第4話
一か月ほど経ち、季節は暦の上では秋となった。しかし残暑が酷く、外に出れば汗が噴き出るという日が続いた。
「今日も暑いね」
俺は研修医室で、目の前のソファに座っている、同期の前原にそう言った。
「たしかに。俺らが小さい頃、こんなに暑かったっけ?」
「いや。なんか、ここ数年で、暑さが酷くなってる気がする」
「温暖化か。いよいよ地球も終わりかなあ」
前原はそう言って、読みかけの週刊漫画を放り出し、ソファにごろんと横になる。
今日は日曜日だった。初期研修医は一か月に一回程度、二人で休日の救急当番をやることになっているのだ。当番のその日、俺は朝からずっと研修医室で待機していた。
「でもさ、地球って昔は活発な火山の影響でもっとずっと二酸化炭素の量が多くて、もっとずっと気温が高かったらしいよ」
「それ、いつ頃の話なの?」
「……数千万年前の話」
「それ聞いてさ、よし今後も地球は大丈夫だ、って思えると思う?」
「……思わない」
急患がまったく来ないので、俺たちは暇を持て余していた。地下の、窓ひとつない研修医室で、だらだらと駄弁りながら、漫画を読んだりゲームをしたりしていた。
「そういや、井岡っているじゃん、同期の」
前原が身を起こして言った。健二のことだ。
「あいつ、表彰されたってな」
「えっ?」
俺は驚いた。
「心肺停止の人を蘇生して助けたんだって。すげえよな。そりゃ俺ら皆、習っちゃいるけど、実際その場ですぐ動くなんて、できないぜ、普通」
「たしかにね」
現に俺は、その場に一緒にいたのに何もできなかった。
「あいつちょっと違うよな、頭の出来が。単純に回転が速いってだけじゃなくて、いざって時の行動力とか、判断力とかも持ち合わせてる。あいつ、すごいやつになると思う」
「うん」
それには異論の余地がない。
「ただあいつ、あんまいい噂聞かないんだよな」
「噂?」
「女方面の話だよ。四方八方に手、出してるみたいでさ。二外科回ってるときなんて、術後回診中に同行してる看護師口説いてたんだとさ。その前の病棟じゃ、たった二か月の研修中にその病棟内の数人の看護師とできちゃって。病棟の雰囲気が最悪になったらしいぜ。さすがに同じ病棟内で、ってのはまずいだろ」
「……噂だろ?」
「ま、もちろん噂だけど。でも、火のないところに煙は立たず、ってな」
前原はまた腕を枕にして、ごろんと横になった。
前原は、島根県の隠岐の島出身の研修医だった。地元の期待を背負って、医学部に入った。「いずれ医者になって島に戻って、島の医療に貢献して欲しい」と町長が直々に激励に訪れ、入学の際は島中の人から米やら野菜やらのお祝いが実家に届けられたらしい。本人も入学前までは島に戻るつもりだったが、いざ大学に入学して遊びを覚えると、そんな気がさらさらなくなったという。
「よく考えてみたら、レンタルビデオ屋が島で一件しかないようなところに、住めるわけがない。刺激がなさすぎる。若い人間がいるところじゃないよ。島の人たちはいろいろ言ってくるだろうけど、そんなの全部自分たちの都合だ」
前原はそう言った。
何事もなく時間は過ぎ、当番が終わる午前〇時に近づいていた。十五分前になったところで、
「どうせ誰も来ないだろ」
と前原は言って、フライングで帰ってしまった。俺も帰る準備をしようと思った矢先、PHSが鳴り響いた。通話ボタンを押すと、
「急患です。すぐ救急外来に来てください」
という、淡々とした救外看護師の声が聞こえた。
何て運のなさだと自分を呪いながら、俺は救急外来に向かった。
救急外来の部屋に近づくにつれ、廊下に響き渡る女性の大声が聞こえてきた。それは鬼気迫る、穏やかでない声だった。
部屋に入ると、蒼白の顔色で頬のこけた中年の女性が、ベッドに座っていた。そして立ち上がったと思うと、落ち着きなく歩き回り、しかる後にまた座った。女性は茫洋とした表情で、小刻みに震えていた。
「いや、いやああ」
女性が叫んで首を振った。
「あ、あの、どうかされたんですか?どこか痛いんですか?」
俺が恐る恐る声をかける。女性は俺に顔もむけず、ベッドに伏せて、今度はむせび泣き始めた。
俺は訳がわからなくて、混乱した。
「あの、この方のID教えてください」
看護師に頼んで、IDを教えてもらった。そして電子カルテで検索し、事情を察した。女性は、浅井美恵子という名で、うちの病院の精神科にかかりつけの、慢性の統合失調症の患者さんだったのだ。
「お母さん、大丈夫?今叫び声が――」
そう言いながら部屋に入ってきた女の子が目に入った瞬間、あっと思った。どこかで見た顔なのだ。
それは、浅井芽有と名乗った女の子だった。
女の子は俺の顔を見た瞬間に驚きの表情を浮かべ、ばつが悪そうにうつむき、そして母のもとに駆け寄った。
「お母さん、大丈夫だよ。先生が助けてくれるから」
俺は必死に頭の中の記憶を手繰り寄せた。まさか精神科の患者さんとは予想していなかった。精神科は大学の授業で習ったきりだ。それも、ほとんど授業をさぼっていたので、おぼろげだ。たしか統合失調症は、幻聴や妄想が主症状だったはずだ。
「あの」
と俺は女性に声をかけた。
「変な声とかが、聞こえるんですか?」
すると、浅井芽有がきっと俺を睨みつけた。
「あったりまえでしょ。今、お母さん、幻聴ひっきりなしなの。調子悪くなるとそうなるの。そんなのカルテに書いてあんでしょ?早く上の先生呼んでよ。どうせあんたじゃどうにもできないんでしょ」
「お知り合い?」
小声で看護師が俺に言った。
「知り合いというか、まあ」
俺は曖昧に返事をした。
ちょっと目を離した隙に、女性がふらふらと立ち上がっていた。そして突然素早く動き、机の上の鋏を掴みとって、開いた刃を自分の喉元に向けた。
やばい、と思って、俺は慌てて女性の背後に回って止めた。二人の看護師も加わり、もみ合いのようになった。
「離して。離してえ」
女性が手をぶんぶんと振り回した。持っている鋏の刃が耳元をかすめた。
「お母さん、やめてよ。やめてよ、もう」
浅井芽有も泣きながら止めていた。
「先生、何ぼさっとしてんの。早く精神科当直の先生呼んで」
必死の形相で押さえている看護師に言われて、俺は慌ててドアに張られている当直PHS一覧から精神科当直を探し出し、連絡した。
「どんな状況?」
精神科の先生が、平坦なトーンで言った。
「鋏を自分に向けてます。三人がかりで押さえてる状況です」
「あらら、じゃあちょっと人手が必要だね。待ってて」
精神科の先生は、三人の男性看護師を連れて、すぐに救急外来の部屋に来た。にこやかな表情の痩せた猫背の男性だった。
男性看護師の一人が鋏を取り上げた。
「浅井さん、どうされたの?」
精神科医師が聞いても返答はなく、女性は首を振り、目を見開いたまま唇を震わせた。
「亜昏迷状態だね。入院が必要かな、浅井さん」
精神科医師がそう言って、浅井芽有に目をやった。
「娘さんだよね。お母さん、今ちょっと大変そうだから、入院して休んだほうがいいと思うんだ」
「……お願いします」
浅井芽有は、疲れ切った表情で小声で言った。
「旦那さんいる?」
「いません。お母さんは、未婚の母です」
「これまでの入院では、誰が保護者になってたの?」
「おばあちゃんがやってました。でもおばあちゃんは半年前に亡くなりました」
「おじいちゃんは?」
「あたしが生まれる前に亡くなりました」
「お母さんに、ご兄弟はいる?」
「いません。一人っこです」
「参ったな……。お嬢ちゃんは何歳?」
「十四歳です」
「中学生に保護者になってもらうわけにはいかないしな……」
精神科医師は頭をかいた。
「市長同意しかないな。じゃあ、市長同意の医療保護入院で」
精神科医師は医療保護入院の説明文を読み上げた。女性は茫洋とした表情で固まったまま微動だにせず、何も耳に入っていない様子だった。
精神科医師と看護師に付き添われて、女性は精神科病棟に上がっていった。そしてカードキーが必要な閉鎖病棟に通され、重く分厚い扉の保護室に入った。ベッドには真っ白な拘束帯が用意されていた。看護師三人は、手際よく女性の胴と両手と両足に拘束帯を取り付け、点滴を入れた。
精神科医師と俺と浅井芽有の三人は面談室に入った。精神科医師は電子カルテを起動させると、カタカタとキーを叩いて何やら記載をした。
「今、二人暮らし?」
「はい」
「お母さん、最近の様子はどうだったのかな?」
「ここ一か月くらいは調子悪くて……。ゴミ出しのことで、近所の人からちょっと意地悪なこと言われて。その日以来、ちょっと落ち着きがなくなって。幻聴もひどくなって、声に従って夜中に外に飛び出しちゃったり、窓から外に向かって声を上げたり」
「睡眠とか食事は?」
「全然眠れてませんでした。二時間くらいで起きちゃうんです。一緒にあたしも起きちゃって。寝てる間に何をするかわからないから、包丁とか刃物は全部隠しました。食欲も落ちてたんですけど、ヘルパーさんが作ってくれた物を、何とかあたしが促して、最低限食べてもらってた感じです」
「薬は飲めてた?」
「自己管理してたんですけど、調子が悪くなってからは不規則になってたみたいです。ぴったりに処方されてるはずなのに、薬がかなり残ってるのを、今日気が付きました」
「生活費とか、どうやって工面してたの?」
「母の障害年金と、生活保護です。祖母が生きていた時は、祖母の年金もあったんですけど、今は、それだけ」
「そっか……」
精神科医師は、言葉もない、という感じで黙ってしまった。聞くだに、なんだか凄い生活状況である。
「いつものことなんです。入院はもう、慣れてます。また数か月、母をよろしくお願いします」
浅井芽有はそう言って、頭を下げた。
精神科医師が部屋から出て行った。俺と浅井芽有が残された。浅井芽有はしばらくの間、じっと黙ったままうつむいていて、しかる後にぽつりと口を開いた。
「まさかあんたがいるとはね、ドクター」
「今日は当直の当番の日だったんだんだよ」
「母親が統合失調症であることに、何か感想ある?」
「……特にないよ。でも、君の日常が大変なものだってことはよくわかったよ」
「あたしね、お母さんに死んで欲しいと思っているの」
俺は顔を上げて浅井芽有を見た。浅井芽有は無表情に宙に視線を向けていた。
「お母さん、すぐ疲れて横になっちゃうから、あたしが家事を手伝うの。ほとんど外に出なくて、家でぼーっとテレビを見てばっかりで、具合が悪くなるとそれもできなくなるの。来るな、来るな、とか言って、裸足のまま外に飛び出しちゃうの。二回も自殺未遂してるから、もう見えるところに刃物が置いておけないの。あの人といると、本当に疲れるの。いつも気が休まらないの」
浅井芽有はそこまで言うと思いきり顔を歪ませた。
「でもあたし、お母さん好きなの。大大大好きなの。だってあたしの、お母さんなんだもん」
そして、浅井芽有は声を上げ、大粒の涙を頬に伝わせて、わんわんと泣き出した。
なんと声をかけたらよいかわからなかった。俺はポケットからハンカチを取り出して、差し出した。浅井芽有は俺をちらりと見て、ハンカチを受け取った。浅井芽有は涙を拭いた後にそれで思いきり鼻をかんだので、俺はびっくりした。
「もう、帰るわ。眠いし、明日は着替えとかまた持ってこないといけないし」
浅井芽有が鼻をすすり、目をこすりながら言った。
時計を見ると、時刻は午前二時で、窓の外は真っ暗だった。
「家どこなの?」
「○○町よ」
「どうやって帰るの?」
「歩いて帰るわよ。行きは急いでたからタクシーで来たけど、そんなお金ないし」
○○町へは歩けば一時間近くかかる。
「送っていくよ。もう当番は終わりの時間だしな」
「え?べつにいいわよ」
「子供がこんな夜道を一人で歩くのはよろしくない。変質者みたいのもいるからな」
「あなたが変質者じゃないって保証はどこにあるのよ?」
改めて考えると、自分が変質者でないことを証明するのはなかなか難しい。
「わかった。自転車を貸すから、それ乗って帰れ。歩くよりましだ」
「冗談よ。返しに来るのも面倒だし疲れたから、やっぱり送っていってよ」
「じゃあ、救急外来の出入り口のところで待っててくれ。迎えに行くから」
俺は面談室を出て、地下のロッカーで着替えて病院を出た。いったん寮に戻り、駐輪場から自転車を出した。そして病院の表玄関口の下にある、救急外来出入り口まで走らせた。ぽつんと立っている浅井芽有が見えた。
「待たせたな」
「えっ」
浅井芽有は俺を見ると、怪訝な表情で眉をひそめた。
「車じゃないの?」
「車なんて持ってない。維持費もかかるし、金食い虫だ。自転車が一番経済効率がいい。そんなに遠出もしないしな」
「あなた、車も持ってないのに、送ってくよ、なんて言ったの?」
「うん」
「ふうん……」
浅井芽有が奇異なものを見るような視線を俺に送る。
「ドクターってさ」
「うん」
「全然女の子にもてないでしょ」
「……それが何か問題か?」
「べつに。さ、出発して」
浅井芽有は俺の後ろにまたがった。俺はペダルをこいだ。二人分の体重を運ぶので、いつもよりも重かった。こぎ出しは少しふらついたが、スピードが出るにつれて安定してきた。道路には車が一台も通っておらず、辺りには静寂が漂っていた。
「統合失調症ってさ」
背後から浅井芽有が言った。
「遺伝するんだって。あたし、少しでもお母さんのことをわかりたくて、病気の本を読んだのよ。一卵性の双子の片方が統合失調症を発症したら、もう片方も五十パーセントの確率で発症するんだって。だから、はっきり、遺伝性があるんだって。あたしのお母さんの、叔母に当たる人も、統合失調症なの。そういう家系なのよ」
信号が目の前で赤に変わった。車なんて一つも通っちゃいなかったが、俺は律儀にも自転車を止めた。
「あたしも、いつか、発症しちゃうのかな。そう考えると、すごく怖いのよ。夜中に目が覚めて、そういうことを考えると、本当に叫び出したくなるくらい、怖いの。いつかどこかから、変な声が聞こえてきて、自分が自分でなくなってしまうような気がして。嫌だ、って強く思うの。絶対嫌だ、死んでも御免だ、って。でも、お母さんは実際に、そういう目に合ってる。だから、その病気を拒否したり、嫌がったりするのは、お母さん自身を拒否して嫌がってることになっちゃうんじゃないか、とか考えて、すごく罪悪感があるの。自分は、嫌な子だ、って思っちゃう」
浅井芽有が、俺の背中に頭をもたれかけた。浅井芽有の混濁した感情模様が、背中越しに伝わった。どういう言葉をかけることが正解なのかわからなかった。だから俺は開き直って、自分が伝えたい言葉を伝えようと思った。
「君は全然嫌な子じゃないよ。そりゃまあ、十万円掠め取られそうになったけどさ。お母さんを大事にしてる。自分以外の誰かを、それだけ大事にするなんてなかなかできない。大変な状況で、よく頑張ってると思うよ。いささか頑張りすぎだと思うくらいにな」
信号が青に変わったので、俺はまた重いペダルをこぎだした。建物の隙間から、下弦の月が夜空に浮かんでいるのが見えた。
「どんぶり型の月がある」
「月?」
浅井芽有が素っ頓狂な声を出した。
「月が一体なんだってのよ?」
「地球から月までの距離は、だいたい三十八万キロだ。そんなとこから、太陽光を反射して、地球の夜を照らしてる。こんな都市部に住んでると、ありがたみもわかないだろ。俺は大学が街灯もろくにないど田舎だったから、夜は本当に真っ暗闇で、月の光があると道がはっきり見えて助かったもんだ。新月の夜は大変だ。月明かりがなくて、田んぼに落ちることもある」
曲がり角を曲がると、商店街の入り口の看板が見えた。真夜中の商店街は静寂に包まれていた。
「俺は不安なときに、よく月を見る。月は狂気の象徴だったりするんだけど、俺にとっては安らぎだ。習慣なんだよ、五年前に親父が死んだ時からのさ」
浅井芽有が背中から頭を離し、こちらの話に耳を傾けているのがわかった。
「親父が死んだ時に、悲しかったし、どうしようもく胸がもやもやして、不安に襲われた。親父が死ぬなんて想像もしてなかったからな。人の生き死にって怖いって思ったんだ。葬儀の後、なかなか寝付けなくて、部屋の中で横になってずっと窓の外を眺めてた。そん時は満月だった。真ん丸でさ。ベッドに横になりながら、ちろりちろりと月が動いていくのを、ずっと目で追ってた。気づいたら一晩あけて、空がもううっすら明るかった。そんなに月をよく見たのは初めてだった。本当に、ああやって空を横切ってくもんなんだと思った。普段は気にも留めないけど、あんな動きを毎日やってんのか、って。毎日毎日。ずうっと前、それこそ、数十億年前から、そして、明日も明後日もずうっと先まで、地球か月がぶっ壊れるその日まで、ずっと続けんのか、って思った。そう思うと、どういうわけかわからないんだけど、ちょっとだけ、気持ちが軽くなった。されど人生は続くっていうのかな、憂鬱な気持ちは晴れないんだけど、とりあえず飯を食って、学校行くか、って気になった。変な話ではあるけれど」
「月、ねえ」
浅井芽有が背後でキャリアの上に立ち上がり、俺の肩に手を載せた。自転車のバランスが悪くなって、危うく横転しそうになった。
「危ないだろ。座っててくれよ」
「ドクターが言うように、ちょっと間近で月を眺めてみようと思って。月でも見てみろ、っていうのが、あたしの不安に対するドクターなりの処方箋なわけでしょ?」
「べつに、処方箋てほどのこともない」
踏切を渡り、人気のない道をなおも進んでいく。下弦の月は、ちょうど真正面にある。両肩には、浅井芽有の小さな手の重みを感ずる。
「全然、不安が解消されないよ、ドクター。あなた、ヤブ医者ね」
「そう言うなよ。べつに月云々はどうでもよくて、君にも不安が少し軽くなる、ちょっと楽になれる瞬間があるといいね、ってことだ」
「とりあえず、励ましてくれてるのね」
「まあ、そういうことになる」
「その気持ちを汲んで、今日のところは少し励まされてあげることにするわ」
背後で、浅井芽有が大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「風が気持ちいいし、いい眺め。ねえ、もっとスピード上げられない?」
「馬鹿言うな。これ以上速くしたら危ない。君の体が放り出されることになる」
「望むところよ」
「冗談じゃない。そんなことになったら、こっちの夢見が悪いからな。安全運転で行く」
橋を渡り、小学校を通り過ぎ、緩い坂道が見えてきた。俺は自転車のギアを軽くしてゆっくりと坂道を上って行った。
「ねえ、ドクターは、どうしてドクターになろうと思ったの?」
「俺?」
「あなた以外のドクターがこの場にいる?」
俺は記憶の糸を手繰った。
「単純に、手堅いって思ったからだな。不景気は長引いて上がり目もないし、資格を持っといたほうがいいと思ってさ。で、いくつか調べてみたんだけど、医師免許が一番強力な資格だと思ったから」
「なにそれ。随分と打算的ね。もっと、目を輝かせて、困ってる人を助けたい、とか、不治の病を治せるようにしたい、とか、そういうのなかったの?」
「当時は全然深く考えてなかったなあ」
「がっかりね。ちょっと、ストーリーを期待してたのに」
「でも、そんな心構えで医学部に入学したことを、すぐに後悔したよ。二年生の時に、人体解剖実習ってのがあって、これがしんどくてさあ」
「解剖?解剖って、あの解剖?」
「そう、たぶんその、解剖だよ。地下の密閉された部屋で、一日十時間くらい、人の体をメスで切って、神経とか血管とか臓器を観察するんだ。家に帰ればホルマリン臭い体のまま泥のように眠って、すぐ朝になってシャワー浴びてまた地下に潜って解剖、の繰り返し。なんだか、現世と黄泉の世界を行ったり来たりしてる気分でね。恐ろしいことしてるな、って思って。こりゃ、生半可じゃすまされない世界に来たな、って。それ以来、腹だけはくくったよ。この道でやってく、ってさ。人の体にメス入れたからには、責任あるよな、って思ったから」
「ふうん」
「君は将来、何になりたいの?」
「将来?あたしに将来があるなんて、本気で思ってるの?」
「思ってるよ。誰にだって将来はあるだろ」
「本当、ドクターって、恵まれた世界で生きてきたのね。あたしに将来なんてないわよ。ビョーキのお母さんと、ただ歳をとっていくだけ。あたし、なんにもないから」
「なんにもないことないだろ。どうしてそんな風に思うんだ?」
その問いかけに返事はなかった。浅井芽有は、深い沈黙の中に沈み込んでしまった。
「止めて」
しばらく走った後に、浅井芽有が、不意にそう言った。俺は自転車を止めた。
「ここがあたしん家」
指さす先には、明らかに築三十年は経っていそうな、木造二階建てのアパートがあった。
浅井芽有は、キャリーからひらりと地面に降り立った。
「ボロっ、って思ったでしょ」
「思ってないよ。昭和の味わいがあるなって思っただけだよ」
「それ、ほとんど同じ意味なんじゃないの」
浅井芽有がこちらに背を向けて歩き出した。
「なあ、これから、どうすんだ?」
浅井芽有が立ち止まって振り返った。
「べつに。食べて、寝て、時々お見舞い。これまでと同じ」
「一人でか?」
「そうね。一人ね。でもそれがなに?」
「学校は?」
「絶対行かない」
「飯とかどうすんだ?」
「コンビニとかで適当に済ませるわよ。ドクターも言ってたじゃん。コンビニは人類の叡智だってさ。あれ、同感」
俺はそれを聞いて、一瞬の思案の後に、鞄からノートを取り出して、携帯電話の電話番号を書き付け、そのページを破って浅井芽有の前に差し出した。
「なにそれ?」
「俺みたいな成人ならいざ知らず、君みたいな子供がコンビニ弁当ばっかり食べてるのはよくない。まともなご飯が食べたいと思った時に連絡するといい」
「下心でもあるの?」
「そう思うんなら連絡しなくていい」
「それとも恵まれない子供への施し?愛の手、差し伸べる、俺、カッコイイ?上から目線てやつ?」
「そう思うんなら連絡しなくていい」
「本当に、理解しかねるわ。こんなことして、あんたに何のメリットがあるの?」
「メリット云々じゃなくて、単に俺の夢見の問題だよ。君の状況は、はっきりとシビアだと思うから。何らかの大人の援助が必要だと思う。でも誰がどういう手段で援助できるのか、俺にもよくわからん。だからさしあたって、自分の連絡先を教えとこう、ってことだよ。君がそういう状況だって知った上で、このまま何もせず帰ったら、俺の夢見が悪い。俺自身の問題。だから、帰ったらすぐそれを破り捨てたっていい。それは君の自由」
浅井芽有は、しばらくのあいだ、無表情にその紙きれを見ていた。
「まあ、とりあえず受け取っておくことにするわ。ドクターが夢見が悪くてストレスになって、胃潰瘍にでもなったら、それこそあたしの夢見が悪いから」
浅井芽有は紙きれをポケットに突っ込んだ。
「じゃ、どーもお世話になりました。さよなら」
浅井芽有は抑揚のない、機械的なトーンでそう言って、カンカンと階段を上って行った。俺はその背中がドアの向こうに吸い込まれるのを見送ってから、自転車を百八十度翻し、元来た道を戻った。時刻は午前三時過ぎだった。空はまだ、どこまでも暗く、下弦の月が俺の背中を照らしていた。
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