同名ではなく、紛れもなく健二である。

 俺は現病歴の欄に目を移す。恐らく記載した人も時間がなかったようで、詳細なことはだいぶ省略されているが、以下のようなことが書かれていた。

 今日、午前一時十五分頃、車が電柱にぶつかる交通事故が起こった。現場に居合わせた通行人が一一九番通報、十分後に救急車が到着、最寄りの当院に搬送された。搬送時意識なく、JCS三桁で、血圧低下し頻脈傾向も認めた。呼気からは強いアルコール臭を認めた。腹部損傷を疑い、腹部エコー、CT実施し、腹腔内からの出血を認めた。診断は大腸破裂が疑われる。また、患者は当院研修医である。

 俺は、滅茶苦茶にフロントがひしゃげた健二の赤いフェラーリを想像した。全身から汗が噴き出て、口の中がからからに乾いた。

 背後でドアが開き、ストレッチャーが入ってきた。その上には、キャップをかぶり酸素のマスクをつけられた健二が、目をつむって横になっていた。健二の顔色は明らかに不良だった。

看護師と外科医と手によって、健二はストレッチャーから手術台の上に乗せられ、麻酔科医が迅速に心電図や酸素飽和度などの各種モニターを取りつけた。

 俺は動揺し、心臓の鼓動が早くなり、足が動かなかった。

「もう一本、点滴入れて。輸血用の」

「え?」

 俺は頭がうまく回らず、麻酔科医の指示を聞き返してしまった。

「輸血が必要になるかもしれないだろ。さっさと点滴入れてくれ。二十ゲージでな」

 俺は健二の腕に駆血帯を巻いた。その隆々とした腕の表面に、血管が浮き出た。針を刺そうとする手が震えた。

 そして、どうしてこんなことになったんだろう、と考えた。

俺は頭を振り、その考えを払った。今は逡巡している場合ではない。俺は一度大きく深呼吸をして、再び構え、一発で点滴針の刺入を成功させた。

 ドアが開き、そこから手術用のガウンに身を包んだ男数人が入ってきた。その中には、消化器外科の医局長の、髭達磨こと目良先生の姿もあった。滅菌手袋をしていて、まるで祈っているように手を合わせていた。

「やれやれ、今日は寝る間もないってかい。うちの研修医らしいな。飲酒運転で事故ったとか」

 麻酔科医が静脈から麻酔薬を投与し、さらに筋弛緩薬を投与して、人工呼吸器につないだ。時々、モニターのアラーム音がけたたましく鳴り響いた。

「おい、新入り。お前、そこで突っ立って見学する気か?」

 髭達磨が俺に言った。

「この通り人員が足りない。猫の手も借りたい。お前もガウン着て来い」

「わかりました」

 俺は部屋の外に出て、素早く滅菌のガウンと手袋を着用した。脇の下にびっしょりと汗をかいていた。

 どうして、こんなことになったんだろう。

 俺は鏡を見た。そこには、ガウンとキャップとマスクに包まれ、目元だけを空気に晒している自分の姿があった。俺は深く息を吸い込み、そして吐きだした。

俺は、足元のセンサーでドアを開けて再び部屋に入室し、健二の横たわる手術台の上に立った。

 助手たちが健二の体幹を消毒し、術野をくり抜いた青いドレープで体を覆った。

「始めるぞ」

 髭達磨が言って、メスを受けとった。メスの刃が、健二の腹を裂いた。続いて電気メスで、脂肪から筋肉、腹膜へと切開していく。そして、出血源と思われる大腸に到達する。

「こりゃ、縫合は無理だな。挫滅部分の切除、吻合術を行う」

 助手の一人が、俺に把持鉗子を渡してきた。

「ぼさっとしてないで、役に立て」

 俺は把持鉗子を受け取って、言われるままに、術野を広げるために組織を牽引した。

 鉗子を持つ手が震え、自分のものと思えなかった。

 損傷部分から、出血が続いていた。助手がドレーンでそれを吸い上げた。迅速の血液検査の結果が出て、麻酔科医がそれを見て輸血を開始した。

「俺、この井岡ってやつ、覚えてる。二か月くらい前に、うちの科を回ってたよな。印象深いやつだった。頭がいいけど馬鹿なんだ。何も知らねえガキのくせに、いっちょ前に知ったかの素振りで、醒めた目してやがった。馬鹿は死んでも治らない。だから助ける。死なせはしない。でもこいつの目が覚めたら、誰かこいつをぶん殴っとけ。『馬鹿野郎』つってな」

 手術が着々と進められていった。健二の、ぬめりを持った大腸が蠢いた。俺は緊張で首筋がひりひりした。ところどころで指示を受け、把持鉗子を動かした。大腸の損傷部分はやがて切除され、端と端が吻合された。汚染された腹腔内も洗浄された。それは、とても丁寧でかつ迅速な手際だった。

 鉗子を手に持ちながら、俺はもう一度考えた。

 どうして、こんなことになったのだろう。

 健二の薄ら笑いの向こうに、どんな感情模様があったのだろう。

 腹腔の中を覗き見ても、その心の内などわかりはしない。

 だから、健二の目が覚めたら、話をしようと思う。今度こそ、健二の本当の言葉に、耳を傾けることができそうな気がするのだ。

 手術が終盤に差し掛かった頃に時計を見ると、もう日が昇る時間であった。髭達磨は身を引き、助手たちが開いた腹部を縫合していった。皮膚の縫合になった際、助手の一人が俺に声をかけた。

「ここから下半分、お前が縫合をやってみるか?」

 俺はそう言われて、驚いた。返答する間もなく、糸の付いた針と持針器を渡された。

 俺は、慎重に、健二の腹に針を通し、糸を結んでいった。お世辞にも綺麗とは言い難い結び目だった。七針縫ったところで、最後にステープラーでとめていって、ガーゼで拭った。

 ドレープが外され、再び健二の全身が露わになった。俺はガウンを脱いで感染ゴミ箱に捨て、麻酔科医のモニターに目をやった。バイタルは正常であった。下がった血圧は持ち直されていた。

 病棟から看護師の迎えが来た。健二はストレッチャーに乗せられて、外科医と看護師とともに手術室を出ていった。俺はその姿を見送った後、それまでの緊張の反動か、まるで巨大なスライムにのしかかられたような猛烈な疲労感に襲われた。もはや研修医室に戻る気力もなく、俺は麻酔科医の休憩室で横になり、そこで目をつむった瞬間から泥のような眠りについた。

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