第5話
麻酔科での研修が終盤に差し掛かっていた。俺は何度か気管挿管と全身管理を任される機会を持ったが、さんざんなものだった。だいたい、採血すらおぼつかない不器用な人間が、チューブを気管に差し込むなんて芸当を、スムーズにできるわけがない。気管挿管は、喉頭鏡で舌を押しのけて、気管の入口である声帯を探し出し、そこに向かって挿管チューブを差し込んで人工呼吸器に繋げるという作業だ。俺は、喉頭鏡で舌を押しのけても、どこに声帯があるのかわからず、仮に見つかっても、手が緊張で震えてしまって思うようにチューブを差し込むことができなかった。その間にも患者さんの呼吸は止まっているので、俺は焦ってさらに手が震えるという悪循環になっていた。そしてある日、その震えるチューブの先端が声帯に当たって刺激してしまって、どんどん声帯が腫れ上がるという、恐ろしい事態を引き起こした。
俺は、これ以上は自分では無理だと思って、指導医の先生に助けを請うた。
「声帯が腫れちゃって、チューブが差し込めそうもありません」
「君があんまりいじめるからだろ」
指導医が無表情のままそう言って、俺と場所を変わった。そして喉頭鏡でぐいっと顎を持ち上げると、あっさりと挿管を成功させて見せた。
手術は、六十二歳の乳癌の患者さんの摘出術だった。指導医は黙々と作業をこなした。的確に鎮痛薬を流し、血圧をコントロールし、輸液の速度を調節した。もうその席を、俺に替わってくれることはなかった。麻酔が覚めた時、声が出なかったらどうしようと、気が気でなかった。
手術が終わり、患者さんは病棟に戻って行った。少し掠れ気味ではあったものの、しっかりと声は出た。時刻は午後一時を過ぎていた。俺は術衣の上に白衣を羽織り、食堂に行って日替わりランチを頼んだ。薄い豚肉に分厚い衣のトンカツだった。
窓際の席で、一人で昼食を食べていると、
「よお」
と聞き覚えのある声がした。顔を上げると、健二がそこにいた。
健二は椅子を引いて、俺の向かいに座った。トレイにはラーメンが置かれていた。
「ここの食堂はどのメニューもゴミだけど、ラーメンだけはまずまず食べられる味だ。いただきます」
健二はそう言って橋を割り、ラーメンをぞろろと啜りはじめた。
「お前、またなんかやらかしたのか?」
「どうしてわかるの?」
俺は驚いた。
「わかりやすく顔に書いてあるからさ」
俺は箸を止めて、下を向く。
「麻酔科に来て一か月以上経つのに、挿管が決まらなくてさ。今日なんて声帯が腫れてきちゃって、めちゃくちゃ焦った」
「そうか。じゃあ、次は決めろよ」
「不器用で、何にもうまくいかない。いつか自分の能力不足で、患者さんが死んじまうんじゃないかとか、考える。そう思うと、この先やっていく自信がなくなる」
「そうか。じゃあ、精進しろよ」
「なんか、えらく淡泊な返しだなあ」
「それ以外に何の言い様がある。頭なでなでしてもらって、『よしよし、ボクはボクなりに頑張ってるよ』とか適当な慰めを言って欲しいのか?」
「べつに、そういうわけじゃないけどさ」
「同じことだろ。甘えてんなよ。学生じゃあるまいし。誰もお前を引き上げちゃくれない。自分で何とかするしかねえのさ。その辺のレベルの弱音からはぼちぼち卒業しろ。そうでないと、患者もお前も苦しむ羽目になるからな」
「わかった。わかったよ」
俺は、もう降参、という風に言った。
「わかったならいいんだ」
健二は再びラーメンを啜りだした。
「ぼちぼち来年度の進路を決めないといけないな」
俺はカレンダーに目をやりながら、言った。
「まだ決めてなかったのか、お前?相変わらずやることが遅い」
「わかってるんだけどね。なかなか決め手に欠けるというか……。何科なら向いてるんだろう。向いていない科なら、いくらでも挙げられるんだけど」
「向き不向きなんて、仕事には関係ねえよ。向いてなくったって、十年続けりゃ、金とっていいくらいの技能は身に付く。ぴたっと自分に合って、ストレスフリーで仕事ができる場所なんて、普通はありえない。忍耐と継続が、仕事の基本だ」
健二はそこで、ぴたりと箸を止めた。
「って親父が昔から言ってたんだ。嫌なもんだな、こういう刷り込みは」
「健二は何科に進むつもりなの?」
「俺?まだ決めてない」
「なんだそりゃ。他人のこと全然言えないじゃないか」
「まあな。ぼちぼち決めないとな。今、決めるかな」
「えっ?」
健二は紙を取出し、その上に『循環器内科』『消化器内科』『心臓血管外科』等々と、科の名前をあちこちばらばらに書き記していった。そして、おもむろに紙の真ん中にボールペンを立てた。ボールペンは重力の赴くままに倒れた。ペンの先には、『腎臓内科』と記されていた。
「決めた。俺、腎臓内科に入局するわ」
俺は、驚き、呆れた。
「そんな適当な決め方でいいのか?まあ、お前ならどの科行っても、エースだろうけどさ」
「俺はどの道いつかは親父の病院群を引き継いで、臨床から身を引いて経営に回るからな。肩書きづくりのために、専門医と学位が取れりゃ、どこだっていいんだ。何科に行っても同じなんだよ」
健二はそう言って、どんぶりを掴み、ラーメンのスープを飲み干した。なんだか酷く無表情だった。
「えらく浮かない感じだ」
「そりゃ、あんなクソ病院、できれば引き継ぎたくない。経営なんてなんの興味もないしな」
「だったら継がなきゃいいじゃん」
「継がないきゃいい、だって?」
健二は半笑いで言った。
「俺が継がなきゃ、あの病院はどうなる?」
「どうって。お前じゃなくても、誰かが継ぐだろ」
「お前は、何にもわかってない」
健二が首を振って、コップの水を一口飲んだ。
「いいか。親父はそのうち、失脚する。いくつかやばい医療訴訟を抱えてる上に、地元議員への不正献金も、巨額の脱税も、いずれ明るみに出る。親父は真っクロクロなんだよ。そんな事実は、業界じゃ知れ渡ってる。親父の後を継ぐってことは、真っクロクロな親父の尻拭いをやるってことなんだよ。誰もそんな貧乏くじを引こうなんて思わない。でも親父が失脚して、病院がつぶれたら、患者はどうなる?その地域でうちしか病院のないところもあるんだぜ。誰かがその貧乏くじを引かなきゃいけない。誰も引かないんだったら、患者が引くことになる。親父はクソだが、親父の患者に罪はない。だから、俺が継ぐしかないんだよ」
健二は人差し指で、テーブルをたんと叩いた。
「そういうわけだから、俺は臨床技能なんていくら磨いたってしょうがない。大事なのは何より人脈だ。そのためには、夜な夜な飲み会さ。集まってくるやつの大半はクズだけど、中にはましなのが混じってる。そういうやつらとのパイプは、いずれ役に立つ」
テーブルの横を通った、看護師と思しき女性三人が、健二に近づいてきた。
「井岡先生」
健二は顔を上げると、先ほどの張りつめた表情から一転して、にこりと笑った。
「やあ、どうも」
「このあいだは、ありがとうございました。超、楽しかったです」
「井岡先生、歌、めっちゃうまいですよね」
「本当、超うまかった。プロみたい」
「本業はテノール歌手ですから」
健二がそう言うと、女性たちが笑った。
「じゃあ、先生、また、飲みに行きましょうね」
「ええ、ぜひ」
女性たちが手を振って、去って行った。健二も手を振った。
「あいつらとカラオケにでも行ったのかな。全然、覚えてない」
健二は女性たちが見えなくなってから、そう言った。
「全然覚えてないのに、あんなに愛想よくできんの?」
「そりゃお前、スマイルはタダだからな」
健二がにこりと俺に向かって微笑んだ。いかにも露悪的な作り笑いだった。
「飲み会をやるにも、ああいう餌が必要なんだ。何せ、女がいないとこには男も寄ってこないからな」
俺はふと、前原が言っていた、健二に纏わる噂を思い出していた。
「健二はさ、彼女いるの?」
「彼女?いるわけないだろ。そんなのつくって何のメリットがある」
健二は笑いながら言った。
「そうか」
「なんだ、それ?なんか、含みがあるな」
「べつに何でもないよ」
「白状しろよ。どうせ、お前に隠し事なんてできやしないんだ」
俺はため息をつく。
「なんか、女性関係の噂が流れてる」
「なんだ、そのことか」
健二は首を振る。
「言っておくが、俺はプロしか相手にしてないぜ。そりゃ遊びもするが、最後まではしない。最後までしたら、たいてい面倒なことになるからな。俺が今まで、どんな面倒を経験してきたか、想像がつくか?」
「皆目、想像つかないよ」
「そうだろう。本当に、面倒なんだ。その一線てやつのどこにそんなに意味があるのか、俺にもわからん。でもあいつらは、一線を越えると妙な権利意識を持つ。たまったもんじゃない。だから俺は、プロしか相手にしない。まして病棟の女に手を出すなんて、とんでもない。面倒くさすぎる。根も葉もない作り話だ」
健二は思い切り顔をしかめた。
「時々、媚びを売ってくるやつがいる。虫唾が走る。だからはっきりそう言ってやる。『虫唾が走るんだ』ってな。すると途端に見苦しい泣き顔で恨み節だ。噂を流してんのは、どうせそういうやつらだ」
「お前は言い方に棘があり過ぎるんだよ。だから、余計な恨みを買う」
「俺は、俺のことを好きになるような女が一番嫌いなんだ。そういうやつを見ると、絶望的な気分になる」
健二はため息をついて、舌打ちした。
「また、つまらない話をした。酒が飲みたい気分だ」
「おい」
「冗談だよ」
健二は椅子を引いて立ち上がった。
「だいたい、どうしてこんな話の流れになったんだ?直人が、医者としての自信がどうとか、進路がどうとか、つまんないこと言うからいけないんだぞ」
「悪かったよ」
「うだうだ考えなくたって、お前なら何でもできるよ」
健二はそう言って、その場から立ち去った。
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