第9話
その九
土曜の休日に、俺は昼過ぎに起きた。よい寝覚めとは言い難かった。嫌な夢を見ていたので、汗をびっしょりかいていた。
俺は餅二つと納豆を食べて、出かけることにした。バスに乗って駅前で降りた。行き掛けに百貨店で一万円ちょっとのネックレスを購入し、プレゼント包装してもらった。本当は、誕生日以外にプレゼントを贈ることは店のルールでは禁じられていたのだが、この間のゆかりんの姿の残像が目にちらついてしまい、また贈りたくなってしまったのだ。そして俺はそれを片手に、東京方面の電車に乗った。
駅で降りて、俺はコスプレ・リフレ『ココア』へと向かった。ビルディングの中に入り、エレベーターで階を昇った。
「おかえりなさいませ」
例によって、扉が開くと同時に、店員が深々と頭を下げた。今日はセーラー服に身を包んでいた。
「本日は学園祭になっております」
「あの、ゆかりんさんを……」
俺は会員証を提示しながら言った。
「ゆかりんは、先日、卒業しました」
店員が笑顔のまま言った。俺は思わず、「えっ」と聞き返した。
「ゆかりんは、卒業しました」
「その……辞めたってことですか?」
「卒業です」
店員は繰り返した。
「本日はどの娘をご指名なさいますか?」
俺は頭をかいて、プレゼントの入った鞄に手を触れた。
「みんな、おやまだ様からのご指名を心待ちにしております」
店員が、ちらりと会員証に視線をやりながら言った。
「いや、あの……いいです。また来ます。それじゃ」
俺はなんとなくその場からすぐに去りたい気持ちで、エレベーターを待つのももどかしく思い、階段で下まで降りていった。
ビルディングを出て、歩いていると、俺は言いようの無い虚脱感に襲われた。前回ここに来てから二週間しか経っていない。その二週間の間に、ゆかりんは辞めてしまった。何の前触れも無く。
立ち止まって、自分の右手を眺めた。毎回、帰り際に握ってくれた、右手だ。俺はその温もりを思い出して、反芻した。
もう二度と、ゆかりんと会うことはないだろう。そう思うと、俺はまるで、心臓をえぐられたような喪失感に駆られた。
家に帰ると、俺はコップに水を一杯ついで、それを飲み干し、そして深くため息をついた。
少しだけ机に向かって教科書を開いてみたが、まったく集中できず、すぐに諦めた。俺は布団の中に身をうずめて、寝そべりながら、小説を読んだ。もうこれまでに何度も読み返した小説だった。そして、いつの間にか眠ってしまった。
ふと目が覚めたら、すでに日が落ちていた。枕もとの携帯電話の画面を見ると、浅井芽有からの着信履歴があった。俺はのそりと起き上がり、冷蔵庫の中を開けた。モロヘイヤと人参と、冷凍した豚肉が少し残っていた。俺はそれらを全部いっぺんに炒めて、醤油をふった。そしてそれを炊いた米と一緒に食べながら、漫然とテレビを眺めた。
食器を片付けた後、おもむろに鞄の中から、今日買ったネックレスを取り出してみた。箱を開けると、チェーンが蛍光灯に照らされて銀色に輝いていた。俺はチェーンをつまんで、しばし眺めた後、また箱に戻した。
窓を開けて、空を見た。今日は曇天模様で、真っ黒な雲が空を全面に覆っていた。月は影も形もなかった。
もやもやとした、憂鬱な一日が、終わろうとしていた。
電話がかかってきた。浅井芽有からだった。俺は窓から空を眺めながら、通話ボタンを押した。
「今、何やってたの?」
浅井芽有が訊いた。
「飯食って、テレビ見てた」
「一人で?」
「一人で」
「例の女と、一緒なんじゃないの?」
「例の女ってなんだよ。いないんだよ、そんなの」
俺は机の上のネックレスの箱を手に取り、ぽいと宙に放って、またキャッチした。
「寂しい週末ね」
「べつに寂しくないよ。いつもの週末さ。君のほうこそ、何やってたんだ?」
「あたしも、飯食って、テレビ見てた。もちろん一人でね」
「なんだ、同類じゃないか」
浅井芽有が電話の向こうで笑った。
「今日、こないだ買った本見て、料理作ってみたよ。焼き鮭、焦がしちゃったけどね」
「そのうち慣れるよ」
「作るのはいいけど、洗い物が面倒だよね」
「それも、そのうち慣れるよ」
「やけに返答が雑ね。テンションも低いし。なんかあったの?」
「べつに、何もないよ」
「本当に?」
俺はため息をついて、携帯電話を右手から左手に持ち替えた。
「ちょっといろいろあって、あんまり元気が出ないんだ。頼みの綱のお月様も、曇ってて見えないしな」
「ふうん」
少し沈黙があった。
「元気が出ない日を乗り切るこつは、元気を出そうとしないことだ、ってお母さんの主治医が言ってるのを、横で聞いたことがあるわ」
「へえ」
「『そのうち浮かぶ瀬もあるでしょう』ってのが、主治医の口癖なのよ。『沈んでいるときは、無理に這い上がろうとしないことです。そのうち浮かぶ瀬もあるでしょう。じゃあ、おんなじお薬出しときますね』って、毎回判を押したように同じこと言うの。で、お母さんはと言えば、ちっとも浮かんでくる気配がないんだけど。全然、ないんだけど」
「うん」
「だからドクターも、そのうち浮かぶ瀬もあるだろうから、大丈夫なんじゃない」
「その文脈だとあんまり大丈夫じゃないだろ」
浅井芽有が、また電話の向こうで笑った。
「励ます気概ってもんが感じられない」
「だって、励ます気、ないもん。励ましたくらいでどうにかなるやつは、励まされなくったってどうにかなってる」
「……それはそうかもしれないな」
「まあ、あとはふて寝でもすることね」
「やっぱそれしかないか」
「おやすみ、ドクター」
「おやすみ」
そして通話が切れた。
俺は窓を閉めて、食器を洗い、シャワーを浴びた。髪を乾かして歯を磨いて、再び布団の中に潜って小説を読んだ。そして午後十時前には穏やかな眠気がやってきて、俺は電気を消した。
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