第7話

その七


 担当していた麻酔の手伝いが終わった後、上級医から大学院までカンファレンス用の資料を取りに行って来いと言われた。つまるところ、使い走りだ。そんなことまで初期研修医にさせるものなのかと思ったが、俺は黙って取りに行くことにした。

 病院から大学院へ続く道には、桜の木が植えてある。春になると満開になり、桃色の桜の花が道を覆って、なかなかに壮観な光景になる。俺はその道を早歩きで歩いていると、背後から声をかけられた。

「よお、直人。さぼってないで仕事をしろ」

 健二だった。

「さぼってないよ。パシらされてるんだよ。上級医の発表原稿を取りにな」

「そりゃあ、お気の毒に」

「健二こそ何やってる?」

「俺は、大学の図書館に行く。いくつか調べものをするんだ」

「まだ勤務中だろ」

「構やしない。どうせ仕事は終わってるんだ。図書館は静かだし、集中できていい」

 すると道の前から、ずんぐりとした体型の、顎髭をびっしりと生やした、白衣を着た男が、ずんずんと近づいてきた。髭達磨こと、消化器外科の医局長の目良先生だった。髭達磨は、にこやかな顔のつくりなのだが、目が笑っていなくて、学生や研修医からは恐れられていた。

「おい、新入り」

 髭達磨が、健二に言った。髭達磨は、研修医は十把一絡げに新入りと呼ぶのだ。

「病棟離れて、どこ行く気だ?」

「図書館です」

 健二は、平然と答えた。

「病棟はどうした?患者さんは、どうなってる?」

「処置はすべて終えてきました。呼ばれたら、もちろん戻りますよ」

「ほう」

 髭達磨が不敵に笑った。

「CV挿入、点滴オーダー、術前処置、術後処置、担当しているものはすべてやりました。ご確認いただければと思います」

「確認はしたよ。完璧な仕事だ。立派なもんさ」

 髭達磨が自分の顎鬚をざらりと撫でた。

「でもな、それは本当にただの‘完璧な仕事’に過ぎない。患者に向けた治療行為とは、ちょっと意味が違うわな。お前はまだ、‘治療’は全然できてない」

「言っていることの意味が、よくわかりません」

「そうか。じゃあ、もう一度わかりやすく言ってやる。新入り、つべこべ言わねえで、とっとと病棟へ戻りやがれ」

 健二はしばらくの間、髭達磨の目を見据えていた。そしてやがて、

「わかりました。失礼します」

 と言って頭を下げ、病院へと戻って行った。


 それから二週間ほど経った頃、突然、健二が病院に来なくなった。柄にもなく風邪でも引いたのかと思ったが、五日経っても健二の姿は見えなかった。健二がいつも座っていたソファの席には、代わりに昼寝をしている前原の姿があった。

 前原は、俺がドアを開けると、目を開けて大あくびをした。

「お疲れ」

「お疲れ。当直明けなんだよ。さぼってるわけじゃないんだぜ」

「うん」

「いや、マジで寝られない当直だよ。患者多すぎだよ。継ぎ目がない。ばたばた慌ただしくて、大変だ。都市部はやばいな。こんなのずっとは続けられん。やっぱり隠岐の島に帰ろうかな」

「きっと喜ばれるよ」

 前原が首を左右に振って、こきこきと音を鳴らした。

「健二、最近見ないよな」

「健二?ああ、井岡のことか。あいつ今、謹慎中だよ」

「謹慎?」

 俺は驚いた。

「謹慎て、どういうこと?」

「お前、知らないの?めっちゃ噂になってるよ。あいつ、飲み屋で客をぶん殴って、被害届出されたんだよ。相手は鼻の骨を折ったとか」

「それ、本当?」

「本当だよ。あいつ、終わったな。完全無欠って感じだったけど、まさかそんなつまんねえことで人生棒に振るとはな。意外なもんだ」

 そして前原は、再びあくびをして、目を閉じ昼寝の続きを再開した。


 その日、俺は仕事が終わると同時に、健二に電話をかけた。

「もしもし」

「おお、直人か。もう仕事終わったのか」

「お前、謹慎中って本当か?」

「本当だよ」

「人殴ったって怪我させたって本当か?」

「本当みたいだな。何も覚えてないんだけどな」

「酔ってたんだな」

「不思議なもんで、マンゴージュースでも酔っぱらう体質なんだ、俺」

 健二は笑った。

「笑い事じゃねえだろ」

「たいしたことねえよ。どの道、立件されやしない。親父が手を回して、たぶん示談になる。いくらで手打ちになるか知らねえけどな」

「そういう問題じゃない」

 俺はため息をついた。

「なあ、直人。今日これから、うちに来いよ」

「言われなくても行くつもりだよ。ちょっと話があるからな」

「よかった。一人で暇だったんだよ。さすがにこのタイミングで、飲みに繰り出すわけにはいかないしな」

 俺は通話を切って、電車を乗り継ぎ、健二のマンションに向かった。

「よお、お早い到着だな」

 ドアを開けた健二は、いつもと変わらないにやけ顔で出迎えた。部屋は相変わらず、几帳面すぎるくらいに整理され、塵ひとつ落ちていなかった。

「まあ、ゆっくりしてくれ」

 健二が食器棚から、艶やかに光るグラスを取り出し、冷蔵庫を開けた。

「いいワインがある。せっかくだから開けようぜ」

「お前な……」

「冗談だよ」

 健二は言った。そしてグレープジュースを取り出し、それをグラスに注いだ。下半分がジュースで青色に染まったグラスを、健二はリビングに運び、テーブルに置いた。そしてソファに深く身を沈めた。

「わかってる。馬鹿なことをした。相手には、悪いことをしたと思ってる。お前にも、心配をかけた。すまない」

 健二はジュースに口を付けた。

「酒はもうやめるよ」

「もうそれ、何回も聞いてるよ」

「その度ごとに、俺は本当に、やめようと思ってるんだ。そこに嘘はない。ただ時間が経つと、変な飢餓感に襲われるんだ。べつにアルコール依存てわけじゃない。ただ、アルコールに纏わる何かに、依存してるんだろうけどな」

「なあ、健二。俺ははっきり言って、酔ってるお前が好きじゃない。不安になる。なんか、遠くに感ずる。彼岸の向こうで笑ってるように見えてくる。それが、たまらなく嫌だ」

 健二はグラスを左右に振って、笑った。

「直人、お前は、すごいな。そういうことを真顔で言えるんだ。尊敬する」

「茶化して誤魔化すなよ」

「茶化してない。本当に、尊敬しているんだ」

 健二は立ち上がって、CDをプレイヤーにかけた。左右に据えらえた棒状の音響設備から、六十年代のロック黎明期の歌が聴こえてきた。

「示談の件は、俺が頼んだわけじゃない。俺は、自分が制裁を受けるべきだと思ってる。でもそんなの、周りが許しちゃくれない。グループの名誉がかかってるからな。こうして俺も、親父の虚飾の中に組み込まれていく。吐き気がする」

 健二はジュースを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。

「お前に、見せたいものがある」

 健二が立ち上がった。俺も続いて立ち上がり、その背中を追った。

「ここだ」

 健二が扉を開けたのは、以前も見たことのある、四方に本が並べられた書庫だった。書庫は古書の臭いで満たされていた。

「すごいだろ」

「うん。でも、こないだお前を送った時に、拝見させてもらった」

「なんだ、もう見てたのか」

 健二はつまらなそうに言った。

「他人の家を探索するなんて趣味が悪いぞ」

「お前が泥酔したのが悪いんだろ」

 健二が脚立の上に腰を下ろした。

「ここは俺の、憩いの場なんだ。本に囲まれていると、俺は幸せな気持ちになる。欲しいと思うものがあったら、多少値が張っても手を出す。海外から取り寄せることもある。なるべく原著で読みたいからな。直人は本を読むか?」

「読むけどお前の百分の一以下だと思うよ」

「そりゃもったいない。人生を損している」

 俺は目の前にある本棚に闇雲に手を突っ込み、一冊取り出した。全面紫色の表紙に、白色でSchopenhauerと書かれていた。

「何これ?」

「ショーペンハウアーだな。ほんの三か月くらい、哲学にはまって読み漁った時期があったんだ。その一角は哲学コーナーだな。ジャンルごとに区分けして整理してるんだ。あそこが生物学、そこが日本文学、外国文学、それに化学に司法に天文学、もちろん医学もな。奥の部屋には漫画も大量にあるんだぜ」

 健二は脚立の上に乗り、天井近くの大きな本を手に取った。

「こいつは、ファラデーの著作の原書だ。最近は物理や数学に凝ってる。美とシンプルさを追求する姿勢がいい。医学じゃこうはいかない。人間相手は複雑で面倒で不確定要素が多すぎるからな」

 健二は本をぱたんと閉じて、棚に戻した。

「いろいろ勉強してんだな」

「勉強?馬鹿言うな。道楽さ。こんな浅い知識じゃ役には立たない。俺は一つの分野を突き詰めることができないんだ。ある分野の浅瀬をさらっと理解したら、また次のものに移ってく。そしてつまらないトリビアだけがどんどん増えて、頭でっかちになっていくのさ。悲しいもんだ」

 俺たちは書庫を出て、居間に戻った。窓の外は真っ暗で、眼下には住宅の光が点々と見えた。タワーマンションならではの光景だった。

 健二がダイニングで、今度はオレンジジュースをグラスに注いだ。

「禁酒で、俺は太るだろうな。糖尿になるんだ」

 そしてまた、どっかりとソファに身を沈めた。

「何はともあれ、知ることはとても面白い。世界は不思議で満ちている。人体なんかもそうだ。その個体の中に、無数の物理と化学の反応がひしめいている。その無数の反応が、知れば知るほど、恐ろしいくらいに美的で合理的なんだよ。俺はそういう、世界とか、生命とかのあり様を、少しでも理解したい。俺みたいな凡人に何ができるかって話なんだけど、それでも、少しでも、生きている間に、『なるほど、そういうことか』って、腑に落ちる体験をしたいんだ」

「お前が凡人なんだったら、俺らはいったい何なんだよ」

 俺は笑った。しかし健二は笑わなかった。

「俺はほんの少し器用なだけで、凡庸な、つまらない人間なんだよ」

「でもさ、生活なんて、基本的には凡庸なものじゃん。そりゃあ、天才的な、一瞬のきらめきに憧れたりはするけれど、でも凡庸なことを凡庸に続けていく中で、見えてくる真実ってのもあるんじゃないの」

 健二はグラスを揺らして目を細めた。

「本当に、いかにも直人らしい、凡庸な一般論だな」

「凡庸を語らせたら右に出る者はいないんだ」

 健二は少しだけ笑みを見せた。

 午後八時を回り、俺は帰ることにした。「また来いよ」と健二はひと言言って、扉はぴたりと閉まった。


 その次の日、俺は大澤さんから電話をもらった。連絡の内容は、母の様子のことだった。ここ最近、再び連日にわたって深夜に大声をあげているというのだ。

 その週末に、俺は一人で介護施設に赴いた。母は自室で、とろとろと浅い眠りに入っていた。

「最近、こんな感じで、昼間に眠っちゃって。夜になると目がらんらんとして、声を上げちゃうんですよ。それもこれまでよりちょっとトーンが上がっちゃって滅裂で。自分で立とうとしちゃって、危ないんです」

「あの……ご迷惑かけて、どうもすいません」

 俺は頭を下げた。

「謝らないでください。そういうことじゃないんです。そういう状態で、ご本人もちょっと疲弊しちゃいそうだから、今日、医師に診てもらおうと思って。それをお伝えしようと思ったんです。よろしいですか?」

「もちろんです。診て頂けるなら、ありがたいです」

 がらりと部屋のドアが開く音が聞こえた。

「鈴木さんて方、どの方ですか?」

 何やら聞き覚えのある声に、俺は振り返った。そこには、宮本先生がいた。俺は驚いた。宮本先生は俺の顔を見るなり、「あっ」と小さく声を漏らした。

「鈴木……先生、だっけ?」

「お疲れ様です。御無沙汰しております」

 俺は慌てて立ち上がり、宮本先生に頭を下げた。

「お知り合い?」

 大澤さんが、不思議そうに言った。

「ええ、まあ、ちょっと。鈴木さんて、そちらの方、ですね?」

 宮本先生は、部屋の中に入り、ドアを閉めた。しっかりと化粧をしていて、大学病院で見た時よりいくぶん印象が違った。

「記録、読みました。たぶん、せん妄ですね」

 宮本先生が、母親の前まで来て、膝をついて座った。

「鈴木さあん。起きててください。ぽかぽか気持ちいいのはわかるんですけど、今寝たら、夜寝られなくなっちゃいますよ」

 母親が、うっすらとその目を開けた。

「はい?」

「こんにちは。医師の、宮本です」

「はあ……」

「鈴木さん、車いす、乗りましょうか」

 宮本先生が、てきぱきと車いすを用意した。そして宮本先生は、大澤さんと一緒に母親を介助し、よっこらせと車いすに乗せた。

「じゃ、ちょっと移動しますよ」

宮本先生はゆっくりと車いすを押して、母親をホールの窓際のテーブルの前まで連れて行った。

「鈴木さん、ちょっとここで、陽の光浴びててください。今日はいい天気、おひさまぴかぴかです。ちなみに今、午後二時三十分です。もうすぐ、おやつの時間です。今日は桃だそうですよ」

 宮本先生はそう言って、少し離れたところで大澤さんと何やら小声で立ち話をした。俺は話の内容が気になって、少し彼らに歩み寄った。

「眠たそうだから、寝ててもらおうなんていうのは、はっきり言って手抜きですよ。注意は必要になるけど、短時間でもホールに出てもらわないとだめです。あっという間に昼夜逆転しますから」

「わかりました」

「一時間はここに居てもらって、その後は自室でギャッジアップしてください。声掛けも頻繁にやりましょう。あと、寝る前に薬も少々飲んでもらいます。もう少しはっきりしたところで、スケールもとります」

 宮本先生が俺にちらりと目をやった。

「じゃあ、ちょっと、ご家族の方、こちらに来てください」

 俺は宮本先生の後について、ホールの端にある家族面談室に入った。

 宮本先生は、椅子に腰を掛けて、ふうとため息をついて親指をこめかみに当てた。

「まったく、びっくりだわ。こんなところで、あんたに遭遇するなんて」

「……すいません」

「いや、謝ることじゃないでしょ。不思議なこともあるものだ、って言ってるだけよ」

 俺は鞄を床に置いて、向かいの席に座った。

「あの、宮本先生が、どうしてここに……?」

「一週間に一回、嘱託の内科医として、ここに診察に来てるのよ」

「なるほど」

「まあじゃあ、ここから先は、医師と患者さん家族の関係で、話をするから。私はそういうの、なあなあにしないから」

「わかりました」

 宮本先生はひとつ咳払いをした。

「では、ご説明いたしますので、質問等ありましたら、話を止めていただいて結構です。まず、鈴木さんは、夜間せん妄と思われます。せん妄とは、認知症や大きな手術後の、おもに高齢の方が、意識が混濁して、時間や日付の感覚がなくなったり、昼夜が逆転したり、時に幻視を認めたりするものです」

 急に堅い喋りになった。本当に真面目な人なんだなと思った。

「急激に認知症が進んだように見えてしまいますが、これは可逆的なものです。大事なことは、日中の覚醒をしっかり促して、夜間しっかり睡眠をとっていただくことです。転倒の危険はありますが、日中は時々ホールに出ていただこうかと思います。あと、寝る前に少量の薬剤を飲んでいただこうかと思います」

「薬の内容は、なんですか?いえあの、治療はもう、全面的に先生にお任せするつもりなんですけど、一応聞いときたいんです。口出しするつもりはまったくありません」

「あのね、そんなに怖がらなくてもいいんじゃない。私、そんな怖いイメージ?」

「そういうわけじゃないです」

「まあ、いいわ。使用するのは、クエチアピンという抗精神病薬です。二十五ミリグラムという少量から開始し状況を見て増減いたします。鎮静作用があるので、夜間に良眠がとれるようになることが期待されます。考え得る副作用としては、過鎮静によるふらつき、転倒、高血糖、あるいは錐体外路症状と呼ばれるパーキンソン病のような運動障害などです。副作用が出現したら、適宜用量、用法、あるいは薬剤の種類は調整いたします」

「抗精神病薬って、統合失調症に使う薬じゃないんですか?」

「基本はそうですが、せん妄の人にも使うのです」

「睡眠薬じゃだめなんですか?」

 俺は単純に疑問に思ったので、率直に聞いてしまった。宮本先生の目がかっと開いた。

「睡眠薬なんか使ったら、余計せん妄がひどくなるんだってば。教えたじゃん、野川さんが大せん妄起こした時に」

「野川さん?」

「あの、大学病院の五〇七号の野川さんよ。脊髄小脳変性症の。『自転車が追いかけてくる』って夜中に騒いでたでしょ」

「あー……、はい、思い出しました」

「睡眠薬は、薬理機序がアルコールと似てるんだから。高齢の人にうかつに使うと、余計に意識野が狭くなるのよ。スライドまで使って講義したじゃん。本当にもう……。ちっとも、身についてない」

「……すいません」

「せん妄は、どの科にいったって診ることになるんだから。帰ったら復習しときなさいよ」

「……はい」

 宮本先生が、苛立たしげに頭をかいた。

「じゃ、私、今から回診だから」

 そう言って宮本先生は立ち上がり、部屋から出て行った。

 俺は母親の隣に座って、宮本先生が回診している姿を見るともなく見ていた。宮本先生は誰に対してもにこやかに応対していた。説明が伝わりやすいように、言葉をひとつひとつ丁寧に選んでいるのがわかった。時に胸や背中を聴診したり、打診器で反射を確認したりして、カルテにさらさらと記載していた。

 母親は、小さく切り分けられた桃を爪楊枝で刺して口に入れ、もむもむと咀嚼していた。歯は丈夫で、すべて自前で残っているのだ。

「美味しい?」

 母親はうなずいた。

「一個ちょうだい」

 母親は無言のまま俺と桃を交互に見て、やがて爪楊枝に刺した一切れを俺の目の前に差し出した。

「ありがとう」

 俺はそう言って爪楊枝を受け取り、一切れを食べた。少し生ぬるかったが、甘みの強い桃だった。

 母親が桃を食べ終わるのを見届けてから、俺は席を立ち、大澤さんに一言挨拶してからその場を後にした。

 一階に降りて、自動販売機で缶コーヒーを買った。俺はホールの長椅子に座り、リハビリに勤しむ人や、麻雀に興じる人を眺めていた。「ロン」という大きな声が、ホールに響いた。施設の外とは、別の時間の流れ方をしているように思えた。

「まだ居たの」

 隣から声が聞こえた。宮本先生だった。宮本先生は私服に着替えており、リュックサックを背負っていた。まるでハイキングに行くような恰好だった。

「お疲れ様です」

 俺は頭を下げた。

 宮本先生も自動販売機で飲み物を買って、同じ長椅子の隅っこに座った。そして、その購入した清涼飲料水の蓋を開けて、ごくりと一口飲み下した。

「さっきのことは、申し訳なく思うわよ。後輩じゃなくて、医師と患者家族の関係で、って言いだした私のほうから関係を崩しちゃって。私って、本当、だめ。ちょっとイライラすると、すぐに表に出ちゃう。自分の器の小ささに絶望するわ」

「いえ、べつに、そんなことは……。もとはと言えば、僕の不勉強のせいですから」

「その通りよ。肝に銘じておきなさい」

 宮本先生はそう言って、もう一口飲んだ。

「ここの嘱託医って、いつ頃からやってらっしゃったんですか?母をここに預けて五年になるんですけど、一度もお見受けしたことなかったので」

「まだ二か月くらいよ。始めたばっかり」

「やっぱり、医局からの派遣で、ですか。県外ですけど」

「ううん。医局とは関係ない。いわゆる、闇バイトってやつよ。だからこのこと、大学ではオフレコよ」

 宮本先生が、人差し指を唇の前で立てた。

「ぶっちゃけた話、お金が必要なのよ。親が手術をするからね。今後も治療費がかさみそうだし。妹が実家に住んでて、いろいろやってくれてるんだけど、私は遠くにいて、何もしてあげられないから。せめてお金くらい送らないと。本当、歳をとると、いろいろ考えなきゃいけないことが多くなるよね」

 宮本先生は、ふうとため息をついた。

「そう言えば、何科に行くか、決めたの?」

「いえ、それが、まだ……」

「まだ迷ってるの?相変わらず、優柔不断ね」

「先生は、何を決め手に、神経内科を選んだんですか?」

「えっ、私?私は、その……」

 宮本先生が視線をずらして口ごもった。

「まあ、私のケースは、聞いても参考にならないよ。ちょっと、不純っていうか……」

「不純?」

「いや、不純ってこともないけどさ。当時、ちょっと好きな人がいて。その人が神経内科の医局にいたのよ。べつに付き合ったりとか、そういうんじゃ全然なかったんだけど。ただちょっと、いいな、って思ってて」

「なるほど……」

 たしかに全然参考にはならなそうだった。

「でもさ、入局した直後に、その人結婚しちゃって。本当、馬鹿みたいだよね。そりゃそうだよね、彼女くらいいるよね、って思って。やけ酒飲んで、寝込んだわ。でももう、今更他科に移るわけにもいかないし、しょうがないから、この道で一人前になるか、って半ばやけくそで決意して。それで、今に至ってる」

 そう言って、宮本先生はこめかみを親指でおさえた。どうやら癖のようだった。

「私っていつもそうなのよ。医学部も、親が行けって言うから受験したし、初期研修で東北から縁もゆかりもない関東に来たのも、当時仲が良かった友達から、一緒に行こうって誘われたからだし。偉そうなことばっかり言ってるけど、自分てものがないの。周りに流されてばっかり」

「じゃあ、後悔してるんですか?」

「後悔?ぜえんぜんしてない。私、ここの土地も、今の職業も、大好きだから。神経内科は、天職よ。脳って、すごいもん。面白いもん。だって、人間の中で、一番発達してる臓器じゃない」

 宮本先生は、興奮気味に語った。はあ、そうですか、と俺は答えておいた。

「だから、この道に導いてくれたその先輩には、感謝してるわよ。どうあれ、今の私が、やりがいと探求に満ちた生活を送れるのは、その人のおかげだから」

 宮本先生は清涼飲料水を飲み干し、立ち上がって空き缶をゴミ箱に入れた。入口のドアから夕陽が差し込んでおり、宮本先生を背後から照らしていた。

「結局のところ、縁、なのかな、って思うのよね。好きだから選ぶ、っていうのができたらそれが一番いいのかもしれないけど、誰もがそんなに能動的になれたりするわけじゃないじゃん。流されるのも、芸のうちってね。流された先で、思わぬ居場所を見つけたりもすることもあるわけだしさ。だからあんたも、あんまり考えすぎないで、もっと肩の力抜いたら。あの科は居心地がよさそうとか、あの科を回ってる時に美味しいご飯を奢ってもらったとか、べつにそういうのでもいいじゃん」

 宮本先生は、そこで両手を挙げて一つ大きく伸びをした。

「それじゃ、私、行くわ。これから研究室で缶詰だから」

 時刻は五時を過ぎていた。

「これからですか?」

「そうよ。成果ださなきゃいけないからね。時々泊まり込んだりもするのよ。不夜城ってやつ」

 バスのエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。

「あ、バス来ちゃった。じゃあ、またね」

「あの」

 俺は立ち上がった。

「いろいろと、ありがとうございます。母のこと、お世話かけます。よろしくお願いします」

 宮本先生は、足を止めて、振り返った。

「必ずどうにかするなんて、無責任なことは、私は言わない。でも、できることの中の、最善を尽くしていく。それが本当に最善なのかも、慎重に検証しながらね。それが、仕事だから。あんたもそうでしょ?」

 宮本先生はそう言って、自動扉の向こうのバスに乗り込み、去って行った。


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