第2話
その日は日曜だったが、俺は七時に起きて病院に行った。休日で、病棟のスタッフはまばらだった。
持ち患者さんの中に、POEMS症候群というレア疾患で入院している並河さんという五十代の男性がいた。全身状態が悪く、経口で食事も摂れなくなっていたので、栄養と電解質を計算しながら輸液を続けていた。肺炎も合併したので、強力な抗生物質も使っていた。
ナースステーションでカルテを書いていると、時々モニターが激しく鳴る。並河さんの呼吸状態が悪くなった合図である。
「酸素三リットルに上げといてもらえませんか」
看護師に指示を出す。じっとモニターの酸素飽和度に目をやる。時々八十パーセント台だったのが、九十二、三パーセントまで持ち直す。
俺が指示を出せるのは採血と酸素の量くらいのものである。処方や点滴のオーダー、その他の処置も、基本的には宮本先生が行う。不注意なので、まるで信頼されておらず、指示があるまで何もするなと言われていた。
誰かが俺の隣に座ってカルテを起動した。目をやると、宮本先生だった。今日も化粧気がなく、髪の毛はゴムバンドのようなもので後ろでとめられていた。パソコンの前に座っている時も、ぴんと背中を伸ばしているのが特徴だ。
「おはようございます」
「おはよう。並河さんは生きてる?呼吸は?熱は?血圧は?脈拍は?検査値は?」
宮本先生が画面から目を離さないまま、矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。
「えっと、熱はまだ三十八度あって、あと……」
俺はカルテに目をやる。
「血圧が、上が百五十二の下が九十四です。それで脈拍は……」
「あのね、カルテは私も見てるんだから、読み上げたってどうしようもないでしょ。あんたに求められてるのは、夜間から今朝にかけてのバイタルの推移と今日の採血データと診察結果をサマライズして一分以内にプレゼンすることなの。何度言ったらわかるの」
「……すいません」
宮本先生が、苛立たしげに頭をかく。
「それとね、先生のカルテにはアセスメントがないのよ。あったことを記載してるだけ。メモじゃないんだから。その情報をもとに、あんたがどう考えるのかが重要なのよ。それしないうちは成長しないから。全然頭使ってないの、まるわかりだから」
「……すいません」
返す言葉もなかった。
「もういいわよ。朝早くからご苦労様。帰っていいよ。今日は私が当直だから、あとはやっとくから」
「え、でも……」
「切り替えが大事って普段から言ってるでしょ。前の科で何言われてたかわかんないけど、休む時は休まないと続かないから。続けられなきゃ意味がないから。先生キャパ少なそうだし、バーンアウトされたら、私が迷惑だから。頑張るなら明日また頑張って。お疲れ様」
「わかりました。失礼いたします」
そこまで言われちゃ帰るしかない。俺は席を立ち、病棟を後にした。
俺は白衣から着替えて病院を出て、寮に戻った。時間は正午過ぎだった。俺は簡単に昼ご飯を済ませて、歯を磨いて、ジャケットを羽織った。
寮を出て、自転車で駅まで行き、駅前の駐輪場でとめた。週末で人通りが多かった。俺は各駅停車に乗り込み、席に座って本を開いた。科学の歴史の本だった。今、俺の中で空前の科学史ブームだったのだ。火が何を燃焼しているのかわかったのも、たかだか数百年前のことなのだ。自分が腰かけてるこの文明の利器が、どれだけの天才たちの偉業のもとにできているかを知ると、なんだか浪漫がくすぐられた。
俺はとある駅で降り、電気街とは反対方向の出口を出た。そして小さな雑居ビルの中に入り、エレベーターで五階までのぼった。エレベーターが開くと、店の前に巫女さんの服を着た女性二人が立っていた。女性は俺を見るなり、
「おかえりなさいませ」
と言いながら深々と頭を下げた。
「ようこそ、コスプレ・リフレ『ココア』へ」
「本日は巫女巫女パーティの日になっております」
「あ、はい」
俺は店の中に入って、財布の中から会員証を出した。
「いつもありがとうございます。本日、どなたかご指名なさいますか?」
「はい。あの……ゆかりんさんを……」
「ゆかりんですね。はい、少々お待ちください」
店員がパソコンをカリカリといじる。
「申し訳ございません。ゆかりんは今、別のご主人様のところにおります」
別のご主人様……。
「あ、そうですか」
「十四時三十分までお待ちいただくことになりますが、それでもよろしいですか?」
俺は腕時計に目をやる。あと四十分か。
「それとも、他の巫女でもよろしいですか?今は、ミキと、ハルカと、さくらがご主人様待ちです」
「あ、いいです。待ちます」
「わかりました。それでしたら、待合室のほうでお待ちください」
俺は待合室に案内された。小さな部屋にテーブルが二つと椅子が二つずつ置いてあった。待合室には既に一人、姿があった。グレーのシャツを着て眼鏡をかけた男だった。男と俺は、一瞬目が合い、しかる後にすぐに逸らした。
俺はテーブルに座り、鞄から神経内科の教科書を取り出した。宮本先生から、勉強をしろと口を酸っぱく言われているのだ。「能力がないのは知識で補うしかない。それもないなら医療なんて携わらないほうがいい」とは宮本先生の弁だった。
神経内科は難しい。脳の局在、神経の走行、そして画像読影。神経内科医は、一枚の頭部MRIの写真で一時間議論している。俺は次々と画像を読み飛ばしてしまうので、大ざっぱすぎると注意されていた。几帳面さに欠けるのだ。
「おやまだ様、おられますか?」
女の子が待合室をのぞいてそう言う。おやまだとは俺のことである。俺はこういう場では本名は名乗らず、すべておやまだで通している。
「はい」
俺は席を立つ。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
俺は女の子に先導されて、廊下を歩いた。案内された先の個室の前には、皆と同じく巫女姿で、腰元まである長い髪の毛を二束に結った、ゆかりんが立っていた。ゆかりんは部屋の前で、すました表情で、背筋をぴんと伸ばして立っていたが、俺と目が合うと、にこりと微笑んだ。それはあくまで仕事としてのものなのだが、それを忘れさせるくらいに洗練された笑顔だった。
「こんにちは。お帰りなさいませ、おやまだ様」
ゆかりんが頭を下げた。
「どうぞお入りください」
ドアを開けると、そこにはシーツが敷かれた二メートルくらいの台座と、黒い合皮でできた椅子が置かれている。俺は部屋の中に入って、椅子に座った。
「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」
「いえ、べつに、大して待ってないです」
「今日はどうなさいますか?」
ゆかりんがコースが記された表を見せてくる。
「えっと、そうですね、肩コース二十分の、腰コース二十分でお願いします」
「承知いたしました」
本当は、膝枕耳かきコースというのがいつも気になるのだが、俺はどうしてもそれを選ぶ度胸がなかった。
ゆかりんが俺の後ろに回り、その細い指で俺の肩の肉をつまんでほぐし始めた。ゆかりんは腕は華奢なのだが、想像しているよりも指先の力は強く、長時間でも力が衰えないタフネスぶりで、本物の按摩師にも劣らなかった。
「僕の前にも長時間やってたんですよね?腕、疲れてないですか?」
「大丈夫ですよ。お気になさらず。私、実家が蕎麦屋なので、蕎麦打ちで腕が鍛えられてるんです」
ゆかりんはそう言ってふふと笑う。ゆかりんの実家は、来るたびに変わる。本当の素性が教えてくれないのだ。こちらも突っ込んで聞いてはいけない。それは店を利用する上での暗黙のルールだった。
「今日、だいぶこってますね。すごく硬いです」
「あ、やっぱそうですか」
「お仕事、大変なんでしょうね。お疲れ様」
ゆかりんに肩を揉まれると、日ごろの疲労が一気に解きほぐされていく気がした。
「この辺の肩の筋肉が硬くなるっていうのはね、緊張からくるんですよ。日ごろ緊張が強くて肩の筋肉を強張らせてるっていう証拠です」
「緊張ですか。思い当たるふしは多いですね。上司には怒られてばかりだし。まあ、僕が愚図なのが悪いんですけどね。怒ってくれるだけありがたいとも言えますし」
「なにかと、大変ですよね。社会で、生きていくっていうのは。特におやまだ様は、お優しいから。いろんな人に気を使って、雰囲気読んじゃって、それで無意識に力が入っちゃうんでしょうね。優しい、気い使いの肩ですよ、これは」
「すごいですね。肩でその人間の生き方悟っちゃうんですか」
「そりゃ、たくさんの人の肩、揉んできてますから」
そう言ってゆかりんは笑った。
タイマーがぴぴっと鳴った。二十分の経過を知らせる合図だった。ゆかりんは時間ピッタリに切り上げる。俺は次の腰コースに備え、台座の上にうつ伏せになった。ゆかりんが、今度はその指を俺の腰に当ててぐっと押した。
「ゆかりんさんは、落ち込むことってありますか?」
「そりゃあ、ありますよ。いっぱいあります。むしろ落ち込んでばかりかもしれません」
「どういうことで落ち込むんですか?」
「そうですねえ……」
その先の言葉はない。ゆかりんは自分のことはあまり話さない。
「おやまだ様は、なにか落ち込むことがあるのですか?」
「べつに、具体的なことはないんですけど……。ただ時々、このままかな、って思っちゃって」
「このままかな?」
「小学生の時は、きっと中学生になったらもう少しましになると思ってたし。中学生の時は、高校生になったらましになると思ってた。でも社会人になって、このままなのかもな、って思って。年齢を重ねて、環境が変わることもあるかもしれないけど、自分の本質はこのままんだろうな。そう考えると、なんだかげんなりする時があって。隣の芝は青いじゃないですけど、同じ職場の友達なんかが、えらく眩しく見えるんですね。格好良くて、要領よくて、人生を楽しんでいる感じがする」
「おやまだ様は、あまり楽しんでない?」
俺はしばし黙り込み、自分の人生のあらましを思い返す。
「あまり楽しんでいるとは言えないですね。人生の、楽しみ方がわからないです」
「では、ここでこうして私とお話ししている時間も、楽しくないのですか?」
「いや、楽しいよ。ゆかりんさんと過ごす時間は、すごく楽しいです。オアシスみたいなものです」
俺は慌てて振り返って、そう言う。
ゆかりんは、おかしそうに笑う。
「ごめんなさい、冗談です。またおやまだ様に気を使わせてしまって、申し訳ないです」
俺は再びうつぶせになる。ゆかりんは腰から臀部へとその指を移し、親指に力を込めて念入りに押していく。
「そう言えば、この間、変なことがありましてね」
「変なこと?」
「はい。職場の屋上で昼ご飯を食べていたんですよ」
「あら、優雅ですね」
「そしたらですね、中学生くらいの女の子が屋上にやってきまして。向こうから話しかけてきたんで、言葉を返したら、急に『死のうかな』とか言って、網をよじ登ろうとしたんですよ。慌てて止めたら、冗談とか言ってげらげら笑いだして、挙句に言いがかりつけてお金をせびってきたんです」
「それは、災難でしたね」
「世の中には、本当にどうしようもないやつがいるなと思って。親の顔が見てみたい」
ゆかりんの、くすりと笑う声が、背後で聞こえた
「上司に怒られて、人生は楽しくなくて、変な女の子に絡まれて、いろいろ大変そうですね、おやまだ様の日常は。せめてここにいる間は、ゆっくりくつろいでくださいね」
タイマーが鳴った。やはりゆかりんは、鳴った瞬間にぱっとその手を離した。
俺は立ち上がり、部屋を出て受付で代金を支払った。二コース四十分で一万円だった。
ゆかりんは出口まで送ってくれた。
「じゃあ、おやまだ様、また来てくださいね」
ゆかりんはにこりと笑って、手を出してきて俺の手を握った。
「もちろん、また来ます」
店を出てエレベーターを降りている間、俺はゆかりんが握ったその手をじっと見た。ほんのりと温もりが残っている。これだけで一週間頑張ろうという気持ちになる。
俺はビルを出て、近くのチェーンの喫茶店でテイクアウトでコーヒーを買った。それを片手に携帯電話をいじりながら歩いていた。すると、正面から歩いてきた、金髪の男子高校生の肩が、どんと俺に当たった。
「ってえな。気を付けろ。前向いて歩け」
男子高校生はそう言って去って行った。至極まっとうな意見だった。よそ見をしていたのは俺なのだ。当たったはずみでコーヒーがジャケットにかかり、染みがじっとりとついた。
俺はため息をついた。まあでも、これが俺なのだ。
俺はもう一度、ゆかりんが握った手を見た。大丈夫だ。この温もりがある限り、頑張れる。
翌朝病院に行くと、疲弊した表情の宮本先生が、病棟でカルテを書いていた。目は眠そうにとろんと下がり、目元にはうっすらとクマができていた。
「あの、昨日何かあったんですか?」
「あったもなにも、並河さんが亡くなったのよ」
「えっ」
俺は驚いた。
「二時くらいにね、急変して。DNRとってなかったから、家族に連絡して蘇生処置を一晩中やったのよ。でもだめだったわ。今朝方、葬儀会社と一緒に家族が引き取っていったわ」
「そうですか……」
「急変時にあんたに電話したんだけど、つながらなかったしね。まあ、どうでもいいんだけど」
ポケットの中の携帯電話を開くと、病院からの着信が五回もあった。俺は血の気が引いた。普段は携帯電話の着信なんてほとんどなく、いつもマナーモードにしているので、寝たまま気が付かなかったのだ。
「すいません……」
宮本先生は、電子カルテのキーボードを打つその手を止めて、うなだれた。
「やっぱ駄目だったな、並河さん。頑張ってはいたんだけどな。何が足りなかったのかな。判断力かな。あの抗生剤引っ張りすぎたのかな」
「あの、宮本先生はとても真摯に治療されていたと思います。何かが足りなかったとは思わないです」
「肝心な時に電話に出なかったあんたに言われたくないわよ。それに、医者は結果がすべてなんだから。結果が駄目なら全部だめ。逆に、結果良ければすべてよし」
宮本先生はため息をついた。
「まあでも、ありがと。私、医局で仮眠とってくる。その間、頼んだわよ。皆田さんと小川さんの採血、忘れないでね」
「わかりました。お疲れ様です」
そう言って宮本先生は席を立った。
幸いにも、宮本先生が仮眠をとっている間は、何事もなく時間が過ぎた。正午を過ぎ、昼ご飯を買いに院内のコンビニエンスストアに立ち寄っておにぎりを物色していると、急にがくんと膝が折れた。
驚いて振り向くと、先日の女の子がにやにやしながら立っていた。足で俺の膝を後ろから押したのだ。
「こんちは、ドクター」
「また君か。いまどき膝カックンなんかやるか、普通」
女の子が手を差し出してきた。
「はい、約束の十万円払って」
俺はうんざりした。
「君、まだそんなこと言って――」
「それが無理なら」
言い終わらないうちに、女の子がかぶせ気味に言った。
「コーヒーとベーグルサンドにまけてあげる」
女の子は廊下の奥にある院内の喫茶店を指さした。奢る義理もないので、まだ突っぱねることはできたが、俺は面倒くさいので奢ることにした。コーヒーとベーグルサンドで解放されるなら、ことはたやすい。
俺たちは喫茶店に入って、俺はカフェオレとサンドウィッチとドーナツを、女の子はコーヒーとベーグルサンドを頼んだ。
向かい合って座ると、女の子は早速ベーグルサンドを取り出してかじりついた。
「もうこういう、たかりみたいな真似はよせよ。病院の風評に関わる」
「そんなの、あたしの勝手でしょ」
「ガキの頃からこんなのことやってたら、ろくな大人にならない」
「べつに、何したってどうせろくな大人になんかならないんだから、好きにやるわよ。大人なんてろくでもないやつばかり」
えらくペシミスティックな子だな、と思った。
「君、何歳?」
「十四歳。あなたは?」
「二十六歳」
「ふうん。なんともコメントに困るわね。それより若くも見えないし、上にも見えないわ。相応ね」
女の子がコーヒーを一口飲んだ。
「十四歳ってことは、中学生?」
「中学二年生。まあ、学校行ってないけど」
「……そう」
これ以外に返しようがあろうか。
「不登校について、何かコメントある?」
「べつにないよ」
「あるって顔したわ」
「本当にないよ。行くも行かないもその人の自由だろ」
「学校なんて、あたしからしたら狂気の沙汰だもん。三、四十人の人間が列になって並んで、黒板に書かれた文章や数式を皆して黙々とカリカリ写して。よくあんなの、何の疑問も持たずにやれるもんだわ。あいつらこそイカれてる」
「まあ、人それぞれ意見や生き方があるだろう」
俺はドーナツを頬張りながら言った。
「本当、表面的で、どうでもいいって感じの発言ね」
「表面的じゃないよ。心底、好きにやればいい、って思ってるんだよ。学校なんて、行きたいやつが行けばいい。行かないことで、いずれいろいろリスクを被ることにはなるかもしれないけど、だからどうって話だ。後の苦労の心配するよりは今の苦痛を避けるほうがいいと思うよ。まあ、あくまで俺はそう思うって話だ。ただ、煙草はやめたほうがいいと思うよ。あれは体に悪いから」
「それこそあたしの勝手でしょ」
「まあね。でもうちは親父と、母方の祖父がどっちもヘビースモーカーで、どっちも肺癌で死んだ。解剖実習の時に解剖させてもらった献体も、肺癌で死んだおじいさんだった。肺がもう、滅茶苦茶な色してたんだよ。パレットの上の画材を全部ぐしゅって混ぜたような、なんとも形容のし難い色」
女の子は顔をしかめた。
「嫌な話するわね」
「たかられてるんだから、これでおあいこだ」
「……禁煙してみようかな、お金もかかるし」
俺はサンドウィッチの最後の一かけらを食べ終え、口の周りをナプキンで拭いた。
「君、家族が入院してんの?それとも親がここで働いてたりするの?」
「母親の通院について来てんの。何科に通院してるかわかる?」
「いや、皆目」
「精神科」
「ふうん」
少しの間があった。
「統合失調症って病気。知ってる?」
「知ってる。精神科だって習うから」
「時々幻聴がひどくなっちゃうのよ。死ね、とか、役立たず、とか聞こえてくるみたい。最初は怖がって落ち着かなくなるんだけど、だんだんぼーっと宙を一点に見詰めて動かなくなっちゃうの。こないだも、あたしが買い物から帰ってみたらいなくなってて、そしたら路上で倒れてて、そのまま即入院になったの。もう十回以上入院してるから、慣れてる」
なんと言ったらいいものかわからず、俺は黙ってしまった。
「なんてね。嘘に決まってんでしょ。あたしの父親が、ここの職員食堂のコックなのよ。ばっかみたい、真に受けちゃってさ」
「またかよ。そういう嘘はよくない。本当に苦しんでる人だっているのに」
「知った風な口ばっかり。医者だからって、人より世の悲哀を見てるんだとか自負してるんだとしたら、そりゃ勘違いもいいとこだよ」
「べつにそういうことじゃない」
俺は首を振って席を立ち、トレイを片付けた。
「仕事に戻るよ。君はゆっくり食べてな」
俺はそう言ってその場を立ち去ろうとした。
「ねえ、ドクター」
背後から声が聞こえた。俺はため息をついて振り返った。
「その呼び方はやめろ。俺には鈴木直人って名前がある」
「鈴木直人、ね。見た目と同じ、凡庸な名前」
「人の名前にケチをつけるなよ」
「あたしの名前は、浅井芽有」
「メアリー?」
「メアリ。芽に有ると書いて、芽有」
「それ、本当?」
俺は疑った。
「これは、本当」
「ふうん」
変わった名前だし、親の了見を疑ったが、人の名前にケチ付けるなと言った手前もあって、何もコメントしないことにした。
「じゃあ、ごゆっくり、浅井メアリー」
「メアリーじゃなくて、メアリ。伸ばさないの」
「メアリ」
と俺は訂正した。
「そう。じゃあ、お仕事頑張ってね、ドクター。屋上でさぼったりしないでね」
「大きなお世話だよ」
浅井芽有がいたずらっぽく笑った。
そして俺はその場を後にした。
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