第12話
その十二
産婦人科の研修が終了し、小児科の研修が始まった。べつに希望したわけではないのだが、二か月間の小児科研修は義務だったのだ。ただでさえ採血が苦手だったのに、ましてそれが新生児のミニチュアサイズの手とあってはなおさら困難だった。泣き声に耳をつんざかれながら、俺は幾度となく針を新生児の手の甲に刺し直し、そのたびに看護師の冷たい視線を感じた。やっとこさ採っても、新生児の青くなった手の甲を見るたびに、申し訳なくていたたまれなかった。
そんな折に、母親が入所している施設から電話があった。
母親が、三十九度台の熱を出して、意識障害になっていることを聞かされた。
「昨日からちょっと、だるそうで、調子が悪そうに見えたんですけど。今日の昼くらいから、ぽーんと熱が上がってしまって」
と大澤さんが言った。
「ちょうど今、診察していただいたドクターがいますんで、替わります」
電話が受け渡されるごそごそとした物音が聞こえた。
「もしもし、鈴木君?」
「宮本先生ですか?」
「そう。今日、私が診察の日だったんだけど。鈴木さん、数日前からじりじりした微熱はあったみたいなんだけど、今日から急激に上がったのよ。検査しないとなんとも言えないけど、十中八九、誤嚥性肺炎だと思う。最近、食事の時によくむせこんでたみたいなのよ。近くの病院に送るわ。たぶん、入院になる。紹介状は、私が責任を持って、書いておくから」
「あの、母の様子は、どんな感じなんですか?」
「今はちょっと、声をかけても、応じられないわ。意識障害がある。たぶん、脱水もあって、これに低酸素状態が重なってるんだと思う」
「そうですか……」
「転院が完了するまで、私がついて見てるから」
「わかりました」
俺は携帯電話を手に持ったまま、少し沈黙に沈んでしまった。
「鈴木君?」
俺はその声に我に返った。
「あ、はい」
「お母さん、大丈夫だから」
「……ありがとうございます」
そして通話が終わった。
俺は仕事を切り上げて早退し、電車とバスを乗り継いで、母親の入院している病院に行った。施設から三つ先のバスの停留所近くの病院だった。その病院は大きくて、夜はライトに照らされて、まるで要塞のように見えた。
夜間の出入り口で、受付に母の名前を言った。家族であることを告げ、すでに入院の事後にはなってしまっていたが、入院手続きをした。そして面会表に記載し、部屋のナンバーを教えてもらった。三階の三〇七だった。呼吸器内科の病棟だ。
エレベーターに乗り、廊下に出て、三〇七号室のドアを開けた。
そこには、ベッドで横になり、マスクを装着して、点滴に繋がれた母親の姿があった。
俺は荷物を床に置いて、近づいた。
「お母さん」
耳元で声をかけた。反応はなかった。
「お母さん」
もう一度声をかけたが、やはり反応はなかった。目を閉じたまま、浅く早い呼吸によって、その胸をしきりに上下させていた。白髪が過半になってきたその髪の毛が、枕の上にぱらりと広がっていた。
額に手を触れると、熱感が手のひらに伝わってきた。
俺はベッドの隣に椅子を持ってきて、腰をかけた。そして母親の顔をじっと見つめ、それから正面にある窓を見つめた。窓の外は真っ暗闇で、母親と自分の姿がガラスに映っているのが見えた。
部屋はしんとしていた。静寂で耳の奥がきんとした。俺は普段の習慣から、思わず点滴のボトルのラベルを確認してしまった。点滴は一秒に一滴くらいの速さで、その滴を落としていた。
『思うようにならないのが、人生なんだから』
と母親はよく言っていた。本当に、ことあるごとに、言っていた。たぶん、母親の人生を反映してのことなんだろう。
母親は子供の頃は医者になりたかったらしい。だがそれは叶わず、薬学部に進んだ。在学中にある男性と知り合って、卒業後に結婚する予定だったそうだが、その男性は交通事故で早逝した。ふさぎ込んで、一年間大学に通えなかった。留年を挟んで卒業して、薬剤師免許を取った。就職してすぐに、見合いで父親と結婚した。俺を出産して、母親は仕事に復帰することを希望したが、父親の強い意向で家庭に入ることになった。その時に、それまで使ってきた教科書の類を全部捨てた。これらのことは、母方の祖母が亡くなる直前に教えてくれたことだ。ワーカーホリックだった父親が、認知症になった母親に対して、ほとんど極端なまでに尽くしたのは、罪悪感もあったのかもしれない。
三十分後に医者に呼ばれた。まるで永遠みたいに長い三十分間だった。医者は、髪の毛を七三に分け、トンボ眼鏡をかけた中年の男だった。医者は病状説明の最中、自分も風邪をひいているのか、マスクの下で頻繁に咳をしていて聞き取りにくかったが、言っていることの大筋は以下のようなことだった。
「診断は重度の肺炎。今、抗生剤を使っている。現状では、今後どうなるかの予測はつかない。嚥下機能がかなり落ちている。今回よくなったとしても、誤嚥性肺炎を繰り返す可能性が高い。そして繰り返すたびに、致命的になる可能性も高くなっていく。今後は常食はやめて、粥食かきざみにする必要があるかもしれない」
説明を聞きながら、これで死ぬことになる可能性もあるかもしれないなと思った。そして、今回退院できたとしても、決して余命が長いものではないだろうと思った。認知症の末期の、嚥下機能障害が進んだ患者さんの姿は、何度か見ていた。
俺は説明の後に、もう一度母親の部屋をおとずれた。
「お母さん、また来るから」
俺は母親の耳元でそう声をかけて、掛布団の中に手を突っ込んで手を握って、部屋を後にした。なんだか、自分のやっていることのすべてが、演技じみている、わざとらしいもののように感じた。
病院の外に出ると、ビル風が吹いて肌寒かった。俺は施設の大澤さんに電話をかけて、様子を伝えた。
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