第10話
その十
朝、病院に行きがけに、正面玄関前の池の脇にあるベンチで、浅井芽有の母親の浅井美恵子が座っているのを見かけた。浅井美恵子は、病衣に赤いカーディガンを羽織っていた。ぼんやりとした表情で、うつむき加減で、時々ため息をついているのか、大きく肩を揺らすことがあった。
俺はその様子を遠目で眺め、しかる後に職員用出入り口から病院の中に入った。
仕事がひと段落すると、俺は缶コーヒーを買って、研修医室に引っ込んだ。椅子に座って天井を見上げ、目をつむった。瞼の裏に、朝見た浅井美恵子の姿がちらついた。俺は電子カルテを起動させ、浅井美恵子のカルテを見た。
直近のカルテの記載によると、もう明らかな幻聴や妄想はなく、自宅への外出も一度済ませているようだった。処方欄には、見たこともない精神科の薬剤がずらりと並んでいた。その薬の種類の数が、浅井美恵子がこれまで経験してきた病的な体験の根深さを物語っているような気がした。
現病歴を読んでみた。同胞一名第一子。福島県いわき市で出生、三歳で転居。幼少時から引っ込み思案、友人との交流は少なかった。成績は上位。中学高校は文芸部に所属。高校時代不登校、六年在籍の上、退学。アルバイトを始めるも、いずれも短期で、主に人間関係が原因で辞めている。二十三歳で、アルバイト先で知り合った六歳年上の男性と同棲を始める。しかしこの頃より、「近所で悪口を言われている」「通りすがりの人が、臭いと言ってくる」といった、被害妄想、幻聴を示唆する発言が見られるようになったよう。家事もおぼつかなく、相手男性からは頻回に暴力を受けるようになった。それに伴い、不眠、被害妄想が増悪した。二十五歳時に同棲を解消、実家に戻るが、妊娠が判明しその後出産した。以後、病状の増悪に伴い、時に近隣住民宅に押し掛けるなど衝動制御困難となることもあり、医療保護入院を繰り返した。
俺はそこまで読んで、カルテを閉じた。そして、誰もいない研修医室で、腕組みして一人で少し考えた。
俺は研修センターの事務に赴いた。そこで、機械的な対応をする少し綺麗な事務員の女性に、来月か再来月に精神科を一か月間回れないかと聞いてみた。答えは、できない、というものだった。十月以降は、ローテーションの変更はできないようだ。
俺は仕事が終わった後、東病棟四階の、精神科病棟に行った。閉鎖病棟の扉はぴたりと閉ざされ、廊下はがらんとしていた。医局のカンファレンスルームのドアをノックしてみたが、返答はなかった。そろりとドアを開けて見回したが、部屋には誰もいなかった。俺は、小声で、失礼します、と言いながら部屋に入った。本棚には、当たり前のことだが、精神科関連の書籍が、びっしりと並んでいた。
俺はそのうちの一冊を手に取って、ぱらぱらと眺めてみた。
統合失調症。妄想、幻覚、まとまりのない会話、陰性症状などを主体とし、社会的職業的機能の低下を招く疾患。陽性症状とは、「ないはずのものが、ある」もの。つまり、幻覚、妄想を指す。陰性症状とは、「あるはずのものが、ない」もの。つまり、情動の鈍麻、思考の貧困、意欲の欠如などの症状を指す。主に思春期青年期に好発し、慢性の経過を辿る。
俺は、ふむ、と思ってページを捲った。
すると、唐突にドアが開いて、白衣を着た医師が部屋に入ってきた。それは、以前浅井美恵子が入院になった際、救急外来に来て診察をした、猫背の精神科の先生だった。
猫背の先生が、びっくりした表情でこちらを見た。
「誰、君?」
「えー……無断で入ってしまって、すいません。初期研修医の鈴木直人と申します。精神科に、少し興味があるんです。それで、本を少し読ませていただければと思って……」
「あ、そう。そういうこと。好きにしていいよ」
猫背の先生は、あっけなく許可して、椅子に座ってノートパソコンを開き、何やらカタカタとキーを打ち始めた。
俺はテーブルの隅に座って、しばらくの間、本を読んだ。精神科は、学生の頃に講義で習い、実習も二週間回ったのだが、どちらもその時点では興味がまるで持てず、ほとんどさぼり倒していた。
俺はちらりと、猫背の先生に目をやった。
「あの……ちょっと、お聞きしていいですか?」
「なに?」
猫背の先生が、こちらを見ずに答えた。
「幻聴って、本当に聴こえてるんですか?」
猫背の先生がキーを打つ手を止め、こちらを見た。
「そりゃあ、わかんないよ。精神科は、内科みたいに内視鏡突っ込んで目で確認したり、血液検査で確認したりできないし、あくまでその患者さんの主観的な体験の、記述から判断するからな。でも、ある研究では、自覚的に幻聴が聴こえてる時に、実際に脳の聴覚野が刺激されてるって報告がなされてる。だから、本当に、聴こえてるんだと、俺は思っているけどね」
「どうして、ないはずの声が、聴こえてきちゃったりするんでしょうか?すごく、不思議なんです」
「不思議だよねえ」
猫背の先生が腕組みした。
「本当、不思議だよねえ。そのメカニズムって、まだ全然解明されてないよ。ドパミン仮説っていうのがあって、幻聴とか妄想が、脳のある部分でのドパミンの過剰状態が影響してるとは言われてるけど、それだって全部を説明できるわけじゃない。あくまで仮説だし、今後覆される可能性はある。だいたい、幻覚の中でも、どうして幻視じゃなくて、幻聴が多いんだろうって、俺もすごく疑問に思ってる」
猫背の先生の俺を見る目が細くなった。
「あれ、君どっかで見た顔だな。デジャヴ?」
「あの、浅井美恵子さんが入院した時、救急外来で当番で……」
「あーあー、あん時の子か」
猫背の先生が指を鳴らした。
「浅井さん、結構よくなったよ」
「あの、幻視じゃなくて、幻聴が多いのって、どうしてなんですか?」
「どうしてだろうねえ。俺にもわかんないねえ。さっきから、わかんないとか、不思議だとかばっかり言ってるよね。まあつまり、精神科って、まだ医学の分野でも歴史が浅くて、わかんないことだらけ、ブラックボックスだらけなんだよ。まあ一応、個人的に、こうなんじゃないかな、って思うところはあるけど。聞いとく?あくまで個人的な解釈であって、実際のところはわかんない、まだ未解明の部分だから」
「先生の見解を、教えてください」
「まず、遺伝的な資質があるのが大前提な。同じようなストレス抱えたって、なる人はなるし、ならない人はならないんだから。その上で、人間関係とか、もろもろ嫌なこととか抱えた時にさ、『ああ、嫌だ』とか思うことあるだろ。『何やってんの、俺。死ねばいいのに』みたいなことを思ったり」
俺は大いにうなずいた。
「そういう、つらさとか自責感とかで、脳が疲弊しきっちゃった時にいわゆるハイリスク状態になって、そんな中でも嫌な体験を思い出して、『ああ、嫌だ』って繰り返し繰り返し頭の中でその体験を打ち消す言葉をなぞっていると、それが段々と自我異和性を持ってきて、実際に聴こえてくるようになっちゃうんじゃないかな。つまり、思う、って行為とすごく親和的だから、あくまで幻聴であって、幻視は少ない。くどいようだけど、これ、俺の個人的見解な。出鱈目かもよ」
俺は猫背の先生が言ったことを、しばし頭の中で整理した。
「わかりました。それと……」
「まだ続くの?質問攻めだな」
「どうして先生は、精神科医になろうと思ったんですか?」
少しの沈黙があった。
「……いきなり踏み込んでくるね」
猫背の先生はそう言って笑った。
「いくつか理由はあるよ。一つじゃない。どれが決定的なのかも、自分じゃわからないな。ただ、俺の父親は、ひどいアルコール依存症でね。酔って家に帰ったら、げろ吐いて奥さんをひっぱたくような、最低の男だった。何度かアルコール専門病棟に入院したこともある。揚句に、肝硬変になって、俺が十五の時に死んだ。そういうのって、否応なしに、後々の人生に関わってくるだろ。たぶん、それがきっかけで、人間の‘精神’とか面倒なことについて、うだうだ考えるようになったんだと思う。それで、医学部に入る時には、俺はもう精神科医になるって決めてた。精神科医になって、親父みたいなどうしようもない人生の業に呑まれて抗えない人を、救おうって思ったんだ」
猫背の先生は首をぐるりと回して左右に振り、こきりと鳴らした。
「で、現在の俺はどうかっていうと、親父みたいな人を救うどころか、俺自身もアルコールが原因で奥さんに愛想つかされて出て行かれちまった。それがきっかけで、今アルコールを完全に絶ってるけど、アルコール依存に完治はないんだ。ただ、長く禁酒できてるってだけで、治っちゃいない。またいつスリップして、どっぷりアルコールの世界に身を浸すかわからない。だから、あんまり自分に意識を向けないために、せっせと患者さんの世話を焼いてるのかもしれない。診療の中で、生活指導とかしたりして、お前、他人のこと言えんのか、とか自問自答したりもするんだけど、でも、そんな業と弱さを抱えた自分だからできる治療もあるんじゃないかと、無理矢理考えるようにしてる」
そこまで話したところで、猫背の先生のPHSが鳴った。
「わりい、行かなきゃ。すまないな、つまんない自分語りして。全然、勧誘になってなかったな。精神科、俺みたいな湿っぽいやつばっかりじゃないから。もっとからっとして、爽やかなやつも大勢いるから。もし興味があるなら、これからも気軽に来てくれよ」
「あの、突然押しかけて、すいませんでした。本当に、ありがとうございました」
「じゃ、頑張れよ、鈴木先生」
そして、猫背の先生は、PHSで通話をしながら部屋を出て行った。
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