第3話
その日は神経内科の研修の最後の日だった。俺は最後までいくつかのへまをして、宮本先生からのお叱りを受けた。終業直前に急患が入り、二人でなんとか対応した。仕事がすべて終わった時は、時刻は午後十時を過ぎていた。二人ともぐったりと電子カルテの前に突っ伏した。
「今日は、大変でしたね」
「そうね。誰かさんの仕事が遅いせいで、帰る直前にビッグウェーブが来ちゃった。あと五分早く終わってたら、当直帯の先生の仕事だったのに」
「……すいません」
「いいのよ、べつに」
宮本先生は、顔を上げてにこりと笑った。いつもような咎める雰囲気がまるでなかった。
「私もね、研修医の時は、いろいろ大変だったわよ。不器用で、要領悪くてね。上の先生からは怒られてばかりだった。情けない話だけど、毎日トイレで泣いてたわ。自分以外の皆が、すごく器用に立ち回ってるように見えてね。ずっとネガティブなこと考えてた」
宮本先生は、ぐっと背伸びをした。
「でも、ある時気づいたの。落ち込むのは、自分のこと考えてるからなのね。本当の意味で、患者さんをみてない。目の前の患者さんのこと考えたら、落ち込む暇なんてないの。よくない結果が出たら、どうしてなのか考えて、次どんな手を打つかを検討していく。その繰り返しだから。もちろん、それでもやっぱり最後には、亡くなる。命はみんなそうだから。医者って、最後には負ける職業なのよ。でも、ただじゃ負けないよ、ってね。私は、そういう気持ちでやってる」
宮本先生が、髪どめのゴムを外すと、髪の毛の先端がはらりと肩を撫でた。
「あんたも私と、同じタイプね。不器用タイプ。なかなかスマートにやれない。でも、続けることが大事だから。みっともなくても、情けなくてもいいから、続けていれば、様になってく。そのうちに、自分に合った分野が見つかれば、しめたものよ」
宮本先生が人差し指を立てて、強調した。
「よし、じゃあ、最後にあんたに、私の黄金の忠言を授ける。心して聞きなさい」
「はい」
俺は背筋を伸ばした。
「医者に必要なもの。ひとつ、『信念』。数ある選択肢の中から何を選ぶか、選ぶ基準はいくつもあるけど、最終的には選ぶのは自分自身、信念に依拠する。ひとつ、『根拠』。なんの根拠もなく、なんとなくやってはだめ。その根拠が正しいかどうかは置いといて、とにかくその選択をした理由を人に説明できなければならない。ひとつ、『覚悟』。その選択を行った結果、どうなるか。良い結果になるか、悪い結果になるか。どういう結果になろうとも、その現実を受け止める。この三つがあれば、手技の上手い下手とか、要領の良し悪しなんて、些末なことよ」
宮本先生がちらりと時計に目をやった。
「さ、今日の仕事はもう終わり。帰った帰った」
俺は促されて、立ち上がった。
「先生、二か月間、お世話になりました。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「お疲れ様でした。次の科行っても、しっかりやってね」
宮本先生は手をひらひらさせながら、ひとつあくびをして、再び電子カルテの前に突っ伏して目をつむった。
寮に帰ると、俺は着替えて、自転車で駅の近くのスーパーまで行った。初夏の夜の風は、涼しく気持ちよかった。スーパーの中はひんやりとしていた。俺は必要な食材と雑貨を籠の中に次々と放り込んでいった。今夜は昨日炊いた米を使ってチャーハンでいいかと思った。どうにも料理に五分以上費やす気が湧かない。
スーパーから出ると、左側からけたたましい笑い声が聞こえた。俺は思わず顔をしかめてそちらに目をやると、健二がいた。健二は派手な格好をした若い女性二人と肩を組んでいた。右手に抱えている女性はグレーの服を着て、左手に抱えている女性はブルーの服を着ていた。
健二が俺に気づいた。
「よお、直人じゃねえか」
「よお」
辺りに立ち込める匂いと、呂律で、明らかに健二が酒を飲んでいることがわかった。
「見てくれ、この子たち。ミカちゃんとリコちゃん」
健二の両脇にいる二人の女性は、愛想笑いで口角を少し釣り上げた。
「ミカちゃんミカちゃん、チュウ」
健二が口を尖らせて、右隣にいるミカちゃんとやらに迫った。ミカちゃんとやらは、
「やだあ、もう」
とか言いながら、まんざらでもない笑顔を浮かべて健二の顔を押しのけた。
「健二、酔ってんのか?」
「なあに言ってんだよ。酔ってるわけないだろ。浴びるほどマンゴージュースを飲んできただけだよ。な?」
健二が女性二人に同意を求める。女性は、「ねえ」と笑顔でうなずく。
「今、仕事終わったとこか?」
「うん」
「夕食は食べたか?」
「いや、まだだよ」
「そうか。じゃあちょうどいい。俺たちと食べに行こうぜ」
俺は戸惑った。明らかに健二は酔っていたし、知らない女性とご飯に行くのも気が引けた。
「行こ行こ」
健二はそう言って、両脇に女性を抱えたままさっさと歩いて行ってしまった。俺は慌てて健二の背中を追った。
五分程度歩いたところで、俺たちは店に入った。店の前にイタリア国旗が飾ってあったから、イタリア料理屋なのだろうと思った。
健二がメニューを見ながら、店員を呼んだ。
「マルゲリータと、ウニクリームのパスタ。あと、取り分け用の皿四つ。あとは」
健二が顔を上げて俺を見た。
「お前、何飲む?」
「俺は、ノンアルコールでいいよ。明日仕事だし」
「俺だって仕事だよ。かたいこと言うな。明日から何科だ?」
「麻酔科」
「麻酔科?あんなの、眠ってたってできる。何か飲めよ。ビールか?ワインか?」
「……じゃあまあ、ビールで」
「そうこなくっちゃな。ビール四つお願い」
健二が店員に頼んだ。
「この人誰?」
ブルーの服を着た女性が、俺を指さして言った。
「こいつ?こいつはね、直人って言って、俺が中学生の時からの友達だ。いわゆる、莫逆の友ってやつだな。今、同じ病院で働いてる」
「ふうん」
女性二人が、無関心そうに言った。
店員がビールを運んできた。健二の掛け声で、とりあえず乾杯した。健二はあっという間にジョッキの半分ほどを飲み干した。
「直人は、今日まで神経内科だっけか」
「うん」
「指導医だれだった?」
「宮本先生」
「宮本?ああ、あの化粧っけのない、処女臭い女ね。学生実習の時に見たぜ」
健二は笑った。
「あいつ、処女の可能性あるぜ。わかるだろ?」
「わかるわけないだろ」
「不器用で堅くて生真面目で、完璧主義そうだ。あの男慣れしてなさそうな雰囲気、たぶん女子高育ちだな。それにルックスも地味だ。女医ってだけで寄ってくる男はふるいにかけられるのに、これだけ悪条件がそろってたら、まあ厳しいだろ。ああいう女は売れ残る」
健二がビールをぐっと飲み干し、ジョッキをテーブルにだんと置いた。
「でも医者としては優れてる。はっきりとした、意志を感じるからな。結局はそういうのが大事だ。ああいう医者は患者を幸福にする。俺は評価する」
「べつにお前が言うまでもなく、宮本先生はいい先生だと思うよ」
「世の中には、患者を不幸にする医者ってのもいる」
健二は酔って俺の話なんか聞いちゃいない様子だった。
「腕も知識もあるのに、共感能力がまるでないやつらだ。患者の、病気と人生の総体に目を向けられないやつらだ。そういうやつは、どんなに技能が優れていても、関わった患者を不幸にする。俺は、はっきりとそれは悪だと思っている。うちの親父みたいにな」
健二がビールを追加で注文した。
「俺は親父が嫌いでね。気が合わないんだ。親父は貧しい漁村の漁師の家に生まれて、必死になって這い上がって医者になった。医局の権力闘争で負けて、開業して、医療法人を設立して、成功を収めた。今、全国には親父のグループの病院が二十ある。毎月笑っちまうような額の金が入ってくる。俺はその成功の恩恵にあずかって、苦労知らずの人生だ。生まれた時から家は馬鹿みたいにでかくて、友達の持ってないようなおもちゃをいくつも持っていて、世界中を旅行したし、私立の学校に入って、医学部の学生時代は高い医学書も欲しいやつは全部揃えた。まあ、大半は読まなかったけどな」
そう言って健二は笑った。
「学生時代から外車にも乗ってた。ハングリーのハの字もない。親父は逆に、ハングリーの極致だ。気が合うわけがない。親父は趣味が悪いんだ。派手好きでね。値段が高けりゃいいものだと思ってる。アートなんてわかりもしないくせに、有名画家が描いた絵画をオークションで競り落としたりしてる。それでその絵を、全然色の合わないソファの上に飾ったりするんだ。見ていて吐き気がしてくるね。マナーもないし、すぐ人を馬鹿にして、そのくせひどく卑屈だ。要するに育ちが悪いんだよ。お里が知れるってやつさ。貧困は人間を歪ませる。俺は貧乏人が嫌いだ。憎んでいると言っていい」
二杯目のビールが健二の前に置かれた。健二はまたその大きな喉仏を上下させ、ほとんど一気に飲み干した。
「おい、健二、その辺にしとけよ」
「いや、俺は大丈夫だ。分類で言えば、まだ弱度酩酊だ。なんならアルコール血中濃度を測ってみるか?」
健二は笑いながら腕を差し出してきた。顔は笑っちゃいるが、目は据わっている。酔うと健二はそういう目になる。
「親父の病院はもうけてる。でもやっていることはクソさ。過剰な成果主義、費用切りつめの結果のずさんな衛生管理、職員のオーバーワーク。俺はどんな病気になったって、絶対に親父の病院にだけは受診したくない。だいたい親父は、尊い命を云々と大言壮語を掲げちゃいるが、自分の妻が癌で入院しているとき、一度も見舞いに来なかったからな。死に目にもあってない。本当に下劣な人間だ。そんなクソみたいな人間に尽くした母親の一生はなんだったんだろうと思う」
健二はそこで一つ大きく息をついて舌打ちする。
「飯が遅いな。何やってんだ」
「ねえねえ、そんなムツカシイ話しないでよ。もっとあたしたちが、入っていけるような話してよ」
ブルーの服を着た女性が言う。
「じゃあ簡単な話をしようか。一足す一は二。これなら君らにもわかるだろ」
女性たち二人は戸惑った表情をする。
健二は三杯目のビールを頼んだ。ここで話したことなど、もう明日には覚えていないだろう。
「直人とは、中学からの友達でな」
健二が女性二人に向かって話し始めた。
「知ってる、それ。さっき言ってた」
「直人は、あの頃から、なんか損するタイプだったな。修学旅行で法隆寺に行った時も、同じクラスの馬鹿が、自分じゃなくて『鈴木直人』って寺の柱に彫刻刀で彫ったんだ。国宝の柱にだぜ?有りえないだろ?んで直人が先生に呼び出されて、最終的に潔白は証明されたんだけど、とんだとばっちりだったよな。学校はあれ以来、法隆寺を出禁になってるし」
「まだ出禁解けないの?」
「まだらしいよ。今も中門の一番右の柱に、『鈴木直人』の文字が残ってる。千四百年の歴史に名を刻んでるんだ」
女性たちが笑った。
「あの頃は、楽しかったな」
と健二が言った。
「じゃあ、今は楽しくないの?」
ブルーの服を着た女性がそう言うと、一瞬の沈黙が降りた。健二は真顔になり、しかしすぐに、へらへらとした酔いどれの顔に戻った。
「楽しいさ。こうして、かわいい女の子たちと酒が飲めるんだ」
健二が自分のジョッキを掲げて見せた。
「直人、お前はどうなんだ。人生を、楽しんでいるか?」
「健二、俺本当、ぼちぼち帰らないと」
「あともう少し、飯を食べたら、今日はしめにする。それより質問に答えてくれ。人生を、楽しんでいるか?」
俺はため息をついて首を横に振った。
「べつに、楽しんではいない。不幸でもないけどね。特別いいことがあるわけでもないし、特別嫌なことがあるわけでもない。日々、淡々と生活を送ってるよ」
「何それ、つまんない人生」
女性の一人が言った。
健二の目つきが変わった。
「てめえに直人の何がわかんだよ」
健二の急激なトーンの変化に、女性が動揺する。
「言ってみろ。何がわかんだよ」
「べつに、何もわからないけど……」
「なら黙ってろ」
健二がつきだしのピスタチオの殻を割って、口の中に放り込んだ。
「直人、お前、女いるか?」
「いないよ」
「どのくらいいない?」
俺は、本当は考えるまでもないのだが、考えて数えるふりをする。
「忘れた。もうだいぶ、長い間」
「そうか」
健二が女性二人に、目をやる。
「君ら、今晩直人と寝ろ」
「はあ?」
女性たちが驚き、眉をひそめて顔を見合わせる。俺も驚く。
「金は俺が払ってやる。君らの月の稼ぎくらいな。二人とも、直人と寝ろ」
「冗談じゃない。ごめんだわ」
「なら今すぐ俺の前から消えろ」
「何それ。意味わかんない」
「さっさと消えろ、あばずれども」
「どうしてあんたの指図を受けなきゃ――」
「今から十秒間目をつむる」
健二が被せ気味に言う。
「目を開いた時に、まだお前らが俺の視界に入っていたら、お前らの鼻を折る。本気だぜ」
そして健二は、目をつむって数を数えはじめた。
「キ○ガイ野郎」
女性二人はそう言って、足早に店を出て行った。
十秒数えた健二は目を開け、店内をぐるりと見回した。最初に注文したピザとパスタがテーブルに置かれた。
「遅えよ。ようやく来たか」
健二はピザに齧りついた。
「すまなかったな。どうしようもない女だった。気を悪くさせたと思う。この次はもう少しましな女を用意する」
「そういうの、本当、いいから。それよりなんで、あんなこと言ったんだ。怖がってたろ」
健二は笑った。
「あんなやつらに気を使うのか、お前は。あいつらどうせ、明日にも別の男と一緒に飲んで、今日のことなんて忘れてる。そんなもんだ。それより、このピザは美味い。直人も食えよ」
「いいよ、俺は」
「そうかい」
健二はそう言って、今度はパスタを小皿に取り分けて食べ始めた。
その時、隣のテーブルの大学生くらいの男たちの集団が、突然大きな笑い声を上げた。
健二は舌打ちをした。
「てめえらうるせえんだよ、ガキども。外で騒げ」
健二の怒鳴り声が店内に響いた。
「なんだよ、お前が出て行けよ、おっさん」
健二がビールジョッキをテーブルに置いて、酔いでどろりと濁った瞳をぎらつかせて、一瞬黙る。危険な予兆である。
「おい、よせよ、健二」
健二は勢いよく立ち上がり、件のテーブルに歩み寄った。健二は元水泳部で全身が柔軟な筋肉に覆われ、背も高い。思いのほか体格がよかったからか、相手が驚いて怯んだのがわかった。健二が男の一人に掴みかかり、拳を振り回した。男も健二の顔を払いのけようと応酬した。
俺は席を立って、止めに入った。他のテーブルの男たちも、皆こぞって止めに入った。二人を引き離した時には、辺りに割れた皿とグラスが散乱していた。店主と思しき人物が奥から出てきて、出て行ってくれと通達した。
割ってしまった食器類の弁償金を払って、店を出ると、健二は路上に大の字になって寝転がった。
「轢かれるぞ」
「轢きゃいいさ」
健二はそう言い放って、ひくりとしゃっくりをした。
「明日は母さんの命日なんだ。七回忌だ」
「そんな日を泥酔で迎えちまっていいのか?」
「よくないさ。だから醒ます。水を買ってきてくれ」
俺は近くの自動販売機で水を買い、健二に渡した。健二はそれをうまそうにごくごくと飲んだ。そして息をひとつ吐きだし、よろよろと立ち上がっておぼつかない足取りで歩き始めた。しかしあらぬ方向へと進んでしまい、電柱に頭をぶつけた。
「いてえ」
見かねた俺は、肩を貸した。
「お、悪いな。直人隊長に肩を貸していただけるなんて、光栄の極みであります」
健二が笑った。きついアルコール臭が、鼻をついた。
「お前、たいがいにしとけよ」
「たいがいにできたら苦労はないのであります、隊長」
「いつか面倒なことになるぞ」
「酒の海の中じゃないと息ができないのです、隊長。そういう魚なのです。シラフの大地にずっといると、息が詰まってしまうのです」
「真面目に聞けよ」
「真面目さ、俺は」
赤信号の前で、俺は健二を抱えたまま立ち止まった。健二は目をつむって頭を垂れた。
「俺はなあ、直人、弱い人間なんだよ。怖くて仕方がないんだよ」
「怖い?何が?」
「何かが、だよ。なんだかわかんないんだけど、怖いんだよ。まるでレールの上を猛スピードで走ってるトロッコに乗ってるような気分になるんだよ。酩酊している間だけ、それを忘れられる。トロッコの上の酒盛りだよ……あー、気持ちわりい」
「おいおい、俺の腕に吐くなよ」
信号が青に変わった。
「ほら、青だぞ。歩け。全体重を俺に預けるな。重いよ」
その時だった。向かいで信号待ちをしていた誰かが、どさり倒れた。俺は驚いた。それは杖を突いた、髪の毛が真っ白のおばあさんだった。おばあさんはうつぶせになっており、ぴくりとも動いていなかった。周囲がざわついた。
俺は頭が真っ白になった。こういう場面での対応を、講習で習ったことがある。でもいざその場面に立たされると、体が動かない。近づくべきか、しかし近づいて何をすべきか、救急車を呼ぼうか、いや、俺じゃなくても誰かが救急車をすでに呼んでいるだろうか。
頭の中が逡巡した。
「おい直人、どうした」
健二が顔を上げた。そして俺の視線を追い、倒れているおばあさんに気が付いた。
「あっ」
健二はそう声に出すと、すぐさま俺の腕を抜け、おばあさんのところに駆け寄った。それは先ほど千鳥足だったとは思えないほどしっかりとした足取りだった。健二はおばあさんを歩道まで寄せて仰向けにし、その胸に耳を当てた。
「心肺停止」
健二が大声を上げた。同時に、健二はその手をおばあさんの胸の上で重ね、リズミカルに体を上下させて、心臓マッサージを始めた。
「直人、ぼさっとしてんな。救急車、119番」
俺は慌てて携帯電話を取り出し、119番をコールし、救急車を呼んだ。
「AED持ってこい。誰か、AED持ってこい。その辺のビルの中にあるだろ」
健二は心臓マッサージを続けながら、そう叫んだ。周辺の、どうしたらよいかという雰囲気でもじもじしていた人たちが、恐らくはAEDを探しに行ったのだろう、建物の中に駆けこんでいった。
俺は健二のもとに駆け寄った。
健二はおばあさんの口に自分の口をつけ、ぶうと息を吹き込んだ。おばあさんの胸郭がぶくんと上がった。そして健二は、心臓マッサージを再開した。その目は先ほどのアルコールの淀みが消え、確かな意志で光っていた。
心臓マッサージと人工呼吸を二クール繰り返したところで、AEDを抱えた中年の男が向かいのビルから走ってきた。
「これでいいのか?」
「それでいい。直人、開けてセットしろ」
俺はAEDの蓋を開け、電源を入れて電極パッドをおばあさんの胸に張り付けた。
健二がいったんマッサージを止める。電極から電気が流され、おばあさんの体が一瞬びくりと震える。心臓の鼓動は戻ってこない。健二はすかさず、心臓マッサージを再開する。
「頑張れ、ばあさん。戻ってこい」
健二が声を張り上げた。その額から、汗が伝った。
「健二、替わるわ」
「頼む」
俺は健二と交代した。おばあさんの、華奢なその胸にぐっと手のひらを押しこんだ。電流を流すという予告が、AEDから機械音声で流れた。俺は心臓マッサージをやめて身を引いた。再び電流が流れ、おばあさんの体が震えた。
すると、AEDの心電図モニターの画面に、波形が見られた。心臓が動きを取り戻したのだ。
「波形が戻った」
その直後に、前から救急車が走ってくるのが見えた。救急車が目の前に止まり、中から慌ただしく救急隊が出てきた。おばあさんはストレッチャーに乗せられ、救急車の中に収容された。健二は救急隊員に、何度もしゃっくりをしながら、状況を事細かに説明していた。
「ありがとう。あの様子なら、たぶん助かる。君らが迅速に蘇生処置をしたおかげだ」
救急隊員の一人がそう言った。救急車はけたたましいサイレンの音を鳴らしながら、走り去っていった。
それを見送ると、周囲の人だかりが四方に散っていった。俺と健二がぽつねんと残された。
「吐きそう」
「えっ」
健二は身をかがめたと思うと、盛大に嘔吐した。黄色い吐瀉物が地面に広がった。俺は健二を歩道の隅に誘導した。健二は壁に手をついて、もう一度嘔吐した。
「胃がひくひく痙攣してるよ」
「嘔吐を実況解説しなくていいよ」
健二が水で口をゆすいで、ぺっと吐きだした。
「あのばあさんに人工呼吸してる時に吐かなくてよかった」
健二が身を起こした。俺は肩を貸した。歩道を二人でしばし歩いた。その間、健二はげふりと酒臭いげっぷを何度もした。
今、目の前でこの男は、人の命を救った。救急車が到着するまでの十分間、何もしていなければ、まず助からない。
「なあ」
「ん?」
「お前、やっぱりすごいやつだ」
「なんだ?急に」
「あのおばあさんの命を救った」
「そんなことか。べつにすごくない」
「いや、すごいことだよ」
「すごくない。当たり前のことなんだよ」
健二はそう言うと、もう一度身をかがめて嘔吐した。ウニクリームのパスタの残骸が、口から出てきて、俺のズボンの裾にかかった。
「おい、俺の足もとに吐かないでくれよ」
健二はげらげらと笑いだして、地面に倒れこんだ。
「もう歩く気しねえよ。さっきの心肺蘇生でエネルギー尽きた。ここで寝るわ」
「馬鹿言うな」
俺は健二を担ぎ上げ、二人でタクシーに乗り込んだ。健二は自宅の住所を運転手に告げると、一分もしないうちに、寝息をたてはじめた。窓に目をやると、流れていく夜の街と、無表情な俺の顔が反射して見えた。
健二の家に着いた。市内の高級マンションだった。健二のポケットをまさぐると、1012と書かれたカードキーが出てきた。カードを差し込むと、入口のドアが開いた。俺は健二を担ぎながら、やっとの思いでエレベーターに乗り込んだ。十階で降り、1012号室を探し、再びカードキーを差し込んでドアを開けた。部屋の中は、当たり前のことだが、真っ暗だった。俺は壁をまさぐって電気をつけ、廊下の奥へと歩いていき、いくつかドアを開けてベッドルームを見つけると、健二をベッドの上にどさりと寝かせた。
体中が重だるく、へとへとに疲れていた。力を弛緩させた人間が、こんなにも重いものだとは知らなかった。健二は起きる気配を微塵も見せず、疲れ切った表情で、静かに寝息を立てていた。
俺は台所に行って、冷蔵庫を無断で開けた。喉が渇いたのだ。ここまで担いで来てやったのだから、ジュースくらい無断で飲んでも罰は当たらないだろうと思った。俺は冷蔵庫の奥にあった野菜ジュースを引っ張りだし、食器棚からグラスを一つ取り出して、注ぎ入れた。グラスは普段自分が目にする量販店で買った物とは明らかに異質な輝きを放っていた。
俺はグラスに入れた野菜ジュースを飲みながら、部屋をぐるりと見渡した。部屋の中は、神経質なまでに、綺麗に整頓されていた。インテリアの雑誌から飛び出したみたいに、どこか現実感、生活感が薄かった。
トイレを借りようと思ってドアを開けると、そこはトイレではなく、四方の壁に巨大な本棚が据えられた、書庫のような部屋だった。本棚には、医学書から生物学、化学、小説、随筆など、多分野の本が天井までびっしりと並べられており、壮観だった。あんなに毎日飲み歩いていながら、どこにこんな大量の本を読む時間があるのだろうと思った。
そして、健二はいったい何を知ろうとして、こんなに本を読むのだろう。
寝室から音が聞こえた。中を覗くと、健二が寝返りを打って寝息を立てていた。時計を見ると、時刻は午前一時だった。俺は帰ることにした。鍵はかけられないが、マンションの入り口が施錠されているのだから、大丈夫だろうと思った。
外に出てタクシーを拾って、寮に戻った。健二の家からうってかわって、生活感あふれる小汚い部屋だった。疲労が肩の上にのしかかってきた。シャワーを浴びるのも面倒だったので、俺はそのまま布団に横になって、眠りについた。
健二はその翌日、大遅刻をした。昼過ぎになって、明らかに調子が悪そうに顔を歪めながら、研修医室に入ってきた。数年ぶりの二日酔いとのことだった。
「酒なんて、もう一生飲む気がしないよ」
と苦笑いしながら話した。
健二が仕事に遅刻したのは初めてのことだった。
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