第6話
ある休日、俺は十二時過ぎに起きた。録りためたテレビ番組を見ているうちに、寝る時間が遅くなったのだ。
俺はパンと目玉焼きを焼いて、ラジオを聞きながら食べた。午後一時過ぎに、着替えて出かける準備をした。コーヒーをぶっかけられてクリーニングをした、例のジャンパーを羽織った。そして、クローゼットの中から、ブランドの名前の入った紙袋を引っ張り出した。袋の中身は、この日のために購入した、プレゼント包装された女性物のポーチだ。
紙袋を手に持ち、玄関で靴を履いている時に、携帯電話の着信音が鳴った。見たことのない電話番号だった。
「もしもし」
「もしもし。あたしなんだけどさ」
知らない女性の声だったので、俺は少し警戒した。
「どなたですか?」
「どなたって、あんたねえ。あんたが電話かけてこいって言ったんでしょ」
俺は浅井芽有のことを思い出した。
「ああ、君か。どうしたの?」
「コンビニ弁当も飽きてきたし、そろそろまともな物が食べたいと思ってさ」
そういえば、そんな約束をしてしまったのだ。俺は財布の中身を確認した。
「まあじゃあ、どっか食べに行くか。今、どこにいるんだ?」
「今、病院。お母さんのお見舞いの帰り」
「じゃあ、バス停前に集合な。駅まで行こう」
バス停に行くと、水色のパーカーを羽織り、白い長ズボンを履いた浅井芽有が立っており、煙草を吸っていた。
「煙草やめるんじゃなかったの?」
「そんなこと言ったかな。覚えがないわ」
「お母さんの調子はどう?」
「隔離がまだ続いてるわよ」
「隔離って、あの、鍵をかけるやつ?」
「それ以外にどの隔離があるっていうのよ。本当に、毎回毎回、いつまでこんなこと続くんだろうって思うわよ。そんなこと考えたら、イライラしちゃって、とても煙草をやめようなんて気にならない」
浅井芽有は顔をしかめて、ふうっと煙を吐き出した。
「そうか。まあ、今日はおごるよ」
「期待してるわよ」
俺たちはバスに乗り、駅の一つ手前のバス停で降りた。そしてファミリーレストランに入り、テーブルに座ってメニューを広げた。
「まともな物、って言ったのに、ファミレスなの?これじゃ、コンビニ弁当と変わらない」
「こっちもいろいろあって、懐にあんまり余裕がないんだよ。野菜中心に頼めば、コンビニよりはましだ。好きな物頼めよ」
浅井芽有はチーズハンバーグとライスとカクテルサラダを注文した。俺はドリンクバーだけ頼んだ。
「ドクターはご飯食べないの?」
「さっき起きて食べたばっかりだからな」
「夜まで仕事?」
「まあ、そんなとこだよ」
カクテルサラダがテーブルの上に置かれた。浅井芽有は取り皿にとって、箸でレタスをつまんで食べ始めた。俺はドリンクバーでコーヒーをカップに注いで、テーブルに戻ってきた。
「君は日中、何してんの?」
「だいたい、県立図書館に閉館までいるわね。ずうっと本読んでる。小さい頃から、おばあちゃんによく連れて行ってもらってたのよ。お母さんをデイケアまで送って、そのついでに図書館に寄るの。お金かからないし、静かだし、空調効いてるし、最高よ」
「そりゃあ、充実した日々だな」
「なにそれ、皮肉?」
「皮肉じゃないよ。読書に浸るなんて、充実した時間の使い方だと、心底思ってるんだよ。俺は、昔もっと本を読んでおけばよかったと、常々後悔しているからな」
「べつに、今読めばいいじゃない」
「その本を読むべきタイミングってのがあるんだよ。子供の時じゃないと、真に共感できないものとか。感性は思春期に磨かれる」
チーズハンバーグがテーブルに置かれた。もうもうと湯気があがり、チーズの臭いが漂った。浅井芽有はハンバーグを箸で割って、口に入れた。
「おばあちゃんは、結構教養人だったのよ。ほとんど売っぱらっちゃったけど、読書が好きでたくさん本持ってて、今でも何冊かは、家に埃かぶって残ってるから。そこそこいいとこのお嬢さんだったんだけど、結婚した相手が悪かったの。酒問屋の跡取りだったんだけど、どうしようもない遊び人で、店を潰して素寒貧になった挙句自分は逃げちゃって、残されたおばあちゃんは猛烈な苦労をしたのよ。自分は働きながら、お母さんにも、将来一人で生きていける女性にするために、結構厳しく教育したんだって。テストで悪い点をとると、ヒステリックに怒ったり。それで、進学校に入ったんだけど、そこで馴染めなくて、ほとんど学校に行かなくなって、六年在籍した挙句退学して、男が出来たとか言って家出しちゃったんだって。何の連絡もなく、二年後にふらっと帰ってきたんだけど、様子がおかしいとおばあちゃんは思ってたらしいわ。家に籠もり気味になって、放っておくとずっと部屋で寝ているようになって、時々ぶつぶつ独り言言って。たぶん、統合失調症の発症前夜だったんだと思う。家に戻ってきて数か月後に妊娠してることがわかって、あたしが生まれた後に、本格的に発症したの。その後のおばあちゃんの苦労たるや、惨憺たるものでさ。病んだ娘のケアしながら、幼い孫も育てて。『昔は幸せだった』『人生は恐ろしい』とかって恨み節を、小さいころから毎日毎日聞かされてたわ。結局、最後まで恨み節言いながら死んじゃった」
浅井芽有はライスをフォークですくって口に運んだ。
「こないだ話した、統合失調症の遺伝の話は覚えてる?」
「なんとなく」
「一卵性双生児で、片方発症したら、もう片方の発症率は五十パーセント。これって高い確率で遺伝するってことでもあるんだけど、逆に言えば、ほとんど同じ遺伝子を持っていても、五十パーセントは発症しない、ってことじゃない。つまり、環境次第で病気にならないこともある。発症するかしないかは環境にも左右される」
「ふむ」
「家じゃヒステリックなぎゃーぎゃーうるさいお母さんがいて、学校でも友達ができず居場所がない、ってなったら、参っちゃうじゃない。おばあちゃんは、あたしにとってはおばあちゃんだからよかったけど、あれが母親だったら大変だろうなと思う。でもおばあちゃんがそんな風に余裕がなくなったのは、元をたどればそのルーズな遊び人のおじいちゃんが原因じゃない。だからあたし、自分と自分の家族の不幸の犯人捜しをして、おじいちゃんが犯人だ、おじいちゃんがもっとまともだったら、あたしたちはこんな境遇にならずに済んだ、って思ってたの」
浅井芽有はチーズハンバーグを食べ終えて、グラスの水を飲んだ。
「でもさ、このあいだ、ちょっと想像したのよ。あたしがこういう人格になるのにいろいろ理由があって、母親がああいう人格になるにもいろいろ理由があって、同じように、そのろくでなしのおじいちゃんにもそうなる理由があったんだろうな、って。ちゃらんぽらんになって、財産食いつぶして、素寒貧にならなきゃバランスがとれないような、どうしようもない何かがあって。その何か、っていうのは、やっぱりおじいちゃんが育まれた環境とか、持ってる遺伝的な資質の影響かもしれないし、その環境とか遺伝とかっていうのも、元をたどればおじいちゃんの両親がどういう人かっていうのに関わっていく。そうやって、今こうなっている、ってことの元凶を遡っていくと、自分に血を与えてくれた、脈々と続く数えきれないくらいのご先祖様たちの数珠つなぎの業とか、あるいは偶然とか、そういうものにまで考えが及んじゃって。で、そのあたりで片頭痛がし始めて、考えるのをやめて、猛烈に煙草が吸いたくなるってわけ」
浅井芽有は灰皿を取ってきて、煙草に火をつけた。店員がちらちらとこちらを見ていた。
「これでも二十歳、ってことで口裏合わせてね」
「うん。ただ、くどいようだけど、煙草はやめたほうがいいからな」
「本当にくどいわね」
来店を知らせるアラームが鳴った。入口には、制服を着た女子中学生だか高校生だかが、数人で甲高い声を上げていた。彼らは禁煙席の端のテーブル席に座った。浅井芽有は、その方向にちらと目をやると、吸っていた煙草を灰皿でもみ消して立ち上がり、足早に店から出て行った。俺は慌てて会計を済ませ、その後を追った。
「急にどうしたんだよ?」
「べつに。クラスのやつらがいたから」
「あの女の子たち?」
浅井芽有はうなずいた。
「あいつら、小学校の時は結構仲良かったのよ。一緒によく遊んだし。でも中学に上がって、ある日から突然、口きいてくれなくなっちゃった。何が原因なのか、今でもわかんない。理由を聞いても教えてくれないし、思い当たるふしもなくて、いろいろ考えたんだけど、そのうち馬鹿馬鹿しくなっちゃって。本当、面倒くさい、って思って。人間関係とか、うざい、面倒くさい。だから、学校行くのもやめた」
浅井芽有はふうと肩で息をついて、こちらを振り返った。
「ドクターはこれから、何か用事あるの?」
「あるっちゃある」
「彼女とかと会うの?」
「いや、母親の見舞いだよ。介護施設に入所してるから、たまに見に行くんだ」
「ふうん」
浅井芽有は、しばらく何かを思案しているようだった。
「それ、差し支えなければ、あたしも一緒に行っていい?」
俺は驚いた。
「何も面白いことないと思うよ」
「そういうの期待してないから。毎日図書館にばかり行ってるから、たまには変化をつけたいのよ。あたしの暇さ加減って、ドクターが想像してる以上なんだから。邪魔はしないからさ」
「まあ、べつにいいけど」
俺たちは上り電車に三十分ほど乗り、駅に降りてバスに乗り換えた。混雑していて座れず、俺たちは出口付近で並んで立って、吊革につかまった。浅井芽有は少し背伸びが必要だった。バスは市街を抜け、小高い丘をのぼり始めた。ちょうど中腹の辺りに介護施設はある。
「正直なこと言うと、見舞いに行くのは全然気が進まないんだ」
浅井芽有がこちらに顔を向けた。
「行かなきゃいけないから行くけど、毎回気が滅入る。母親には、すごく申し訳ないんだけど。認知症が進んじゃって、もう俺のこともわからないんだ。発症前は、物静かな人だったんだけど、今はすっかり人が変わっちゃって、いつも怒ってる。何に対する怒りなのかわからないんだけど、本当にいつも怒ってて、不機嫌そうなんだ。そういう姿を見ると、つらい気持ちになる」
「お母さんて、いくつ?」
「六十二歳」
「六十二歳?認知症って、もっと年取ってなるものだと思ってたわ」
「母親はちょっと特別なんだよ。若年性認知症ってやつで。五十代前半から、まず家事が全然できなくなっていった。表情もなくなって、いつも茫洋としてて、なんというか、目の輝きもなくなっていって。すごく進行も早くて、帰省のたびに一段階進んでく印象だった。徘徊して、転んで足の骨折って車椅子になったのをきっかけに、親父が早めに退職して、自宅で介護するようになった。親父はすごく甲斐甲斐しくやってたよ。大変だったと思うけど、弱音も言わなかったし。でも五年前のある日、親父は夕食の買い物に出て、道で倒れてそのまま死んだ。くも膜下出血だったんだ。どうしようか途方にくれた。俺も学生だったし、母親の介護をする余裕がなかった。結局、親父のマンションを売って、そのお金で施設に入ってもらうことになった。そうしなかったら共倒れだと思ったから」
俺はひとつ息をついた。
「母親は、今でも時々夜中に、家に帰るって大声を上げるんだ。一度スイッチが入ると、なかなか収まらない。静止を振り切って、車椅子を階の出入り口まで走らせて、また叫ぶ。『ここから出せ』ってさ。母親の張り詰めた不機嫌そうな顔を見るたびに、居たたまれない気分になる。お前は私をここに捨てたんだ、って責められているような気がしてさ」
そこまで言ったところで、俺ははたと我に返った。
「すまない。君にする話じゃないな」
「いいのよ。たまにはドクターの愚痴も聞かないと」
フロントガラスの向こうに、母が入所している介護施設が見えてきた。
バス停に降り立って入口の前まで来て、俺はもう一度念を押した。
「本当に、何も面白いことないと思うよ」
「お気遣いなく」
自動ドアが開いた。ドアの手前には受付があり、その奥にあるホールにはリハビリ用のバーが並んでいた。おじいさんやおばあさんが、バーに掴まって、介護士の援助のもとに、ゆっくりと立ったり座ったりしていた。さらに奥には、テーブルゲーム用の卓があって、麻雀牌をかき回す音が室内に響いていた。
「すいません、鈴木弘子の家族の者です」
俺は受付に言って、用紙に自分の名前を記入した。すると奥から看護師の大澤さんが出てきた。大澤さんは中年の女性で、母が利用している部屋を担当していた。
「こんにちは」
「どうも、いつもお世話になります」
俺は頭を下げた。
「あの、母は、最近大丈夫ですか?」
「んー、時々ね、ちょっと、落ち着かなくなっちゃうこともあるんですけど……」
大澤さんが、眉をハの字に曲げる。
「でもね、以前に比べたら、夜も眠れる日がだいぶ多くなってますよ。それに、帰りたいって気持ちは、べつに不自然なものでもないですし」
大澤さんがにこりと笑い、そして俺の隣にいる浅井芽有に目を移した。
「そちらの方、妹さん?」
「えっと……」
俺は返答に窮した。どういう間柄かを一口に説明するのは大変難しい。
「従妹です」
と俺は答えた。横にいる浅井芽有が、ちらりとこちらを見た。
「あら、そうなんですね。今日は二人に来てもらって、鈴木さん、すごく喜ぶと思いますよ」
大澤さんに案内され、俺たちはエレベーターに乗り、三階で降りた。ホールには、だいたい三十人くらいのお年寄りがいた。テレビを見たり、椅子に深く腰掛けていたり、介護師の動きに合わせて上半身だけの簡単な体操をしたりと、思い思いに過ごしていた。
母親は、いつものように、ホールの出入り口のドアの前で、むっつりと不機嫌な表情で、座っていた。
「鈴木さん、そこにいると、危ないですよ。急にドアが開くこともあるから」
「開かないの」
母親が、あっけらかんと言った。
「開けて。迎えが来るから」
「そこは、開けられないの」
大澤さんが、また眉をハの字に曲げて困った顔を作った。
「鈴木さん、ご面会ですよ。今日は、二人も来てくださいましたよ」
母親が、ちらりとこちらに目をやった。
「この人だれ?」
母親が俺を指差して言った。
「息子さんよ」
「息子じゃないよ。直人はもっと、小さいのよ」
母親が手のひらで示した背は、幼稚園児くらいのものだった。
「お母さん元気?」
俺はしゃがんで、車椅子に座っている母親に問いかけた。
「お母さん、とりあえず、ここから離れようか。ここだと危ないから。看護師さんも言ってたけど、急に開いたりしてぶつかったりするから」
「いやだ」
母親が首を横に振り、再び視線をどこともつかない宙に向けた。
「お母さん、ここにいると、迷惑がかかるんだよ。あっちに行こう」
俺が母親の腕を取ろうとすると、母親がその手を払った。
「お母さんじゃない。直人はもっと、小さいんだ。今度十歳」
俺はため息をついた。同じやり取りを、これまで何十回と繰り返している。
「まだ小さいけど、賢い子なんだ」
「自慢の息子さんなのね」
浅井芽有が唐突に口を開いた。母親が浅井芽有に目を移した。
「この人だれ?」
「ご親戚の――」
と大澤さんが言い出したところで、
「あたし、浅井芽有」
と浅井芽有が言った。
「メアリー?」
「そう。芽有。外人みたいな名前でしょ?」
「めんこい顔だね」
母親が浅井芽有を指差して、大澤さんに言った。
「ありがとう。人に褒められるのなんて何年振りかしら」
母親はきょとんとして無言である。
「おばあちゃんの、その右手の指輪、素敵よ」
母親が、右手の薬指に嵌めている小さなオパールの指輪を指で撫でた。
「お父さんがくれたの」
「本当?素敵」
浅井芽有が、しゃがんで指輪をじっと覗き込んだ。
「きらきら光ってて、綺麗。でも、もうちょっと明るい所で見たいかな。おばあちゃん、あの明るい場所で、もっとその指輪、よく見せてもらえない?」
浅井芽有がホールの中央のテーブルを指差した。
母親はしばらくのあいだ無言だったが、やがてドアに背を向けて、ゆっくりと車輪を動かし、ホールの中央に移動した。俺たちはその後に付いていった。
「すごいな、君は。てこでも動かない、うちのお母さんを」
「北風となんとか、ってやつでしょ。無理強いされたら、だれだって意固地になっちゃうわよ」
テーブルまで来ると、浅井芽有は母親の右手をとって、指輪をしげしげと眺めた。
「これ、婚約指輪?」
「昭和五十年五月二十日」
母親が早口に答えた。
「それ、旦那さんがプロポーズした日?」
母親が無表情にうなずいた。
「すごいね、しっかり覚えてて。旦那さんのこと、好きなのね」
母親がまたうなずいた。
「いいなあ。あたしのお母さんとおばあちゃんは、男運なくて、二人ともろくでもないことになっちゃったから。だからたぶん、あたしも男運がないんじゃないかなって心配になるの。どうしたらいいかしらね」
「そんな複雑なこと言ったって、理解できてないよ」
俺が横やりを入れた。
「目を見ればいいよ」
母親がつぶやいた。
「目?」
「目を見ればいい」
「ふうん。それがおばあちゃん流の男の選び方なんだ。わかった。参考にしてみるよ」
「話が弾んでいるみたいですね」
大澤さんがそう言って、輪っかになっている赤い紐を母親の前に差し出した。あやとりの紐だった。
「鈴木さん、お嬢さんに、あれ、見せてあげて」
母親は紐を手に取り、手際よく指を絡ませ始めた。母親は幼いころ、あやとりが得意だったらしい。そのことを大澤さんに話したら、リハビリになるからと、時々促すようになった。記銘力は落ちていたが、指の動作は感覚で覚えているらしく、ほとんど迷いなく、器用に完成させることができた。人間の記憶の構造の不思議を思わないではいられなかった。
「あやとりなんて、お嬢さん、知らないわよね。若いもんね」
「どういうものかは知ってる。でも実際に見たのは初めてかも」
「できた」
母親が言った。
「それなに?」
「ちょうちょ」
「ふうん」
浅井芽有は、完成されたちょうちょの羽の部分を、ぴんと弾いた。
「これ、もう一本ない?」
「ありますよ。お嬢さんもやるの?」
大澤さんがもう一本紐を持ってきてくれた。浅井芽有はそれを受け取ると、母親のちょうちょを見ながら、指先を動かした。その動かし方は、明らかに不器用そうだった。
「違う。こう」
母親は指摘した。
「こう?」
「違う。ここから引っかけて、指を抜くの」
「こう?」
「違う」
試行錯誤が続いた。十分ほどして、ようやく不格好なちょうちょができた。
「できたわ」
浅井芽有が笑った。すると、母親もうっすらと微笑んだ。
「他にも何かある?」
母親は、また指先をせっせと動かした。
「ほら、できた。ほうき」
「そっちのほうが簡単そう。こう?」
「違う。こう」
浅井芽有は、結局三十分以上、母親からあやとりの指南を受けていた。俺はその様子を、ソファに座って遠巻きに眺めていた。隣には入所しているおじいさんが杖をついて座っていた。
俺はちらりと時計を見て、腰を上げた。
「そろそろお暇しよう」
俺は浅井芽有に言った。
「お母さん、再来週、また来るよ」
浅井芽有も時計を見た。
「本当だ。結構時間、経っちゃった。じゃあ、おばあちゃん、元気でね」
「次はね、三段梯子」
「うん、また、教えてね」
そして俺たちは、大澤さんにも挨拶をして、エレベーターを降り、施設から出た。ちょうどバスが来ていたので、俺たちはそれに乗り、帰路に着いた。
「あやとり、いい暇つぶしになるかも。紐さえあればできるし、お金がかかんない」
「渋い趣味を獲得したもんだな」
「ほうきとちょうちょは、やり方を覚えたわ」
浅井芽衣は指をくにゃりと動かして見せた。
「今日は、ありがとう」
「どうしてドクターが、あたしにお礼を言うの?」
「あんな風に笑ってるお母さんを見るの、久しぶりだったからさ。君のおかげだと思う」
「べつに、ただ普通に喋ってただけよ」
「その、普通に喋るってのが、俺にはできない。息子なのに、正直どんな風に声かけていいかわかんなくて、いつも戸惑ってる」
「あるものがなくなっていったり、できてたことができなくなったりすることって、自分も周りもすごく苦しいことだと思うんだけど、でもさ、ちゃんと健康な部分て残ってるんだよね。必ず残ってる。そこ、取っ掛かりにすればいいと思うんだ」
俺は思わず感心してしまった。
「すごいな、君は。どうすりゃたった十四年で、そんなことに思いが至るようになるんだ?」
「知らない。ただ、あたしはほら、身近にお母さんがいるから。ちょっと、いろいろ生活が難しくなっちゃった人と話すの、不自然な感じがしないのかも」
「なるほどね」
苦労しているな、と改めて思って、少し気の毒な気もした。
駅前のバス停で、俺たちは降りた。時刻は午後五時の少し前で、日が傾き始めていた。
「俺、逆方面にちょっと用事があるから、ここでお別れだな」
「用事って、何?」
「ちょっと、な」
「今度こそ、女ね」
「そんなんじゃないよ」
「その、手に持ってる袋と、関係してんじゃないの」
図星なので、俺は口ごもった。
「いいわよ。気を利かせて、立ち去ってあげるわよ。でも、ドクターって、つまんない女に引っかかってそう」
「そういうこと言うもんじゃない」
浅井芽有は頭をかいた。
「好きにしたら。じゃあね。ばいばい」
浅井芽有はそう言って、足早に改札の向こうに消えていった。
電車に乗って、目的の駅に着いた時には、午後五時四十分になっていた。六時には閉店になってしまう。俺は小走りで駆けて、コスプレ・リフレ『ココア』に向かった。
店の前まで来た時、俺は息が上がり、心臓が狂ったように拍動していた。普段の運動不足のつけだった。俺は深呼吸をして、息を整えてから、ビルの中に入り、エレベーターに乗った。
「おかえりなさいませ」
ドアが開くなり、女性二人が、深々と頭を下げた。
「ようこそ、コスプレ・リフレ『ココア』へ」
俺は手に持った袋の中から、プレゼント包装されたポーチを取り出した。
「あの、ゆかりんさんに、これ渡したいんですけど。閉店間際で、申し訳ないんですけど。今日、誕生日なので……」
俺は彼女たちの背後にある、店員の紹介用の掲示板を指さした。掲示板には、各々の店員の顔写真と、得意なコースと、一言紹介文と、誕生日が記されている。
「コースは最短でも二十分のものからになります。閉店時間になりましたら二十分に満たなくてもそこで終了となりますが、それでもよろしいでしょうか」
「はい。結構です」
「プレゼント・タイムは、プラス三千円で一緒にお写真を撮ることになりますが、よろしいでしょうか」
「それも、結構です」
「ではご案内いたしますので、こちらへどうぞ」
女性に案内されて、俺は廊下を歩いて行った。部屋の前で、佇んでいるゆかりんの姿が見えた。ゆかりんは、いつものように背筋をぴんと伸ばして、綺麗な姿勢だったが、視線を下に向け、どこか上の空といった表情で、少し違和感を覚えた。それでも俺と目が合うと、にこりと微笑んだ。俺の胸は高鳴った。
「おかえりなさいませ、おやまだ様。どうぞ、こちらへ」
「いえ、ここでいいです。もう閉店も近いので。今日は、渡したい物があるだけなんで」
俺はプレゼントを差し出した。
「これ、どうぞ。お誕生日、おめでとうございます」
ゆかりんの表情が、ぱっと華やいだ。
「どうも、ありがとうございます。とっても嬉しいです。感激です」
「いえべつに、そんな、大した物じゃないですから」
「おやまだ様、とりあえず、中にお入りください」
「いえ、今日は本当に、渡しに来ただけなんで。時間も遅いですし、お疲れでしょうから」
「おやまだ様」
ゆかりんが俺の顔をまっすぐ見据えた。
「わたくし、プロなんです。選んでいただいたからには、時間の限り、ご奉仕させていただきます。どうぞ、中へ」
そこまで言われたらと、俺はゆかりんに導かれるまま、部屋に入った。
「ここで開けてもよろしいですか?」
「どうぞ」
ゆかりんは丁寧に包装紙を剥がしていき、中のポーチを取り出した。
「あら、かわいらしいポーチ」
ゆかりんはポーチを肩にかけて、ポーズを取った。
「いかがでしょうか?」
「いやもう、言うことないです。お似合いです」
ゆかりは顔をはっとさせる。
「こうしてはいられません。残り時間はわずかです。急いで、おやまだ様にご奉仕しないと。今日はどのコースにいたしますか?」
膝枕耳かきコースが頭に過ったが、やはり今回も選ぶことはできなかった。
「……じゃ、肩コースでお願いします」
「承知いたしました」
俺はゆかりんに背を向けて椅子に座った。ゆかりんが俺の肩に手を乗せた。
「今日は巻きで、急ピッチで凝りをほぐしていきます」
ゆかりんの指先に力が入った。
「いかがですか?」
「いやもう、極楽です。この瞬間のために生きていると言っても、過言じゃない」
「ずいぶんと、大げさですね」
「大げさじゃないですよ。本当に、その……大切な憩いなんですよ、この時間は。俺にとって」
「ありがとうございます。でもわたくしは、そのような、大層な人間ではございません。過分なお言葉ですよ」
ゆかりんの指が首元に移った。
「最近の、調子はいかがですか?」
「そうですねえ……。そう言えば、このあいだ、変に絡んできた女の子の話をしたじゃないですか」
「あの、ランチタイムにちゃちゃを入れてきた、女の子のことですね」
ゆかりんは、以前にした話の内容を、正確に覚えているのだ。
「ややあって、その子と結構話をしたんですけど。すごく頭も感性もいい子だなと思ったんです。ただもう、想像以上に生活環境がハードで。滅茶苦茶にハードなんです。まだ十四歳なのに、『自分に将来はない』って言い切るんです。絶望してるんですよ。恐ろしいことです。やっぱりそこで、安易に『君には無限の可能性がある』なんて言えないです。否応なしに、押し流されていく、大きな人生の流れ、ってあるじゃないですか。誰がどうすれば、その大きな流れから、彼女を救い出すことができるんだろうと思って」
ゆかりんの手が、一瞬ぴたりと止まった。
「救い出すなんて、おこがましいです、おやまだ様」
「え?」
唐突なトーンの変化に、俺は少し面食らった。
「どん底の中で、救世主が現れて、不幸をすべて取り払い、引き上げてくれるなんて、あり得ないのです。あるとしたら、それを奇跡と呼ぶのです。そして奇跡は期待するものではありません」
ゆかりんの手が、再び動き始めた。
「人間は、生まれ持って、手持ちのカードというものには差があります。貧困であるとか、家庭環境であるとか、あるいは遺伝的なものもあるかもしれません。そもそもに苦難の宿命を背負っている者はいます。でも、苦難と不幸はイコールではないと思います。そのイコールではない、ということを気づいてもらう必要があります。そのためには、わたくしは、手持ちのカードでなんとかやりくりして、今より少しでも、よりよく、何か見えざる価値に向けて向上しようとする大人たちの姿を、見せるしかないのではないかと思うのです。直接引き上げることはできず、かける言葉も白々しく響いてしまうかもしれない。でも、その背を見せることはできます。そして、その背を見て何かを感じて、昇っていくのは自分の力なのです」
時間を知らせるタイマーの音が響いた。ゆかりんがその手を止めた。
途端に、受付の店員が、
「失礼します」
と言いながら部屋に入ってきた。
「お時間です。それではプレゼントタイムのお写真を撮らせていただきます」
ゆかりんが俺の隣に寄ってきた。
「おやまだ様、もう少しお近くに」
「あ、じゃあ、失礼します」
俺はもう一歩ゆかりんに近づいた。ゆかりんの顔が間近にきて、俺は緊張して直立不動になってしまった。ゆかりんは慣れた様子で、頬の近くにピースサインを持ってきて、洗練された笑顔をつくった。
俺は三千円と引き換えに、その写真を受けとった。ゆかりんの写真をもらったのはこれが初めてだった。
帰り際に、閉店の時間だったためか、ゆかりんは店の出口ではなく、ビルの下まで送ってくれた。そして握手をしてくれた。小さくて暖かい手だった。
「あの、ありがとうございました。また来ます」
「お待ちしております、おやまだ様。お元気で」
ゆかりんが手を振ってくれた。俺も手を振り返し、そして例によって握手をしてもらった手をしばし眺めながら、人ごみの中を歩いた。
改札を潜り、自宅へ向かう各駅停車に乗った。吊革につかまり、HDDプレイヤーの再生ボタンを押してイヤホンを耳につっこんだ。モーツァルトのピアノ協奏曲をバックに、夕闇の中の風景が、電車の速度に合わせて右から左へ次々と流れて行った。
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