第11話

その十一


 週末が終わり月曜になった。俺はここから一か月間、産婦人科を回ることになっていた。

 健二は結局、謹慎が明けても、病院に来なかった。無断欠勤であった。研修医の間では、いろんな憶測を呼んだ。俺は健二に何度か電話してみが、出ることはなかった。仕事終わりに健二のマンションを訪ねたこともあったが、やはり留守だった。

 そして三週間が過ぎた。俺は毎朝、病棟の患者さんの化学療法でぼろぼろになっている血管と悪戦苦闘しながら採血および点滴挿入に勤しみ、日によっては手術に入り、午後は術後の創部の消毒とガーゼ交換のために病室を回った。

 その日、俺は新患の問診を担当することになった。外来の一室で俺は待機し、新患が来たら問診をして、電子カルテに書き込み、指導医に申し送りをした。

「今日はもう、新患来ないから、そこに座って見学してろ」

 指導医が言った。俺は、産婦人科にはそれほど興味がないので、仕事がないなら研修医室にでも引っ込もうと思っていたが、当てが外れた。

 仕方がないので、俺は椅子を持ってきて、指導医の席から少し距離を置いたところで座った。俺は学生の頃から、外来見学が苦手だった。座って見ているだけだと、どうしても眠くなってしまうのだ。

 数人の患者の診察風景を見ていた。産科の外来なので、ほとんどの患者は二十代から三十代の女性だった。診察している指導医の横には、常に女性の看護師が付き添っていた。

「小峠様、小峠良枝様、二番診察室にお入りください」

 指導医が、マイクに向かって告げた。

「失礼します」

 聞き覚えのある声で、俺は思わずドアに視線を向けた。

 そして、診察室に入ってきた女性の顔を見て、俺は息を呑んだ。

 それは、ゆかりんだった。

 髪を下ろし、シックな紺色のワンピースを着ていて、いつもと雰囲気が違っていたが、それは紛れもなくゆかりんだった。

 俺は反射的に、指導医の前の電子カルテの画面に目をやった。そこには『小峠良枝 28歳』と表示されていた。俺よりも二つ年上だった。

 ゆかりんは、俺に気が付くと、はっと口を開いて表情を変化させたが、それは一瞬のことで、すぐに何事もなかったかのように、落ち着いた様子で席に座った。

「ここのところの調子はどうでしたか?」

「ええ……。何度か吐き気がしたことはあったんですが、それ以外はこれといって調子の悪いところはありませんでした。仕事も先月、辞めましたし」

「じゃ、横になってください」

 ゆかりん、こと小峠良枝が、ベッドに横になった。指導医は、エコーの機械をぐいと手元に引き寄せ、プローブにゼリーを塗った。

「じゃ、お腹出して」

 ゆかりんは、スカートをまくってお腹を出した。下腹部から下は、すぐに看護師がタオルで覆った。ゆかりんのお腹は、つるりとした曲線を描いていた。

 指導医が、ゆかりんの腹部にプローブを当てた。モニターに、おそらくはゆかりんの子宮の中と思われる映像が映し出された。指導医はプローブの角度を変え、そのたびに画面の映像がくるくると変わった。

指導医が、プローブを止めてボタンを押した。画面上に映し出された、真っ黒な子宮の腔の中に、小さな塊が張り付いて、蠢いていた。それはまさに、その命を膨張させつつある胎児の姿だった。

「前回よりも、大きくなってるでしょ。ほら、手足もバタバタさせてる」

 ゆかりんがモニター画面を見て、少し不安げに、でも愛おしそうに微笑んだ。

「順調ですね」

 指導医が笑いかけた。そして何枚か写真をとり、プローブを外してガーゼでジェルを拭った。写真は、音を立てながら、エコーの機械から吐きだされた。指導医はその写真を手に取って、体を起こしたゆかりんに見せた。

「こっちを向いてる。おりこうさんですね。このままいくと、出産予定日は六月になりますかね」

 ゆかりんは写真を手に取って、笑顔を見せた。

 六月には、ゆかりんは母になるのか、と思うと不思議な気分だった。そして父はどんな人なんだろうと、否が応にも気になった。

 なんだか、頭がぼんやりしてきて、うまく物事を考えることができなくなった。指導医とゆかりんの会話も、まるで崖を隔てて向こうから聞こえてくるように、現実感がなく曖昧に感じた。

「じゃ、次回は一か月後に受診してください」

「ありがとうございました」

 ゆかりんは、『ココア』でそうしていたように、深々と頭を下げ、去り際にちらりとだけ俺に視線を向け、すぐに目を伏せて、ドアの向こうへ消えた。

「今の、俺がエコーで何を測ったか、わかるか?」

 俺は一瞬、その言葉が誰に向けられたものなのか、わからなかった。

「おい、聞いてんのか」

 俺はびくりと体を震わせ、我に返った。

「すいません」

「謝るんじゃなくて、わかるかわからないのか、答えろよ」

 ほとんど上の空だった俺に、わかりようもなかった。

「もういいや。病棟で採血でもしてろ」

 指導医が匙を投げた。俺は言われるままに病棟に戻った。二人分の採血を済ませ、一人点滴を入れた。考えるということが必要の無い処置だった。術後の創部の処置は、同期がすべてやってくれていた。

 十二時を過ぎ、同じ産婦人科を回っている同期四人で、食事に行こうという話になった。俺は気が乗らなかったので、適当に言い訳をして断った。

 食欲がわいてこなかった。俺は購買でジュースを一本買って、病院の正門の前で、大学へと続く桜並木を眺めながら、ジュースを飲んだ。胎児のエコーの映像が目の前にちらついて、なんだかため息が漏れた。

 体を反転させて、柵に背をもたれていると、正門の自動ドアが開き、ゆかりんが出てくるのが見えた。俺は思わず、ジュースのストローから口を離し、背筋を伸ばした。

 ゆかりんがこちらに気が付いて、会釈をした。

「あの……こんにちは」

 ゆかりんは、少しだけ迷ったようにうつむき、しかしすぐに顔を上げた。

「こんにちは」

 ゆかりんが微笑んだ。それは、あの『ココア』で見た、お客様向けの洗練された笑顔だった。俺は、それが何だか少し寂しかった。

 ゆかりんがこちらに静かに歩み寄ってきて、俺から少し間を置いたところで、同じように柵に背をもたれた。

「あそこの桜並木、春になったら、綺麗なんでしょうね」

 俺はそう言われて、少し戸惑った。ゆかりんとは、『ココア』で何度も話をしてきたが、今この場で、相手をゆかりんとして話をすればいいのか、それとも小峠良枝さんとして話をすればいいのか、わからなかった。

 しかしこのまま沈黙に沈むわけにもいかないのだ。

「……あそこ、近所でも評判の桜並木なんですよ。ぶわっと桃色に咲き乱れると、結構圧巻です。長く入院してる患者さんとか連れて行くと、表情を緩ませてくれますね」

 ゆかりんがこちらを見て、また微笑んだ。俺はゆかりんと視線を合わせられずにいた。

「おやまだ様は、お医者さんだったんですね。鈴木先生っていうんですね」

 ゆかりんは、俺のネームプレートを指差して言った。

「医者って言っても、まだ研修医で。ぺーぺーなんですけど」

「まさか、こんなところでお会いすることになるなんて、びっくりしちゃいました」

「あの……なんか、すいません」

 俺は小さく頭を下げた。

「どうして謝るんですか?こんな偶然、ちょっと面白いじゃないですか」

 ゆかりんが、その小さな手を、自分のお腹にそっと当てた。

「今、十一週なんです。こうしている今も、自分の中で命が刻々と育っていってるって考えると、すごく変な気分なんです。人の親になる心の準備なんて、全然できてないんですけど、でも、生んだ瞬間から、否応なしに、もうお母さんですもんね」

「あの……ゆかりんさん、ご結婚……されてたんですか?」

 ゆかりんが穏やかに微笑みながら、首を横に振った。

「いえ、結婚はしていません。すごくすごく好きな人なんですけど、でも、絶対に一緒にはなれないと言われているんです。だから私は、この子を一人で育てようと思っています」

 ゆかりんは、柵から背を離し、少し歩いてから、くるりとこちらを振り向いた。

「この子を産んだら、実家に戻るつもりなんです。実家は、すごく田舎なんですよ。日本海に面していて、夏は湿っぽくて暑くて、冬は寒い風が吹いて雪が分厚く積もるんです。何も無いんですけど、静かなところなんです」

 俺はなんと言葉を返したらいいのか、わからなかった。いろいろな考えが頭の中を錯綜した。

 ひとつ確実に言えることは、今日この場が、ゆかりんと言葉を交わせる最後の機会だろうということだ。

「その……正直、何言ったらいいか、全然わかんないんですけど。でもあの、ひとつ言えるのは、ゆかりんさんは、本当に俺の支えで。いろいろ、仕事も生活も、駄目なことばっかなんですけど……でもゆかりんさんと、時々話をして、体に触れてもらえて、帰り際に握手をしてもらえて、それだけで、大げさじゃなしに、生きてく勇気みたいなものももらえて。だからその、会えなくなるのは、やっぱり寂しいっていうか……」

 言っているうちに、声のトーンがどんどん下がってきた。自分は何を言っているのだろうと、我ながら思った。

「やっぱり、お優しいんですね、おやまだ様、いえ、鈴木先生は」

「いえ、優しいとかじゃなくて、本当に、そう思ってるんです」

 ゆかりんは、少し困ったように眉を曲げて、首を振った。

「ありがとうございます。でも私、鈴木先生が思ってらっしゃるほど、よい人間じゃないんです。むしろ、嫌な人間だと思います。整体師の父の見様見真似の、小手先で付け焼刃の按摩の技術で、適当に相槌を打ちながら、耳触りのいい、思ってもいないような言葉を喋っていただけです。余裕もないし、自信もないんです。自分のことしか考えられないんです」

 ゆかりんがお腹をさすりながら、再び柵に背をもたれた。

「覚えてらっしゃいますか?以前、鈴木先生は、私に、『このままかな』っていうお話をされていました」

 俺は覚えていなかったので、首を横に振った。

「あれ、すごくわかるんです。田舎にいた時は、自分には可能性があると思っていたんです。決して、奢った意味ではなく、正確に言うなら、まだ自分の未来は白紙で、この先幾分かでも、よい方向に転がっていくのではないかと、漠然と、そういう思いを抱いていたんです。その、未来を拓くきっかけにと希望を持って、上京したんです。でも、いざここにきて、田舎にいた時よりもずっとたくさんの情報に塗れて、いくつか仕事を転々として、いろんな人と関わって、挫折を感じたりしているうちに、否応なしに、『このままかな』と思ってしまったんです。少なくとも、自分が漠然と感じていた、無根拠な可能性なんて、ないんです。その考えは、遅行性の毒みたいに、私の心にゆっくりと根を張っていって、動かなくなりました。なんだか、いろいろなものが、無為に思えてしまったんです。そんな時に、彼に、出会ったんです。私を好きだと言ってくれたんです。彼といる時にだけ、自分のこの、とるに足らないちんけな人生にも、何か意味があるのではと感じることができたんです」

 ゆかりんはお腹に手を当てたまま、空を見上げた。

「でも、そんな日々も終わりを告げました。妊娠のことを言ったら、彼が産んでくれるなと言ったんです。産むのであれば、私とは別れるしかないと。私は、彼と私との間にできたものを、どうしてもこの世に残しておきたいんです。だから、産む決意をしました」

 ゆかりんがこちらを見た。

「こういう話を聞いて、失望されたでしょう」

 俺は慌てて首を振った。

「いえ、失望なんて、してないです。ただその……少しびっくりしただけです」

「私は、お店に来る皆さんが、自分をどのように見ているか、わかっていたつもりです。そこにはある種の、偶像というものがあります。私ではなく、私の偶像に、皆さんに投資をいただいていたんです。下手なりに、私はあのお店での仕事が好きでした。いろいろな人の、人生を垣間見て、同時に皆さんに、少しの安らぎの時を過ごしていただくことができるんです。でも、子を授かって産み育てる中で、これまでと同様に、皆さんに偶像を抱いていただけるような振る舞いをしていく自信がないんです。そうであれば、辞めるしかないと思いました。そして、仕事を辞め、彼との関係を解消するのであれば、ここにいる意義はありません。私はこれから、海と緑に囲まれた場所で、この子と静かに暮らしていきたいと思っています」

「その……どうして、俺にそんな話を?」

「……自分でも、ちょっとわかりません。きっと、ここを去る前に、誰かに知って欲しいと、思ったのかもしれません」

「その……」

 俺はそう口にして、うつむいた。

「何か俺に、できることはありませんか?」

 ゆかりんは、少し困ったように薄く微笑んで、小さく首を横に振った。

「お元気で、鈴木先生。先生はきっと、いいお医者さんになると思います」

 そしてゆかりんは、バス停の方に歩き去って行った。ちょうどのタイミングでバスが来た。その姿がバスに吸い込まれていくのを見届けると、俺は体の向きを反転させて、再び桜並木をぼんやりと眺めた。

「ドクター」

 背後から声をかけられ、俺は振り返った。

「なんだ、君か」

「なんだってことはないでしょ。あたしじゃ不服?」

 浅井芽有が近づいてきた。

「こんなところで、何してるの?またさぼってるの?」

「さぼってない。ちょっと休憩してただけだよ」

 浅井芽有がまじまじと俺の顔を見つめた。

「なんか、洒落にならないくらい落ち込んでない?」

「どうしてそんなことわかるの?」

「だって、すっごい顔に出てるもん。とても人前に出せない顔してるよ。モザイクかけないと」

 俺は思わず自分の顔に手を当てた。

「なんかあったの?」

「いや、それがさあ……」

 俺はそこまで口にしたところで、盛大にため息をついて、柵の上で頭を抱えた。

「まあ、立ち話もなんだし。病院の中の喫茶店でも行こうよ。話、聞くわよ。なんか、面白そうだから」

 俺たちは二人で、院内の喫茶店に入った。俺はアイスミルクを、浅井芽有はフルーツジュースを頼んだ。

 俺は、事のいきさつを全部説明した。誰かに話を聞いてもらいたい気分だったのだ。

「どうしようもない話ね」

 と浅井芽有は言った。

「それって要するに、上京して挫折した女が、男にいいように遊ばれてたってだけじゃん。身ごもったらぽいの、最低の男なわけでしょ。で、そんな男に、ヒロイズムに酔いながら入れ込んで揚句にうっかりできちゃったのが、その頭の軽い女なわけでしょ。で、そんなおバカさんに貢いだ哀れな恋愛偏差値の低い男が、ドクターなわけでしょ。全員どうしようもない」

「そういう言い方はやめてくれよ」

「言い方の問題じゃなくて、実際そうでしょ。その女、ドクターが自分に対してどう思ってるか知った上で、そんなこと言ってんのよ。自分に酔ってる上に、酔った自分をドクターにひけらかしてるのよ。自己満足のために、利用してるのよ。それ、かなりタチの悪い女よ。ドクターのことだから、絶対つまんない女に引っかかってるって、思ってたんだ」

 俺は腕を組んで、首をかしげた。思わず、眉間に皺が寄った。

「彼女は、そういうんじゃ、ないと思うんだけどなあ」

「ないと思うって、この期におよんで、どうしてそんな風に思えるの。そうに決まってるじゃん。本当、おめでたいわね」

 浅井芽有が、手の上に顔を乗っけて、ジュースをひと口飲んだ。

「ドクターは、女を知らなすぎるのよ」

 それに関しては反論の余地はなかった。

「まあとにかく、それって失恋ですらないから。お気に入りのお店の女の子が、妊娠して辞めて田舎帰るって、それだけだから。落ち込む価値もないわよ。まったく、不毛。だいたいさあ……」

 俺は手のひらを浅井芽有の前に掲げて、制した。

「ちょっと、その辺で勘弁してほしい。これ以上は、持ちこたえる自信がない」

 俺は背もたれにぐっと体重を預け、天井を見上げて、ため息をついた。

「なんか本当、俺ってガキなんだな、って思った。あの人が、妊娠していなくなる、ってこともそうだけど、それ以上に、あの人と俺の間にある、絶望的に隔絶された世界の違いに、愕然としちゃったんだと思う。正直俺、男と女の諸々のこととか、よくわかんねえもん」

 ちょうどその時、PHSの着信音が鳴った。

「来ちまったか、こんな時に」

 通話ボタンを押すと、医局長の声が聞こえた。緊急手術の手伝いの指示だった。

「呼ばれたから、俺、行くわ」

 俺はミルクを飲み干してグラスをかたんとテーブルに置き、立ち上がった。

「あのさ、言っとくけど、あたしべつに、なじってるわけじゃないから。落ち込む価値もないから、次行こ次、ってことだから」

「わかってるよ。ありがとうよ」

「わかってるなら、いいわ。じゃ、労働に勤しんでくれば」

 そう言って浅井芽有は、こちらも見ずに手を振って、ストローに口を付けるのだった。

 

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