研修医グラフィティ

@ryumei

第1話 

 目が覚めると最悪の気分だった。

 脳がまるで厚手のビニールにくるまれたみたいに、頭はぼやっとしてうまく働かない。手足もだるく、重い。

 俺はなんとか身を起こして、コーヒーを沸かし、カップに入れてそれを呑んだ。三口ほど啜ってしばらくすると、カフェインの恩恵を被って、頭が徐々にはっきりと覚醒し始めた。

 もう十年ほど使っている真っ黒のフライパンで目玉焼きをつくり、それを焼いたトーストの上に乗っけて頬張った。いつもと変わらない味、いつもと変わらない朝である。 

 テレビを付けると、朝のニュースが放送されていた。ろくでもないニュースばかりだった。まるで、世界中でいいことなんてひとつも起きていないような気がした。

 報道が終わり、一転、犬の特集になったところで、俺は朝食を食べ終え、腰を上げた。顔を洗い、歯を磨き、寝癖を櫛で整えた。

 クローゼットを開けて、Tシャツとジーンズと靴下を取出し、それらに身を通した。どれも学生時代に買った、着古したものだ。通勤する時の格好にはまるで気を使わない。どうせすぐに着替えることになるからだ。スーツみたいな堅苦しい格好をしなくてもよいのは、この職業の数少ない利点だと思っていた。俺は鞄の中に教科書を詰め込み、電気を消して家を出た。

 家を出ると、すぐ目の前に勤務している大学病院の小児科病棟がある。俺は病院の寮で生活しているのだ。引っ越した当初は、病院の隣に住むなんて気が滅入ると思っていたが、慣れるとどうということもなかった。通勤時間は徒歩一分なので、ぎりぎりまで眠ることができた。ただあまりに近すぎて、すでに勤務時間を終えて家に帰ってひと息ついているのに、病棟から呼び出されることもしばしばだった。

 カードをかざすと、病棟の職員専用出入り口が開く。俺は中に入り、地下に降りて、男性職員用のロッカールームに向かった。ロッカーを開けて白衣に着替えていると、ピッとカードキーの鳴る音が聞こえた。ドアが開くと、すかした雰囲気の背の高い男が入ってきた。

「よう、直人。おはよう」

 男が俺に声をかける。

「健二か。おはよう」

 男の名は井岡健二、俺の数少ない友人の一人だった。

「健二、お前、日に焼けてない?」

「うん、こないだの週末にサーフィン行ってきたから」

「サーフィン?」

「そう。引きこもりのお前には縁のない話だろ」

「たしかに」

「それと、海岸でバーベキューやって、肉と女食ってきた。お前には縁のない話だろ」

「……たしかに」

 同意するしかなかった。

「また今日も朝から採血地獄だ。毎日毎日嫌になる。今日も十人以上やらなきゃならない。これじゃ吸血鬼だ」

健二がロッカーを閉めながら、ため息をついた。

「本当、医者なんてブルーワーカーだ。気が滅入る。転職しようかな」

「もったいない。そんなに優秀なのに?」

「優秀でも何でもないさ」

 つまらなそうに健二はそう言って、立ち去ろうとした。

「あ、そう言えば」

健二が足を止めて、振り返った。

「一応聞いとくけど、今度合コンやるけど、来るか?」

「いや、俺はそういうのはちょっと……」

「だよな。一応聞いただけだから。また今度、さし飲みしようぜ」

 そう言って健二はロッカールームから出て行った。

 俺はエレベーターで七階に上がって、神経内科の病棟に向かった。ナースステーションでは、看護師の申し送りが行われていた。俺はその横を、邪魔にならないようにささっと通り過ぎて、棚から採血用のスピッツを取り出した。今日は四人だった。

 俺は手先が不器用だった。思えば、小学生の頃から、家庭科で針の穴に糸を通すことができず、先生から呆れられていた。採血もよく失敗した。一度失敗するごとに、患者さんの表情がこわばっていくのがわかった。なんとかしたいと健二の腕を使って練習もさせてもらったが、健二の腕が穴だらけになってしまい、もはややらせてもらえなかった。今朝も、結局四人の採血をするのに、合計十回も針を刺すことになった。

 採血が終わり、一通り持ち患者さんの回診とカルテ記載を終えると、すでに午後一時になっていた。時間がかかりすぎである。腹が鳴ったので、俺は空腹を察知し、席を立った。すると、院内用のPHSが鳴った。上級医の宮本先生だった。宮本先生は、医者十年目になる女医だった。

「ちゃんと仕事してる?」

 宮本先生の口癖だった。

「はい、自分なりに……」

「自分なりに、じゃないでしょ。誰が見てもまっとうな仕事をしなさい。サマリーは書いた?」

「えっ、サマリー?」

「月曜に退院した患者さんのサマリーよ。こないだ頼んだでしょ?」

「まだでした。すぐやります」

 俺は慌てて電子カルテの前に座りなおした。

「あのさ、言ったことくらいはやってよ。それができたら最低限、評価Cってとこよ。今んとこあんた、評価E-の研修医だからね」

「すいません、あの、今日中には仕上げます」

「当然。あとでそっち行くからね。今、外来中だから」

 そして通話がぶつんと途切れた。

「大変だね」

 隣から声が聞こえる。顔を向けると、熟年の看護師が座っている。

「また宮本嬢からのお叱りコメントを賜ったのね」

「ええ、まあ」

「気にしなくていいんじゃない。あの人、だいたいいつもカリカリしてるから。妙齢の独身女性はね、いろいろと大変なのよ」

「いえ、全部自分が悪いことなんで」

 そして俺はカタカタをキーを打ち始める。

 サマリーを書き終えると、合間に点滴の挿入や診察を依頼されたこともあって、時刻は午後三時近くになっていた。食堂は閉められ、結局昼食は食べ損なった。空腹感は一回りして、もう感じなかった。俺は一階に降りて、院内のコンビニエンスストアでおにぎりを二つとヨーグルトを買った。そして十一階までエレベーターで昇り、そこから階段でさらに上に向かった。扉を開けると、真っ青な空と白い雲が目の前に広がった。そこは屋上だった。俺は仕事がひと段落すると、屋上で過ごすのが習慣なのだ。

 海の方向から風がひゅるりと吹いた。眼下には住宅が広がり、駅の方面には高いビルディングも見えた。俺は金網に背を持たれて座り込み、おにぎりを頬張った。コンビニエンスストアは偉大だと思った。いつどこで食べても同じ味がするのだ。

 扉が開く音が聞こえた。目を移すと、青いTシャツと黒いハーフパンツを履いた女の子が見えた。女の子はこちらを一瞥すると、すたすたと歩いて自分と同じように金網に背をもたれて座り、ポケットから煙草とライターを取り出した。女の子は煙草を咥えて火をつけ、大きく吸いこんだ後に、ゆっくりと煙を吐き出した。女の子は見たところ未成年だった。一人で屋上で過ごすのが好きな俺は、想定外の侵入者に少し戸惑った。

「未成年が煙草なんて吸ってんじゃねえよ」

 どこかからか声が聞こえた。一瞬の間の後に、それが女の子から発せられたものだと悟った。

「とか思ってる?」

「べつに思ってないよ」

 と俺は言った。

「おにぎりと青空のことしか考えてなかった」

「ふうん」

 女の子は、また深く煙を吐き出した。

「あなた医者なの?」

「白衣を着たバーテンだよ」

「医者がこんなとこで油売ってていいの?皆忙しそうに病棟走り回ってるよ」

 女の子は俺の言葉を無視してそう言った。

「少し休憩してるだけだよ」

「さぼりね」

「さぼってない」

「黙っといてあげるから、一万円ちょうだい」

 女の子が手を差し出した。

 たちの悪いやつに絡まれたなと思って、俺は首を振った。

「冗談よ。真に受けないでよ」

 そう言って女の子は笑った。

「医者がこんなとこでそんな粗末なもの食べてるの?」

「コンビニのおにぎりは粗末じゃないよ。人類の叡智だ。それにここは特等席だ。空見ながら食べるなんて最高の贅沢だ」

 俺はおにぎりを頬張る。

「要領が悪くて仕事が遅いから、職員食堂が閉まってコンビニのおにぎりで済ませてるんじゃないの?友達がいなくて、一人でぼそぼそ食べてるの見られたくないから、屋上にいるんじゃないの?」

 すべて図星だったので、俺は深く傷ついた。なんで見ず知らずのやつに、そんなことを言われなければならないのか。

「未成年なのに煙草吸っていいのかい?」

 俺はささやかな抵抗のためにそう言い返した。

「なによ、結局それ言うの」

「それに、煙草は肺癌とか心筋梗塞のリスクも跳ね上げる。百害あって一利なしだ」

「なにそれ、脅しのつもり?生憎、死ぬのなんて怖くないから」

「病院でそういうこと言うもんじゃないよ。生きたくても生きられない人がたくさんいるのにさ」

「生きたくても生きられない人がいるのと、あたしが死ぬのが怖くないことに、何の関係もないでしょ」

「関係ないけど、不謹慎だ」

 女の子は、不機嫌そうに顔をしかめて、これ見よがしに煙を大きく吐き出し、煙草を床に押し付けた。そして、ひとつため息をついて伸びをした。

「あーあ、つまんない。死のうかな」

 まだそんなことを言うのか、と俺は呆れた。そして無視を決め込むことにして、袋からヨーグルトを取り出し、蓋を開けた。優雅な遅めのランチタイムが台無しだった。

 がたがたと音が聞こえた。顔を上げると、女の子が金網をよじ登っている姿が見えた。俺は慌てて駆け寄った。

「馬鹿な真似よせ。そこ降りろ」

「うるさいわね。死ぬのなんて、怖くないんだから」

 俺は女の子を止めようと、その足を掴んだ。

「離せよ。あんたには関係ないでしょ。あたしは死にたいのよ。お母さんは三年前に死んじゃったし、義理のお父さんには犯されるし、お兄ちゃんは強盗殺人で服役してるし。もう生きていたくなあい」

 そんなハードなバックボーンを背負ってるなんて、と俺はぎょっとした。

「だからっつって、早まるなよ。こんなとこで死んでどうすんだ。あの世がこの世よりいいなんて保証ないぞ。生きててなんぼだぞ」

「いやよ。天国のお母さんに会いに行く」

 俺は女の子を金網から引っぺがした。しかし弾みで後ろに倒れこみ、尻餅をついて、後頭部をしたたか打った。俺は痛みで悶え、呻いた。

 女の子は、そんな俺の様子を見て、あはははと声を上げ、腹を抱えて笑い始めた。

「ばっかみたい。真に受けちゃってさ。そんなことするわけないじゃん。なに必死になって、諭してんの。超うける」

 俺はむっとして立ち上がり、白衣の裾をはたいた。

「こんなたちの悪い冗談はやめろ」

「偉そうなこと言うから悪いのよ」

 俺は女の子から背を向けて、屋上から出ようと扉に向かって歩いた。

「ねえ、ドクター」

「なんだよ」

「さっき、どさくさに紛れてあたしの胸触ったでしょ」

「はあ?」

「黙ってて欲しけりゃ十万用意しな」

「なんだそりゃ。恐喝か?」

「触った。絶対触った。はい、十万円」

 女の子が手を差し出した。俺は無視して立ち去ることにした。

「後悔しても知らないわよ。明日にはロリコンドクターの汚名が病院中に――」

 背後で扉が閉まって、女の子の音も閉ざされた。俺が階段を下りて行くと、靴の音が反響した。

 病棟に戻ると、宮本先生が苛立たしげな表情で待っていた。

「どこで油売ってたの?ちゃんと仕事してた?」

「え、い、いや、やってましたよ。ちゃんと確認して、看護師さんに申し送ってから昼休憩に入ってますよ」

「あっそう。じゃあ、サマリーを見せなさい」

 俺はプリントアウトしたサマリーを見せた。宮本先生は、すごい勢いで目を左右に動かしながら、A4二枚分のサマリーを十秒くらいで読み切った。

「全然だめ」

 宮本先生がそう言いながら突き返してきた。

「構成がぶつ切りで、読んでも流れがよく理解できない。冗長でまとまってない。削ればその三分の二くらいにはできるはず。あと体言止め禁止。内容さえ伝わりゃ、あとどうだっていい、なんてことはない。ちゃんとした日本語で書きなさい。こんなんじゃとても教授回診で発表できない」

 宮本先生はそう言うと、立ち上がった。

「私、研究室いるから。改稿したら連絡して」

 そして宮本先生は、白衣のポケットを突っ込み、つかつかと病棟から歩き去って行った。

 俺は病棟でサマリーの改稿作業に勤しみ、宮本先生に見てもらってはダメ出しをくらい、を繰り返し、そうこうしている間に当直帯に入り、緊急入院の入院処置を手伝ったりしていたら、どんどん時間が過ぎて行ってしまった。

 結局、宮本先生からOKをもらったのは午後十一時を過ぎた頃、三回目の改稿の時だった。

「六十五点、ぎりぎり合格。研修医評価は変わらずEのまま」

 宮本先生はそう言って、あくびをした。そして白衣を脱いで、カーディガンを羽織った。

「じゃ、私、帰るから。あんたも帰っていいよ」

 ようやく解放された俺は、地下にある研修医室に戻った。普段は同僚の研修医がたくさんたむろしていて、あまり近づかないのだが、さすがにこの時間になると人気がなくなり、居やすい場所になるのだ。

 研修医室のドアを開けると、健二の大きな後姿が見えた。健二は電子カルテの端末で、パソコンに付属しているシンプルなゲームに勤しんでいた。

「よお、お疲れ、直人」

「お疲れ」

 俺は健二の隣に座って、ふうとため息をつく。

「どうだった?」

「どうって?」

「今日と言う日がさ。楽しかったか、面白かったか、悲しかったか、つらかったか、大変だったか、もう投げ出したかったか、生きていたくなかったか、もう鈴木直人という人生はまっぴらだ、だったか」

「終盤だいぶネガティブな言葉が並ぶね。まあ、どっちかというと後者かな。ろくでもない日だったよ。仕事は遅くてどやされるし、休憩中にはどうしようもないやつに絡まれるし、緊急入院は来るし、サマリーは何度も改稿して、大学と病院を往復するし」

「まあでも、改稿してくれんのは優しさだよ。大抵のやつは研修医が書いた物なんて、ろくに見もしないからな」

「まあね」

「それよか、どうしようもないやつって、誰のこと?俺の知ってるやつ?」

「いや、そうじゃなくて。なんの面識もないやつだったんだけど。女の子なんだけどさ。明らかに未成年なのに煙草なんか吸って。俺が昼飯食べてたら、急に絡んできた」

「女の子?」

 健二は驚いて、ゲームをやっていた手を止める。

「仕事以外でお前に能動的に声かけてくる女なんて、宗教関係か頭おかしいやつだよ。どっちだった?」

 ひどい言いようだが、いつものことなので黙っておくことにした。

「どちらかと言うと、後者かもしれないけど。いきなり『死んでやる』とか言って屋上の金網によじ登って、助けたら金よこせってせびってきやがった」

「終わってんな、そいつ」

「だろ?」

「次、たかられたら俺に連絡しろよ。大人の厳しさたっぷり味あわせてやるからさ。しつけのなってないガキには、親に代わって周りの大人がしつけてやらないと。お尻ぺんぺんして、いろいろ突っ込んで、写メでも撮っときゃ従順になる」

「お前にだけは絶対に連絡しない」

「冗談、冗談」

 そう言って健二は笑って俺の肩を叩く。だが健二はいつだって目が笑っていないのだ。

「健二こそ、今日はどうだった?」

「ん?べつにいつも通りだよ。新患がいなけりゃ、三時には仕事は終わる。無能な指導医は残っていつまでも何かやってるけどな。無視して俺はすぐ帰る。あいつら、自分の専門外のことは何も知らないし何も考えてない。抗生剤の使い方なんてひどいもんだな」

「そうなの?」

「そうさ。だから、上の人間の言うことなんて鵜呑みにしないほうがいいな。自分の頭で考えないと。基本は、あいつら自分の経験則でしか話さないから、疑え。んで、参考にできそうなところは参考にして、納得がいかなかったら自分で調べろ」

「言われたこともまともに実践できてない俺からすると、結構ハードル高いな」

「それができないようなら、医者なんてやってる意味ないね。今すぐ医師免許を返上しろ」

「また、厳しいこと言うね」

「厳しい?冗談言うな。俺は優しい。無料でこんな金言をお前に与えている」

 健二が、マウスをクリックする手を止めて、「おっ」と小さい声で口にした。

「はい、クリア。またハイスコア」

「それ、仕事終わってからずっとやってたの?」

「ああ。これまでのハイスコアを全部塗り替えてやった。どのゲームも上位十番は全部俺のスコアだぜ。ほら」

 画面には、たしかにkenjiの表示がずらっと並んでいる。

「さて。満足したし、俺は帰るぜ。これから飲み会なんだ」

「飲み会?」

「うん。西病棟の四階の看護師たちとな。向こうからやりたいって言ってきたからさ。お前も来る?」

「行かない」

「だろうね」

 健二が鞄に荷物を詰めて立ち上がる。

「あんま飲みすぎるなよ」

「大きなお世話だよ。こんな世界で、しらふで生きていられるか」

「おい、健二」

 背を向けた健二がぴたりとその足を止める。

「わかってるよ。そんな怖い顔するな。ほどほどにしとくよ。俺だって大人だ。節操くらい学んでる。一杯だけ飲んで、あとはジンジャーエールだ。じゃ、お疲れ。また明日な」

 そう言って健二は研修医室を出て行った。

 一人研修医室に残された俺は、健二がやっていたゲームをやってみた。クリアはしたが、スコアは健二の半分以下だった。あいつは普段ゲームなんてまるでやらないので、気まぐれの暇つぶしで今日初めてやってみたのだろうが、それでもこんなスコアを出してしまう。

 健二は何をやってもうまくいくやつだ。昔からそうだった。家は巨大な病院を経営している大がつく金持ちで、顔は端正で背も高くて、運動神経も抜群だった。でも飽き性で、特定の部活には入らずに、いろんな部活の試合にだけ出て、レギュラーよりも活躍した。中高一貫の男子校だったのだが、他校の女子高生がよく健二目当てに見学に来ていた。勉強をしているところはほとんど見たことがないし、授業中も寝てばかりだったが、成績は上位だった。一回見たら、だいたい覚えられる、と本人は言っていた。「カメラの要領で、カシャってやると、忘れないんだ」と言っていた。要は頭の構造がちょっと違うのだ。普段は口が悪く、下品な冗談ばかり言って、他人をからかったりおちゃらけたりしていたが、いざという時の行動は素早くそつがなくて、誰からも一目置かれていた。大学は当たり前のように首都圏の医学部に入学した。真面目にガリ勉してきた俺は、第一志望に落ちて地方の医学部に行った。そして初期研修で地元に戻ってきて、健二と再会したのだ。

 再会した健二は、高校の時と同じように、悪ノリの軽口を叩いて不遜不真面目な態度で、それでいて仕事は完璧にこなしていたが、どこかその表情に疲れを感じさせることがあった。いつも人を小ばかにしたように、にやついているのだが、ふとした瞬間に、やけに張りつめた真顔を見せるのだ。俺は時々それが心配だった。

 俺はロッカールームで着替えて、病院の外に出た。日が落ちると、半袖だと少し肌寒かった。徒歩一分で自宅に戻り、電気を付けた。そして散らかり放題の万年床の上に、どさりとうつ伏せに寝転がった。疲労が布団にじんわりと染み込んでいく気がした。

 しばらくしてから起き上って、買い置きをしておいた惣菜を冷蔵庫から取り出し、皿に盛った。俺はそれをつまみながら、録画した今日のプロ野球の試合を見た。五対一で贔屓のチームが負けていた。俺はもともと判官びいきなので、弱いチームを応援することにしていた。九十年代前半まで上位の常連だったその赤いユニフォームのチームは、今は見る影もない下位常連であった。

 試合を見終わると、俺は皿を洗い、インターネットを巡回してニュースを漁った。あっという間に時は経ち、午前〇時を過ぎた。仕事をしている時と、家に帰った後では、時間の経ち方がまるで違った。俺はシャワーを浴びて、牛乳を一杯飲み、歯を磨いた。そして寝巻に着替え、布団に横になって電気を消した。周囲が闇に包まれる。

今日と言う日が終わる。冴えない一日。冴えない人生の、冴えない一日。いつものことだ。

 寝る前の暗がりは嫌いだった。ろくでもないことを考える。ふと不安がよぎる。それは人生と存在と実体に纏わる不安である。なんだか蜘蛛の糸の上を渡っているような気分になるのだ。

 眠ろう、と思う。眠って朝を迎えて、また生きる。

 そして泥水みたいに濁った眠りの世界に埋没していく。

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