第8話
その八
麻酔科も残り三日となっていた。介助に入っていた手術が四時過ぎに終わったので、俺は定時で上がることができた。ロッカーで着替え、院内の売店で野球雑誌を立ち読みしていた。ひいきのチームは五位に沈んでおり、ペナントレースには何の希望も見いだせなくなっていた。
店内に、客が入ってくるチャイムが鳴った。それと同時に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「家族同伴で、院内外出OKになったんだったら、もう少しじゃん」
声のあるほうに目を向けると、そこには浅井芽有がいた。浅井芽有は俺に気が付かずに、俺の背後を通り過ぎて行った。その隣には、母親の浅井美恵子がいた。浅井美恵子は、ピンク色の病衣を着ており、入院したその日よりずっと穏やかな表情になっていた。
棚ひとつを挟んで、二人のやりとりが聞こえてきた。
「たまに掃除してるから、お母さんが入院する前よりも、家、綺麗だよ。外泊いつ頃になりそうなの?再来週には戻れそう?」
「まだ、わからないわ。でも、前回の入院から間もないから、今回は、ちょっと慎重にやってくって先生が言ってて」
「……そう」
「来月の、あんたの誕生日には家にいたいと思ってるんだけど」
「べつに、そんなん気にしないで、焦んないでやってよ。それよりさ」
何かを手に取る音が聞こえた。
「このお菓子、美味しいんだ。この秋からの新作らしいんだけど。ちょっと、ハマってんの。毎日食べてる」
「毎日?あんた、食事、大丈夫なの?」
「……大丈夫だよ」
「ちゃんとした物、食べてる?」
「食べてるよ」
「少し痩せたんじゃないの。お菓子ばっかり食べてるんじゃないの」
「もう、大丈夫、って言ってんじゃん。他人のことより自分の心配したら。去年の誕生日だって、入院してて家にいなかったくせに」
浅井芽有の大きな声が、店内に響いた。重い沈黙が降りた。
「……ごめんね」
「……あたしのほうこそ、ごめん。これ、買ってくる。お母さんの分と、二つね」
浅井芽有はレジで精算を済ませると、母親と二人並んで売店から出て行こうとした。その様子を、目の端で追っていると、去り際に浅井芽有がこちらに気づいた。浅井芽有は、一瞬だけはっと表情を変え、すぐに視線を戻して、何も言わずにそのまま去って行った。
俺は少し間を置いて売店を出て、寮に戻った。イヤホンで音楽を聴きながら、自転車で買い物に行った。正面から煽ってくる風が、冷たかった。季節は徐々に移り替わってきている。時間は待ってくれない。
俺は寮に戻って、米を炊き、サラダと豚肉の生姜焼き作った。それらを食べながら、テレビを見た。何一つ面白い番組などなかったが、それでも見てしまうのだった。
食べ終えようというところで、携帯電話の着信音が鳴った。そろそろかかってくる頃だろうと予測していた。
「盗み聞きなんて趣味が悪いわよ」
案の定、浅井芽有だった。
「盗み聞きなんてしてないよ。そこにいたら、聞こえてきちゃっただけだよ」
「同じことよ。人のプライバシーへの重大な侵害だわ。罰金ね。十万円ちょうだい」
「またそれ言うの?」
「嫌ならファミレスで手を打つわ」
「そういう回りくどいこと言わなくてもいいから」
俺はジャケットに袖を通し、外に出た。浅井芽有はいつものように、病院の救急外来用の地下の窓口で、いつものように水色のパーカーを羽織って、そこに立っていた。えらく年季の入った感じの、ポシェットも肩からかけていた。
まだバスのある時刻だったので、俺たちはバスに乗り、駅前まで行った。俺たちはやはり、いつものファミリーレストランに入って、喫煙席に座った。ほとんどお決まりのコースになっていた。
浅井芽有は、席に座るなり、顔をしかめながら、煙草に火をつけた。
「いらいらする」
「その様子だね。全身から、そういうオーラが出てるよ」
「お母さん、ああいう時だけ、母親面するんだもん」
「そりゃあ、母親なんだから母親面するだろ」
「わかってる。わかってるんだけどさ。でもつい、いらっとしちゃって、はずみで余計なこと言っちゃうの。あんなこと、言わなきゃよかったって、いつも後悔する。学校でもそうだった」
浅井芽有はふうと大きく煙を吐きだし、頭をかいた。
「まあそう、カリカリせず、とりあえず何を食べるか決めろよ」
俺はメニューを開いて浅井芽有の前に差し出した。
やたらと姿勢のよいウェイターが寄ってきて、注文を聞いた。俺はコーヒーフロートを頼んだ。浅井芽有はラザニアとシーフードサラダを頼んだ。
「デザートはいらないの?」
「いらない。もったいないから。二品で十分」
「べつに、遠慮することないぞ。好きに食べろよ」
「いらないったら、いらない。あたし、今日から自分の分は、自分で払うから」
「どうしたんだ、急に?」
「まあ、わずかばかりだけど、国からの補助を貰ってるんだし、お金がないってわけじゃない。考えてみれば、ドクターはあたしの保護者じゃないし、先輩でもないし、奢られる筋合いなんてないもん」
浅井芽有がテーブルに肘をついて、手のひらの上に顎を乗っけた。
「それにドクターは、つまんない女に貢いだりするのにお金が必要で、あたしなんかのために使ってる余裕ないでしょ」
「なんか勘違いしているようだけど、君がそうしたいって言うなら、べつにそれでいいよ。ただ、無理はするなよ」
となると、俺はなぜ浅井芽有と卓を囲んでいるのか、その意義がよくわからなくなってしまった。
浅井芽有は、煙草を灰皿に押し付けてもみ消した。そしてポシェットから輪っかになった赤い紐を取り出し、それを十本の指で弄り始めた。
「あやとり?」
「そう。本当に、経済的な暇つぶしよ。元手が紐だけだからね。自分で言うのもなんだけど、恐ろしい速さで上達してるわ」
しばらくしてから、浅井芽有は紐を掲げた。
「ほら、ちょうちょ」
「ほう」
「それだけ?」
「上手いもんだな」
「でしょ。他にも、レパートリーが増えたんだよ。本屋で立ち読みして、その場で覚えた」
浅井芽有は再び、黙々と紐を弄り始めた。
俺は、ウェイターが持ってきたコーヒーフロートのアイスクリームをスプーンですくい取り、口に運んだ。そして窓の外に目をやった。繁華街の道を、人々がせわしなく行き来していた。
「ほら、飛行機」
「へえ」
「なんだか、感動が薄いわね」
浅井芽有は掲げた手を下げて言った。
「誰だって、このくらいの反応だと思うけどね」
「まあ、いいわ。たぶん、おばあちゃんならわかってくれると思うから。三段梯子はおばあちゃんに教えてもらおうと思って、やり方を読んでないの」
「おばあちゃん?俺のお母さんのこと?」
「そう。行っちゃまずい?」
「……べつに、まずいってことないけど。喜ぶと思うよ」
ウェイターが浅井芽有の前に、もうもうと湯気の立ち込めたラザニアとサラダを置いた。浅井芽有は黙々とそれを平らげた。
「最近はさ、日がな一日、図書館の隣のベンチに座って、適当に借りた本読んで、飽きたらあやとりをしながら、いろいろつまらないことを考えて、っていうのが習慣なのよ。本当、暇だよね。暇人の極致」
「とても豊かな時間の使い方だと思うよ」
俺はストローに口を付けながら言った。
「それって嫌味?」
「べつに嫌味じゃないよ。人生にはそういう時間も必要だと、割と真剣に思ってるんだよ」
「本当に?」
浅井芽有は疑惑の目つきをこちらに向けた。
「まあ、いいわ。で、そんな時に、同じ学校の制服着たやつらが、わあきゃあ騒ぎながら通りかかってさ。反射的に物影に隠れちゃったのよ。でも、いざ顔見たら、全然知らないやつらでさ。通り過ぎていくのを見送ってから、またベンチに戻ったんだけど。なんか、馬鹿みたい、って思ってさ。本当、ばっかみたい。べつに、悪いことしたわけでもないのに、こそこそして。何やってんだろ」
浅井芽有がグラスの水を一口飲んだ。
「そんな風に、自分が情けなくて、ふさぎ込んじゃった時の処方箋を与えてよ、ドクター」
「そうだなあ……」
俺はしばし考えた。
「まあとりあえず、月でも見てみよう」
「またあ?」
浅井芽有が気の抜けた声で言った。
「こないだも同じだったじゃん。ワンパターン」
「でも太陽を見ろって言うわけにもいかないからな。目が潰れるから」
「何それ?なんで、天体縛りがあるの」
浅井芽有はそう言って、少しだけ笑った。そして窓の外の空を覗き込んだ。
「満月寸前の月の、上半分だけがビルの影から見えてるわ」
俺も少し身を乗り出して、覗き込んだ。
「本当だ」
月はうっすらとわずかに、左が欠けていた。
浅井芽有は視線を戻して、ポシェットから煙草の箱を取り出した。そして箱から煙草を一本つまんで出したところで、ふと動きを止め、何かを考えるように一瞬天井を見て、しかる後にまた箱に戻した。
「やめとこ。少し節約しないと」
精算の際、浅井芽有は自分の代金を払った。
「本屋に寄りたい。買いたい本があるの」
ファミリーレストランを出ると、浅井芽有が言った。
俺たちは商店街の中の、小さな書店に入った。浅井芽有は料理本の並んだ本棚の前で立ち止まり、物色し始めた。一つ手に取ってぺらぺらと捲っては、また本棚に戻した。
「料理するつもりなのか」
「そうよ。悪い?」
「悪いどころか、大いに奨励したい」
「コンビニの弁当より、じつは自分で作ったほうが安いって気づいたのよ。どういうのがいいのかしら」
「変に凝ったのはやめろよ。挫折するからな。超初心者向けがいいと思うよ」
俺は棚の中から一冊取り出した。
「これなんか基本的なことばっか書いてあるな。俺が大学で一人暮らしを始めた時に、お母さんから餞別でもらったのも、こんなやつだった」
「じゃ、それにするわ」
浅井芽有はあっさりと決めて、俺の手からその本をするりと抜き取り、レジで購入した。
本を抱えた浅井芽有と並んで、商店街を歩いた。時刻は午後九時前だった。歩道ではがやがやと人が行き交い、商店街のど真ん中をつっきる狭い道路には、信号待ちの車が列を作っていた。
車のクラクションの音が、背後から聞こえた。かなり執拗に、何度も鳴らしていた。思わず俺は振り返った。
「おおい、直人」
そこには窓から顔を出した健二がいた。健二はゆっくりと車を走らせて、俺の目の前で止まった。車はやたらと車高が低く、ボディは真っ赤で鈍い光沢を放っていた。それは素人の自分にもわかるような高級車で、車の列の中でもひと際目立っていた。
「何やってんだ?」
と健二が訊いた。何をやっているんだろうな、と自分でも思った。
「散歩だよ」
と俺は答えた。
健二がちらりと隣にいる浅井芽有に目をやった。
「なんだ、そのガキ?」
健二が浅井芽有を顎で指して言った。浅井芽有との関係性を一言で説明するのはかなり難しい作業で、言葉を選んでいるうちに変な間が空いた。
「まあいいや。乗れよ」
健二が助手席をポンと叩いた。
「いやでも――」
「いいから乗れよ。これから夜のドライブに行くんだ」
健二はそう言って笑って、ちらりとまた浅井芽有に視線を送った。
「君も乗れよ」
「あんた、誰?」
浅井芽有が眉をひそめた。
「直人の数少ない友人の一人さ。いいから乗ってくれよ。君が乗らないと、直人も乗らない。直人はそういうやつなんだ。そうなると俺は、一人ぼっちで夜の街を走ることになる。悲しいもんだ」
そして健二は、人を馬鹿にしたように、おどけた様子で、大げさに誇張した悲しげな表情を作って見せた。
浅井芽有はちらりと俺に目をやり、しばらくの沈黙の後に、後部座席を開けて車に乗り込んだ。それを見て、俺も反対側に回り込み、ドアを開けて助手席に座った。
信号が変わり、健二がアクセルを踏み込んで車を走らせた。心地よいエンジンの振動が椅子から伝わってきた。
「週明けから謹慎が解けて復帰さ。その前祝いだ」
「そうか。よかったな」
「よかない。またあのブルーワーカーの日々を思うとうんざりする。謹慎中は家でグレープジュース片手に読書漬けだったからな。気ままで悪くなかった」
健二の車が大きく右折した。
「ここから海まで行くぜ。海岸沿いを走ろう」
しばらくして、健二がバックミラー越しに後部座席に座っている浅井芽有に目をやった。浅井芽有は腕組みをして、窓の外の流れていく風景を眺めていた。
「そんで、お前らはどういう間柄なんだ?説明しろ」
俺は、順を追って、浅井芽有とのことを説明した。要は勤めている病院の入院患者の子供なのだが、紆余曲折あって時々会っている、ということだ。
「なるほど。じゃあ、いつぞやの、屋上で飛び降りようとしたり、吹っ掛けてきて金せびったりした女の子ってのが、君ってことか」
健二は背後にいる浅井芽有に向かって言った。
「そうよ。悪い?」
「大いに悪いね。相手が直人だったからいいが、それが変態だったりチンピラだったりしたらどうする?姦されて今頃どっかに沈められていてもおかしくない。ガキが大人を舐めてると痛い目に合う。君のために言っているのさ」
「大きなお世話ね」
健二がCDプレイヤーの再生ボタンを押した。車内にギターの音が響いた。
「ロックは黎明期のものに限る。八十年代に入ると、もう終わってる。なんだってそうだけどな。黎明期に、粗くても最もエネルギーが高いものが生まれる。成熟し商業主義が浸透すると、平均的な品質が向上しても、もはやエネルギーはない。初期衝動ってのが一番大事なのさ」
「そんなの偏見なんじゃないの。いつの時代にだって、いいものはあるわよ」
浅井芽有がぽそりと言った。健二が無言のまま、またちらりとバックミラーに目をやった。
「正論だな。だがそれは正しいってだけで何の発展性もない。直人はクラシック好きだったな。そこの棚に、いくつかクラシックのCDも入ってる。好きなものがあったらかけてくれ」
俺は助手席の前のラックを開けた。そこにはメンデルスゾーンとバッハのCDと、そしていくつもの空の酒瓶とビールの缶が無造作に入っていた。俺はため息をついて、ラックを閉めた。
「はけてきたから、少し速度を上げるぜ」
健二がアクセルを踏み込んだ。車の速度が、一段階上がった。車線変更して前の車を追い越した。相変わらず、健二の運転は抜群にうまかった。
「高井っているだろ。同期の研修医の」
「うん」
「あいつ、休職だとよ。過労でぶっ倒れたんだって。救急でいいように使われてたからな」
「そっか……。うちの救急、大変そうだもんな。救急はどこでも大変だと思うけど」
「うちの救急は終わってる。人員が少ないくせに、ほいほい受けすぎるんだ。結果いつでもオーバーフロー状態さ。そんな時に副医局長は産休だもんな。女医なんてまったく信用できない。あいつらは自分のことしか考えてない。結果、下っ端が過重労働を強いられる。知ってるか?あいつ、先月十三回当直やってたんだぜ。狂気の沙汰だ」
健二は首を振った。
「医療側だけじゃなくて、患者側にも問題がある。俺たちの辛苦に基づく医療サービスを当然のようにただで享受している、生保の連中さ。あいつらはクズだ。ただなのをいいことに、くだらないことで受診しやがる。あんな、何の生産性もないやつらのために、貴重な医療資源を投入する必要なんてない。そんなやつらのために仕事が増えて、結果磨耗してバーンアウトしちまう同業者がいることに、俺は真剣に腹を立てている」
「あんた、なんでそんなに偉そうなの?」
浅井芽有が言った。
「何か気にさわったか?」
「生産性がなけりゃ、医療を受ける権利はないっていうの?」
「権利はあるさ。だからやってやってるんだよ。俺は、どんな深い時間帯にどんなくだらないことで受診するやつがいても、嫌な顔なんてしないぜ。それが俺の仕事だからな。例え生保で、金が入りゃパチンコと酒に全部使って、借金に塗れてアル中で、入院してりゃ病棟で怒鳴ってばかりいるようなクズでも、具合が悪いとなったら飛んでいくし、適切な処置をするぜ。ただ、心の中では『いいから死んどけよ』って思うけどな。『お前が生きてても社会にとっちゃマイナスだし、お前自身も辛そうだから、とりあえず死んどけよ』ってな。それは俺の思想の問題だ。俺がどんな思想を持とうが勝手だろ」
「そりゃ、あんたが何を思おうと勝手だけどさ。でも、そんなこと言ってる、あんたがクズよ」
「クズだと?」
健二がハンドルを持ったまま、後ろを振り向いた。目前にカーブがすごい勢いで迫った。
「おい、健二、前向け」
健二はブレーキを踏み込み、一気に減速して、なんとかカーブを曲がった。
「お前、名前、なんていうんだ?」
「人の名前を聞くときはまず自分からって、ママから教わらなかったの?」
「生憎、母親はそんなつまらない定型句を言うような、くだらない人間じゃなかったものでね。まあいい。俺は井岡健二だ」
「浅井芽有」
浅井芽有は、ほとんど被せ気味に、早口に言った。
「メアリー?」
と言って健二は眉をひそめたが、浅井芽有は無言で窓の外を見続けていた。
「浅井メアリー、とやら。もう一度忠告してやる。大人に舐めた口をきくもんじゃない」
「‘大人’相手だったら、こんな口きいてないわ」
健二がもう一度振り向こうとした。俺は慌てて制した。
「おい、健二、お前な」
「悪かったよ。ガキ相手に大人げなかったな。全部俺が悪い」
健二はそう言って、不自然に笑った。
しばらくの間、沈黙が車内を覆っていた。車は都市部から離れ、窓の外は夜の闇の中に沈んでいた。車のヘッドライトが、前方にくっきりとした白い道筋を作っていた。
車はぐんぐんと加速していた。目前の光景はすぐに背後へと過ぎ去った。
「おい、健二。スピード出し過ぎじゃないか?」
「全然、大したことない。たかが百六十キロだ」
「百六十?」
「メジャーリーグのピッチャーだったら、投げられる速度だ」
健二はさらにアクセルを踏み込んだ。
「おい」
「しばらくは単調な真っ直ぐな道が続くんだ。飛ばさないと面白くない」
前方に同じ車線を走るワゴン車が見えた。見えたと思ったら、あっと言う間に目の前に迫ってきた。健二は片手で小さくハンドルを回し、車線を変更して抜き去った。
健二がちらりと俺の顔を見た。
「顔が引きつってるぞ。大丈夫だ。俺の運転技術とこのフェラーリの性能を信じろ」
車はその後も、ものすごいスピードですいすいと車線変更をしながら、いくつもの車を追い越して行った。まるでジェットコースターに乗っているような気分だった。
「馬鹿じゃないの」
と背後で浅井芽有はつぶやいた。
「走りの快感を知らないようなやつのほうが馬鹿なのさ」
海岸まで来て、ようやく健二はスピードを落とした。しばし海岸沿いの道をゆっくりと走らせた。夜の海は、すべてを呑み込んでしまいそうな深い闇に包まれていた。遠くでちかちかと点滅する光が見えた。
「見ろよ、灯台だ」
健二が窓を開けた。潮を含んだ湿っぽい空気が、車内に流れ込んできた。
「メアリー嬢も、機嫌を直して風にでも当たれ」
健二が後部座席の窓も開けた。浅井芽有の長い髪の毛が、風でなびいた。
「べつに、不機嫌になんてなってないわよ。それと、あたしの名前はメアリーじゃなくて、芽が有ると書いて、芽有」
「芽有、か。失礼」
健二は片手でハンドルを持ちながら、少し窓から身を乗り出して、空を見上げた。空には、先ほどより東に動いた満月寸前の月が浮かび、海面に反射してもう一つ見えた。
「月が見えるな。月を見ると、俺はなんだか不安になるんだ。あれが、何万キロも向こうにある物で、地球の周りをぐるぐる回ってて、そんな地球は太陽の周りを時速十万キロくらいで回ってるんだぜ。俺が、走らせたいって目をぎらつかせて、たかだか二百キロ近く飛ばして悦に浸ってる一方で、なんのことはない、俺は既に時速十万キロで動く物体の上に乗ってるんだ。おかしな話だろ。そういう、宇宙のスケールに思いを馳せると、怖くなってくる。個々の命にとっては、自分の見て感じる世界こそが全宇宙なのに、宇宙から見たら、命なんて砂漠の中の一粒の砂みたいなもんだ。自分が生まれる前からこの世界があって、自分が死んだ後もずっと世界が続いていくってことが、どうにもぴんと来ない」
「天動説で止まっててくれたらよかったのにね」
背後の浅井芽有が言った。
「地面は真っ平らで、天上は星が張り付けられたドームが覆ってる、って単純な世界観のままだったらよかったのにね。そしたら、より広い世界があるってことを知って傷ついて少しやけになっちゃう、誰かさんみたいなナイーブな青少年が生まれることもなかったのにね」
「なかなか面白いことを言う」
と健二は言った。
「君は賢い女だな。しかし残念ながら、賢い女は幸せになれない」
「だいぶ偏見に満ちた意見だと思うけど」
「意見じゃなくて事実だよ。善し悪しとは関係なしに、社会ってのはそういうものなんだ」
健二が腕時計に目をやり、
「ぼちぼち帰るか」
と言って車をUターンさせた。
CDが終わり、曲が止んだ。健二はラジオに切り替えた。ラジオからはニュースが流れていた。それは最初、遠い中東の紛争についてのことだったが、やがてアナウンサーは、嶺明会という医療法人の巨額の闇献金疑惑について語り始めた。途端に、健二の顔つきが変わった。嶺明会とは健二の父親が会長を務める医療法人だった。
「胸糞悪い」
健二はラジオを消した。
「直人、なんかクラシックをかけてくれ」
俺はラックからメンデルスゾーンを選び、再生ボタンを押した。車内には真夏の夜の夢を知らせるフルートが鳴り響いた。
健二は帰りの道を、黙々と運転した。行きのような無茶なスピードは出さなかった。
一時間ほど経って、見慣れた街並みが見えてきた。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
健二が言った。
「最近、人と喋ってなかったからな」
「誰とも連絡とらなかったの?」
「傷害事件を起こして謹慎くらってるようなやつとは、誰も交流したがらないさ。潮が引いていくみたいに、誰もいなくなった。ヒッチコックの映画ばりにな。まあ、人間関係が整理されてちょうどいい。くだらないやつらばかりだったしな」
健二は、先ほど俺たちを拾ったファミリーレストランの前で、車を止めた。
「着いたぜ。お疲れ」
浅井芽有は無言で車を降りた。俺はドアを半分開けたところで、振り返った。
「なあ、健二」
「なんだ?」
「……また、飯でも行こう」
健二は一瞬きょとんとして、でもその後で微笑んだ。
「そうだな、また行こう。今度は寿司だな」
そして俺はドアを閉め、小走りで歩道に入った。
「じゃあ、芽有嬢も、気が向いたらこれに懲りずにまた遊んでくれ」
健二が窓を開けて、笑顔でそう言った。
「あのさ、ひとこと言っておきたいんだけど」
浅井芽有が口を開いた。
「あたし、あんたが嫌い。虫唾が走る」
しばしの沈黙が流れた。健二はそのまま笑顔を崩さなかった。背後で行き来する人の雑踏がやけに大きく聞こえた。
「君がなぜ俺を嫌うのか、なんとなく理由はわかるよ。でもな、人にはそれぞれ、事情ってものがあるんだ。いつかお嬢ちゃんにもわかる時がくる。それにな、君だって俺と同類なんだぜ」
「はあ?片や外車を乗り回すボンボン、片や国からの補助で食いつなぐ子供。どこが同じだって言うの?」
「そういうことじゃないんだ。まあいい。どうせ賢しい君のことだから、わかっているんだ」
健二が俺に目を移した。
「じゃあ、直人、またな。芽有嬢も、また」
健二が手を振って窓を閉めた。そして真紅のフェラーリが、エンジン音を辺りに響かせながら、走り去っていった。
「気の毒な人ね。久々に、本当に気の毒な人を見たわ」
車が見えなくなった後、浅井芽有はそう言った。そして、ひとつ大あくびをした。
「眠いから帰る。じゃあね」
浅井芽有はひらひらと手を振って、早足で歩き去って行った。
俺は最終のバスに乗り、帰路に着いた。
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